Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.5 東吉野遊歩

(1)東吉野村
 始めてこの地を訪れたのは平成八年(一九九六)の年末で、榛原から宇陀の水分神社を通り佐倉峠を越えると、天誅組と日本狼終焉の地で有名な東吉野村に入る。
 村内の史碑と案内板の完備しているのは驚くばかりで
「こんなに歴史を大切にしている土地は他に知らんぞ。きっと奉仕精神に溢れた先覚者がいたに違いない。こんな処で住めれば幸福だなあ」
 と喜び、感心した。
 鷲カ谷から川ぞいに下ると、今は小川と変った鷲家口の役場を訪ねて話を聞こうと思ったが、年末休みで誰もいない。名物の羊羹を土産に買い、色々聞いた処によれば、昔は和紙を中心とした百軒の商店が連なる商業地だったと云う。
 出合橋を基点に、東は大又、高見から伊勢へ、西は吉野、上市に出る。北は今通ってきた榛原から参宮街道、南は東熊野街道に通じる交通の要地でもあったらしい。
 宝泉寺(*1)と云う立派な寺があり、更に下ると清烈な鷲家川に架った橋の袂に「天誅組終焉地」の巨碑(*2)が立ち、ここが吉村ら多くの志士の碑が鎮まる明治谷である。
 丹生川上中社の下の川辺で弁当を開き、鳥の声も爽やかな日の下で頬ばりながら次の行程を考えた。次回は武木まで下り、ここをスタートに北上して、終焉の日をじっくりと回顧する事に決め、明治谷の碑前で追悼の詩を吟じて菩提を弔し、帰途についた。

(*1)吉野郡東吉野村大字小川588。寺の前に、「天誅義士記念碑」が、総裁吉村寅太郎を初め11人の志士がこの地で傷つき倒れたことを後世に伝えるために建立されている。
(http://www.yoshino.or.jp/renaissance/rekisi-h-008.htm)
(*2)天誅組終焉之地。 バス停「鷲家」から県道16号吉野東吉野線を少し「鷲家川」に沿って南下すると、道路に面して左側に「天誅組終焉之地」の碑が建っている。なお、東吉野村の村内には、「天誅組湯ノ谷墓所」や「天誅組明治谷墓所」など至る所に天誅組の墓所等がある。
(http://urano.org/kankou/eyoshino/eyosi02.html)


(2)中山忠伊、死す
 さてやっと調査を終え、鷲家から帰途につきながら、改めて天誅組の精神を考える。
 光格天皇(*1)の皇子でありながら、父の秘命を受けて民間に下られた中山忠伊(*2)は四十年に及ぶ討幕運動に奔走された。
 天誅組玉砕の後にも勃発した沢(*3)、平野(*4)の「生野の変(*5)」もそうである。一時は二千の兵力を以て幕府の生野銀山代官所を占領したものの忽ちにして壊滅した。やがて金剛山転法輪寺の忠伊にも捕吏の手が伸びてきたので、一時は河内平野の満願寺に居を移して機をうかがった。しかし元治元年(一八六四)二月、中山忠伊は捕吏に襲われ惜しくも自刃される。時に六十余才であったと云う。

(*1)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*2)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*3)澤宣嘉(さわ のぶよし)(1836〜1873)。公卿、明治の政治家。▽1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結の際は、反対して廷臣八十八卿列参事件にかかわる。以後、朝廷内で尊皇攘夷派として活動。▽1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。▽長州へ逃れた後に各地へ潜伏し、平野国臣に擁立されて但馬国生野で挙兵するが(生野の変)、3日で逃亡し、再度長州藩に逃れ、萩黒川にある藩主本陣 森田邸(吉田松陰養母実家にあたる)に逗留し、兵学、外国情勢等学ぶ。▽1867年(慶応3年)の王政復古の後に明治新政府に仕官する。参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの役職を務め、1869年(明治2年)に外国官知事から外務卿になり外交に携わるが38歳の若さで病死した。
(*4)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1 序曲を参照
(*5)いくののへん。文久3年(1863)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件。


(3)明治維新〜天誅組ら志士の犠牲の上に咲いた花〜
 それを伝え聞いた水戸の武田耕雲斉ら天狗党は筑波山に挙兵(*1)してその志を継かんと、京の慶喜(*2)に訴えるべく転進し、これに応じて京の勤皇志士らも御所を襲わんと計画中に新選組(*3)に襲われる。
 いわゆる池田屋事件(*4)で、それを怒った長州藩は、七月、大挙上洛して蛤御門の戦いとなるが、会津、薩摩に敗れて長州藩は「俗論党」の世となる。
 中山忠光が二十才で生涯を終えるのも其為だが、やがて
「吉村の死を無駄にはさせぬ」
 と誓った坂本竜馬の活躍によって薩長雄藩の連合(*5)が実現し、鳥羽、伏見(*6)で三百年ぶりに関ヶ原の仇討となる。
 天誅組討伐に最も働いた譜代の井伊がまず官軍につき、続いて山崎関門を守った藤堂妥女の新式砲兵隊が橋本の幕軍砲台を粉砕して三百余名を倒し、官軍に決定的な勝利をもたらしているのも亡き志士達の英魂の導きではなかったろうか。
 天誅組の壊滅を見て、その二の舞をさけるべく雄藩連合の構想が生れたのだから、明治維新は天誅組ら志士の犠牲の上に咲いた花であると云える。
 それを“罪なき人民を苦しめる暴挙”と説くのは、その精神の高さを無視して結果のみを論ずるもので“力を正義”とする権力主義的な考えであり、決して真の歴史家とは云えない。
 そう結論づけて、爽やかに墓碑に別れを告げた。

(*1)てんぐとうのらん。元治元年(1864)3月27日に起きた、水戸藩士・藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵。武田耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、止む無く首領となった。
(*2)徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)(1837〜1913)。第15代将軍。将軍在位は慶応2年(1866)12月5日から慶応3年(1867)12月9日(王政復古の大号令)まで。将軍としての執務を江戸城で行なわなかった唯一の将軍。
(*3)しんせんぐみ。幕末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧・警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織である。
(*4)いけだやじけん。元治元年(1864)6月5日午後10時に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋で、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件である。
(*5)さっちょうれんごう。慶応2年(1866)1月21日(旧暦)に幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長同盟ともいう。▽薩摩は、元治元年(1864)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐などで薩摩が長州を屈服させて以来、感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により巨頭会談が進められ、1月21日(22日説も)京都薩摩藩邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立。
(*6)とば・ふしみのたたかい。慶応4年(1868)1月3〜6日。戊辰戦争の緒戦にあたり、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦い。


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