Chap 3  徳川の巻

3.4 黄金城戦記

3.4.4 浪花つゝ井筒

(1)井戸泰弘
 元和元年(一六一五)五月七日の午後、豊太閤が一代の智略をふり絞って築き上げた豪華たる黄金城が、僅か一日の戦いで、天をも焦がさんばかりの業火に包まれて炎上した。
 その頃、井戸泰弘と恒吉らは、生駒連峰の暗峠の山中で茫然とそれを眺めていた。
 この年の正月早々、和睦が成立したのを聞き、父(里夕斉・井戸良弘)の三年忌を営むべく大和にやってきた泰弘であるが、思いがけず戦雲は再び急を告げた。帰るに帰れなくなった泰弘は
「よし。この機会に、父の云った戦いの非情さを、この目で確かめて見よう」
 と思い立ち、大和一円から京、大坂まで足を伸ばし、克明に記録に止めている。
 そして父が若き日を過した郡山城が大坂方に奪われたのを見て、坐視する気になれず、筒井定慶(*1)の要請に応じて剣をとったり、決戦の有様を一目見んとこの山頂まで足をのばしたりしたのである。
「何と云っても天下の大城だ。三日や五日で落ちる訳はない」
 と、郎党の井戸野笹之助に七日分の食糧を持たせてやって来た。
 だが、五月八日には早くも天守閣は影もなく
「秀頼公自刃!」
 の悲報が流れた。それで泰弘らは山を降りる。

(*1)筒井定次と不仲だった福住一族。筒井定次は筒井順慶の養子。冬の陣後、父子共に自刃を命ぜられたことは、Chap 3徳川の巻3.4 黄金城戦記3.4.2 夏ノ陣の激斗を参照。

(2)落人狩
 泰弘らが、京、伏見街道に出ると、容赦ない落人狩が始まっていた。日に百人近い大坂方が片っ端から首をはねられて目を覆う惨情である。
 筒井定次の遺臣や、古田織部方に参じた悲運の人々が処刑された日、泰弘はその状況を確かめに行っている。
 上野城下では、裸馬に乗せられながら、胸をはり、毅然たる意気を示している夫を見た妻が、さすがに胸をつまらせ
「お前様は、まあ、千石取り等と云う阿呆な話にのせられて」
 と嘆くと、その夫は
「黙れ!怨を呑んで腹を切られた殿の仇を取ろうとしたわしの気持が判らんかい。二十六日の夜、大雨が降らなんだら、長年貧乏暮しのお前も千石取りの奥方様になれたんじゃ」
 と、最後の夫婦げんかを演じて磔柱に上った姿を見せられた。
 京の六条河原では、家老・木村以下三十余人が、いずれも武士らしい最後をかざって散った。それに比べて群衆の中に交った遺族らしき女、子供の嘆く様は見るに忍びないものがあり、泰弘は“すまじきものは宮仕え”を痛感した。
 父が
「覇者に仕えれば否応なく覇道を歩まねばならぬぞ」
 と残した言葉を思い出したようである。

(3)筒井兄弟と古田織部、自刃す
 悲劇は大阪城の敗者のみではない。
 郡山城で死守を叫んだ弟を圧さえて福住城に落ち、筒井定慶は漸く将兵数百を集めた。再び斗志に燃え「いざ奪回!」に向う途中で、天下の名城で知られた大坂城が僅か二日で落ちたのを知らされる。弟宛に
「そなたの云う通りにすれば良かった。責は一切わしにある」
 との遺書を残して筒井定慶は自刃した。それを知った弟も
「罪は同じぞ」
 と跡を追い、哀れ筒井家は再び断絶している。
 伏見街道を埋めた一万八千の晒し首の凄しい光景。僅か八つの秀頼の子・国松を情容赦もなく処刑する地獄の鬼さながらの姿。泰弘はそれらを見ては
「もうこんな処にはいたくない」
 と望郷の念にかられて
「帰りなんいざ故園まさに荒れんとす」
 と大和を発ったのは六月だった。折しも巷では父の知友の一人であった古田織部が取調べに対し
「云いたき事もあれど、弁解じみて潔からず。腹など切ろう」
 と悠々と自刃した話が流れていた。
 徳川の流れに任せて居れば、千ノ利休一番弟子の茶人大名として浮世を渡ることもできたろうに、義を貫かんとして、身を亡した哀れさを、泉下の父・里夕斉はどう見ていたろう。泰弘はこう思いながら、蝉しぐれも爽やかな吉野の山路を辿った。

(4)木村重成 〜浪花つゝ井筒〜
 それにしても東西三十万の両軍の中で花と賛えられた木村重成の颯爽たる生き様に、人々は胸を打たれたようだ。
 冬の陣の和睦の為に赴いた局の侍女に化けて行ったが、誰一人男と気づかなかった美丈夫である。見事に調印の大役を果しその凛々しさに一目惚れした淀君付きの青柳と云う十七の乙女が恋い焦がれて病となった。切ない相聞歌を交した末に、めでたく夫婦となったのが、冬ノ陣の和睦後であったと云う。
 夢のような日々も束の間、夏ノ陣となって夫の出陣が迫るや、別れの悲しみに堪えかねた彼女は自から命を断たんとした。
 それを知った重成は
「腹の子が生まれるまでは」
 と強く望み、江州馬淵の里の実家に帰し、やがて重成は若江の戦いで散華する。
 妻は懸命に夫の遺命のままに生き抜いて、男の子を産むと尼となり、夫の一周忌もすませた後に里親に子を託し、

●恋わびて 絶ゆる命は さもあらば さても哀れと 云う人もがな

 を辞世の句として夫の跡を追ったと云う。

(5)ねね
 泰弘は、巷に流れる哀切のエピソードを聞きながら、関ヶ原の際の、ねね(秀吉の正室)の態度について父・里夕斉が次のように言っていたことを思い出した。
「ねね殿は、云うならば、秀吉の“つゝ井筒の君”であり、光秀公の妻・ひろ殿も同じような幼馴染の方であった。
 然るに明智殿は君子人であったのに、秀吉は女狂いで十六人の妾を抱えながら女漁りを止めなかった。だから貞節な彼女も愛想をつかしたのだろう。
 やがては“尼将軍”と云われた頼朝の政子のように、子を見殺しにして実家の繁栄だけを大事にし、豊家は武運つきて亡ぶかも知らぬ。
 泰弘よ、それが仏の云う『因果応報の理』であることを胸に刻み、わが家の由来する、“つゝ井筒の心”を忘れまいぞ」
 このように強く誡しめていた事を思い出し、郎党の井戸野と語らいながら、伯母峯峠を越えて、泰弘は北山領に入った。

(6)紀伊、熊野、吉野の豊臣党の再決起
 夏の陣の悲劇から早二カ月、修験の霊場である前鬼の宿に通ずる川合の里には平和の光は尚遠く警備の兵達の目も厳しい。しかし、泰弘には秀長公以来の地士認可状がある。
 それに今回は旅立ちに際して二条城に兄達を訪ねて別れを告げた時、板倉所司代からの特別証を貰っていたから街道の通行も自由だった。しかし、池原、浦向に入るや村々の様子は悲惨を極めていたようだ。
 と云うのは、次のような事情がある。ここで一ヶ月ほど時間を遡る。
 さて、夏ノ陣の始まった四月末、西軍の郡山攻略を知った紀伊、熊野、吉野の豊臣党は再び一斉に決起した。
 若山城攻撃に向ったのは山口兵内、兵吉兄弟で、樫井での緒戦後、さらに日高、有田、名草郡内の浅野の苛政に不満を持つ郷士山伏達に広く呼びかけ、その総勢は二千に達した。
 北山方面では、竹原新四郎が大坂城から鉄砲隊を率いて馳せつけた。また、平谷の弓の名人で知られた福井三介勢と合流した神川村の堀内大学、西山郷長尾の西村惣右衛門、五味某、花知の長命寺住職、入鹿大栗栖の光明寺住職等が棟梁となって、豊臣家に対する義を叫び、日頃から浅野の重税撤廃を求めて、再び次々に蜂起した。
 本宮一円では、山伏神職の梅ノ坊、赤坂大炊之助、池穴伊豆らが玉置山の大峯行者達と呼応した。そして、本宮大社を拠点に、広く十津川方面にまで同士を募り、浅野方の一藹職阪本、竹ノ坊一族を追放せんと計画を進めた。
 この外に、飛鳥村小坂の宇城、中村らは泊村の勘左衛門と呼応して木ノ本代官所を襲わんとして居り、一揆の火の手は、広く入鹿、北山、尾呂志郷三十余村を始め大和北山、十津川一円に飛火して正に大騒動となり始めた。
 若し大坂城が僅か数日で落ちなかったら一揆勢の主力は若山城を包囲し、別動隊は大和北山から吉野奈良に、或は十津川、高野を席捲して和泉、河内に進撃したろう。現に和泉山中には周参見安親勢が機会を待っていた。

(7)豊臣党の戦い、短期で終結す
 これに対し浅野藩では前回の一揆討伐に活躍した熊沢兵庫が二千の兵を大里京城や赤木城に配して、彼の所領である北山二千四百石の村々の防備を固めた。
 また、藩主長晟は紀伊山口に本陣を置き、若山城をめざす山口一族や小島兵吉勢を壊滅して一刻も早く大坂城に向わんとした。
 新宮城では名物家老の戸田六左衛門が控え、田辺城にも浅野左衛門佐から選ばれた豪将が領内を油断なく睨んで一揆の襲撃に備えていた。これは冬ノ陣に七千を越した浅野勢が、天王寺決戦には僅か四千で紀州街道の最後備に配されているのを見ても明らかである。
 然し一揆勢の士気を忽ち崩壊させたのは「五月八日大坂城落城、秀頼公自害」の思いがけぬ悲報であった。折しも朝霧で有名な風伝峠の砦で機会を狙っていた浅野勢は勢い立って総攻撃を敢行する。それと共に逆徒の誅滅に多額の恩賞を約したので戦いは短期で終結した。新宮藩も六月十日には
「熊野にて去年ならびに当年一揆を催せる左の者共、只今悉く成敗を申しつけ候也」
 と布告している。
 それによれば平谷の福井三介は、北山池原に潜伏中を捕らえられ、木の本、北山街道の分岐点で梟首、家族六人も磔となった。
 堀内大学は、行方不明の為に母と子が代りに捕われた。
 竹原新四郎は、大坂落城後に帰り山中に潜んでいる処を捕えられた。
 彼らを始め、総勢三百六十余人が鵜殿川原で悉く斬首された。
 本宮の梅の坊らは、挙兵直前に竹の坊に密告されて捕ったが、神職のお陰で追放。土地財産は、約束通り竹の坊に与えられた。
 花知長命寺、大栗栖光明寺、色川慶福寺の住職達は、僧職とは云え罪浅からず、と斬罪。
 若山を襲った山口らも五百名近くが処刑された。
 北山一円は、旗本高力忠房勢が厳しい残党捜索を行い、その犠牲者を加えれば大変な数に達し、時の大津奉行で民情視察を行った小野宗左衛門の記録では
「北山村などは全村人影も見えぬ有様で、さすがお上を笠に着る代官も、余りの窮状を見兼ねて、各地に逃亡していた良民の中から百人を杣役に任じて、生計の立直しに尽力した。浅野藩でも、木ノ本山奥の猟師百姓から鉄砲二十人衆を編成して各々年五石を支給し、領内の治安維持に任じるなどの配慮を見せている。これは余程の事である。」
 としている。

(8)平谷−大沼を訪ねて
 大阪夏の陣から三百八十余年後の平成九年(一九九七)秋、去年に続いて紀和町の史跡を訪ねて一段と整備された赤木城から平谷の三介地蔵をめざす。
 北山連峰が美しく連なる村はずれにいかにも風霜を重ね、顔立ちも定かでない石仏が立っている。
 正しくは福本三介と呼ばれたようで夏の陣後に幕吏によって獄門台に架けられたがそれを知った浅野藩は領内平谷に住んでいた娘六人を「はたもの」にかけ耳と鼻を塩づけにして新宮に送らせている。
 鵜殿川原には熊野各地から集められた耳や鼻の他に捕らえられた三百余人、和気の庄屋西伝兵衛らは罪もないのに調べもせず磔にされているから、まさに熊野始まって以来の大惨事と云えよう。
 三介地蔵にお参りを果たして山を下り北山川を渡るとそこが冬の陣の十二月二十七日、決戦場となった百貫島で多くの名ある勇者の血が流れた。
 その上流の竹原には後南朝の義士竹原八郎の墓や小大塔宮の骨置神社が祭られており、ゆかりの花知城も立派に整備されて名所となっている。然るに力戦したであろう子孫の新四郎については何も残されてはいない。
 八郎は維新後に大名並みに贈位されているのに新四郎は何の扱いもなく一揆を起こした賊徒のままであり、大阪城の一角の豊国神社には秀吉、秀長と共に秀頼も神と仰がれているのに比べて何とも気の毒でならぬ。
 もしこの作戦が成功すれば朝廷のめざす王道政治が蘇り、熊野三山の神領も昔どおり豊かになり「万民の幸福と長寿」を恵む大神への信仰は一段と高まる。ひどい年貢も半減して竹原や北山党の人々は「良き領主様」と親しまれ、やがては「世直し明神」と仰がれて現在も長く祭り続けられているに違いない。そう思いつくと「このままでは数百の義士らの魂も成仏できない」と痛感し、佐古氏や哲宗さんとも相談して「ささやかな慰霊祭でも挙げよう」と云う事になった。
 それにしても哀れを極めたのは熊野の里人らで、敗れたが故に浅野の決めた三十九万石の重い年貢高が次の紀州徳川家に受け継がれて、明治維新までの数百年間を搾り取られ続け、里人の生活を豊かにする目はなかったのが気の毒でならない。
 帰りは、出征前に芋の葉入りの粥腹で汗水たらして働いていた「大勝コバルト鉱山」跡に誕生した奥瀞温泉に投じたが、せっかく風光明媚な山のいで湯に浸かりつつも、
「正義の軍は敗れるのが世の常とは云え、夏の陣で行朝の作戦が成功したら、この地は正に桃源郷となっていたろうにナア」
 と、しきりに溜息が出た。

(9)井戸泰弘のその後
 泰弘らは、父と親交の深かった竹原一族の悲劇を見るに忍びず、乏しい財中をはたいている。これは前述した通り、旅立ちに際して二条城に兄を訪ねた際、板倉所司代からの特別興行証を貰っていたからできたことである。これが無ければ残党の一味とされたかも知れない。
 大峯から玉置山に連なる台高山脈に真白な入道雲の沸き立っていた七月、泰弘らは、漸くにして、幸い戦火を免れた我家に帰った。一族揃って祝盃を挙げることができたのは何よりも嬉しかったろう。
 かくして再び山野に自生する薬草から各種の漢方薬を作り、熊、猪、鹿、猿、狼などを狩って、特効薬を製造する。そして各地に販売して生計を営むと云う泰弘の日々が始まる。
 古来から、熊野は落人の極楽と云われる。それだけに、この大戦の後も、本宮一円には堀内一族、尾鷲方面には真田一族が、尾呂志には阪本一族が住みついた。専ら得意とする猟で暮らしていたらしいから、泰弘にすれば、結構商売になったばかりでなく、多くの友を得て、晩年まで心豊かな日々を送れたようだ。

(10)新宮行朝のその後
 そして泰弘が兄とも頼んだ新宮行朝はどうなったか。天王寺口から引揚げて二ノ丸の防衛に懸命となったものの、何と云っても裸城だけに八方から迫られてはどうにもならなかった。乱軍の中を突破して、河内の五条に住む知友の宅に潜んでいるうちに弾傷が悪化して立てなくなってしまった。
 領主・松倉重政の兵に捕えられ、二条城に曳かれたのが五月下旬である。それを知った浅野長晟は
「引取って極刑に処したい」
 と家康に再三願った。しかし、家康は断呼許さず、直参旗本に取立てた弟・氏久に渡して療養させた。
 傷が癒えた後に、行朝は、旗本取立ての恩命も辞退し、京都北野の里で妻と共に古田父子の菩提を弔っていた。これを知った九州人吉三万石の相良長毎が、新宮十郎以来の源氏の名家が絶えるのを惜しんだ。南北朝時代に南朝の護良親王を擁して奮戦した新宮行定の血を享けた家老・犬童頼成を行朝の養子にと切望してきた。行朝は、その爽やかな人柄を見て承諾し、共に人吉の湯の里でのどかな生涯を終えることになるのは幸運と云える。

(11)井戸家嫡流のその後
 さらに関東に移った井戸家嫡流の状況はどうかと云えば、これまた我家の春を迎えていたようだ。
 とは云え、大坂陣直後の江戸城は大騒動。何しろ徳川八万騎が諸大名の見ている前で三里もの大敗走を演じたのである。
 天王寺口で危うく命を落しかけた家康は自から訊問に当った。大久保彦左衛門が
「旗は倒れなかった」
 と必死に頑張ると、畳を高く叩いて
「この強情者!旗が倒れたのは余がこの目で見て居るわい」
 と叱りつけたと云う。
 結局、三河以来の直参旗本だった旗奉行らは領地没収の上追放される。秀忠も負けずに岡山口の取調べに当り、親衛隊全員に幹部以下全書院番の実態を投書させた。
 すると、老中土井大炊守は真先に逃げたので「逃げ大炊」、酒井忠勝は「どっちつかずの雅楽頭」と云われる。独り安藤対馬守だけは、補佐の井戸覚弘が「かかれ」と叱咤して馳せつけ、秀忠を助けたので「かかれ対馬」と評されて面目をほどこした。
 覚弘は常陸の他に下野領を加えて三千五百石。次男・治秀は五百石。直弘は書院番から大番入りとなり、後には千六百石駿河城代に立身すると、直参旗本の中でも「お殿様」と呼ばれる高級職員となり、肩で風をきって江戸の町を闊歩できる時勢となった。
 大久保彦左衛門(当時二千石)の書き残した『三河物語』には
「三河譜代の家臣として、父祖代々の戦場を駈け巡り、親も子も多く討死してしまい、家族は麦や栗、稗の粥をすすって耐え抜いてきた。
 主家は今や天下人となって日本全土を支配しているのに、我ら大久保一族は、本家が豊臣を滅亡させるのに反対して改易されたのを始めとし、まともに扱われていない。
 直参の誇りだけは高くても、百俵程度ではその体面を保つのに昔通りの貧乏暮しで、魚や田作りを商って辛うじて生きて居り、中には追放されて諸国を流れ歩いた末に餓死した者もいる。
 今の徳川家で出世しているのは、主家を裏切った者(本多正信をさす)や、計算に詳しく座持ちの上手な奴、他国から流れてきたお調子者ばかりである。」
 と腹を立てている。しかし、時代は武骨一徹な彼らより、治政の能吏が必要とされて、農政に明るく能や茶道のたしなみにも深い文武両道の井戸一族には一陽来福の思いであったようだ。

(12)家康、独裁軍事政権を完成す
 さて漸く宿望を達した家康は“欣求浄土”をめざし、六月には一国一城令を発して全国に散在する四百余の城の取潰しを命じた。
 七月になると黒衣の宰相と言われた腹心の金地院崇仏に起草させた禁中、公家、武家、寺社法度を発して徳川幕府の独裁軍事政権を完成させた。
 その大綱は、徳川氏を天下人として一切の下剋上を弾圧し「士農工商」は勿論、朝廷、公家、寺社も各々分に過ぎた行動をとらぬよう、

●人は唯、身の程を知れ 草の葉の 露も重きは 落つるものかな。

 と詠じて厳しく戒める。
 頼朝を手本とし、“絞兎死して走狗煮らる”の諺通り、命がけで尽くしてくれた武人派よりも文治派の能臣を重用し、一族功臣であっても幕府組織を乱す者は容赦なく処罰する。また、相続争いの生じぬよう、三代将軍も自ら選ぶなど、秀忠の独裁を決して許さなかった。
 日本古来の伝統である「天皇は天授であり、武力や智略で決して左右すべきものに非ず」との聖域にも遠慮会釈もなく踏み込んだ。頼朝が果せなかった“娘を皇后に入れて国父となる”策を強引に進め、秀忠の娘・和子を後水尾天皇の后に内定させる等の専横ぶりで、天下に権勢を誇った。
 秀吉が朝廷を第一とし、あくまで天皇の臣である関白として天下泰平を実現したのに比べ、家康は信長以上の覇王となり、天下を幕府の権力下に収めた。天皇の権限に残されたものは僅かに位記を与える事のみだった。

(13)家康、死す
 元和二年(一六一六)正月、豊臣氏が滅亡して半年後に、好きな鷹狩に出た家康は当時珍重された鯛の天ぷらをしこたま食べ過ぎて発病した。やがて夏ノ陣から一年後の四月半ば、信長より二廻り、秀吉より一廻り上の七十五歳までしたたかに生き延びて没した。
 家康の重病を知った朝廷では太政大臣に任じ、死後その墓を日光に移して東照大権現と号するのを許している。これはブレーンの天海や崇伝の入智恵で、伊勢の天照大神に対抗して東照神君と仰ぐものである。日頃から「身の程を知れ」を口癖とした家康の言行不一致も甚しい。
 幕府の強請にやむなく許したものの、かねがね家康の潜上を怒っていた後陽成上皇は、翌年三月、秀忠が上洛すると毅然たる態度で
「家康は一生戦いの中で過ごして来ただけに度々王道に背く行為も多かったのは朕も遺憾に思う。然し秀忠、汝は治国の将として世に出たのであるから、家康が豊臣家に対したような殺伐は二度と行わず、民に仁政をほどこし、己に過ちありと気付かば直ちに改めよ」
 と教え諭されたが、惜しくもその八月崩ぜられた。
 この史実一つを見ても、当時の朝廷が家康の非道を怒り、何とか戦火をさけて天下の泰平を計らんと苦心されていた事が察せられる。茶人大名・古田織部の挙兵に至った黒幕には朝廷の影が感じられ、当時の噂話として
「織部は伏見、二条城を焼き、細川忠興と共に天皇を擁して叡山に籠城する。秀頼は精兵三万を率いて家康、秀忠を挟み討つ。利休七哲らの大計画であった」
 と云うのは、満更嘘八百でもなかったかも知れない。


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