Chap 3  徳川の巻

3.4 黄金城戦記

3.4.3 落城 ─千姫救出─

(1)二ノ丸が落ちる
 秀頼と直率の旗本三千が一戦にも及ばず空しく本丸に引揚げて間もなく、突如として詰の丸(*1)の一角にある大台所から紅蓮の炎が捲き上った。台所頭の大住与左衛門がかねて片桐且元に内通し、混乱にまぎれて放火したのである。
 合戦前に後藤又兵衛がそれを見破り
「大住は怪しい。直ちに処分せよ」
 と治長に申し入れたのに
「いや、そんな筈はない。彼は太閤子飼の料理人で、倉の鍵などもすべて託され御用大事に精励している実直者じゃ。決して二心など抱く男では御座らん」
 と聞かなかった。
 大住は其場で斬られたが、火は強風に煽られて天を焦がす。それを見た越前勢は
「それ城が燃えるぞ!」
 と先を争って突進し、三ノ丸の柵を乗越えて、大野邸を始め、片っ端から火をつけ、略奪と暴行を働き始めた。
 天王寺、岡山口に於ける大坂方の討死は二万と云われる。それでも秀頼が率先して三ノ丸口まで出馬し、前線から引揚げて来る将兵を励まし、自から陣頭に立って防戦に努めれば、どうだったか。例え堀は浅くとも、広大な二ノ丸がこんなに早く落ちる事はなかっただろう。
 真田幸村は玉砕しても、毛利、明石ら歴戦の勇将が懸命に奮戦している。それなのに、肝心の秀頼が譜代の大野らの云うままに早々と本丸に引揚げてしまった。それがこの悲劇を招き、大手を守った新宮行朝も、勝誇る敵中に突入したまま消息を絶った。

(*1)本丸の規模がふくれ、宮殿化が進むと、戦時の司令部・最後の篭城拠点となる小曲輪(*1-1)が必要となり、本丸の中に別区分として構築された。これを詰の丸(つめのまる)・詰の城あるいは天守曲輪などと呼ぶ。
(*1-1)曲輪(くるわ)とは、それぞれの役割や機能に応じて城内で区画された小区域のこと。郭・廓の字をあてることもある。近世の城郭では本丸・二の丸のごとく、一般に「○丸」とする。

(2)堀内氏久、千姫を救う
 明石、岡部らは討死。堀田、野々村は自刃。毛利ら僅かな将士だけが辛うじて本丸に入った。
 堀内氏久(*1)も兄達と逸れ、やっと桜御門に辿りついた時、多門櫓は業火に包まれていた。柱の陰で火をさけていた老女中が
「もし!名ある将とお見うけした。妾は刑部卿ノ局じゃ、何とかこれなる御台所様を徳川の本営まで御守護賜わらぬか」
 と必死の面持で声をかけたから、氏久は驚いた。
「何と云われる。千姫様が夫・秀頼公を見捨てて独り城を落ちられる筈はない。偽りを申されるな」
 と詰問すると、局は
「いえいえ。これは大野治長殿の計らいで、何とか秀頼公の命乞いの為に参じられるのじゃ。決して我身可愛しさに落ちられるのではありませぬ」
 と懐から錦の袋に包まれたお守りを取り出した。金糸で綴った見事な葵の紋がキラリと光って見えたから
「さてこそ誠の御台所様か」
 と驚きながらも
「承知仕った。必ず無事に送り届けて進ぜよう」
 と引受けた。折から来合せた南部左門とも力を合せ、業火の下をかい潜って城外に脱出した。
 大手門を出た処で、かねて親しかった坂崎出羽守の一隊と出逢い、彼の尽力で無事に茶臼山の家康本陣に送り届ける事が出来た。諦めていた孫娘の無事な姿を見て喜んだ家康は、救出にも功労のあった堀内氏久に直参旗本五百石の恩賞を与えたばかりでなく、西軍に参加した行朝以下一族の罪をも許している。
 岡山口では最前線で力戦し、秀忠本陣を襲撃して散々な目に会わせた新宮勢である。浅野家の怨みも深く、生延びても極刑は免れなかった筈の堀内兄弟である。それが落城寸前に弟が立てた思いがけぬ功名で助かった。思いがけない幸運が舞い込んだのである。人の運と云うものは誠に不思議なものだ。
 それにしても、氏久らが、千姫を護送しながら茶臼山へ向う途中の情況は、惨憺たるものだった。勝誇った東軍は
「ここが稼ぎ時!」
 とばかりに手当り次第に首を取った。東軍は総計で一万八千の首を挙げたと云うから、兵も町人の見境もなく殺戮を重ねたようだ。
 秀忠の書院番に召された覚弘の子・良弘なども大いに奮戦して首を取り、従兵が
「とても重くて持てませぬ」
 と云うので鼻だけ切って実見に供したそうだ。これでは武士か町人かの区別がつく訳もない。

(*1)父は紀伊新宮城主・堀内氏善(*1-1)。母は九鬼嘉隆の養女。兄が新宮行朝(叔父とする説も)。江戸幕府旗本。▽1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで父氏善が西軍に属して改易。後、和歌山に入った浅野幸長に仕えるが、1614(慶長19)年からの大坂の陣では大坂城に入った。翌年の夏の陣で大坂城落城の際、知り合いだった坂崎出羽守直盛陣まで、千姫を護衛。そのため戦後、赦されて下総国内で500石を与えられ旗本に。1657(明暦3)年8月20日逝去。享年63。京都の天寧寺に葬られた。▽なお氏久の功により、同じく大坂方に属して活躍した兄行朝も赦され、藤堂高虎に仕えた。大坂方で実際の戦闘に参加した武将が、陣後に大名に召抱えられた例は非常に珍しい。(http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/toyotomi/b-horiuti-hisa.html、http://www.geocities.jp/kimkaz_labo/horiuchi.htmlなど)
(*1-1)Chap 3徳川の巻3.3 まほろばの落日を参照。


(3)秀頼、死す
 狂乱の夜が明けた翌朝のこと。
 片桐且元は、焼け落ちた本ノ丸に入って、あちこち調べていた。そして山里丸の芦田矢倉に秀頼母子が潜んでいるのを発見し、勇んで秀忠、家康に急報した。この時、一言も助命を嘆願しなかったと云うから非道い。彼が二十日ほど後に死んだのは天罰かも知れない。
 大野治長や速水(*1)は最後の望みとして千姫を返し、秀頼の助命を嘆願した。しかし泥棒に追銭で、家康父子は
「豊臣一族を断絶させて後害を除く」
 事に決めて居り、井伊や安藤に命じ、芦田矢倉に一斉射撃を加えて自決を促した。
 秀頼は毛利勝永の介錯で二十三才を一期として果てた。
 淀君や、大野治長、速水父子、真田大助や清正の家臣の子で鐘銘の責任を感じた清韓上人(*2)まで三十余人が矢倉の炎の中で生涯を終えたのは五月八日の昼であった。
 焼落ちた金蔵に金、銀五万枚(時値九百億円)がきらめいて居り、家康に奪われている。佐和山城とは大違いで、石田三成が見たら
「何と金の使い方も知らぬ愚か者!」
 と大野を叱ったろう。

(*1)速水 守久(はやみ もりひさ)。豊臣秀吉家臣。はじめ近江国浅井郡の土豪であり、浅井氏の家臣。浅井氏滅亡後に秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆として近江長浜に采地を得る。小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を努めた。平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。▽秀吉没後も秀頼によく仕え、旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となる。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大坂城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。▽大坂冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に夏の陣では天王寺の戦いで真田幸村らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍したものの、衆寡敵せず敗北。▽徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯を務め、その死に殉じた。守久の子である伝吉(出来麿)は、守久の忠節を賞されて許されたという。
(*2)文英清韓(ぶんえいせいかん)。1568〜1621。臨済宗の僧。伊勢国の出身で、俗名は中尾重忠。出家した後、文禄の役では加藤清正に従い朝鮮半島に。1600年(慶長5年)に京都東福寺の長老、その後南禅寺の長老に。漢詩文に秀で、1614年(慶長19年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。この銘文に不吉な語句があると徳川家康は因縁をつけ、大仏開眼供養の中止を求めた(方広寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、五山僧から非難されている。事態は鐘銘問題から徳川と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣の遠因に。文栄も連座し、南禅寺から追放。住坊の天得院は一時廃絶の憂き目に。文英は前述した加藤清正との関係で分かるように豊臣氏とのつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立、追放されたと思われる。蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許されたという。


(4)秀頼追悼
 ここで改めて秀吉没後の歴史を振返ってみる。
 死に際して太閤が繰返し秀頼に遺した言葉は
「朝廷を第一として、神仏を尊び、文武に励み、十五才になれば天下人となり、豊家の繁栄と万民の泰平を計らねばならぬ立場を忘れるな」
 と云う事で、淀君も常にそれを説き、戒めて来た。
 秀頼も、元来は、利家、清正、のような剛強な武将が好きで、馴れ親しんできた。そして“文”については、三宝院義演や清韓ら高僧の感化で、深い信仰心と文学詩歌を愛した。
「命を惜しまず、名を惜しみ、物の哀れを知る事こそ真の武人」
 と信じる貴公子に育っていったようだ。
 フロイス(*1)は
「長ずるにつれて智勇加わり、キリスト教に対しても理解ある態度を示した」
 と讃え、十年ぶりに秀頼と対面した家康は、その堂々たる態度に舌を巻き
「とても他人の下知など受くべき人物ではない」
 と判断したらしい。
 けれど秀頼の不幸は、何より太閤子飼の優れた人物は大名となって大坂を離れていたことだ。
 その上に、内部は、文吏、武断派で対立して、淀君と北政所(秀吉の正室)方に別れ、激しく競っていた。
 さらに秀吉にとっては“つゝ井筒の君”である正妻ねね(北政所)が、“妾憎し”の女心から、夫の遺言に背いて、実家の浅野を重く見たことである。
 それに側近を取囲んだのが、勝気で独裁的な淀君に、織田一族や片桐のような義心を欠いた臣と、忠実だが古狸家康の足元にも及ばぬ大野らの凡将揃いの為である。
 こんな連中に補佐されながらも、秀頼が
「恥辱の中で生きるよりも太閤の子として美しく亡びん」
 とする道を選んだのはさすがに秀吉の子らしい。しかし、戦さを知らぬ純情な貴公子だけに、重大な戦機に百戦錬磨の真田、後藤らの名将、軍師よりも、幼い頃から親しんで来た譜代の臣の言葉に惹かれた。主将として智・仁・信・勇、厳の五徳のうちの最も大切な勇断に欠け、機を逸し、その死場所を誤った。このことは何としても惜しい。“正義は悲劇によってこそ栄光に彩られる”ということか。
 稀代の覇王だった家康に対し、勝敗は論外として決戦を挑んだ秀頼。幼少より文筆に秀で、今も現存する利休の愛詠、

●心つけて 見ねばこそあれ 春の野の 芝生に交る 花の色々

を寫した非凡な筆跡と清純な人柄から見て
「命よりも名を重んじ、物の哀れを知って桜花のように散った一ノ谷の敦盛にも似た若大将なり」
 と信じ、新装なった錦城(*2)をふり仰ぎつつ、豊国神社(*3)に詣で、謹んでその冥福を祈るのみである。

(*1)ルイス・フロイス。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。
(*2)大阪城の別名。天守閣は、平成9年(1997)、大改修工事によって、外壁の塗り替えや装飾部品の修復、金箔の押し直しなどがなされ、白壁と金箔の輝きで彩られた美しい姿が甦った。
(*3)ほうこく神社。大阪市中央区大阪城2-1。豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長を奉祀する神社。



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