Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.6 エピローグ ─天誅組と熊野つゝ井筒─

(1)エピローグ
 さて、これで鷲家口一帯の史跡調査も終えた。
 お終いに、天誅組と熊野つゝ井筒の由来を述べて結びとしよう。
 熊野井戸家の十三代当主と伝えられる“益弘”は、若くして国学を好み、青雲の志に燃えて上洛すると吉村寅太郎の知己となった。天誅組挙兵の際は、家に災禍いの及ぶのを恐れて名を変えて参加した、と、私は祖父から聞かされた。
 然し益弘は天ノ川辻の激戦で銃傷を受け、吉村の配慮で彼の従兵に送られて郷里に帰った。そして、邸の裏の山小屋で、幼い妹・おますの懸命な看護で療養に努めていた。
 前記した通り、吉村は九月二十四日、鷲家口に向う。その前に、吉村は、その従兵に伝家の宝刀“水田郡国重”の小刀を贈った。そして辞世の句

D吉野山 風に乱るゝ 紅葉をば 我らの太刀の 血煙りを見よ。

 を詠み、
「益弘に頼んで、熊野大権現に奉納して討幕の達成を祈願して望しい」
 と、従兵に託した。
 彼は必死で敵中を突破し、小鹿と呼ぶ地までやって来た時、計らずも警備についていた水野藩士・井野笹之助に発見されて討たれる。が、不思議なことに、この笹之助が良弘の郎党だった井戸野笹之助の子孫であった。
 井戸野笹之助は、紀州・吉宗(*1)の代に召されて仕官し、姓を井野と改め、その嫡子は代々“笹之助”を継いでいた。画才に優れた兄・春敷は、吉宗と共に江戸に移住して幕府直参となり、弟は水野藩士となって新宮に住んだ。
 従兵を討ったのは五代目の笹之助と云われるが、いまわの際の従兵から事情を聞き、主筋に当る益弘の苦境を目にして己の手柄とする気になれなかった。そして藩には無断で益弘をかくまい通すうち、兄の看護に懸命なおますの健気な姿に、何時しか山清水の如き“つゝ井筒の恋”が芽ばえたらしい。やがて二人はめでたく夫婦となり新宮に住んだ。
 後、明治六年(一八七三)の征韓論(*2)に際し、西郷に傾倒して鹿児島に赴く井戸益弘の懇請で、井野笹之助は、子の一人を井戸家の養子とする。
 後の西南の役(*3)に西郷護衛隊の一人となった益弘は、人吉(*4)で西郷が宿舎とした相良家の家老・新宮簡(行朝の子孫)の邸で、日夜警備に当っていた迄は判っているが、可愛岳(えのだけ)の突破行で、ついに討死したらしい。
 そこら辺りの事情が判らぬのは、益弘が賊軍(西郷軍)に加わっていた為と、明治の大洪水(*5)で資料が一切流されたためで、惜しい事に、口碑しか残っていない。
 或いは
「正直まっぽ(*6)に生き、名利を求めてはならぬ」
 と云う家訓から私的な話などは謹んだものと思われる。

 鷲家川とそのほとりに咲き乱れた桜並木の梢からさんらんと舞う花吹雪が美しい。
 吉村には京祇園の料亭「たん熊」の娘・およしという愛人がいて、可愛い子も生まれ、彼は断腸の思いで出陣したらしい。玉砕八十年忌の昭和十七年に封切られた映画『鷲ノ王峠(*7)』はその悲話を画き、主題歌“維新子守唄”が大流行だった。
♪ 行灯かき立て眠る子の
頬に涙の子守唄。
今宵わが子を抱く腕に
明ければ大義の剣(たち)をとる……
 この詩と節(メロディー)が大好きで愛唱したのは、やがて兵として立つ日を覚悟していたからだ。
 今でも時々思い出して歌うが、あれから早くも半世紀になる。
 伊勢物語ならさしずめ、
「昔、男ありけり。つゝ井筒の乙女に恋うるが如く、いみじくも『大義の悲歌(エレジー)』と名づけたる、一つ唄を口ずさみて、五十(いそ)年を重ね、哀れ白髪の翁となりぬ」
 とでも云うか。
「ああ、これでわしの役目は終った。今夜は一つシャンペンでも挙げるか」
 と上機嫌で笑えば、開けた車窓から舞い込んだ花片が白髪に散りかかる。
「今日は四月二十日、七十二の誕生日だ。感謝とともに、祝わせてもらおう…」
 鷲家川の清冽な谷間に沸く“八幡湯”で夕日を浴びながら旅の疲れを癒し、薫風の中を一路さくら峠を越えた。


(*1)徳川 吉宗(とくがわよしむね)。第8代将軍。紀州藩第5代藩主。
(*2)征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている(毛利敏彦「明治六年政変」による)。
(*3)せいなんせんそう。1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦となった。
(*4)ひとよし。熊本県南部。人吉市。九州山地に囲まれた人吉盆地に位置し、球磨川沿いの温泉と川下りで有名。人吉・球磨地方の中心地。人吉藩相良氏の城下町として栄えた。
(*5)明治22年の大洪水。時間雨量169.7ミリを記録したという。
(*6)正直ひとすじ、の意。
(*7)松竹下加茂、1941[昭16]年、伊藤大輔監督)スチル写真。

back