Chap 4  暁闇の巻 -天誅組秘聞-

4.1 序曲

(1)浜口儀兵衛、国防を誓う
 泰平の世を謳歌する徳川幕府も十九世紀に近づく寛政元年(一七八九)五月。
 新宮丹鶴城下では、突如、亜米利加船が入港してきて大騒ぎとなっている。
 かねて我が北辺に出没し、通商を求めていたロシヤが、突然エトロフ島に上陸して来たのは寛政九年(一七九七)である。それを知った幕府は、書院番頭・松平忠明を北辺鎮護取締役に任じ、近藤守重らは直ちに現地に急行した。エトロフ島に大日本恵土呂府の標柱を建立したのが、今から二百年前の事である。
 そして十九世紀半ばの嘉永年間に入ると、紀州沿岸の村々に何処からともなく
「米国が鎖国を解かせる為に東インド艦隊を派遣する事に決した」
 との噂が流れて世上は騒然となった。
 有田郡広村の浜口儀兵衛(*1)が崇義園を結成し、八幡社の神前で
「今日、わが氏神の社前に於て、正義勇猛の有志を集め盟約を誓うは、決して物好で戦を好むに非ず。近年外国船の渡来が甚しくなりしは、我国を奪わんとの本心にて、若し国土を聊かでも盗られては、正に日本の大恥なりと痛感する余りにて、天子様もそれを心配され、幕府に国防の固めを勅し、七社七寺に外患排除の祈祷を命ぜられ賜うた。
 よって我ら日本に生をうけたる者は、心を一つにして神国を守り抜き、忠孝の道を全うせん事を固く誓い、万が一の場合は村を死守し、老幼男女を一人たりとも傷つけぬ決意にて、めいめい鉄砲を習い、棒術を練り、きっと一かどの用に立ち、我国民の優秀さを異人に振輝せん事を誓う。」
 との誓約文を献じてその意気を示している。
 これは浜口に限らず、庄屋ら当時の村指導者の偽らぬ本音である。浜口が後に襲来した安政の大津波に自田の稲村を焼いて村民に急を知らせ、ラデカフォーン(*2)がその義人ぶりをひろく世に紹介した人物である事は云う迄もない。

(*1)濱口梧陵(はまぐちごりょう)。1820〜1885。紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)当主。第7代浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火(中井常蔵)』のモデルとしても知られる。
(*2)ラフカディオ・ハーン。小泉八雲(こいずみやくも)。1850〜1904。新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。儀兵衛を主人公に仕立てた『A LivingGod(生ける神)』という名の短編がある。


(2)開国と井戸一族
 嘉永六年(一八五三)初夏、
「英国はアジヤ各地で次々に軍事拠点を手に入れている。我国も早く太平洋上の諸島に強力な拠点を手に入れるべきだ。未開の野蛮国には武力で脅すのが一番じゃ思い切りやれ!」
 と政府の指令を受けた米国海軍きっての鷹派であるペリー提督(*1)が四隻の軍艦を連ねて浦賀沖に怪異な姿を見せた。大統領の国書を提示して開国を要求し、攘夷か開国かで、国中は蜂ノ巣を突ついた騒ぎとなった。
 そして時の浦賀奉行が、井戸良弘の次男・治秀の嫡流である石見守・弘道である。日夜奔走し続ける中に、折悪しく将軍家慶(*2)が病没したので、回答は明年と云う事でどうにか退散させている。
 続いて日米和親条約調印に当たったのが、江戸町奉行で名奉行と云われた本家の対馬守・井戸覚弘であったのを知る人は少ない。
 安政元年(一八五四)早々ペリーが再航し、交渉奉行を命ぜられた井戸覚弘は応接に苦労しながら奔走したものの、軍艦七隻の威力に幕府はやむなく和親条約を調印した。三百年近い鎖国泰平の夢は破れ、日本は否応なしに白人列強の貪欲な牙の前にさらされることになった。
 それを聞いて「遅れじ」と、下田に駈せつけたロシヤ極東艦隊のプチャーチン(*3)は、大津波に襲われて乗艦が大破沈没すると云う憂目に逢った。それを知った攘夷論者達は
「見ろ!神風が吹いたぞ」
 と大いに快哉を叫んだ。
 しかし、覚弘が如何に苦斗しようと開国以外に日本の道はなく、ペリーは『日本遠征記』の中で
「井戸対馬守殿は五十年配の背も高く肥った威厳のある人物であった。」
 と、記している。
 覚弘は、後には大目付と云う大名格の地位に就いているが、熊野や大和に散在する井戸一族は知る由もなかった。
 そして安政四年の秋、米国領事ハリス(*4)が江戸城で、将軍家定(*5)に謁見して大統領国書を捧呈した。ハリスは、将軍が全くの人形で、京には“天皇”と呼ばれる君主のいる事を知り、開国論者の老中・堀田正睦(*6)に、世界の大勢や阿片戦争の現状を語った。急ぎ通商条約を結ぶのが救国の道であると力説するうち、時代は安政の大獄の年に突入する。

(*1)マシュー・カルブレース・ペリー。1794〜1858。アメリカ海軍軍人。艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させた。
(*2)とくがわいえよし。1793〜1853。江戸幕府12代将軍。水野忠邦に天保の改革を行わせたり、高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧したりした(蛮社の獄)。
(*3)エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン。1803〜1883。ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、文部大臣。
(*4)タウンゼント・ハリス。1804〜1878。アメリカ合衆国の外交官。妻子はなく、生涯独身。日本の江戸時代後期に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結した。
(*5)とくがわいえさだ。1824〜1858。江戸幕府13代将軍。幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。一説には、脳性麻痺であったとされる。
(*6)ほった まさよし。1810〜1864。下総佐倉藩の第5代藩主。孝明天皇から日米修好通商条約調印の許可を得ようとするが失敗。


(3)十津川の歴史
 ここで改めて十津川郷の辿った悠遠の歴史を回顧して見よう。熊野神邑に入られた建国の英雄・神武大帝が長大な川の流れを見て
「ああ、遠つ川や」
 と嘆じられたのがその名の由来と云われる。神武大帝は八咫烏の案内で霊峯玉置山に十種の玉を献じて神助を乞い、やがて大和橿原ノ宮で初代天皇となられた。
 八咫烏族が鴨氏と称し親衛隊となったのを始め、この里人は代々御所警備役となり、天武天皇の壬申ノ乱(*1)の大功によって永代無税を許されている。
 以来、代々尊皇心の厚いことで聞え、元弘ノ乱(*2)よりは南朝の中心地となり北朝方の足利幕府でさえ赦免地の伝統を守った程で豊臣、徳川の世となってもその特権は変らず、里唄にも

●トンと十津川 御赦免どころ 年貢いらずの 作り取り。

 と歌われている程、他領より豊かに暮らせる村里であった。其代り「いざ、鎌倉!」の場合は直ちに千余の精強な筋目の郷士が参戦する習わしである。彼らはいずれも黒木の巨木で建てた城のような邸に住み、床ノ間には手入れも充分な槍、鉄砲の武具が物々しく飾られ、まるで南北朝時代そのままの面影を止めていた。
 徳川幕府の領下となっていた当時の十津川は上、下二村で千石と検地され、玉置、西川郷と共に徳川天領地とされる。玉置山明花院を筆頭とする四十五人の筋目の郷士に八十石の扶持を与え、筏師と山手銀と呼ぶ山林税を奈良奉行が管理した。木材、食糧、雑品などの運搬人夫を課してはいても、その税は遙かに軽く、羨ましがられていた。
 更にその奈良奉行が、元筒井の家老職だった中坊左近で、井戸家とも昔からの親しい間柄だけに何かと便利だったろう。

(*1)Chap 1上代の巻1.1 天皇は神にしませば、を参照。
(*2)Chap 3南北朝の巻3.1 元弘の乱を参照。


(4)文久三年〜長州と薩摩、外国と戦争する〜
 黒船来航の嘉永六年(一八五三)以来、十津川郷にも「由緒復古」と称された尊皇攘夷運動が渦まいて、文久三年(一八六三)六月には中川宮(*1)から郷士の宮中衛士が認められ
「往古より勤皇の志厚き汝らの誠忠に、帝も大いに喜ばれ、支度金三百両を下賜され、御所駐在者には玄米五百石を当座の食糧とし、洛中菊入り提灯の使用を許す。」
 との令旨が届いたから全郷がわき立った。
 折から将軍家茂(*2)が上洛して、四月には岩清水八幡宮に攘夷祈願をされ、五月十日を攘夷決行の日と定められた。
 そして「待ってました!」とばかり長州は領民を総動員して

●尊皇攘夷と聞くからにや 女ながらも国の為、まさかの時には 締襷(しめたすき)。

 と日夜兼行で台場の完工を急ぎ、五月十日となると馬関海峡で米、蘭船に撃ちかかる。朝廷では伊勢、紀州の藩主を呼んで
「伊勢神宮、熊野三山の警備を固め国辱を招くな」
 と勅書を下すと云う、正に戦時体勢となった。
 六月に入ると英仏艦隊が馬関を襲って忽ち長州勢を完敗させる。七月には新鋭の英艦隊が鹿児島湾に突入してアームストロング砲の威力を見せ、全砲台を壊滅させ、勇猛を誇る薩摩隼人の舌をまかせた。

(*1)久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)。1824〜1891。幕末から明治時代初期の皇族。孝明天皇の父・仁孝天皇の猶子。通称、中川宮。公武合体派の領袖であり、長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われた。
(*2)とくがわ いえもち。1846〜1866。江戸幕府14代将軍。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主。井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で将軍就任。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われる。


(5)文久三年〜天誅組の挙兵〜
 八月十三日には親兵総督・三条実美(*1)ら尊攘派の公卿は真木和泉(*2)、平野国臣(*3)らの提案による伊勢行幸計画、
「攘夷祈願の為に大和に行幸して、神武天皇陵に参拝して軍議を開き、伊勢神宮に詣でてから、各藩は全員供奉せよ」
 と発表した。
 この報を聞いた尊攘派の志士達は
「討幕の時節到来!」
 と狂喜し、我こそその先駆たらんと、一群の浪士らが秘そかに京を発して大和をめざした。
 皇太子・祐宮(*4)の遊び相手として十二歳で従五位下、侍従を命じられた中山忠光(*5)を主将と仰ぐ天誅組の挙兵である。これほど維新夜明け前の大和、伊賀、熊野の人々を驚愕させたものはなく、この地に住む人々には忘れてはならぬ歴史的事件である。その状況については既に『明治維新の熊野』で述べたから、今回は緒戦と天川辻の激斗、そして惨烈の終焉にポイントを置き、坂本龍馬(*6)、中岡慎太郎(*7)と並ぶ吉村寅太郎(*8)の死態に迫って本巻の結びとしよう。

(*1)さんじょうさねとみ。1837〜1891。公卿、政治家。最後の太政大臣。藤原北家閑院流の嫡流。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。「梨堂」と号す。
(*2)真木保臣(まきやすおみ)1813〜1864。久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。真木和泉として有名。尊攘派を形而上下にわたり、先達として指導した。
(*3)ひらのくにおみ。1828〜1864。福岡藩士、志士。攘夷派志士として奔走。寺田屋事件で失敗し投獄。大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。天誅組の挙兵に呼応して但馬国生野で挙兵するが失敗。禁門の変の際、獄舎で殺害された。
(*4)さちのみや。のちの明治天皇。
(*5)なかやまただみつ。1845〜1864。公卿。権大納言中山忠能の七男。明治天皇の叔父(明治天皇の生母・中山慶子は、忠光の同母姉)。八月十八日の政変後、長州潜居中に暗殺された。
(*6)さかもとりょうま。1836〜1867。幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。国民的人気を誇っている。
(*7)なかおかしんたろう。1838〜1867。志士(活動家)。陸援隊隊長。名は始め光次、後、道正。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。贈正四位(1891年)。
(*8)よしむらとらたろう。1837〜1863。幕末の土佐藩出身の志士。土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩。寺田屋事件で捕縛され、土佐で投獄。釈放後、中山忠光を擁立して天誅組を組織。大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変し、戦死。



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