Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.2 緒戦

(1)昭和三十年、観心寺〜金剛山転法輪寺
──天誅組に関して、若き日の遊歩記を開くと、次のように書いている。
 昭和三十年(一九五五)初夏、「ゴールデンウィーク」と云う言葉が流行し始めていた頃。
 私は、天誅組八十周年になる昭和十七年(一九六三)に中絶した十津川への史跡を訪ねる旅を、再び思い立った。
 入社して十三年でやっと四十二円から二万円になった月給の半分を新調の背広のポケットに入れ、意気高く吹田のアパートを出て河内長野をめざす。
 近鉄河内長野駅から観心寺(*1)に向う道は緑の風がそよぎ、夜来の雨にしめったわら屋根と野菜畑の続く村を川沿いに登って行くと、右手の深い木立と森の中に大屋根が聳え立っている。
 本堂前は歴史の重さを秘めた静寂の気が漂い、案内を乞うと高僧らしい老人が顔を見せ、縷々(*2)としてその歴史を語ってくれる。天皇の御陵から正成の首塚や建てかけの塔を見せ廻る途中に「天誅組旗あげの碑」が立っていた。

「ヘエ!天誅組はここで挙兵したのか」
 と思いながら、赤坂村から千早城に通じる坂道を上る。トンネルの下から沸き出す清水でのどをうるおして、一気に城に登ると、城跡には涼風が心地良い。眼下に拡がる河内平野を眺めて浩然の気を養い、熊野とも縁の深い山伏道場・金剛山転法輪寺についたのは夕方で、いかにも荒山伏らしい住職から寺の歴史を聞かせて貰う。
 天誅組のことを尋ねると“維新の護良親王”と呼ばれたと云う中山忠伊公の秘話(後述)を洩らしてくれた。
「やっぱりここをスタートにして良かった。これでどうやら事件の全貌が浮かんでくる」
 と喜んで門をでれば、山々には早くも黄昏が忍びより、空に壮大なあかね雲が果しもなく拡がり、実に素晴らしい。
 五条に向う道は、けもの路のように狭く、滑り落ちそうな急坂で、高野連山に落ちる夕日が一足ごとに色をうすめ、野も山も薄墨色に沈み、代って東の空の半月が美しく煌めき始める。
 けれど刻一刻と足元が暗くなり、危くて仕様がない。遂には闇雲に急坂をまるで狼にでも襲われた子供の駈けるように下り、漸く村の野道に出た時には全身が絞るような汗まみれになった。町の入口で思いがけなく赤いのれんを翻した銭湯を見つけ、喜んで飛込む。
 天井にポツンとランプのように暗い裸電球があるだけの浴室には頑丈な農夫らしい男達がごった返しているので「ウエー」となったが、「戦時中の銭湯を思えば未だましじゃ」と強引にもぐり込む。
 温かな湯にじっくりと汗を落し、冷たい上り湯を何杯も頭からかぶって上ると、さっきの疲れも嘘のように消え、空っ腹が身にしみた。
 やっと五条の駅に着いたのはもう七時ぎで
「何はともあれ腹を満たしてからじゃ」
 と角のラーメン屋に入った。冷たいビールをグーッと一杯やりたいのを圧さえて、焼酎とラムネを頼む。
「前途程遠し十津川の旅だ。何よりも節約第一である。」
 冷たくうす甘いラムネ酎ハイがのどを流れ落ちると、忽ちホロホロと酔いがでて、先刻見た壮大な山の夕暁が瞼の底によみがえる。
 今夜は木賃宿で素泊まりし、明朝早く、五条代官所と桜井寺を見て、いよいよ
「霊山万里の十津川に向うのだ」
 と思うと、漂泊の旅情が身にしみるようだ。
 裏町の「商人宿」に飛込み、薄い布団にくるまりながら、先刻住職から聞いてメモをとった秘話をじっくりと考える。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。
(*2)こまごまと話すさま。細く長く続くさま。


(2)光格天皇

 一一九代光格天皇(*1)は
「西に聖天子あり、東に賢相(松平定信)あり」
 と称された程の名君であったが、大坂の陣以来の幕府ぎらいの伝統を受けた豪毅な帝で、特に父・閑院宮の尊号要請(*2)に対する不遜な幕府の態度に
「武蔵野は魔所の棲家」
 と怒り、側近の公卿、中山忠伊(*3)、岩倉具定に命じて倒幕を計られたと云う。
 けれど事は露見して、忠伊は自刃、具定は出家させられ、自身は皇位を第一皇子の仁孝天皇に譲って退かれる。然し光格天皇は、尚もその意思を捨てず、第二皇子・長仁親王(*4)を中山家に養子に出し、その名も忠伊と改めさせて、尊皇討幕運動に奔走させた。
 幕府をゆるがせた大塩の乱も、島津久光を激怒させた寺田屋事件も、その影に密命を受けた中山家の用人・田中河内介(*5)の活躍があったと云われている。

(*1)光格天皇(1771〜1840。在位1779〜1817)。119代天皇。閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。即位の前日に危篤の後桃園天皇の養子。天明の大飢饉の際、幕府に領民救済を申し入れ、北方での日露紛争の際、交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。父に太上天皇の号を送ろうとして、幕府と尊号一件と呼ばれる事件を起こす。
(*2)尊号一件。父親の典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を送ることを幕府が拒絶。
(*3)ただこれ。光格天皇の側近・中山愛親(なるちか)の子。
(*4)第二皇子・長仁親王かどうかは諸説あり。自害した中山愛親の息子にちなんで名づけられたと思われる。中山忠頼卿の長男として降下される。「幕府側の刺客の銃弾を身に受けて自害した」あるいは「元治元年(1864)2月10日中山忠伊、平野海願寺にて自刃」等の説がある。詳細は不明。
(http://homepage2.nifty.com/yodoyabito/yodoya-nakayamajinjya.htm等)
(*5)幕末に活躍した勤皇の志士。明治天皇の教育係だったことも。薩摩藩の島津久光によって有馬新七らが討たれた寺田屋事件で、河内介とその息子は薩摩に引取られることとなり、船で大阪を出発したが、途中暗殺される。


(3)天誅組、五条代官所を襲撃する
 天誅組の挙兵に就いても、忠伊公(光格天皇の子)は、土佐の吉村寅太郎、五条の乾十郎(*1)らと共に計画を練られた。六十を過ぎた自分の代りに甥の忠光(*2)を主将としながらも、事件直前に金剛山の山伏道場に入って陰の本陣とし、河内の水郡善之祐(*3)らに募兵と弾薬糧食の確保を命じたようだ。
 従って天誅組が五条代官襲撃前に金剛山を訪ねたのも、当然、忠伊公を交えての最終軍議の為であったと思われる。軍議を終え、志気注天の百余人の志士と軍夫らは、十路五条代官所めざして、翔ぶが如くに下山していっただろう。
 五条代官所は、吉野、宇智、宇陀、高市、葛上の五郡四〇五カ村、七万石の天領を支配する。そこに、八月十四日の夕刻、甲冑をつけ、鉄砲、槍で武装した百人近い浪士が、突如として乱入した。
 代官・鈴木源内は、昨年、着任早々より老人を表彰し、善政をめざす温厚な人柄ではある。しかも、十津川郷士が、朝廷の命で、御所衛士に選ばれた時、
「誠に名誉なことである。一日も早く上京させよ。もし問題になれば身共が腹を切るから良いではないか」
 と言い、反対する佐幕派を圧さえて、出発させた。それが、僅か半月前のことで、尊皇派とも云うべき幕官であった。
 とはいえ、突然乱入し、
「朝臣・中山忠光卿に、七万石の天領を、直ちに引渡せ」
 と脅されても、彼としては
「左様でござるか」
 と承知することができないのは当然である。
「それは理不尽である」
 と拒むや、浪士達は
「天誅!」
 と叫んで襲いかかり、僅か五人の役人達を血祭りに上げると、
「違勅の幕府の逆命を受け、朝廷の恩義を忘れ、民に重税を課したる重罪により、梟首に処す」
 と布告して代官所を焼き払い、隣の桜井寺に“皇軍先鋒、御政府”の看板を掲げた。
 そして五条新政府の機関として
 主将  中山忠光
 総裁  藤本鉄石
 〃   松本奎堂
 〃   吉村寅太郎
 側用人 池内蔵太
 監察  那須信吾
 記録方 伴林光平
 小姓頭 渋谷伊作
等を任命し、朝廷よりの祝儀として、本年の年貢を半減し、孝子を表彰。悪徳庄屋や富豪には軍資金献上を命じている。

(*1)乾十郎 (1828〜1864)。京都に上って儒学を森田節斎に、医学を森田仁庵に学ぶ。大津に出て梅田雲浜のもとで国学を修めた。この間、按摩をして苦学、嘉永6年に来坂して医業を営んだが、専ら勤王の志士と交遊した。▽万延元年には郷里の五条に帰って医業とともに目薬真珠円を製造販売をした。帰郷してからも尊王思想を振起し、また和歌山藩に対し、紀ノ川の筏税の免除、船荷積替の慣例撤廃などについて提言するなど、郷党のために尽力した。▽文久3年、天誅組が河内から五条に攻めいる途中を出迎え、これに参加。五条における天誅組の新政布告の立札は彼が書いたという。さらに武器方となって天川辻、鷲家口などに転戦。十津川敗走の間、吉村寅太郎の弾丸摘出の手術を行い、さらに天誅組解散の途中、熱病に苦しむ久留米藩士小川佐吉に数十日付き添って看病。▽のち大坂の西成郡江口村に潜伏中に捕縛され、京都六角の獄に繋がれて、平野国臣らと共に斬罪になった。享年37。
(http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/inuijyuurou/inuijyuurou.htm)
(*2)Chap4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1序曲を参照。
(*3)にごり ぜんのすけ。1826〜1864。幕末の河内の大地主で勤皇の志士。勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助。水郡家は代々勤皇の家で、彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。天誅組の挙兵で、財政面で大きな貢献をし、自らも息子・英太郎とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後、捕えられ、京都六角獄にて処刑された。


(4)中山忠光、高取城で大敗北する
 処が孝明天皇(*1)の意を受けた薩、会のクーデターによって三条実美(*2)以下の尊攘派が一掃されたのが八月十八日である。僅か五日で、昨日まで天兵先駆を誇っていたのが、忽ち逆賊の汚名をかけられる悲劇となった。激怒した幹部達は軍議を開き、解散して再起を計るか、徹底抗戦か、討論の末に、
「守り難い五条より、十津川に移り、勤皇党で知られた郷士らの協力を得て、最後まて戦い抜く」
 こととなった。
 かくして大峯、果無山脈に囲まれた日本四大秘境(*3)の一つである十津川の北の関門とも云うべき天辻峠に堅陣を築いた。京の急変を知らぬ間にと、十五〜五十歳までの郷士を強制召集した。僅か一日で天辻峠に参集した兵は千二百に達したから勇み立って
「坐して待つより、勢いに乗じて高取城を攻略して本城とし、持久戦に持込まん」
 と決めた。八月二十五日の朝早く、徹夜で五十粁の山路を駆けつけてきた郷士達を、一睡もさせず五条に急行軍させた。
 いかに健脚の十津川兵でも五条に着いたのは夕刻で、折から
「郡山兵が御所に現れた」
 との報に、再び行軍を続け、重坂峠に着いたのは夜半で、もはや体力の限界であった。
 然るに中山忠光はここで大きな失敗を侵してしまう。軍師・安積五郎(*4)が
「行軍六里を過ぎれば戦わないのが鉄則である。我々は既に八里を越えている。敵情も不明のまま闇雲に攻めず、今夜は兵を休め明朝敵情をさぐり、御所攻撃に向った吉村隊とも連絡を取った上で攻撃すべし」
 と説き、松本ら二総裁もそれに賛成している。しかし、彼は敢えて即時夜襲を命じ、
「高取兵は僅か二五〇名、我らの五分の一に過ぎぬ、鎧袖一触じゃ」
 と豪語した。ろくに敵情も探らず、八月二十六日の明方に、高取城下に迫った天誅組は菊紋の旗をなびかせつつ、二列縦隊のまま押し進んだと云うから正に“飛んで火に入る夏の虫”である。
 鳥ガ峰には、高取一番隊に郷民兵数百が、家康が大坂城攻略に用いた巨砲四門を構えて待ち受けていた。彼らが一斉に鯨波を轟かせて猛射したから、訓練不足の十津川兵が忽ち総崩れとなったのは当然であった。
 戦死十三、生捕り五十余人、木砲六門、槍刀、多数を分捕られ、算を乱して故郷に逃走した。中には京の御所警備隊にかけこんだ者もいて、精強で知られた二百の現役親兵は始めて郷里の情勢を聞き、切歯扼腕したようだ。

(*1)こうめいてんのう(1831〜1867)。121代天皇。119代・光格天皇の第六皇子である120代・仁孝天皇の第四皇子。
(*2)Chap4暁闇の巻 -天誅組秘聞-4.1序曲を参照。
(*3)他は、白川郷(岐阜県)、祖谷(徳島県)、椎葉(宮崎県)か。
(*4)安積五郎(1828〜1864)。江戸生まれ。幼少の頃、痘瘡を病み右目を失明、11歳のとき商家に奉公したが、間もなく家に帰って売卜(報酬を得て、占いをすること)を学び、のち剣術をも志す。15歳の時、幕府医官塩田順庵に従って勉学、同時に北辰一刀流・千葉周作について剣術を学び、ついに売卜業の家業を捨てて、江畑五郎なるものと共に下谷御徒町に漢学塾を開いた。▽安政6年(1859)、千葉道場の同門・清河八郎と出会い、尊王攘夷論に強い感銘を受け志を同じくする。商家出の安積は境遇も似ており、清河八郎にとって安積は弟のような存在だったのかもしれない。▽安積は当然のように「虎尾の会(*4-1)」の一員となり尊攘を唱えていたが、同志・伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助らによるヒュースケン殺害事件後、清河塾に対する監視が厳しくなり、清河八郎とともに逃走。長い逃亡生活が始まる。▽清河八郎暗殺後、その意志を受け継ぎつつ、天誅組の義挙に参加。旗奉行として十津川・坂本に戦い、清河八郎の幼少の師・藤本鉄石らとしばしば奇策をもって敵を破ったが、9月25日、丹波で津藩兵に捕えられる。この闘いで「虎尾の会」の多くの同志が死ぬ。翌年元治元年(1864)7月、京都の六角の獄中で処刑。享年37歳。
(http://www.navishonai.jp/hachiro/jinbutu/hito1_asaka.html)
(*4-1)安政7/万延元年(1860)、お玉ヶ池塾に尊攘派が集まるようになり、「虎尾の会」結成。メンバーは山岡鉄太郎、松岡万、池田徳太郎、美玉三平、村上俊五郎、薩摩藩士樋渡八兵衛・益満新八・伊牟田尚平ら。この年の12/15、虎尾の会の益満新八・伊牟田尚平・樋渡八兵衛、通訳ヒュースケンを斬殺。


(5)吉村寅太郎、負傷する
 いっぽう御所に進撃した吉村寅太郎は、めざす郡山兵の影も見えず、手ぶらで帰る途中の三在村で敗走する本隊と出会った。思わず忠光の馬の轡を握りしめ
「緒戦でこんな不態な敗け戦をして天下の物笑いとなるは必定。公はこれを何と考えて居られるか!」
 と怒鳴りつけたと云う。一言もなく五条に帰る忠光を見送った吉村は
「何とかこの仇を討たねば」
 と、その夜に決死隊を編成して城下に迫り、敵の軍監(*1)を落馬させて討取らんとした時、運悪くも慌てた十津川兵の弾を腹と股に受けてしまう。さすが不屈の彼も遂に夜襲を断念せざるを得なかった。傷心の身を山駕籠に託して五条に帰ったのは八月二十七日の夜だった。
 処が桜井寺本営に待っていたのは軍師・安積五郎と水郡善之祐ら河内隊のみで、忠光はいち早く天辻本陣に逃げ帰ったと云う。
 吉村は
「宮中第一の剛気と聞いてはいても所詮は公卿か」
 と失望しながらも、四辺から続々と迫ってくる追討の幕軍に、ここで防ぐのは危ういと翌日の早暁、四十人の残兵を率いて五条を立った。半時後には紀州兵六百が姿を見せ、正に危機一髪であった。

(*1)ぐんかん。戦国時代用語。戦場で軍の進退などを監督する役目またはその人。軍目付(いくさめつけ)、軍奉行(いくさぶぎょう)とも言う。

(6)吉村寅太郎、敢えて天辻峠に止まる
 吉村が、傷の痛みに耐えながら天辻本陣に着いたのはもう夕刻で、忠光は二総裁(*1)を引連れて四里も先の長殿(*2)に本陣を移したと云う。
「亦してもじゃじゃ馬公の独断か、一戦も交えず万夫不当の堅陣を捨てられるか」
 と激怒した吉村は軍令を無視して水郡隊と共に断呼居残った。これは“軍中の将、時に君命に従わざる事あり”との信念からであろう。
 天誅組の軍令は国学の大家と云われた松本奎堂(*3)の起草で
「軍令は厳ならざれば、一軍の勝敗にかかわる。忠孝の本義にいささかも違背あるべからず。もし反したる者は軍中の刑法、歩を移さずと云うことかねて心得申すべし。」
 から始まって微に入り細をうがち、やがて
「一心公平無私。土地を得て天朝に帰し、功あらば神徳に属して私することあるべからず。将もしこの儀に違わば皇祖大神の冥罰を蒙り、兵この儀に違わば凶徒に異ならず、忽ち天誅神罰を行わん。ここに皇祖大神宮に誓い総軍将士に告ぐ。」
 で結ぶ正に秋霜厳烈の趣があった。
 吉村はその事を熟知していた上で、敢えて天辻に止まったのは、心中一点の私心も無かったからだ。
(*1)天誅組三総裁は、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂。
(*2)和歌山県十津川村。奈良県五條市より十津川村への入口。
(*3)まつもと けいどう(1832〜1863)。幕末の志士。奎堂は号。▽三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わる。▽孝明天皇の大和行幸の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵。吉村寅太郎(土佐脱藩)、藤本鉄石(岡山脱藩)とともに三総裁の一人となるが、八月十八日の政変で大和行幸は中止。孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死。


(7)中山忠光、新宮へ行けず
 そして忠光も若気の拙劣はあっても臆病風などの私心からではない。高取の壊走が敵の巨砲の凄しさと味方の木砲の不発や性能不足から生じたのを見て
「無駄な消耗を続けるより、余力を残して一気に熊野新宮に突進し、海路長州をめざし捲土重来を期した」からに違いない。
 八月末の時点で、熊野の首府とも云うべき新宮丹鶴城の情勢を見れば、後の長州戦で連戦連勝「鬼水野」と恐れられた剛強・水野忠幹(*1)以下の精鋭六百は在京中であった。老公忠央(*2)の下には老幼兵二百に満たず、城下は大騒動となる。年二十両で兵を募めたが、中々集まらず、四苦八苦していた。もし川舟を徴発して一気に新宮港を突けば、恐らく成功していただろう。
 そして長殿の長泉寺に本陣を置いた忠光が藤本鉄石(*3)の参同を得て
「即時、新宮へ進発」
 の軍令を発したのは八月三十日の朝で、その日は風屋の福寿院に本陣を移し、吉村らが到着するのを待って滞陣。
 その日『南山踏雲録』の筆者・伴林光平(*4)らは、忠光の命で、急ぎ下立(折立)に急行して新宮への舟便を確保すべく懸命となったらしい。
 その日の日誌に

●武士の 我もと云いて 問い来るは 折立村の あればなりけり。

 と詠じているが、折立の渡船場で船頭達から
「水野老公の厳命で丹鶴城の水ノ手口を始め乙基、桧杖、浅里、請川の渡船場には水野駿馬を始めとする警備隊が配置され、軍奉行の瀬田貫三郎が日々きびしく巡回して守りを固めている。」
 との情報を手に入れ、急ぎ立帰って忠光に報じたのは九月一日である。それを聞いた忠光はガックリきたらしく、別室に籠って出てこなかったと云う。

(*1)みずの ただもと(1838〜1902)。紀伊新宮藩の第10代当主(紀伊藩附家老、大名としては初代藩主)。第9代当主・水野忠央の長男。
(*2)みずの ただなか(1814〜1865)。紀伊新宮藩の第9代当主(幕藩体制下では藩主として認められておらず、紀州藩の付家老だった)。第8代当主・水野忠啓の長男。号は丹鶴、鶴峯。
(*3)ふじもとてっせき(1816〜1863)。幕末の志士。絵師であり画号が多い。鉄石斎が最もよく知られる。▽岡山藩を脱藩。諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪士と交わり志士活動を行う。天誅組三総裁の一人となるが、幕府軍の討伐を受け、天誅組は壊滅。藤本も戦死。
(*4)ともばやしみつひら(1813〜1864)。幕末の国学者、歌人、勤王志士。▽志紀郡林村(現:藤井寺市林)浄土真宗尊光寺に父 賢静・母 原田氏の次男として生まれ、各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。▽1845年、八尾の教恩寺の住職となり、多くの門人に国学・歌道の教育を行うが、1861年出奔、勤王志士として活動。▽1863年、天誅組の変が起こると、五條に駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。義挙失敗の後、捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した「南山踏雲録(なんざんしゅううんろく、なんざんとううんろく)」を書き、翌年2月、京都で斬首処刑。京都六角の獄舎に移されたとき、生野の変で囚われた平野国臣と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。1891年9月靖国神社合祀、12月従四位追贈。



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