Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.4 鷲家口の玉砕

(1)那須信吾、決死隊に
 狼の遠ぼえがしきりとこだまする畿山路をふみ越えた天誅組隊士らは
「いざ井伊の赤鬼(*1)とやらに一泡ふかさん」
 と新しい斗志に燃えて和田村に入った。敵影と見たのは井光、井戸の各村から集まった百余人の人夫らで、喜んだ中山忠光(*2)は傷病者を彼らに任せて武木に向う。
 筏流しで有名な武木についたのは午だった。庄屋の大西吉左衛門が礼装で迎え、心づくしのカツオ節と勝栗が膳をかざり、村役の給仕で地酒の美味さが身にしみる想いであったろう。
 これが最後の宴とも知らず座は賑わい、藤本鉄石(*3)が、主に筆紙を求め、見事な筆跡で

D八咫烏みちびけよかし、大君の事し励しむ御軍の為。

 と詠じ一段と感動させる。
 中山忠光らが武木を発ったのは午後の三時で、隊士らは次々と重い足取りで足の郷峠に向い、五木桜と呼ぶ悠大な山波の連なる尾根の茶店まで来ると、鷲家口の農夫が待っていた。
 敵情を聞くと
「井伊家の方々が村に泊っているが、そんな大勢ではない」
 と答えつつも何やら怖えているので立木に縛りつけた。軍議を開き、
「決死隊を募って敵の本陣に斬込み、その隙に忠光や傷病者を脱出させる」
 ということに決して、那須信吾(*4)ら六名が選ばれる。
 黄昏の雨の中を出発する彼らを見送った忠光は
「死に急ぎするでないぞ、何としても切り抜けて再挙の日を共に迎えようぞ」
 と励ましながら、熱い涙をこぼしていた、と農夫は後に証言している。忠光は性来人一倍情感にあふれたロマンチストだったようで、狂気とか過激と評するのは酷かも知れない。

(*1)井伊 直弼(いい なおすけ)。近江彦根藩の第15代藩主。江戸幕府の大老。安政の大獄を行なって反対派を処罰するなどして、事実上の幕府最高権力者となるが、大獄に対する反発から桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。
(*2)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1 序曲を参照
(*3)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*4)なすしんご(1829〜1863)。土佐藩の郷士。土佐藩の家老を務める浜田光章の三男。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。▽坂本竜馬に深く傾倒し、1861年に土佐勤王党に加わった。1862年には安岡嘉助や大石団蔵らと共に尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。▽1863年、天誅組の反乱に参加し、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。享年35。


(2)那須信吾、死す
 ここで追討軍の情況を眺める。
 水野忠幹(*1)、坂西又六らの千余人の紀州勢は、本宮に本陣を於いて紀南一帯に防衛陣を固め、鈴木孫八郎(*2)を将とする一隊は、浦向から白川を北上して天誅組の後に迫っていた。
 前鬼の藤堂勢から
「敵は東熊野街道を北上中なり」
 との報が五条本陣に入ったのは九月二十三日で、忽ち
「全軍とも鷲家口に急進せよ」
 との命が下った。
 真先に井伊藩の先発三十人が二十四日の夕刻に着き、続いて紀州田丸藩の数百は参勤交替の際の本陣のある鷲家に本陣を置く。彦根本隊の到着は二十五日、藤堂本隊は二十六日の予定であった。
 伴林らがこの地を難なく通過したのは二十一日の夕刻だから、もし忠光が白川で手間どらず急進すれば二十三日には無血突破できたわけで、その武運の拙なさが惜しまれる。

 鷲家口に着いた彦根藩三十名は、斥候から前夜に天誅組が伯母峰に泊したのを知る。近村の農民をかり集め、第一線を宝泉寺の山門前に配備すると、要所要所に大篝火を焚き、その背後に鉄砲隊を置いて待ち構えた。
 那須らの決死隊が斬込んだのは夜の七〜八時頃だったと云う。その状況は別図の通りである。
 那須ら一騎当千の猛者揃いとは云え、銃は白川林泉寺で焼き捨て、一剣のみで斬りこんだのだから、井伊の鉄砲隊によって空しく怨を呑んだらしい。

(*1)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*2)明治12年(1879)、初代新宮戸長に任命される。旧藩で柔術師範をつとめ、仲ノ町で柔術道場を開いていた。
(http://homepage3.nifty.com/ryokodo/kmx7.html)


(3)三総裁の最期〜松本奎堂、藤本鉄石〜
 那須信吾らの犠牲によって中山忠光らは一気に敵陣を突破して鷲家に向った。しかしそこには紀州田丸の家老・山高、以下数百の兵が篝火を燃やし、手ぐすねをひいて待っていた。
 到底突破は無理と思われので
「ここで解散してめいめい思い通りに落ち延び他日を期そう」
 と協議し、忠光は上田、伊吹ら六人と鷲家谷の北の山中に分け入った。
 傷病者組にいた吉村寅太郎(*1)ら三総裁は、忠光らより遅れて五本桜についた。折から鷲家口の方角で激しい銃声が轟いているのを聞いて、藤本鉄石、松本奎堂(*2)は進路を変え、丹生川上神社中社から御殿越しの山道に入り、その夜は伊豆尾村の庄屋・松本清兵衛の邸にかくまわれる。
 然し翌二十五日、紀州勢に探知されて、盲目の松本奎堂は敢なく銃殺された。
 藤本鉄石は従者と共に当時は紀州領の本陣・日裏屋に斬り込み、家老の山高らを震い上らせると、力戦の後に学者とは思えぬ壮絶な最後をとげる。

(*1)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1 序曲を参照
(*2)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。


(4)三総裁の最期〜吉村寅太郎〜
 吉村寅太郎は二十四日夜、傷に苦しみながらも気力は衰えず、人足達を
「辛抱せよ、辛抱したらきっと新しい世が来る。それを楽しみに耐えるのじゃ」
 と励ましつつ、本隊の跡を追った。しかし途中、銃声に恐れた籠人足に逃げられ、木津川村の庄屋・堂本孫兵衛の土蔵にひそんでいた。
 けれど追手が迫るのを感じると、主に迷惑をかけられぬと、二十七日の夜半に出発し、鷲家谷に辿りつき猪小屋でかくれているのを藤堂隊に発見された。いきり立って乱射する味方を、
「憂国の士を銃で討ちとってはいかん」
 と止めた上野撤兵隊の金谷健吉は白刃をかざして迫り、重傷の吉村は討取られる。
 彼は死に臨み「残念!」の一語を残して倒れたと云われる。村人はその遺骸を鷲家川畔の巨岩の根元に埋葬し“残念将軍之墓”なる石碑を立てて供養した。
 処がその碑が不思議にも彼の霊力が宿ったか、万病を直す霊験をあらわし、やがて各国から参詣人が殺到することになる。

(5)安積五郎、伴林光平、水郡善之祐
 鷲家口を辛うじて脱出した志士達も次々に捕われた。
 藤堂藩に捕えられた軍師・安積五郎(*1)、小姓・顕澁谷ら九名は、島ヶ原の観菩提寺に預けられ、その好遇に
「何とか貴藩で処刑して貰いたい」
 と嘆願している程だが、翌年二月、伴林光平(*2)らと京の六角牢で処刑された。
 竜神温泉で捕わった河内勢の水郡善之祐(*3)らも紀州藩の志士としての待遇に感謝し

D鬼神も 恐れざりしが、誠ある 人の情に 袖ぬらすらん。

 と詠じている。ちょうど蛤御門の激斗(*4)の最中だったため、裁判もなく、平野国臣(*5)ら三十二名と共に惨殺されている。
 長州に逃れた忠光を始め、百余名の隊員中で明治の世にめぐり合えて“功なり名をとげた”ものは、平岡(*6)、伊吹(*7)、程度である。
 すべて二十〜三十代で散っているのは昭和の特攻隊そのままで、何とも哀れである。

(*1)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*2)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*3)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*4)禁門の変(きんもんのへん)。元治元年(1864)に起きた事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも。▽長州の積極派が、討薩賊会奸を掲げて挙兵。京都蛤御門付近で長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅。
(*5)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1 序曲を参照
(*6)平岡鳩平。維新後、北畠治房と名を変え、司法官として横浜、京都、東京の裁判所長、大阪控訴院長を歴任して男爵まで上り詰めた。大正10年(1921)、八十九歳で死す。
(http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/higashiyoshino1.htm)
(*7)石田 英吉(いしだ えいきち)(1839〜1901)。坂本龍馬門下。土佐国の人。変名を伊吹周吉。▽土佐藩の医師の家に生まれる。家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し医術を学んだ。志士・吉村寅太郎に心酔し天誅組に加わって大和挙兵に参陣。敗れた英吉はやむなく長州に落ち延び再起を図るが、蛤御門の変で負傷。 三条実美ら有力公卿が都を落ち延びたいわゆる「七卿落ち」で三条とともに都を離れた。その後、再び長州に逃れた英吉は、そこで高杉晋作と合流し奇兵隊創設に貢献するなどして過ごした。坂本龍馬と接触をはじめるのはこの頃からである。▽以後、優秀な人材を買われて龍馬の側近くで活動。亀山社中成立の頃より竜馬に従い、のち海援隊創設時は、長岡謙吉にとともに重きをなした。下関海戦では龍馬の命でユニオン号の指揮を任せられ、めざましい戦果を挙げた。▽龍馬の死後、主を亡くした海援隊は後継指導者も定まらなかったが英吉は長岡謙吉に従い、しばし後進の指導にあたるなど組織をまとめた。海援隊解散後、明治の世となった後は、秋田県令・千葉県知事をはじめ多くの県知事職を歴任。農政面での政策では多大な功績を残した。かつて英吉の愛弟子である陸奥宗光は農商務大臣に就任した際、英吉を次官に迎え国政を相談したと言われている。 貴族院議員をつとめたのち1901年、63歳で没した。▽龍馬配下としては指折りの逸材とも言われ、医術者を志していた共通の境遇を持つ長岡とともに「二吉」と賞され、また福岡孝悌、陸奥宗光と並ぶ人物であった。


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