Chap 3  徳川の巻

3.3 まほろばの落日

(1)細川幽斎、死す
 慶長十五年(一六一〇)の年が明けると、豊臣家の財力を傾けたと云われる京都方広寺の大仏殿再建が進む中に、藤堂家の伊賀上野城の改修工事も急テンポで進行していた。
 さすが世渡りと築城の名人・高虎だけに、慶長九年(一六〇四)から着工された西の彦根の井伊城と共に、大坂攻略の東の付城となる事は百も承知だった。
「津は休息所、伊賀上野こそ戦斗指揮の秘蔵の城」
 と日本一の高石垣の堅固な平山城が出現して、伊賀の人々を驚かせる。
 夏八月になると、京都車阪(*1)の東町で風雅な余生を楽しんでいた細川幽斎が病に侵された。里夕斎と同じく、息子・忠興が筑前四十一万石の大守となって世にときめいていても、そちらへは行かなかった。
 里夕斎は、四季春秋の変り目には「顔を見せに来い」と幽斎に招かれていたようだ。世渡りは下手な里夕斎も、風流の道にかけては遠慮の要らぬ知己だけに、急ぎ見舞に赴いた。数日を幽斎の病床に侍し、過し日の思い出を語り、互にこれから先の世の流れを案じ合いその旅立ちを惜しみつつ別れた。幽斎は、八月二十日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年七十七。
 そして幽斎の死を知った覚弘らは、再び江戸移住をすすめた。しかし里夕斎は相変らず「わしは大和の夕暮が好きじゃから」と笑って相手にならなかった。これは名僧の云う「朝々弥陀の来迎を待ち、夕々最後の近づくのを喜ぶ」悟りをめざしていたのだろう。

(*1)車屋町の誤記か。車屋町は、現在の京都中京区河原町通三条。車阪町は、京都市伏見区深草。

(2)浅野長政、加藤清正、死す
 やがて慶長十六年(一六一一)の年に入ると、俄かに上洛した家康が秀頼を招き「再び拒むようなら」と覚悟を決めた。
 これを知った加藤清正、福島正則、浅野幸長(*1)ら子飼いの大名らは、渋る淀君を説得して、無事に体面をすませ、京、大坂の人々を安心させた。
 彼らが健在である限り、豊臣家は安泰だったろうに、その春、先づ浅野長政が没し(*2)、続いて六月になると清正が病に伏す。
 これを知った秀頼は驚いて醍醐寺の義円に回復祈願をさせたが、病いは重くなるばかりである。
 そして或夕、清正が病床に息子を招き、一冊の論語を取り出して語るには、
「前田利家公の病い重しと聞き、(私、清正が)見舞に参上した時、命すでに旦夕に迫った利家公は、
『太閤、死に臨み、“大納言(利家)殿、ひとえに秀頼のことお頼み申す”と繰返された。以後わしは、常に、この本(論語)を心の支えに尽して来たが、これをそなたに献じる。充分熟読されて、臣節を全うされん事を、呉々もお願い申すぞ』
 と涙を流された。
 然しあの頃は、石田治部(石田三成)めが憎くて、本を読む処ではなかったが、今になって読んで見るに
『以て六尺の孤を託すべく(略)大節に臨んで奪うべからず。君子人か。君子人なり(*3)』
 との章が心に痛い程しみる。今や秀頼公が、僅か六十五万石の身上に落ちられたのを見て、太閤子飼の者の内争が、主家を傾ける要因だったと悟り、慚愧に堪えぬ。
 この上は家康公が、どうか君子であって望しいものじゃ。」
 としみじみ嘆じながら世を去る。(*4)

(*1)あさのよしなが。1576〜1613。紀伊国紀州藩の初代藩主。浅野長政の嫡男。▽天正18年(1590年)に後北条氏征伐(小田原合戦)に参加。文禄・慶長の役にも父とともに軍を率いて出陣、慶長2年(1597年)に蔚山倭城(現在の蔚山広域市内)に籠城し、奮戦。▽文禄2年(1593年)に父とともに甲斐国府中(山梨県甲府市)を与えられた。文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚に連座し、能登(石川県東部)に配流。前田利家のとりなしもあってまもなく復帰。▽慶長3年(1598年)8月の秀吉没後は、朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立。慶長4年(1599年)の前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃。▽慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制した。戦後には紀伊国和歌山に37万6千石を与えられる。慶長16年(1611年)の二条城における家康と豊臣秀頼の会談で、加藤清正と共に警備も行う。慶長18年(1613年)8月25日に和歌山で死去。享年38。男児が無かったため、弟の浅野長晟が後を継いだ。墓所は、和歌山県の高野山悉地院。和歌山市吹上の曹源山大泉寺。
(*2)豊臣政権の五奉行の一人。慶長16年(1611)4月7日没。享年65。Chap 2豊家の巻2.1良弘熊野落ちを参照。
(*3)六尺(りくせき)の孤とは、早く父を失ってみなし子となった少年。主人が亡くなって、後継者がまだ少年である時に、その弱い少年を大切に守り、非常時に臨んでも、決してその権力を奪わない人。そういう人こそ、君子人(真に尊敬すべき人)である、と云う意味。『論語(泰伯第八)』
(*4)慶長16年(1611)6月24日没。享年50。


(3)真田昌幸、死す
 続いて間もなく、九度山の真田庵でも「家康の鬼門」と恐れられた昌幸が没した、と云う訃報が、大和一円にも流れる。(慶長16年6月4日没、享年65)
 それを知った里夕斎は、黄金城と称された豪壮華麗な大坂城が大きく傾いたような想いだった。きっと家康めは「待てば海路の日和あり」とかうそぶいているだろう、と天の非情を肌に感じたに違いない。
「真田昌幸殿が亡くなられた」
 との悲報が熊野本宮の地に流れたのは、慶長十六年(一六一一)の七月で、真田一族と同じく浅野藩の監視下にあった新宮行朝(*1)はこっそり山伏姿になって十津川を上った。
 と云うのも真田一族と新宮一門は深いつながりがあるからだ。すなわち、太閤在世中に、共に人質として、大坂城で過した仲なのである。真田幸村の清廉な人柄を見て、年下の行朝は兄に仕えるように接したという。
 幸村は、秀吉に見込まれて、“従五位ノ下・左衛門佐”に任官し、豊臣の姓まで許され、大谷刑部の娘を妻にして家庭を持った。その幸村に対して、行朝はまるで弟の如くその家を訪れて雑用をつとめ、新妻から大いに頼りにされた。幸村もまた
「そなたの元服には何とか花を飾らせてやらねばのう」
 と骨を折ってくれ、首尾よく“左馬介”に任じられて、父(堀内氏善)を喜ばせている。
 そんなことから真田(阿波守)と堀内(安房守)の両あわの守は親交を深め、関ヶ原には共に西軍の勇将となって奮戦した。昌幸は上田城で、徳川秀忠と本多正信を奔ろうして、三万八千の大軍を大戦に遅れさせている。
 氏善は伊勢湾一円を暴れ廻って制海権を握ると、津城の攻略に大功を立て、もし西軍が勝って居れば十万石級の大名として維新まで栄えたに違いない。
 そして敗戦後、堀内は熊野三山大検の神恩から、真田は息子・信幸と嫁の父・本多平八郎の尽力で、命だけは助かった。
 九州の清正領(堀内氏善)と紀州九度山(真田昌幸)で共に家康を憎みながら
「太閤との義に背き、君子たる道に反した男が何時までも栄える筈はない。必ず時節を得て亡ぼさずに置くものか」
 と斗志に燃え続けていたのに、惜しくも先づ氏善、今度は昌幸が世を去ったのは豊臣にとって大きな痛手であった。

(*1)しんぐう ゆきとも。1596〜1645。初名は堀内氏弘。紀伊国新宮城主・堀内氏善(*1-1)の嫡男(六男、または弟とも)。源為義(八幡太郎義家の二代後)の十男・新宮行家を祖とする。受領名は若狭守。▽豊臣秀吉が天下を統一する前後からその家臣となり、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易、没落。▽浅野幸長が紀伊国和歌山城主に封ぜられると、行朝は500石で召し抱えられたが、待遇に不満をおぼえて出奔。▽大坂の役では、旧領回復のため300人を率いて大野治房の寄騎となり、さらに伊東長次の部隊に属した。大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いなどで活躍し、紀州一揆を煽動することによって旧主・浅野家を混乱させている。▽大坂城が落城すると一旦逃れたものの、大和国で松倉重政軍に捕らえられて捕虜に。その後、三弟の堀内氏久(七弟、または甥とも)の千姫救出の功により赦免。伊勢国津藩主・藤堂高虎の家臣となったという。また、異説には大和国竜田藩主・片桐氏に70石で仕えたとも伝わる。
(*1-1)堀内氏善(ほりのうちうじよし)。1549〜1615。氏喜とも。安房守。紀伊新宮領主。堀内氏は熊野新宮別当を代々務めた家柄で、新宮を中心に2万7000 石(一説に6万石)の地を支配した豪族であった。▽氏善は天正13年(1585)に豊臣秀吉に属して本領を安堵され、朝鮮の役に際しては水軍を率いて従軍、晋州攻めなどに活躍した。▽慶長5年(1600)、関ヶ原の役が起ると義父である九鬼嘉隆とともに西軍に属して伊勢へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電。居城新宮城も東軍に攻め落とされ所領を失い、紀伊加田村に蟄居した。▽のち許されて肥後国主の加藤清正に仕え2000石を知行し、宇土城を預けられ、慶長14年(1609)に同地で没したという。ただし、没年については元和元年(1615)説もある。(http://wolfpac.press.ne.jp/daimyo06.html)


(4)新宮行朝、豊臣秀頼から誘われる
 昔から真田家には奏ノ徐福が伝え、熊野山伏達が編み出したと云う忍法が代々伝わり、時の棟梁・霧隠鹿右衛門は、昌幸の密命を受け、江戸、大坂の動静を油断なく見張っていた。
 けれど蟄居生活が年を重ねる毎に、その生活は苦しく、浅野の合力米五十石ではとても足りず、家臣達は近郊で自活し、真田紐を行商して日々を支えていたようだ。
 行朝が真田庵を訪ねたのは六月の末で、喜んだ幸村は、焼酎と山菜でもてなし、夜ふけまで語り合ったと云う。共に優れた楠木流軍学者だけに、父の遺志を継ぐ盟約を結ばなかった筈はない。
 そして行朝がその帰りに大和の里夕斎を訪ねたのは、秘かに秀頼から
「入城すれば若狭守に任じ、大名格として扱う」
 との内意を受けていたので、父祖代々若狭守を名乗っていた里夕斎の了承を乞うと共に、つもる話をしたかったのだろう。
 行朝と里夕斎の親交は前述したように(*1)十年来の縁で、行朝は里夕斎の人柄に憧れさえ抱いていたから、本宮に近い地に暮す泰弘(里夕斎の子)とは兄弟のような仲だった。
 けれど一夜を共にして、里夕斎の胸中を察した行朝は「泰弘一族の平和を破るような事は決してせぬ」と約して、別れを告げたらしい。

(*1)Chap2豊家の巻2.3大和百万石を参照。

(5)里夕斎の遺言@
 大坂城をめぐる風雲が一段と急を告げる中に、慶永十七年(一六一二)の新年が訪れ、里夕斎は八十才になった。
 例年のように年賀にやって来た泰弘一家や恒吉らに囲まれて、のどかな初日を浴びながら、ゆかりの金刀比羅井戸の若水に身を清め、糸井神社への初詣をすませた。
 それから気嫌よく年蘇を汲み交したが、何を感じたのか毅然とした面持で話し始めた。
「思えば遙々と八十年の長い月日をよくも生かして載いたものよと、神仏に感謝する他はないが、一期一会の諺もある。元気な間に、日頃感じている事等を、そなたらに語って置こう。しっかりと胸に収めて置いてくれ。
 過ぎし天文三年(一五三四)午の歳、大和結崎郷に生をうけたわしは、幼い頃から
『春日神国の聖地に産れた者は、
 第一に神仏を尊び、先祖を敬い、興福寺衆徒として。
 また、命を惜しまず名を惜しむ大和武士として。
 日々武門の業に励みつつも、風雅のたしなみを忘れず、物の哀れを知る有為の人物となれ』
 と厳しく鍛えられた。
 そして文の道に就いては、糸井神社の楽頭職であった観世一門から能楽を、茶道、立花、連歌に就いては、珠光の流れをうけた千ノ宗易殿の一番弟子である山上宗二殿に師仕して
「名利を去り、和敬静寂を旨とし、何よりも侘とさびを第一とせよ」
 と教えられて研鑽したつもりじゃ。

(6)里夕斎の遺言A
 然しながら、生き抜くだけが精一杯の乱世の中だけに、心ならずも修羅の巷も渡らざるを得なかったのは、そなたらもよく存じて居ろう。
 そんな中に、計らずも信長公の「天下布武」の傘下に加えられ、光秀殿の与力となって戦陣を共にし、彼の説く君臣の義を重んじる王道思想に感動し「生死を共にせん」と決意した。
 残念ながら、公の武運はつたなく「主殺し」の汚名にまみれる結果とはなっても、君子人と仰ぐ信条には変りなく、山伏となって熊野に落ちながらも常に心にあったのは
『武士の嘘を武略と云い、僧の嘘は方便と説く。さりとて百姓は可愛ゆきものでござるぞ』
 と遺された言葉である。
 わしが“武士は一道か浪人じゃ、二度と覇道は歩まず”と、宮仕えをせず、今日に至ったのは、ひたすら公との誓いを果さんが為であったのよ。
 信長公は誠に不世出の天才児とは云え、そのめざした覇道はわが国体には許されざるものであった。
 それを悟った秀吉は、あくまで臣道を守って古今独歩の英雄となり、天下を統一したのは見事と云える。しかし関白となって以後は、女色と名利の貪欲のままに、狂ったとしか思えぬ晩年であった。
 そして彼に仕えて大老筆頭となり、天下一の律義者よと賛えられた家康も、口先だけは
『天下は馬上で制し得ても、馬上で治めることはできぬ。天下の人心を治め得てこそ真の天下人なり』
 と称したとて、その心情の卑劣さは断じて君子人とは云えぬ。やがては信長以上の覇王となり、主の子を亡ぼし、朝廷さえも支配下に収め、清盛、頼朝のめざした如く、己の血をひく帝を立てんとさえ望むだろう。
 覚弘らは彼を主君としたが故に、否応なくその命に従わざるを得ぬが、汝らは父の歩いた道を守り、決して宮仕えはせず、常に野に在って稼業に励み“正直と清廉”を旨とせよ。」

(7)里夕斎の遺言B
 里夕斎は、今年で八十とは思えぬ気迫で二人を見つめ
「泰弘よ。そなたは熊野で、わしの創業の志を継いで、里人に役立つ熊野井戸家を築くのじゃ。そして恒吉は、父祖代々の眠るまほろばの地に在って、中村家の嗣子となり、大神一族の繁栄に尽しながらも、本光明寺井戸家の墓守りもよろしく頼むぞ」
 と命じて二人に数々の遺品を分け終ると、もはや思い残すことはない、と云った面持で
「さて風雅の道について、父は能と茶道に求めたが、何もそれのみにこだわらず、連歌、立花、聞香、書画いずれにせよこの道は広大じゃ、そちらの好きにせい。
 なれど、断じて権力や名利に媚びず、真の“わびとさび”に開眼する事。それには我家の家宝である“つゝ井筒の高麗茶碗”を“天下一の井戸茶碗”と世に広めてくれた山上宗二殿や、その師・利休居士殿の生態をしっかりと身につけるのが何より大切じゃ」
 そう云いながら里夕斎は、第一の知己であった山上宗二が、秀吉から耳、鼻そぎの惨刑にも毅然と耐えたその人柄、そして、利休が、利を商う堺衆の一介の茶ノ湯者とは云え、天下の名人と謳われ、大名も凌ぐ実力を誇った彼の千軍万馬の勇将に勝る豪快な最後を高く賛えた。
「しかしながら、わしには判らぬのが、利休居士は、何故、太閤から三千石もの禄を貰ったか、と云うことよ。武士たる者の習いとして、主を持つ以上は、生殺与奪の権を託す覚悟が肝心じゃ。
 利休殿は、
『侘び茶の心は、草の小座敷にしかず。家居の結構や食物の珍味などは俗世のもの。家は洩らず、衣は暖ければ良く、食は飢えねば充分である。
 水を運び、薪を取りて、湯を沸かし、茶を立て、仏に供え、人にも施し、我も呑むのみ。
●花をのみ 待つらん人に、山里の 雲間の草の 春を見せばや。』
 と詠じた。
 その彼が、太閤に抱えられた。黄金趣味の太閤だから、足利将軍の築いた金閣、銀閣に劣らぬ黄金茶道の設計を命じられたのは当然とも云える。
 あくまで“侘び茶一筋”を歩むなら、宮仕えをするべきではなかったと思う。
 太閤は、利休を処断後も、朝廷の貴族や高僧らの好みに応じた黄金茶道をすすめ、古田織部に命じて書院造りと庭園美の豪壮な大名茶道を創らせた。
 けれど一年後には、流罪にした利休の長男・道安と次男・少庵を許している。道安を九州の細川忠興に、少庵を会津の蒲生氏郷に、再任官させたのは後悔したからだろう。
 この事をよく銘記して、そなたらはあくまで野にあって一芸に徹し、一隅を照らす理想の下に、大自然の中の“わびとさび”を身につけるようにせよ。
 それが世阿弥殿の幽玄能にも通ずる道なり、とわしは考えて居る。」

(8)里夕斎、死す
 沁々と語った僅か数日後の一月五日の夕方。
 里夕斎は、二上山に沈む荘厳な落陽と共に、忽然と世を去った。
 里夕斎の葬儀は、一月七日、本光明寺で、知己のみでつつましく催された。その淋しい有様を見た心ない人は「これが二万石の元大名の葬いか」と遺族達を笑ったと云われる。
 けれどそれは彼の遺言で「関東の兄達の宮仕えをさまたげるな」との言葉もあったのだろう。
 その戒名が、院殿大居士などと云うものでなく「里夕斎善玄」の五字に過ぎないのを見ても、その人柄が偲ばれ、それを固く守った息子達を「さすがに血は争えぬ」と賛える人もいた。
“人は独り生れて、一人こそと死ぬ。供養も墓も侘しくつましいこそ良し”
 と云うのが里夕斎の遺志であったのは云うまでもない。

(9)本光明寺を訪ねて
 平成八年(一九九六)の秋、始めて、井戸氏中興の祖・良弘公の墓碑がある本光明寺を訪ねた。
 奈良県添上郡森本町の東方にある「神武天皇の聖蹟」と云われる和爾坂の山辺の道のほとりで、建立は奈良〜平安朝だったと云う。
 本尊は十一面観世音、阿弥陀如来、弘法大師で明治初年まで堂々たる本堂や楼門が聳えていたらしい。
 資料によれば
「井戸若狭護、雄安(父の覚弘か?)の五輪塔と位牌は大光明寺にあり」
 と明記されているが、明治初年に災難によって衰微して、本尊も西大寺などに移された。現在は、寺もなく、天文〜慶長の石塔の林立する中に、良弘公の碑石が稲荷社の跡に鎮まっている。
 昭和中期に建立した碑石で、恐らく遺言によって“里夕斎善玄”とだけ記した木碑が歳月と共に朽ち果てたのを放置するに忍びず、中村氏の父が建てられたものだろう。
 四辺はさすがに悠大な眺望で、戦国大名の奥津城(*1)にふさわしい「たたなづく 青垣がつらなり 誠に大和ぞ 美わし(*2)」の句の通りである。
 案内してくれた大和井戸氏の嫡流・中村方保氏は次のごとく語られる。

(*1)神道では墓のことを奥津城(おくつき)と云う。
(*2)倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし(ヤマトタケル)


(10)その後の井戸一族の流れ
 戦国時代末期から徳川の世となる頃。
 地方の大名豪族は、その血脈を残さんが為、あらゆる手段を講じる世に、井戸一族も上州真田家の如く、その子を関東地方に送り、又熊野にも子孫を残す。
 出生本願の地、大和にその末子・次郎右衛門を一族の筆頭家老・中村方に託したのは、井戸家の菩提寺に眠る祖先の菩提を弔うことが目的ではなかったか、と考えられる。
 よって中村次郎右衛門(大神恒吉)の姓をもって石上に居住し、家老の中村家は「小田中村」に居を移すこととなった。
 その証として良弘公より、鎧、小旗、具足、鑓一筋、鉄砲一丁、下人七人と実母の所持品の内二品の受領の記録が残るものの、いつの時代にか散逸し、現在は系図と紺絹地に刺し子の金箔張りの差し物の小旗のみとなる。
 その後の子孫は、領地が藤堂家の支配下となり、無足人として名字帯刀は維持し、石上地領を治めた。その中で九代・中村逸記(大神好道)は、医業を京師の吉益南涯に学び、婦人科専門を身に付けて御殿医で名を成し、その婦人薬が今の津村順天堂の始まりに掛かり合うとの云い伝えもあり、恐らく熊野から送られて来る薬品の販売にも当たったらしい。
 その後、十二代・楢次郎によって昭和五年(一九三〇)に当時良弘公の埋葬された(今は廃寺の本光明寺跡に墓標建立供養を営み、その後の損傷により、同二十五年(一九五〇)に石碑を建立。同六十一年(一九八六)九月彼岸に、三百五十回忌の供養を営み、今日に至る。
 祖先の供養を今に受け継ぐ血脈に感謝する処にして、四百年も途絶えていた熊野井戸氏と再会が出来たのは、井戸氏が「つゝ井筒」の執筆に際して、並々ならぬご努力の賜物と、併せて祖先の御魂の導きと深く合掌する処であり、改めて井戸氏の歴史探索の御造詣に心から感謝する次第であります。

平成十年一月七日 満祥月命日忌

若狭守義弘十七代の孫 中村 方保




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