Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.3 天ノ川辻峠の激斗

(1)天誅組、全軍が天辻本陣に集結
 九月に入るや、動きのにぶかった各藩の兵も紀州三千、藤堂二千、郡山二千、井伊ら三千総計一万に達した。
 その中心となるべき紀州藩の水野勢の中でも
「高野山に進んだ北畠道龍(*1)の法福寺隊や、津田監物(*2)の三番隊は、斗志満々たるものがある。」
 との情報を聞いた吉村寅太郎は、かねて知己の紀州の同志から聞かされていた新宮藩主の水野忠幹(*3)公に違いないと、その本陣に宛て次のような一書を提した。
「一筆献上。かねて貴藩同志より、忠幹公は、上は天朝を尊び、下は庶民を撫育し、君臣の大義を知る名君なれば、その動向には心配無用なり、と聞き及びたるにつき、謹んで啓上仕る。」
 と天皇の真意を曲げる薩会の姦略を責め、今回の出陣を
「当今仁義の士を賊徒とするは天下の不幸ならずや」
 と評した。そして
「公の寛大にして勇断に富む赤心や如何」
 と責めている。
 けれどこの水野は紀州公の直臣で、物頭役三千石の水野多門である。水野多門はそれを見て、悩んだ末にその職を坂西に任せて、和歌山に帰ってしまう。水野多門の用人が責を負うて切腹したと云われる。
 それを聞いた吉村寅太郎は、更に小姓頭の渋谷を、藤堂藩の伊賀上野の城代・藤堂新七郎、同玄蕃に対して軍使として送り、同様に説得させた。
 渋谷の死を決した潔ぎよい態度にひどく心を打たれた藤堂新七郎は、惜しみながらも彼を捕らえると、返書の中に
「その精神は判るが、形の上では朝敵である。速やかに降伏すれば何とか力になろう」
 と述べている。
 それを見た吉村寅太郎は、一段と河内方面への突破作戦に自信を深め、中山忠光に天辻合流を切望したから、中山忠光も漸く
「新宮突出の望みが絶えた今は、それに頼るしかない」
 と考え、九月六日、北上して全軍が天辻本陣に集結、高らかに鯨波を轟かせた。

(*1)北畠道龍(1820-1907)。浄土真宗西本願寺派僧侶。日本人として初めて仏陀成道の地ブッダガヤを巡礼した。宗教者というよりは一大の豪傑と呼ぶがふさわしい人物で、紀州出身の道龍は僧侶だてらに軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊をけちらし、幕府軍のなかで孤軍気を吐いた。維新前後には津田出(*1-1)とタッグを組んで和歌山藩の兵制をプロシア式に改革。廃藩置県の時点で、道龍が育てた和歌山軍は恐らく日本最強の軍隊だったのではないか。
(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)
(*1-1)つだ いずる(1832〜1905)。幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。紀州藩藩政改革に成功し、明治新政府の廃藩置県および徴兵令に影響を与えた。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。
(*2)不明
(*3)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。


(2)橋本若狭、下市の彦根本陣に放火
 それを知った藤堂新七郎は大日川で、自から先頭に立ち、大激戦を展開したが、槍傷を受けて退却した。中山忠光はかって大塔宮が快勝した歴史の残る白銀神社(*1)に本陣を移して、下市の敵に備える。
 九月八日になると、下市に本陣を置いた彦根勢三千が、栃原砦と樺木砦に迫り、郡山二千は広橋峠に進撃してきた。そこで、丹生川上下社(*2)の神官・橋本若狭(*3)、水郡善之祐(*4)の河内勢を配置して、必死に防戦し、決戦二昼夜に及んだ。
 然し多勢に無勢で次々に陥落する。丹生川上神社も占領された上に、全焼させられたから、怒髪天をつく思いの橋本若狭は独断で、同夜、下市の彦根本陣に潜入して放火した。後世“天誅の大火”と呼ばれる大惨事となる。三百余軒が全焼して居り、橋本若狭らは膨大な量の兵器弾薬を奪うと、荷車に満載して意気揚々と引揚げた。
 下市の大火は白銀山の本陣からも手に取るように見え、伴林光平(*5)は

●吉野山、峰の梢や 如何ならん 紅葉になりぬ 谷の家村。

 と詠じているが、これが橋本若狭の手柄とは思わず、高見の見物で快哉を叫んでいるうち
「藤堂勢大挙迫る」
 と大日川の陣から急報が入ったので、中山忠光は全員を率いて大日川へ救援に向ったのは残念としか云い様がない。
 もしこれが判っていたら、直ちに下市に突進し、逃げる敵を壊滅させ、勢に乗じて河内方面に脱出するのは容易であったと云われ、千載一遇の好機を空しく逸してしまった。
 そればかりでなく、前線で力斗している水郡勢に連絡もせず転進した事から、戦力と補給の中心となっていた水郡善之祐隊が分離して独自の行動をとる事になる。若い中山忠光は、そうとは夢にも知らない。計らずも大日川にかけつけた藤堂勢と激斗を交えるうち、突如として敵は田村の民家を焼いて退却に転じた。

(*1)波宝神社(はほうじんじゃ)の誤記か。祭神:住吉明神、神功皇后。所在地:奈良県吉野郡西吉野村夜中。吉野三山の一つ銀峯山(白銀岳)612m山頂に鎮座する式内社。
●神社の起源詳らかならずも…銀峯は吉野郡三霊峰の一にして往古、伊弉諾伊弉冉二尊の降臨あらせられ…
●神功皇后、三韓帰途日高を経てここ小竹宮に還る。(夜中邑地名起源説話)
●応神天皇、吉野行幸の際駐輦あらせ給う…
●舊古田大明神又は若櫻宮と稱す大寳元年、役小角、此山に入り秘法を行いしに神女出現ありて「鎮護國家化導群衆」と告げ石室に入り給う因って神蔵大明神と云ふ爾来大峯参詣の行場にして先達入峯すること舊例なり。
●正平十五年(1360)南朝方征夷大将軍赤松宮陸良親王(大塔宮・護良親王遺子)銀峯に陣を構え三日三夜の戦い。
●天保四年(1833)有栖川宮、参拝あらせられ祈願所となし摂社八幡大神の神体及び本社の大鈴外数点を献ず。
●文久三年(1863)9月、天誅組、茲に本陣を置くなり。…
…などと記されている。『白銀村(旧)村史』
(http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/hahono.htm等)
(*2)にうかわかみじんじゃ。奈良県吉野郡にある神社。本来は1つの神社であるが、明治以降、歴史的経緯により上社・中社・下社の3つの「丹生川上神社」ができた。上・中・下は神社の格の上下や所在地の位置関係を表すものではない。
(*3)はしもとわかさ(1822〜1865)。郷士・益田藤左衛門の第四子。万延元年(一八六○)三月三十八歳の時、吉野郡丹生村長谷の丹生川上神社下社祠官橋本信政の後継となる。幼少より武芸を修め、当時「滝の今弁慶」とさえ言われた。剣、柔、槍、砲術の技を修業するために常に各地を巡歴する中、諸藩の形勢や国情を探り歩いた。一方、特に柔術に長じ、自ら「二葉天明流」を興し、神職のかたわら練武場を設け、近隣の者たちへ武芸を教えながら、熱く勤王の志を説いた。▽文久三年(一八六三)八月一七日、五條に主将・中山忠光卿(前侍従)吉村寅太郎(土佐)松本金堂(参州)藤本鉄石(備前)等三総裁が率いる天誅組の義挙が起こると妻子を残し、同志中井元定(越前)や欣求寺良厳等を引き連れ参陣。祀官として皇軍戦勝を祈祷する一方で自らも武人として栃原、樺の木峠、広橋峠で彦根藩を相手に奮闘。一時的に勝利を手にするも敗色濃厚となり無念の撤退。丹生川上神社下社も焼かれ起死回生の秘策として下市の敵陣営の夜襲を決行し快勝。しかし本隊の退却や離脱者も相次ぎ、天誅組は事実上解散した。▽ 九月の東吉野村鷲家口での最後の戦をかろうじて脱出。その後も勤王の志は何ら衰えず、三河の村上忠順宅に潜伏。元治元年(一八六四)大阪にて大阪屋豊次郎と称して材木仲買商を営みながら同志たちとの画策を続ける中、十一月ついに幕吏に捕縛され、翌慶応元年(一八六五)六月京都六角獄で処刑された。享年四十四才。
(http://www.gojo.ne.jp/g-kanko/tenchu/wakasa.htm)
(*4)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*5)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。


(3)水郡善之祐隊、離脱する
 下市で彦根勢が大量の武器弾薬を失い、総攻撃の予定が延期となったのを知った藤堂新七郎は、孤立包囲されるのを恐れて、五条に引揚げた。
 だが、それとは知らず、凱歌を轟かせた中山忠光と藤本鉄石(*1)は、この勢いに乗じて河内脱出を決めた。先峰となった水郡善之祐隊は、一気に五条に近い丹原まで追撃して陣を固め、本陣の到着を待った。
 処が十一日になっても、本陣は姿を見せない。それで水郡らは大日川に帰って見ると、軍議は変更されて十津川に引き揚げとなり、藻抜けの空となっていた。
「亦しても置き去りじゃ」
 と隊員の怒りは遂に爆発し、十七名の離脱決議文を見せられた時、二総裁は内心その責を痛感したに違いない。
「将、将たらざる故に、士、士たらず。水郡の去るを、怨む処なし」
 と嘆じる軍師・安積五郎(*2)の言葉に天辻にいた吉村寅太郎も断腸の想であったろう。

(*1)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。
(*2)Chap 4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.2 緒戦を参照。


(4)天誅組、天辻を放棄する
 そうこうとして十二日朝、軍議を開く折しも
「紀州法福寺隊が凄しい斗志で一挙に要衝・鳩首(*1)を襲い、我方は為す術もなく潰走した」
 との敗報が入った。
「もはや天辻は放棄するしかない」
 さすがの吉村寅太郎もそう感じ、自から殿軍を買って出た。中山忠光ら本隊は、直ちに四千尺の高峯・唐笠山(*2)の山麓にある小代(*3)の地に退却する。
 中山忠光に随行した伴林光平は殿野(*4)の里で

D鉾とりて 夕越くれば 秋山の 紅葉の間より 月ぞきらめく。

 と詠じ、藤本鉄石もまた

D雲をふみ 巌さぐゝむ 武夫の 鎧の袖に 紅葉かつ散る。

 と応じている。
 伴林はひどく藤本を尊敬し、この句にちなみ『南山踏雲録』と号した戦記を記している。伴林が藤本を愛したのは、武将たる資質よりもその詩人肌であった。それは、伴林自身が詩人で、惨雨悲風の中に、あたかも煌めく月の如き名文を世に残したことでも判る。

(*1)不明。トップページの地図参照。賀名生の南、唐笠山の北、銀峯山(白銀岳)の西、天辻の東に位置すると推測される。
(*2)1,118m。R168天辻トンネルを抜け、道の駅「大塔」を過ぎ、正面に見える。
(*3)奈良県五條市大塔町小代
(*4)奈良県五條市大塔町殿野


(5)吉村寅太郎、鶴屋本陣に放火して退却する
 九月十二日、要衝・天ノ川辻を後にした天誅組本隊が、唐笠山頂に輝く秋月を仰ぎながら、十津川めざして落ちて行った頃。
 京の二条城で紀州藩征討総督に任じられた水野忠幹(前述)以下六百の精鋭は、慌しく淀川を下り、大坂港から快速蒸気船に乗船して、故郷・新宮をめざした。水野勢が紀南一帯に防衛陣を固めれば南海への脱出は不可能で、天誅組は釜中の魚でしかない。
 水野忠幹が久しぶりに新宮港に到着したのは、九月十四日である。
 同じ日、天ノ川辻の吉村隊は、「我こそ一番乗り」を競う鳩首の藤堂勢と富貴の紀州勢の攻撃を受けて死傷続出し、危機一髪の情勢であった。
 と云うのも幕軍は十五日に攻撃を決行する約束であるのに、藤堂新七郎の独断で抜け駈けを計った。それを知った紀州勢も「そわさせじ」と、一足早く、けもの道から、突如!富貴辻砦に襲いかかったからである。
 本陣の吉村は、急を聞いて、なけなしの兵をかき集めて送った。直後に、続いて藤堂の大軍が本陣に迫った。
 さすがの彼も「もはやこれまで」と鶴屋本陣(*1)に放火して退却せざるを得なかった。
 藤堂勢は勇み立って本陣に突入し、多数の兵器、弾薬、糧食を分捕って凱歌を奏した。それに比べ紀州勢は、必死に反撃する天誅組によって、隊長以下多くの死傷を出しつつも空しく兵を返すしかなかった。

(*1)天誅組を援助した豪農・鶴屋治兵衛の天辻峠の屋敷(最高所)に本陣を置いた。旧天辻小学校の校地となった鶴屋治兵衛の屋敷跡が天誅組本陣跡で、今、天辻峠維新歴史公園となり、天誅組本陣跡の石碑や鶴屋治兵衛の頌徳碑が立っている。

(6)中山忠光、天誅組の解散を宣告する
 吉村が山籠にゆられて上野地に姿を見せたのは十六日である。
 思いがけなく十津川隊が、中川宮(*1)から
「忠光を勅使に出した事実はない。朝権を憚らず、勝手な勅諚などと詐称する天誅組は国家の乱賊である。十津川郷は古来からの勤皇の伝統を守り断呼彼らを討て」
 との沙汰書を受け、一同協議の上、「天誅組に退去して貰おう」と決議して忠光に申し入れて来た。それで、短気な忠光が遂に隊の解散を宣告した、と云う悲報を知った。
 吉村は
「それにしても天ノ川辻で苦斗しているわしらに一言もなく勝手に解散してしまうとは」
 と内心は腹が立ったろうに、一言の愚痴もなく折からの十六夜の月を仰いで

D曇りなき 月を見るにも 思うかな 明日は屍の 上に照るかと。

 と詠じているのはさすがである。
 十津川隊の申出は当然であり、それでも情の厚い山人だけに三百人近い人夫を提供して天誅組に尽力しているのだから、伴林が怒るのは無理と云うものだろう。

(*1)久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)。(1824〜1891)伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。▽天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌・天保8年(1837年)親王宣下、成憲(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、剣と学問の師である有馬範顕の推挙で空席となった青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。 青蓮院が宮門跡で、また粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮または粟田宮と称される。後には天台座主にも就く。▽尊融法親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、将軍徳川家定の後継者問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融法親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と称した。▽文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融法親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌・文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名でよく知られている。▽文久3年(1863年)前半は長州系公卿を中心とした討幕・尊攘派が朝廷の主流であった。そして、尊攘討幕派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔であった。孝明天皇の大和行幸の際に、天皇自ら攘夷のための軍議を開き、軍議を開くことによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すということを企てていた。同時に、征夷大将軍が率いる幕府軍こそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取ってもらうという算段でもあった。▽公武合体派の領袖であった尊融親王は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」の名のもと、都から遠ざけられかけもした。これを察知した親王は西国鎮撫使の就任を固辞し、政敵であり長州派公卿の有力者であった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を押し付けた。▽さらに尊融親王は京都守護職を務める会津藩やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。同年、元服を済ませて朝彦の諱を賜り、二品弾正尹に任ぜられる。以後は、弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)と称される(弾正尹は親王が任命される事が通例だったため)。▽八月十八日の政変により長州派公卿および長州藩が朝廷から退くと、朝彦親王は京都守護職松平容保とともに孝明天皇の信任を篤く受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や倒幕・尊攘派の志士たちの強烈な恨みを買うことにもなる。▽元治元年(1864年)、一部の尊攘倒幕派は朝彦親王邸への放火や容保の殺害を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった武器商人の古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、実行寸前で古高が新撰組に捕らえられ、計画に関与していた者の多くが池田屋事件で闘死、もしくは捕縛された。▽この年、宮号を中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改めた。同年禁門の変をが発生、その報復として二度も長州征伐が試みられたが、幕府は将軍の徳川家茂を病で失い、戦闘でも敗北した。さらに後を追うように孝明天皇が崩御する。このため、朝彦親王らの佐幕派は朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。▽慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において、長州藩主父子(毛利敬親・毛利広封)やすべての長州派公卿(討幕・尊攘派公卿)が復権する。有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら討幕・尊攘派公卿は、朝彦親王を明治元年(1868年)、広島藩預かりとした。明治5年(1872年)正月、伏見宮に復籍。▽明治8年(1875年)、久邇宮家を創設。公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。▽朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの、ませた逸話を持つ。還俗してからも子を多く作り、賀陽宮邦憲王、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)、梨本宮守正王、久邇宮多嘉王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王(首相)などをもうける。今上天皇以下の皇族は香淳皇后を介して久邇宮家の血を引いており、直系子孫にあたる。▽神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。

(7)伴林光平、置手紙を残す
 九月十七日、忠光本隊の隊員軍夫を含めた四百名は南下して小原に泊した。
 伴林らは進路調査の為に嫁越峠から前鬼をめざす。
 十八日、本隊は下葛川から瀞峡を渡り新宮に向うと見せ、標高千三百mの笠捨山を越えて「浦向」をめざした。
 山中で、忠光は珍しく

D武夫の 赤き心を 現わして 紅葉と散れや 丈夫の友。

 と詠じ、やっとのことに二十日、浦向に辿りついた。
 村人は丁重に迎え入れ、菊水の紋も輝く正法寺(*1)には、忠光ら八十人を、傷病者の吉村らは上平家に、浦向兵助、善五郎宅には人足二四〇人を宿泊させ、もてなしている。
 九月二十一日は雨で、軍議の結果、木ノ本、尾鷲への突出を断念し、東熊野街道を北上して河内に出る事となり、白川林泉寺(*2)に到着する。
 ここで先発の伴林らが勝手に軍費を作り
「お先に南山を脱し、長州をめざす」
 との置手紙があった。

(*1)曹洞宗の寺院。現在、奈良県吉野郡下北山村大字寺垣内896。
(*2)現在、奈良県吉野郡上北山村大字白川214-44


(8)中山忠光、正法寺を焼く
 置手紙を見て忠光は怒り、前鬼に残っている米を取りに行かせ、その日は進発せず休養させた。これが運命の別れ道となろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
 前鬼に着いた人夫達を待っていたのは伴林を追って来た藤堂藩士らで
「天誅組に協力する者は首をはねる、こちらの人夫となれ」
 と厳命された。早々に逃げ帰ると林泉寺にいる村役に報告し、協議の末に全員が深夜こっそり逃亡してしまう。
 九月二十三日の朝、それを知った忠光は激怒して八方に探させたが見つからない。兵器、食料などは捨てて身一つになり、十余人の病人の籠は隊士や従者が交替でかつぐ事にして午前八時に出発する。
 忠光は腹立ちまぎれに
「武器弾薬を敵の手に渡してはならん。寺もろ共に焼いてしまえ」
 と命じ、炎上する寺を後にして五十余人が伯母峯峠をめざしたが、天誅組の軍令に
「敵地の住民と云えども本来は帝の御民であるから乱暴は許さぬ、神社、寺院に放火を厳禁する」
 と書いた松本圭堂はさぞ断腸の想いだったろう。
 忠光ら三十人が伯母谷村の法昌寺(*1)についたのは夜の十時だった。
 傷病者の籠はひどく遅れて、村人の救助に助けられて、吉村らが村に入ったのは九月二十四日の夜明けである。
 その哀れな姿を見た忠光は涙ぐんで
「せめて一日休ませてやりたい」
 と思ったが、折しも
「彦根兵が和田村に来た」
 との報に、それもできず、朝九時に健兵四十人が先陣に立った。

(*1)曹洞宗の寺院。現在、吉野郡川上村伯母谷21


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