女々しい奴（BLACKﾊﾞ-ｼﾞｮﾝ）

特集「未来の自分」

女々しい奴（BLACKﾊﾞ-ｼﾞｮﾝ）

風来坊ＩＮ東京 '94･1･9

「お前なんかに僕のミカちゃんを渡せない！」
　彼はそう叫んで立ち上がった。私は冷静に彼を見ていた。気持ちは醒めていた。
　私は役者には向いていない。三文だ。なのにこの男はどうだ。ものの見事にひっかかった。
　少し前、喫茶店の２階で３人はテーブルについた。運命の円卓というべきか。
　私の隣に座っている女性が、このアマチュア芝居のプロデューサー兼主演女優だ。
　彼女は私の職場の同僚でもある。その向かいには、今立ち上がって大見得を切っている男優。
　彼と私とはコーヒー１杯の時間のつきあいだが、すでに二人の交際はその幕を降ろしそうだ。
　彼には現実と虚構の区別がない。というより、こんな安い芝居にのる奴は、その日常が虚構の世界なのだ。
　彼は地球という惑星上に住んではいない。クラインの壷の中こそが彼の住み家である。
　私は隣のプロデューサーをちらりと見た。
　彼女はこの男を正確に理解したからこそ、私でも助演をこなせるとふんだってわけか。
　たいした目利きだ。
　そんな私の心を読んだか、プロデューサーは主演女優として艶然と微笑した。
　オスを食うメスカマキリの笑いだ。
　フン、確かにたいていのオスはこの女性になら喜んで食われるのだろう。
　私は視線を主演男優のほうに戻した。彼は台詞を続けた。

「ミカちゃん、君はこの男に騙されているんだよ。
　今言ったことがミカちゃんの本心じゃないことは僕が一番よく知っているよ。
　なぜなら、ミカちゃんは僕の理想の女性なんだから」

　虫酸が走った。奴の奏でる不協和音には耐えがたいものがある。
　誰かがクラインの壷のなかに叩き込むべきだ。
　同時に、この芝居を興行にかけなければならなかったプロデューサーの心情が理解できた。

　だがなぜ、よりによってこの私に！

　心優しく、大地を疾駆する馬が、私は好きだ。
　彼らのその走りっぷりに惚れ、しばしば応援のため投票をする。
　政治家に投票するのは観客のいない本公演のようなもので虚しいだけだ。
　しかし私は愛する馬達のためなら断固、応援投票をする。
　たとえそれが、今たまたま私が生業（なりわい）としている仕事の最中であってもだ。
　その仕事は、あくまでたまたま就業しただけの話である。
　そこには疾走するサラブレッドに対する程の愛情はない。
　心は詩人、生業は商人、というやつである。
　とはいえ、やはり堂々と雇い主に向かって「馬券買ってきますから仕事さぼります」とは言えない。
　それをやったら私の住所もクライン１番地だ。
　今回のこの公演のプロデューサーは、そんな私の良き理解者である。
　私は彼女の信託代理人として応援投票をしたこともあるのだ。
　そんな彼女に出演を依頼されたら「事務所を通してくれなくちゃ」とは言えないではないか。
　奴はこちらを見た。どうやら睨んでいるようだ。間が長すぎる。私は台詞待ちだ。
「おい」
　少し声がかすれている。
「お前とは話をつけなきゃならないようだな」

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