Chap 3  徳川の巻

3.2 筒井と藤堂氏

3.2.2 幸運の井戸茶碗

(1)柳生石舟斉と柳生厳勝
 慶長十三年(一六〇八)の秋、銀色に輝く江戸城や駿府城が完成し、続いて尾張に義直(*1)の名古屋城の縄張りも始まり、葵の旗風が一段と勢いを増す中に、その先峰を誇る藤堂高虎が意気揚々と入国する。
 それを腹立たしく眺めながら一介の浪人となった井戸覚弘、治秀、直弘ら兄弟は大和に帰った。父の良弘を手伝いつつ、晴耕雨読の生活に入るつもりで、柳生宗巌(石舟斉)の長男・厳勝に別れを告げに行った。かつて辰市城の戦いに松永勢に参加して重傷を負い、柳生村の正木坂に引っこんで以来、親しくしていたのである。
 石舟斉は松永自刃後、順慶に仕え、二千石の旧領を与えられ良弘一族とも親しくしていた。しかし豊臣秀長の大和入国後、検地で隠し田が発見されて所領を没収されると

●兵法の 梶は取れても 世の中を 渡りかねたる 石の舟かな。

と詠じて石舟斉と号し、剣術道場を開いた。やがて豊臣秀次から百石の捨扶持を貰うようになり、他にも大名達から援助を受けて悠々と暮らして居た。
 文禄三年(一五九四)に五男の宗矩を連れて駿河に赴き、家康に得意の無刀取りを見せた事から、秀忠の指南役を乞われたが「寄る年波なれば」と、代って若い宗矩を仕えさせた。
 関ガ原では宗矩が甲賀忍者衆を集めて功を挙げた事から、元柳生領二千石を加増され、直参三千石の兵法指南番として頭角を現したが、石舟斉は、慶長十一年(一六〇六)、八十歳で世を去った。

(*1)徳川義直(とくがわ よしなお)。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖。徳川家康の九男。

(2)井戸三兄弟、柳生へ
 石舟斉に代った厳勝は、今回の筒井没落に伴い、親しかった井戸一族が大和に帰って百姓になると聞き
「あれ程の人物を野に朽ちさせるのは惜しい。ここで新領の管理を頼みたい。」
 と懇望され柳生村に新生活を求めることに決めると、七十六才になった父・良弘の事を心配して柳生移住を求めたが
「永年すみ馴れた大和を離れるつもりはない。若い息子らが良く世話を見てくれるからわしのことは心配無用」
 と云う。
 そこで覚弘ら三兄弟だけが正木坂に移ると、道場の世話や年貢集め等に当り、客分として結構日々のどかに過ごしていたようだ。
 慶長十四年(一六〇九)になると、家康は、筒井と並ぶ名門の井戸一族が柳生の客分となっているのを知って
「ああ、うっかり忘れて居った!年はとりたくないものじゃ。覚弘には井戸茶碗で大きな借りがあったのよ。彼は良弘の血をひいただけに、名利にもさっぱりした珍しい男よ。そんな人物を片田舎に埋もれさしてはなるまい、是非とも秀忠に仕えさせよ。」
 と直ちに宗矩を呼んで仲介役にさせた。

(3)井戸三兄弟、関東へ
 朝鮮ノ役から早くも十年、覚弘が秀頼に献じた五個の井戸茶碗のことは、大坂の豪商の間でも羨望の的になり、幾つかは彼らの手に渡って、知らぬ者はない。様々なエピソードも生れているから正に「茶碗のもたらした功徳」と云える。
 仕官のこともトントン拍子で進み、やがて覚弘ら三兄弟が揃って大和を訪ねたのは、慶長十四年(一六〇九)の暮であった。
 里夕斉は、成人した泰弘を熊野に帰らせて製薬で生計を立たせ、己は恒吉と晴耕雨読の中で、茶と能を風雅の友として日々を送りつつも達者だった。毎年六月には山崎、小栗栖、九月には関ヶ原の古戦場を旅するのを楽しみとしていたらしい。
 里夕斉は、もう五十を越えた覚弘や三十前の直弘まで揃って徳川仕官の話を聞いた。清廉な里夕斉ではあっても、息子達が井戸の血を関東に栄えさせるのも天の恵みと感じたらしく、春風にでも吹かれたような笑を浮べ
「諺にも“馬上で天下は征し得ても、馬上で天下を治める事はできぬ”とか云う。秀頼公に対する太閤の親心は判るが、要はその器量如何じゃ。成り立つように任せるのが天下の為でもあろうよ。
 いま天下の万民は、朝鮮の役、関ヶ原の大戦と云う大地震に疲れ果てて、何より平和で豊かな世の中を求めている。いかに太閤の子と云っても幼い秀頼公に天下を治める器量はなく、幽斉殿のように世渡り上手な人々はみな、“人たらしの名人じゃった太閤より、律気者のと云われる家康公は十倍も恐ろしい人物。やがて天下は徳川の世となるのは必定”と見ているのは、世を捨てたこのわしにもよく判る。
 そんな新しい主に望まれたのじゃ、そなたらも精一杯やって見るのも良かろう。只一つ、わしが案じて居るのはもう二年も奥州で蟄居させられている定次父子の事よ。何とかせめて家名の立つように努めるのが、旧主であり、血のつながりも深い汝らの“義”であるのを忘れんでくれい」
 としみじみ望みを述べた。
 息子達も充分承知して、名残りを惜しみつつ、東路を上った。

(4)井戸三兄弟、仕官する
 途中で駿河城の家康に呼ばれ「将軍家の力になって呉りやれ」と、上々の首尾で謁見できたのも柳生宗矩の配慮だったろう。
 江戸に着くや、秀忠に目通りを許され、覚弘は常陸真壁三千石。治秀、直弘も将軍親衛隊である書院番を拝命して、江戸の町を闊歩できる直参旗本五百石の身分となった。前途洋々たる新しい船出を迎えたのだから、関東井戸氏が井戸茶碗を家宝とするのも当然と云える。
 それを聞いた里夕斉が喜びながらも治秀に宛て
「武士は一道か浪人のみと固い意思を抱き、数寄者で身を立てようなどと思ってはならぬ」
 と戒めている。
 これは同じように高麗産の大茶碗を所持して、一客一亭の茶会を開き
「あれこそ真に大名の持つべきものよ」
 と羨望されていた摂津守護の荒木村重(*1)を思い出しての親心だろう。
 過ぎし天正六年(一五七八)、荒木村重が信長の命で本願寺への講和使となって赴いたものの失敗し、
「このままでは信長から何時追放されるやら判らん」
 と叛乱を起こした。
 その末に、村重は、城も家臣も失い、楊貴妃と評された妻さえも斬られながら、ひとり尾道に逃げ延びる。
 信長の死後、道薫と名を改め、せっかく茶道三昧に暮らしていたのに、秀吉の相伴衆に召され、二度目の宮仕えに出た。
 一時は返り咲いたが、秀吉が何かで高山右近をほめると、荒木村重は、昔の右近の裏切りを忘れず、
「彼は言行不一致な男でござる。」
 とけなした。その為に亦もや追放され、わびしく没している。

(*1)あらきむらしげ。利休七哲のひとり。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名。▽織田信長から気に入られて、天正元年(1573年)、茨木城主に。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。天正2年(1574年)、伊丹城主。天正6年(1578年)10月、村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻した。▽信長が本能寺の変で横死すると堺に戻り居住。豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰。千利休らと親交をもった。天正14年(1586年)、堺で死去。享年52。


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