Chap 3  徳川の巻

3.4 黄金城戦記

3.4.1 冬の陣と北山党

(1)林羅山、家康の意に応ず
 慶長十七年(一六一二)夏、家康は、藤原惺窩の弟子で新進気鋭の学者林羅山を呼びつけた。
 先年と同じ問題を俎上に載せ
「予は武王が主君を討ったのは『逆取順守』であり悪でもあり善でもあると思うが、どうじゃ」
 と尋ねた。
 惺窩と比べて野心に燃え、御用学者の見本のような林は、家康の意に応じ
「私が思いますに、武王は天命に順じ、人心に応じたもので、決して悪ではなく、むしろ天下を乱す大悪人・紂王を除いた善と考えます」
 と答えている。(*1)
 それを聞いた家康は“我意を得たり”とほくそ笑んだ。以後は林を、南光坊天海、金地院崇伝ら側近の一人に加え、後に大学ノ頭に任じ、宋の朱子(*2)の学風を幕府の官学としている。
 時に家康は七十を越えて居り、京の二条城にいたが折から

●御所柿は 独り熟して 落ちにけり、木の下にいて 拾う秀頼。

 などと云う落書を見せられ、京大坂の人心が秀頼に良く、徳川を憎んでいるのを察すると、
「羅山の云うように、天命に順じ、目の黒いうちに何とか秀頼を亡して居かねば、徳川の天下が危ない」
 と痛感し、此上は手段を選ばず、戦いを挑む決意を固めた。

(*1)紀元前1100年ごろの中国は「殷」と呼ばれ、紂王(ちゅうおう)は、殷の第30代、最後の帝。辛(しん)、受(じゅ)とも呼ばれる。暴虐な政治を行なった帝王とされ、周の武王に滅ぼされた。
(*2)朱子(しゅし1130年 - 1200年)。中国の南宋代の儒学者。朱熹(しゅき)の尊称。儒教の体系化を図った儒教の中興者。「新儒教」の朱子学の創始者。▽正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧・俊?(しゅんじょう)が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多い。▽後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。▽その後は停滞。江戸時代、林羅山が、その名分論を武家政治の基礎理念として再興。江戸幕府の正学に。しかし、この朱子学の台頭により「天皇を中心とした国づくりをするべき」という尊王運動が起こり、後の倒幕〜明治維新へ繋がる。▽朱子学の思想は、近代日本にも強い影響を与え、軍部の一部では特に心酔し、二・二六事件や満州事変に、多少なりとも影響を与えたといわれる。


(2)伊賀上野の天守閣、一夜にして崩壊
 九月には伊賀上野の天守閣も出現して風雲は一段と急を増す。しかし、できたばかりの五層の天守が一夜にして崩壊し、七十人の死傷を出すと云う事件が勃発して、伊賀中を驚動させる。
 それは九月二日のことで、凄ましい黒雲と共にまき起った一陣の竜巻によって、木の香も匂う大天守閣が、もろくも崩壊したと云われるが、
「落成した日に老僧が城下に現われ『御神木を使った祟りによってやがて土風(竜巻)によって天守は必ず崩れるぞ』と予言した」
 と云う伝えもある。或は、家康の命で、藤堂高虎の手によって壊されたとの説もあり、永遠の謎となっている。

(3)家康、戦争準備
 そんな中に慶長十八年(一六一三)に入ると、幕府は公家諸法度や勅許紫衣等を定めて豊臣家に好意を持つ朝廷や貴族の権限を制限した。上皇(後陽成天皇)や後水尾天皇をひどく怒らせたのは、足利義満や織田信長と同じく、公武の上に立つ独裁的覇者をめざしたからである。
 常々『東鑑(*1)』を熟読して、源頼朝や北条幕府の政治をまねた家康だけに“天子は歌道を専らにして政治に関与させず、大名や大社寺との結びつきを禁じ、” 六波羅深題に代る京都所司代を配して監視させた。
 更に、家康はかねてより豊臣家の財力を枯渇させる為に、伊勢、熊野、男山、住吉大社の造営寄進やら亡き秀吉の供養の為の方広寺の再興を強く勧めた。何も知らぬ淀君は神仏の加護によって豊臣の繁栄を保たんとしてひたすら寄進を続けた。大仏殿の建立だけでも金十四万両、銀二万三千貫、米二十三万石を投じ、その総計を米に換算すれば三百万石と云う巨額に達している。
 その一方で、家康は、国友鍛冶やオランダ船から莫大な大砲と弾薬を購入して、戦争準備を急ぐ。また、奈良奉行・中坊左近(*2)に命じて、まさかの時には十津川郷士千余名を召して戦力を高めさせる処置をとった。
 更に、慶長十九年(一六一四)に入ると、かねて井戸覚弘から要請されていた筒井家再興の手段として、定次と不仲だった福住一族の筒井定慶、定之兄弟を郡山城代として一万石を与えた。また、二百石取の与力三十六騎を地士から選んだ。そして、豊臣方の動勢監視を命じ、大和、伊賀の風雲は一段と急を告げる。

(*1)『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代に成立した歴史書。「東鑑」とも書く。全52巻、ただし第45巻は欠落している。鎌倉時代を研究する上での基本史料である。▽源頼政の挙兵治承4年(1180年)4月に始まり、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ばに宗尊親王が帰京する文永3年(1266年)までの87年間を、日記形式で記述する(漢文)。北条氏の立場による事実の歪曲と思われる箇所がかなりあり、他の史料も合わせて参照する必要がある。▽後世の武将などにも愛読され、もと後北条氏が所蔵していた写本(北条本)が1603年、徳川家に献上された。徳川家康は欠落部分を他の大名家から集め、1605年(慶長10年)に『吾妻鏡』を木活字で刊行した(51巻、伏見版と言われる)。家康の座右の書として、幕府運営の参考にしていたという。
(*2)筒井順敬の家臣・中坊秀祐の子。中坊左近秀政。飛騨守。家康に見出されて弓持旗本から累進し、父の没後に同じく奈良奉行を勤めた。


(4)真田幸村と新宮行朝
 これを見た九度山の真田幸村は、徳川方の大坂攻略の切迫を知った。九度山近郊に散在して自活しながら命を待っている郎党達に戦さ仕度と信州各地の有志勧誘に出発させたのは慶長十九年(一六一四)五月である。
 そして再び訪れた新宮行朝(*1)から
「その作戦計画と成否の公算は如何に」
 と尋ねられ、次のように答えたと云う。
「豊臣恩顧の勇将が次々に世を去ったのは、天運が豊家を見放されたかとも思われる。日本一の巨城と云う地の利はあっても、勝気な淀殿や肚の底も判らぬ織田一門が権勢を誇る現状では、人の和は望めず、率直に云って、勝算の見込みは極めて少のうござる。
 然し秀頼公が太閤の遺孤としての誇りに燃え、滅亡も覚悟で挙兵されるなら、私もこれに応じ、義を貫いて奮戦し、真田の武略を天下に轟かせる覚悟であり、恐らく貴公もその決意と見て、肚の内を打明けた次第でござるが、如何かな。」
 と微笑んだその風貌には哲人のような威厳が溢ぎり、始めて見せる幸村の天下の軍略家ぶりには行朝は深く感動した。
「よく打明けて下された。拙者も熊野水軍の雄として広く知られた堀内家の嫡流として、東西手切れの折には、成敗、利欲を離れて大坂に入城し、亡き父・安房守の遺言通り、力の限り戦い抜き、理不尽な野望を専らにする家康父子に一矢をむくい、名を戦史に止めて散る覚悟でござる。されば共に武夫の死花を咲かし申そう。」
 と固く男の約束を交し
「開戦は今秋までには必至なれば、共に晴々しく入城致すべし」
 とカラカラと笑って別れたと行朝は記している。

(*1)Chap 3徳川の巻3.3 まほろばの落日を参照。

(5)淀君、現実の冷たさを知る
 そして慶長十九年(一六一四)七月、莫大な費用と十年の歳月を投じて、漸く方広寺大仏殿が完成し、落慶供養を待つばかりとなった。その頃、かねて家康の意向を受けた本多正信父子や南光坊天海、金地院崇伝、林羅山らのブレーン達は、度々の謀議を重ねた末に、次々と無理難題を吹っかけた。挙句の果に鐘銘に不審ありとして
「大坂城を捨てて国替するか、秀頼が江戸に詰めるか、淀君が人質として江戸に住むか、いずれかに決めよ」
 と迫る。それも家康からではなく、大坂側から申し出よ、と片桐且元(*1)に命じたのは、開戦の責任を押つける肚である。それを知った福島正則は
「このままでは大坂方が激怒して挙兵するに違いない、そして滅亡するのは必至である。何とかしなければ」
 と急使を走らせ、
「淀のお袋様が、お江戸に下られ、家康公に御対面して御詫の為に江戸に在住されるのが秀頼公の御運長久を計られる唯一の策で、さもなくば自滅の道しかない」
 という旨を訴えたが、淀君は一層腹を立てて返事もしなかった。
 秀頼も、母を人質にしてまで安泰を計るより、太閤の子として断固戦う覚悟を決め、幼い頃から深く信じてきた且元の登城を求めたが、病と称して出仕しない。やむなく追放を命じたのは九月末である。十月始めには、豊臣子飼の大名達に、入城要請の使者が一斉に飛んだ。
 然し頼みとした大名達は一人として応ずる者はなく、江戸で監禁されていた福島正則が大坂藩邸の米八万石と
「家康は城攻めが下手だから、最後まで守り抜き、太閤の名を汚されませぬよう」
 と激励の密使を送って来た。
 毛利輝元は、家臣の内藤元成を佐野道加と変名させ、米一万石、金五百枚を持参して入城させる。加藤清正の嫡男・忠広は、大船二隻に精兵を乗せて入城尽力を約した程度である。淀君は現実の冷たさに「恩知らず共!」といきりたった事だろう。

(*1)片桐 且元(かたぎり かつもと)。賤ヶ岳の七本槍の一人。近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の小領主・片桐直貞の子として生まれる。▽元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。▽天正7年(1579年)ごろ、同じ近江生まれの石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣として仕えたといわれている。天正11年(1583年)5月、信長死後に対立した織田家の柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。▽その後は前線で活躍する武将ではなく、奉行人としての後方支援などの活動が中心となる。秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、釜山(現在の釜山市)に駐在し、晋州城攻撃などに参加。文禄2年(1593年)に帰国。文禄4年(1595年)には摂津国茨木城主、慶長3年(1598年)には大坂城番となり、城詰めとなる。▽且元が与えられた所領は播磨に一万石ほどに過ぎなかったが、秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役の一人に任され、羽柴姓も与えられている。▽秀吉死後は秀頼を補佐し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、五大老筆頭の徳川家康から大和竜田に2万8千石の所領を与えられた。その後も秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力した。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こって対立が激化すると、且元は戦争を避けるために必死で家康との和平交渉に奔走したが、家康と交渉している間に大野治長や秀頼生母の淀殿から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を逐電した。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となっている。▽大坂の陣が始まると家康に味方して戦後、4万石に加増された。だが大坂夏の陣後から二十日ほどして、突如の死を遂げている。これには病死説もあれば、秀頼を救うことができなかった(且元は、大坂の陣で家康に味方する代償として、秀頼の助命を嘆願していたらしい)ことからの責任を感じて、自殺したとも言われている。死後、子の孝利が遺跡を継いだ。

(6)浪人
 それに比べて総勢十万と云われた浪人の中で五人衆と称された元大名は、
 真田幸村  (信州五万石)五十万石格扱    (兵六千着到)
 長曽我部盛親(土佐二十四万石)二十万石格   (兵五千〃)
 後藤又兵衛 (九州大隅三万石)軍監格     (兵六千〃)
 毛利勝永  (小倉城主五万石)軍監格     (兵四千五百〃)
 明石全登  (備前大股四万石キリシタン大名) (兵五千〃)
 その他に名を知られた将は塙団右衛門(*1)と新宮行朝くらいであると『山口休庵話(*2)』には記されている。
 熊野六万石の堀内家の嫡男・新宮行朝が真田に交り、秀頼の子・国松君を生んだ娘の父で鈴鹿城主の成田隼人正、大和三人衆と云われた秋山右近と三千人近い伊勢、伊賀の名ある勇士が入ったのを、山口休庵は知らなかったようだ。
 慶長十九年(一六一四)十月半ばまでに次々と大坂城に参じた将兵は九万に近かったと云い、豊臣家臣団の大野治長以下三万を加えれば、騎乗一万二千、平侍六万、雑兵五万総計十二万を算し、騎乗一名につき竹流し黄金二枚、平侍以下には永楽銭数十貫に扶持米が当座の支度金として配られた。

(*1)塙 直之(ばん なおゆき)1567〜1615。塙団右衛門の名で有名な勇将。▽出自は不明。はじめは織田信長に仕えていたらしい。普段はおとなしい性格なのが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用されなかった。秀吉にも仕えたが重用されなかった。▽後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍。嘉明に従って朝鮮出兵にも参加、その功績により350石の知行を。▽関ヶ原の戦いのとき、軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(諸説あり)。▽その後、小早川秀秋や松平忠吉、そして福島正則らに仕えたが、いずれも旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。大坂冬の陣に豊臣方として参加して活躍。翌年の大坂夏の陣で和泉国にて浅野長晟の軍勢と戦って戦死。このときの旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を天下に知らしめた。墓所は、現在の大阪府泉佐野市南中樫井(みなみなかかしい)地内、大阪府道64号和歌山貝塚線(熊野街道)沿いにある。
(*1-1)Chap3徳川の巻3.2筒井と藤堂氏3.2.1筒井と藤堂氏を参照。
(*2)『大坂陣山口休庵咄』豊臣家の臣・山口休庵が大坂方として戦った際、大坂冬の陣に於ける城兵の働きを述べた書。


(7)新宮行朝と渡辺勘兵衛
 新宮行朝が、秀頼の命で赤座、槇島の諸将と共に堺奉行所に向ったのは十月十三日である。徳川方の奉行や応援に馳せつけた片桐勢二百を敗走させ、家康の政商・今井宗薫父子を捕え、多量の武器弾薬を押収して堺を支配下に取戻した。
 然し十月末になると、秀頼から引揚の急使を受けた。早暁、部下三百を率いて堺を出発して、住吉大社あたりまで来ると街道沿いに千余の藤堂勢が陣を構えていた。
 これは藤堂きっての勇将・渡辺了(わたなべさとる)の一隊で、家康の本陣を住吉大社に設けよとの命をうけ急ぎ占領したのである。しかし、住吉大社の社殿は秀頼が寄進したものだけに、行朝は闘志に燃えた。「何のこれしき」と恐れる色もなく一気に陣前を駆け抜けつつも、心の中では「藤堂勢の中にどうか兄の氏治がいないでくれ!」と念じていたろう。
 天下三勘兵衛(*1)の一人で知られた歴戦の渡辺は、その旗差物から熊野水軍の雄として鳴らした堀内勢と見て「ソレ!」と追わんとする部下を圧さえ
「僅かな兵で悠々と我陣を駈け抜けるのは堺に伏兵を置き誘い込んで囲まんとの作戦に違いない、追ってはならぬ」
 と見送った。
 人々は「さすが殿が二万石を奮発しただけある」と感心したものの、やがて何の伏兵もなかった事が判って、他藩からは笑われ、高虎は面目玉を潰す。大野治房(大野治長の弟)も藤堂軍の住吉進出を知り、「新宮勢を見殺しには出来ぬ」と細川忠興の子・興秋、塙団右衛門ら一千を率いて天下茶屋まで馳せつけた処、行朝が一兵も損ぜず威風堂々と引揚げて来たのを見て
「さすがは熊野の豪雄・堀内氏善の嫡流だけある」
 と大いに感嘆し、その話は秀頼の耳にも達して、緒戦の志気を高めた功賞に約束通り若狭守に昇進させてその勇を讃えている。

(*1)渡辺了(わたなべさとる)。勘兵衛(かんべえ)の名で有名。▽初め浅井氏の将・阿閉貞征家臣。後に「槍の勘兵衛」と称されるように槍の名手。織田信長から直接称賛されたほど。阿閉家を辞して天正10年(1582年)ごろより羽柴秀吉に仕え、2000石で秀吉の養子・羽柴秀勝付きに。山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍。石田三成家臣の杉江勘兵衛、田中吉政家臣の辻勘兵衛と並んで「三勘兵衛」と評された。天正13年(1585年)に秀勝が没して、浪人。▽中村一氏に3000石で仕える。小田原の役で中村勢の先鋒として働き、伊豆山中城攻めにおいて一番乗り。秀吉が「捨てても一万石は取るべき」と賞賛。一氏からの恩賞(倍の6000石)に不満で、再び浪人。▽増田長盛に4000石で仕える。関ヶ原の戦いで西軍についた長盛の出陣中に、居城の郡山城を任された。戦後、既に長盛が所領を没収されて高野山に蟄居していたが「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収の藤堂高虎、本多正純らに抵抗。家康らによって、長盛に書状を書かせるまで城を守り通した。無事に開城もすませ、その忠義と力量に仕官の誘いが相次ぎ、同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕える。高虎の居城となった伊予国の今治城の普請奉行を務めるなど、槍働き以外の才能を見せる。藤堂家が伊勢国に移封となると、伊賀上野城代に。▽大坂の役では藤堂勢の先鋒を務めるが、冬の陣で、戦い方で主君高虎と衝突。谷町口の攻防戦において長宗我部盛親の部隊に蹴散らされて、落馬して負傷するなど大敗。夏の陣の八尾の戦いで名誉挽回と再び長宗我部盛親・増田盛次の部隊に襲い掛かり300余人を討ち取る活躍。が、独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもの。勝ったが損害も大きく、高虎や他の重臣たちから疎まれる原因に。戦後出奔して再び浪人。▽仕官の道を探すが、藤堂家から「奉公構」の触れ(仕官を他の家にさせないようにする願い)が出て、幕府からも誘われるが、適わなかった。高虎は「奉公したければ(姻戚関係のある)会津の蒲生家に仕えよ」と命じたが、彼は承知しなかった。寛永5年(1628年)には天海を仲裁役にして奉公構の解除を願う。藤堂家から出された一方的な和解の条件を承知できず、逆に高虎への不平不満を申し立てたため、交渉は決裂。▽高虎の死後も、子の高次が奉公構の方針を維持したため仕官できなかった。その才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持を細々と受け、「睡庵」と称し、京で没したという。享年九十。

(8)作戦会議
 慶賀十九年(一六一四)十月末、始めて秀頼と淀君出座の上で作戦会議が開催され、譜代の将に大野三兄弟や織田一族。浪人組からは真田幸村、後藤又兵衞(*1)らの五人衆が参加した。
 軍師格の幸村は父と共に練り上げた
「秀頼公は天王寺に進出され、後藤は大和路を進み伏見城を、幸村は山崎から京に進み二条城を落して宇治、瀬田に陣を構え、東西の連絡を断って、太閤恩顧の諸大名を味方に招いて戦い、情勢不利となった場合は城に籠って力戦する。」
 という出撃作戦を唱えた。
 それに対し、淀君の意向を受けた大野治長は、色々と理屈を並べて、最初から籠城説を説いた。結局それに決したのは、細川忠興(*2)が大坂優勢を信じる家臣に
「秀頼公は戦さに関しては乳呑子じゃ、あのお袋が女だてらに色々と嘴を突込むから統一作戦が取れず、落城は早速」
 と断じた通りの情況で、幸村の五十万石軍師待遇も名ばかりであった。
 更に籠城方策に就いても、幸村や軍監の後藤らが
「野田、福島、伝法口まで広く砦を築き兵を配しても大軍の敵に包囲攻撃され次々に落ち味方の志気を失わせる事は必定である。天満川周辺に陸海兵力を充実して固く守るべきだ」
 と説いても採用しない。
 これでは「義の為に美しく死なん」と勝敗や利欲を度外視して入城した幸村達も失望するばかりだった。たまりかねた行朝が、譜代の中でも強行派の大野治房に進言して
「籠城一辺倒の消極策では如何な名城でも落城は必至であり、何とか城外に遊撃隊を置き関東勢の背後を攪乱する戦法を採用すべきである」
 と力説させ、一方で、かねて計画を進めていた紀伊熊野各地の郷士や山伏に一揆を起させた。そして、豊臣と深い縁戚にありながら味方に参じない浅野長晟(*3)の若山や新宮城を攻略する遊撃作戦を決定したのは、せめてもの慰めだろう。

(*1)後藤 基次(ごとう もとつぐ)。黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞として有名。播磨別所氏家臣・後藤基国(後藤氏当主)の次男。▽幼少の頃、父を亡くしたことから、父の友人であった黒田如水に引き取られた。如水の家臣として仕え、数多くの軍功を挙げ、「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。しかし、如水が荒木村重によって幽閉された際に、叔父基信がその子の基徳・基長兄弟(又兵衛のいとこ)とともに村重方に属したために、又兵衛は一族の謀反を起こした件により連座される破目となり、一時、黒田家中からの退去を余儀なくされた。▽後に罪を許されて、再び黒田氏の家臣として仕え、豊前宇都宮氏との戦い、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどに従軍、関ケ原では石田三成隊の剛槍使い大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功で大隈城1万6000石の所領を与えられた。しかし如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔した。しかもこの時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに長い浪人生活を余儀なくされ乞食の身に零落するほど生活が逼迫したという。▽1614年、大坂冬の陣が起こると徳川家康から法外な恩賞を条件に誘われたが、又兵衛は感激するもこれを拒絶して大坂城に入る。「秀頼公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで御恩に報いよう」と語ったという。冬の陣では鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。▽1615年5月の大坂夏の陣では、大和路方面・国分での迎撃作戦の先鋒として2800の兵を率いて出陣、河内「道明寺の戦い」で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、寡兵ながらも奮戦した。しかし伊達政宗軍との乱戦の中、真田信繁軍が霧の発生により行軍に手間取っている間に、片倉重長(片倉景綱[小十郎]の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃された。腰を撃たれ歩行不能となった基次は部下に介錯を命じて自刃したという。享年45。
(*2)細川忠興は、細川幽斎の息子。Chap 3徳川の巻3.1天下分目の戦い3.1.1 舞鶴城の力斗を参照。
(*3)あさのながあきら。1586〜1632。浅野長政(*3-1)の次男。浅野幸長(*3-2)の弟。正室は江戸幕府将軍徳川家康の娘・振姫。官位は従四位下、官職は但馬守・侍従。▽近江国坂本(滋賀県大津市)に生まれる。1594年(文禄3年)から豊臣秀吉の家臣として仕えて3,000石を与えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、江戸に武家政権を成立させた徳川家康に従い、備中国足守藩に2万4,000石を与えられた。1613年(慶長18年)、兄の幸長が嗣子無くして病死したため、紀伊紀州藩を継いで和歌山城主となった。大坂の陣には徳川方として参加し、夏の陣では敵将・塙直之(前述)を討つという大功を挙げた。▽1619年、福島正則が改易されると、その後を受けて安芸広島藩42万石に加増移封された。1632年に死去、享年48。墓所は広島県広島市の国泰寺。
(*3-1)Chap2豊家の巻2.1良弘熊野落ちを参照。
(*3-2)Chap3徳川の巻3.3まほろばの落日を参照。


(9)家康、叱られる
 家康が二条城に入ったのは十月下旬で、天皇に秀頼討伐の論旨を賜わらん事を再三要請した。しかし、帝はひどく不機嫌で
「秀頼は将軍の婿ではないか、何の罪があって誅伐などというのか」
 と叱られた。
 激怒した家康は、上皇を遠島に処さんと天海らの意見を求めたが
「それでは天下の人心を失う」
 と反対され、断念すると、片桐且元に先導役を命じて、続々と大坂をめざした。
 十一月十五日、家康は、奈良の中坊秀政(前出)の邸を宿とし、観世一座の謡曲などを聞いているが、邸の周辺には十津川隊千余人が厳しく警戒を固め、大坂まで護衛している。
 将軍秀忠は、伏見から河内に向い、枚方に泊った。十六日には天王寺に向ったが、先鋒四番隊には筒井定慶らが加わっている。そして殿軍の老中・安藤定信の補佐役として井戸覚弘、親衛隊の中に治秀、直弘らが参加して、茶磨山での家康との会見の護衛に当っている。

(10)紀伊熊野の一揆
 開戦は十一月下旬で、野田福島から船場に激戦が展開されたが、折しも北山前鬼(*1)を発した一揆が続々と新宮城に向い、それに呼応した山口兄弟が和歌山城に向った。
 新宮攻略勢千余の首謀者は、前鬼の修験宿である森本坊(五鬼継)行者坊(五鬼熊)不動坊(五鬼童)小仲坊(五鬼助)である。他に、堀内家の旧臣で浅野から二百名を給されていたのを擲って大坂に参じた湊宗右衛門、津守久兵衛、堀内大学らが、後藤の嫡男・一意や大野道大らの要請によって決起した。その黒幕は、家康の卑劣を怒った醍醐寺三宝院や高野山、聖護院の長老らで、山伏達が多数参加していたようだ。
 彼らは野火の如くに熊野北部を手中に収め、十二月の初めには、新宮城を指呼の間に望む対岸に襲来したから、城下一円は大騒動となる。
 意気高く大里の京城(*2)を奪って本陣とした通称・前鬼の津久は、十二月七日を期して総攻撃を敢行した。熊野川をはさんで激戦が展開され、山室鬼五郎が三尺五寸の野太刀を水車の如く振廻し、陣頭に立って暴れ廻り、終日激戦が続いた。
 後一息で“落城!”と思われた時、尾鷲からの鉄砲隊が関船に乗じて鵜殿河原に上陸。川下から海風に乗じて焼き立て、川上からは本宮の浄楽寺長訓が、狩人や山伏達を率いて襲いかかった為に、戦局は一変した。
 その朝、大里を発した総大将の津久は、みみずく型の兜に黒糸縅の鎧をつけ、豊臣家の長旗一流を先頭に山籠にゆられつつ
「今日こそ新宮城に乗込まん」
 と意気高く進撃した。しかし下田で敗走して来る味方とぶつかり
「数百の鉄砲隊を先頭に永田、石垣ら名うての勇将達が追撃して来る」
 との思いがけぬ報を受けた。籠人足を始め、逃亡者が続出し、津久が如何に叱咤督励しても、臆病風にとりつかれた連中は、算を乱して敗走してしまった。
 さすがに津久一族や、山室、平谷を始め、前鬼山伏ら三百余人は、尾呂志風伝峠で体勢を立直した。しかし再攻撃の兵力が集まらず、紀ノ川を下って若山城を包囲した山口勢も城兵の反撃をうけ苦戦していた。

(*1)奈良県の下北山前鬼は修験道の宿坊のあった場所。今も山伏のための宿坊「小仲坊」がたった1軒残る(2007年現在)。1300年前、役の行者に鬼夫妻・前鬼と後鬼(ごき)とその5人の子が仕えたという伝説が残る。今も宿坊を守るのは、その子孫。5人の子とは、五鬼助・五鬼継・五鬼上・五鬼童・五鬼熊で、これが、そのまま名字になっている。五鬼童・五鬼熊(ごきどう・ごきぐま)両家は、絶えたらしいが、後の3家、五鬼助・五鬼継・五鬼上(ごきじょ・ごきつぐ・ごきじょう)は健在。
(*2)今の三重県南牟婁郡紀宝町大里にある京城(みやこじょう)


(11)淀君泣きつき、和議が成立
 其頃の、大坂攻めの戦況を見よう。
 本陣を茶臼山に進めた家康が、二十万の大軍を叱咤激励して猛攻を続けても、さすがは太閤が築き上げた名城だけに頑として落ちない。今福、鴨野の木村重成、後藤又兵衛の奮戦や、真田丸に於ける幸村の健闘によって、寄手の死傷は三万に近かったと云う。
 その戦況を見た後水尾天皇は、かねて豊臣びいきだけに、大納言・藤原兼勝らを勅使に派遣して、両軍に和睦を提案され、何とか豊家の存続を計らんとされた。しかし、あくまで豊家の断絶をめざしていた家康は、天皇の勅旨によって和議を結べば後がうるさいと、
「せっかくの勅旨ではあるが、秀頼が応じない場合は、帝の威光を汚す事になるから辞退する」
 と体裁の良い事を云ってそれに従わなかった。忠義面の片桐且元の提案で、備前島に配備した十数門の巨砲を始め三百門の大砲兵陣地から猛攻撃を展開。この十数門の巨砲は、オランダ船から購入した最新式の五貫匁と云う弾丸を八百mも飛ばせるものだった。
 巨弾が、且元が提供した地図によって見事に淀君の居間に命中した。天守閣の柱が砕け、女中数人が即死するのを見て震え上った淀君が、“あくまで抗戦”を主張する秀頼に泣きついた。
 和議が成立したのは十二月二十一日である。太閤が一世の智略を傾倒し、真田、後藤以下十万の名将、豪雄を擁した天下の名城が、開戦僅か一カ月余りで和睦せねばならなかったのはなぜか。これは先の軍議で
「城の絶対防衛線を確保する為にいたずらに戦線拡げるな、」
 と行朝が説いたのに、大野兄弟は大坂湾の制海権を失うまいとして九鬼水軍に惨敗し、遂に天満川一円の制海権まで失い、天守閣を間近に見る備前島に長大な射程を持つ洋式新鋭巨砲を築かせたからである。極秘の城内図面を差出して、その計画を進めたのが桐一葉(*1)で大忠臣とされる且元だった。
 さてまんまと和議を結んだ家康は、浅野長晟を呼び
「領内で一揆を起した村々は断固討滅して後日の患いの根を断て」
 と厳命して再戦近しを囁き、熊沢兵庫に二千の兵を送って尾呂志、入鹿、大沼に進攻させた。
 津久勢も途中の難所に大木を吊り、巨石を落す仕掛を設けて必死に抗戦した。大沼竹原渡し場の決戦では、熊沢兵庫が山室鬼五郎と一騎討となり、危うく討たれそうになった程だが、結局は一揆方が衆寡敵せず敗走する。
 和歌山城に迫った山口勢も、五百に近い損害を蒙り、囲をといて敗走した、との悲報を耳にしながら、津久らは辛うじて十二月末、前鬼の里に辿りついて再挙を計った。

(*1)明治期に、劇作家の坪内逍遥が史劇『桐一葉』において忠臣としての且元を描いた。


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