Chap 3  徳川の巻

3.2 筒井と藤堂氏

3.2.1 筒井と藤堂氏

(1)筒井定次、兄を切腹させる
 家康に「三成叛く」の第一報を送った増田長盛(*1)が郡山二十万石と金銀七千枚を没収され高野に蟄居した慶長五年(一六〇〇)秋、関ヶ原から急遽伊賀に帰ってきた筒井定次は怏々と楽しまず、日夜酒色にふけっていたようだ。と云うのも、上杉討伐の為に三千の将兵を率いて出陣した後、八月始め、西軍に参じた高槻城主・新庄直頼以下二千余が上野白鳳城を囲んだ。城の留守を託されていた定次の兄・十郎玄蕃充は、島左近のすすめ通り
「とても勝目はない。無益に血を流すより城を開いて領民を戦火から救おう」
 と一戦にも及ばず高野山に逃走した、とされる。十郎玄蕃充から云わせれば、真の主君・秀頼公の命に従ったまで、と答えるだろう。
 八月五日、石田三成が真田昌幸(*2)に送った手紙には「伊賀在陣の西軍は七千余人」とある。
 定次はそれを知って急ぎ引帰すと御斉峠を越えて一挙に城を奪回したと云われる。しかし、「一挙に」は、疑問である。
 七月末の小山での軍議により、福島、池田、筒井、藤堂の諸将が清洲城に帰ってきたのが八月十五日である。それから岐阜、合渡の合戦から関ヶ原の大戦が展開されたのが九月十五日だから、どう考えても定次が城を取返したのは関ヶ原の大戦が終った九月下旬としか考えられない。家康の内命でやむなく高野に逃げた兄を
「たとえ兄でも責は取って貰わねばならぬ」
 と切腹させたのはそれ以後だろう。

(*1)Chap3徳川の巻3.1天下分目の戦い3.1.2秋風悲し関ヶ原を参照。
(*2)さなだ まさゆき。武将・大名。▽信濃先方衆として甲斐武田氏の家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。晴信時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立。後、北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において大名化する。▽上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退し、後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され、講談や小説などで知られるようになる。子に、信幸、幸村。


(2)筒井定次、大坂順慶町の邸で、酒色に憂を晴らす
 天下分目の一戦で敗れた西軍の大名達の所領七百万石を没収した家康は、功のあった東軍の大名達に二倍〜三倍の大盤振舞をして天下人面を誇った。秀頼の為に戦った筈であったのに二百数十万石の秀頼領は六十五万石に削られ、全国の金銀鉱山はすべて徳川がまき上げてしまった。
 秀吉から与えられた定次の禄高は二十万石だったのに、何故か伊賀一国にも満たぬ八万石程度に削られているらしい。関ヶ原で、定次の家老であった島左近の猛攻で、家康本陣さえ危うかった時、家康の左にいた定次勢は、宇喜多の進撃で敗走した福島勢にまき込まれ、関ヶ原の宿場に退却した。家康はこれを見ていて
「さては定次め。島を三成にやって余を殺させ、己は洞ガ峠をきめこむ気か」
 と疑ったかも知れない。
 上野城が無血降伏すると云う失態を見て、舞鶴城の力斗に喜んで細川に四十万石を認めた家康だけに、信賞必罰の態度にでたのだろうか。
 幼少から正義感の強い勇敢な美少年で、信長に愛され、養女・秀子の夫に選ばれ、その葬儀にも十五番目に焼香している程の定次である。かねて朝廷からも
「文武両道は元より、軍略にも秀でた上に人品高尚にして寛容、花の如き容貌の持主であり、筆跡は尊信親王、画は雪舟にもまがう力量を備え、能楽については金春四座の大夫より勝るキリシタン大名なり」
 と絶賛されていただけに、大坂順慶町の邸で酒色に憂を晴らす日々が多くなったのも無理はない。
 その上、秀頼や淀君にも好かれていたらしく、「仏憎けりゃ袈裟まで憎い」の諺通り狸親父が一段と目を光らし、慶長六年(一六〇一)には京都所司代に子飼の家臣・板倉勝重(当時五十七才)を任命して諸大名の動きを厳しく監視報告させ、彼は親豊臣派のブラックリストのトップに置かれたようだ。

(3)筒井定次、家康に睨まれる
 ここで筒井家の筆頭家老だった松倉勝重と同名の人物が登場するのでまぎらわしいが、板倉勝重は徳川譜代の臣で、天文十三年(一五四四)〜寛永元年(一六二四)、八十才で病死している。
 それに比べて松倉勝重は、天正十四年(一五八六)三月、名張で没し、その子・重政は、天正元年(一五七三)生れだから当時十三才である。
 重政は家督がつげないのを怒ってか興福寺で出家し、やがて家康に拾われて五条の領主となり、後に島原六万石の大名となる。その子・松倉勝家が有名な島原ノ乱をひき起した。
 この鎮圧に向ったのが板倉勝重の子・重昌で寛永十四年(一六三七)、島原で討死。翌十五年(一六三八)には、松倉勝家が責任を問われて切腹しているから、縁は深いが別人である。
 慶長七年(一六〇二)、家康は「豊臣秀頼、関白就任近し」の噂を流して、大名共の反応を眺めると、翌八年(一六〇三)には右大臣征夷大将軍に任じられて幕府を開設した。
 世は滔々と徳川の流れを強めているのに、正義感のあくまで強い定次は、太閤の遺命を守って、毎年の年賀も先づ秀頼に参じた。
 父が残した処から順慶町と呼ばれる館に、大野三兄弟らを招いて茶会など催し、親睦を計るのが常だった。
 それを聞いた家康が「定次めはこのままでは置けぬ」と伊賀の上忍・服部半蔵仕込の謀略をめぐらせる。
 そしてその肚を読んで手先となったのが、関ヶ原の戦さで忠勤を励み、宇和島八万石から今治二十万石の大名となった藤堂高虎である。慶長六年(一六〇一)に、四十六才で始めて男子が出生してからは、嗣子の高吉(*1)が邪魔になってきたらしいのは秀吉と秀次の因縁がもたらしたのかも知れぬ。
 当時、高吉は二十二才で、墨俣で大いに奮戦しているのに、義父・秀長から貰った一万石のままで据置かれた。やがて加藤嘉明(*2)の家臣と争いになるや、家康の裁定で、勝っているのに大洲で蟄居を命じられている

(*1)Chap2豊家の巻2.3大和百万石を参照。
(*2)かとうよしあき。「よしあきら」と読む説もある。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主。水口藩加藤家初代。賤ヶ岳の七本槍の1人。通称は孫六。


(4)筒井定次、「戦いはさけられない」と心に決める
 やがて世は慶長十年(一六〇五)に入り、家康は将軍職を秀忠に譲る。慶長十一年(一六〇六)に入ると、井伊直政が彦根城を完工させ、続いて新将軍・秀忠が、家康の命で諸大名に手伝いを命じ、江戸城の大改築にかかった。
 秀吉が黒漆と黄金で誇ったのに比べて、家康は、白しっくいの壁と土瓦の代りに鉛と木を貼り合せた軽い新式瓦を採用して、大坂城より二十mも高い六十八mの大天守閣を築き上げている。
 白亜の城の偉容は房総半島からも見えたらしく、関東一円の人々を驚かせた。それを知って子飼の井伊は彦根城に、姫路の池田、今治の藤堂らも我遅れじ、とそれに見習い、当世の流行色となる。
 それを見て収まらないのは、大阪城の淀君達で、秀頼に天下を譲る気のない事は明らかである、と激怒して、その背信を罵った。
 そして秀忠が上洛して婿の秀頼を招いても絶対に行かせず
「もしどうしてもと云うなら、母子心中する」
 とまで云い、北政所(秀吉の正室)が
「それは秀頼の為にはならぬ」
 と戒しめても頑と承知しなかった。
 それを知った家康は内心深く怒った。
 それまで十三歳の秀頼を正二位右大臣に、二十七歳の秀忠を下位の従二位内大臣に奉任していたのを、慶長十二年(一六〇七)には秀頼の右大臣を被免した上に、外様大名並に駿府城の改修に、人夫の提供を命じている。
「どう見ても戦いはさけられない。その時は太閤の恩義に報いるのみ」
 と定次は心に決めていたようだ。
 伊賀に伝わる筒井の治政は良い話は、どうやら後に入国した藤堂の命でかき消されたようで甚だ少ない。
 定次は、夏は小田温井の名水で茶の湯を楽しみ、長田のえびす淵で鮎漁に興じ、伊賀川の落合に桟敷を設けて幽翆の気にひたりつつ、歌舞音曲で日のくれるのも忘れたと云われる。
 また上野一の美人で知られた酒家の女房を城に呼んで愛妾としたので怒った夫が「好色無類の領主」とふれ廻ったと云う話もあるが、キリシタンを信仰していた彼がそんな事をしたとは信じ難い。

(5)家康の奸計、筒井定次に迫る
 さて、去る慶長十年(一六〇五)に上洛した家康が、将軍職を秀忠に譲って秀頼に天下を渡す気のない事を明らかにした頃。
 その時に連れてきた鷹匠共が、しきりに伊賀に来て、鷹を放し、田畑を荒し廻る。それで怒った百姓がその鷹を殺してしまった。
 すると家康は、直ちに所司代の警吏を総動員して厳しく探索し、本人だけでなく彼をかくまった庄屋まで処刑した。それで村人達は
「人間より鷹が大切などと云う馬鹿な話があるものか、」
 といきり立ち、硬骨の武士達も
「神国大和の頭領であった筒井家の嫡系をうけながら、一言の文句を云えぬ腰抜け殿よ」
 と陰口をきいたと云う。家康、高虎らは「待てば海路の日和あり」とほくそ笑んだ事だろう。
 慶長十二年(一六〇七)になると、恐らく放火と思われる大火によって、城も町々も尽く焼け落ちて大損害となり、例年の天神祭もできなかった。日頃は領民思いの定次も、背に腹は変えられず、重い年貢を取り立てて、城館の修築を強行し、領主たる面目を保たねばならぬ立場に追いこまれた。
 いよいよ家康の奸計が断行される時が迫っていた。

(6)筒井定次、改易される
 やがて慶長十三年(一六〇八)四月、筆頭家老・中坊秀佑の家臣が、江戸家老・葮田大膳の家臣にけんかを吹きかけ、双方に死傷者がでると云う騒動が起った。
 いわゆる「けんか両成敗」が常である。しかし下手をすれば一大事にもなりかねぬ、と定次は示談で収めようと苦心している間に、中坊は、彼の妹が家康の愛妾となっていた縁に頼って、直接家康に訴え出た。これは「何とか事を内々ですませよう」とした為と云われるが、恐らく家康の罠であったろう。
 家康にとっては正しく「飛んで火に入る夏の虫」だった。六月になると、突如、定次、葮田らは幕府評定所から呼び出され、厳しく取調べが始まり、その席には大御所の家康の顔も見せたらしい。
 もちろん、定次と従兄弟の葮田は堂々と反論した。処が、中坊側の証人として出頭した中西、井上、布施らは、口を揃えて主君の定次を非難し、中坊を支持したと云うから黒幕が誰かは明らかである。
 そして慶長十三(一六〇八)年六月二十日には家康の名で
「筒井定次、其方儀は、性来が放蕩荒淫の上に、侫臣数名を伴い、大坂順慶町の邸に常住し、専ら大野道大ら兄弟と酒宴を共にする等、政務を怠たるばかりか、在国中も老臣の忠言を嫌って面接致さず。
 山野に遊猟し、川流に戯れ、国務を放置し、士風を頽廃させたのみならず、常々厳禁のキリシタン宗徒の信仰を捨てざる行状、誠に許し難く、よって伊賀十二万石、伊勢五万石、山城二万石の計十九万石をすべて没収の上、嫡子・小殿丸と共に奥州、磐城の鳥居家に蟄居謹慎を命ず。家康花押。」
 との沙汰書が下された。葮田大膳は切腹に処されている。
 筒井定次は、大名としては恥辱きわまりない罪名下に、改易と云う悲運を辿るのである。
 その所領が十九万石なのは表高で、實質は八万石だったようだが、代って家康の配慮で四国から着任する藤堂には、伊賀・伊勢・大和を併せて二十二万が与えられている。

(7)中坊秀佑、殺害される
 唯一の豊臣方大名と考えていた筒井家の改易は大坂城一円にまで大きな衝撃を与えた。が、もはや豊臣家ではどうにもならなかった。
 一件落着後に、中坊らは、家康から謁見され賞詞として
「その心底律儀にして世法を破らず、色欲を離れ、主君に功ありしこと賢臣たるべし。」
 を賜った。
 三千石の徳川直参に取立てられ、中西、井上、布施らもその恩恵に浴した。わけても中坊秀佑は天領の奈良奉行に任命され、京都諸司代と共に大坂監視の重任を託されたようだ。
 正しく晴天の霹靂とも云える報を聞いた伊賀一円は
「背中の子を逆さに負うて飛び廻る者もいた」
 と云う騒ぎで、巷には

●中坊飛彈めは 極悪家老、主家をつぶして 奈良奉行。

と、ざれ唄が流れた、とか云われる。
 勿論三千近い家臣の中には、定次の真情を知る侍も多く、後の大坂陣で活躍した箸尾、布施、万歳らの忠臣は
「かくなったるも、桃谷らの奸臣や、家康めに主家を売った中坊らのせいである。今に必ず殿の仇を討たん」
 と無念の涙を流した。
 中でも山中友記は、一時は九鬼家に仕官したものの、再び浪人して、慶長十四年(一六〇九)二月、中坊が伏見に赴く途中でその宿に忍び込んで刺殺した。
 翌日、伏見の町中に高札を立て
「我は筒井家譜代の臣にて主君の恨を晴さんと中坊を誅した。次にはその嫡子の血祭りをして自決する覚悟である。」
 と書き残して大評判となっている。それを知った心ある家臣達は「態を見ろ!」と沸き立ったに違いない。
 浮世の歴史から云えば、確かに、定次は世間知らずの阿房殿様で、一族や家臣に惨苦をもたらした。然し“義を貫く”人間の歴史から論ずれば、名利にまよわず成敗にとらわれず、ひたすら己の信念に生きて美しく亡びた君子人であった。
 ここに定次を讃え、その濡衣を晴し、菩提を弔うささやかな香華としよう。

(8)藤堂高虎の入国
 それでは彼とは対照的に「世渡り名人」とも云える藤堂高虎の入国を述べよう。
 歴史は勝者のものであり、敗者の正義はすべてかき消されてしまうのが常である。神国大和で千年の繁栄を重ねた筒井家も、荒れ狂う徳川の大洪水によって哀れ梅花(筒井の家紋)は散る。
 慶長十三年(一六〇八)八月に入ると、そよぐ秋風と共に伊勢の安濃津城、伊賀、大和や伊予で合計二十二万石の大名となった藤堂が入国し、やがて桔梗の花が咲き匂う世となる。
 ここで判り易く『高山公(高虎)言行録』を解読すれば
「『紀州、熊野、北山の諸郷、或は吉野の山伏、十津川郷士らが蜂起して東海道に暴走の際は当地で防ぎ支えんが為にも若輩の武将ではとても及びもつかず。』
 と神君(徳川家康)は判断された。
 また大坂豊臣方の挙兵に際し戦局不利の場合は、大御所(徳川家康)は上野城、将軍家は彦根城に入って捲土重来を期さんとして、余がその大任に選ばれた。家臣一同もよく其事を察して充分覚悟せよ。
 然して津は不堅固な平城であるから当分の休息所と考え、“伊賀こそ秘蔵の国で戦斗指揮の根元地と思い”平常は治政に心がけ米麥の生産と貯えに努め、いざ合戦の際に兵糧の尽きぬよう心がけよ。
 国の守りを堅固にせんが為に、国境の七口に歴戦武功の七人の鉄砲頭を置き、各五十挺の鉄砲を配置すれば何の心配もなし。」
 と述べて、高虎は、真先に鉄砲隊長・梅原勝右衛門に名張二万石の大領を与え、三百五十挺の銃隊を、七つの関門に配している。

(9)藤堂家の冶政
 藤堂家の冶政は『宋国史(藤堂藩の正史)』に詳記されている。詳細はそれを御覧頂くとして、その特色だけを挙げれば
*
一、無足人「足す事なし」…と呼び、無給ではあるが家柄によって武士の特権を認め、国の守りに備えると共に、村の支配や年貢の取立てに当らせている。
二、他家の名ある浪人を大量に採用して戦力を充実させ、常に幕府の先峰となってその「特恩」に奉じることを第一と定め、それに逆らう者はすべて斬れ、と説いている
三、上忍の千賀地の出身で家康に仕えていた保田妥女(*1)を貰い受け、藤堂の名を許し、やがて城代家老として忍者郡を組織して、情網活動に努めさせている。
*
 そして伊賀の忍者と家康の関係は、天正九年(一五七三)の伊賀の乱以来の縁であり、高虎が妥女を召抱えたのは四国の領主だった頃からだ。家康は早くから筒井の代りに高虎を入れて大坂城攻略の付城とするつもりだったのは明らかである。

(*1)服部半蔵正成の長兄・保元の孫。

(10)藤堂高虎、白鳳城を大修築
 やがて慶長十五年(一六一〇)になると、築城の名手と云われた高虎は入国した際、筒井の白鳳城の穴太積(*1)のすばらしさに舌をまき、この堅城の大修築にかかる。定次が大坂城を守る為の出城として東に対して備えたのに対し、高虎は大坂に攻める為に西に対して備えたのである。
 史料によれば、
「忍者達を全国の百五十城に潜入させて、その構造を調査した上、西に巾三〇mの深い堀を作り、高さ三〇mの石垣を南北押し廻して築く。
 南北の両隅に櫓台を作り、今までの本丸と合せて新本丸とする。
 南に面して二つの出入口を開き、東は古き空堀を用う。
 西側には新しく南北二八〇mの大石垣を築くもこの高壁は大坂城よりも見事なり。」
 と記され、本丸の建物は、法隆寺大工の中井大和守や、甲良大工の甲良豊後守が、大挙応援に集まったらしい。
 但し秀吉が大枚の金を定次に下賜したのに比べて、吝な家康は知らん顔だった。

(*1)Chap1安土の巻1.1宇治川城の春秋を参照。

(11)多士済々、藤堂高虎の家臣
 秀吉は大坂城を守る付城に、東の伊賀上野に筒井、西の彦根に石田を置いた。それに対して、家康は先づ彦根に四天王の一人井伊、そして数多い譜代、外様、の勇将の中から藤堂を選んで伊賀上野に入らせた。家康は藤堂を深く信頼していたに違いない。
 「人は石垣、人は城」と云うその家臣団を見ると、石田三成の小姓・磯野、八十島。長曽我部の桑名、中内。増田長盛の家老の保田、渡辺。筒井の一族や、喜多(能楽の祖)など正に目を見張るばかりである。
 足軽育ちの高虎が、始めて士を抱えた近江、粉川から始まって、但馬、四国、伊勢、伊賀まで(中には堀内氏善の長男・氏治を新宮城主・若狭守氏弘と誤っているものもあるが)正に多士済々である。
「有為な人物に思い切った高禄を与え」「名門にこだわらず実力主義」のやり方は三成と同じで「近江生れの特色かも知れない」と大いに感服させられる。

(12)藤堂高虎の家訓は
 私としては、同じ近江人でも高虎のように何よりも「時流を見て利に走る」男よりも、三成の如く
「孔子は仁を云うが、孟子は乱世には義を第一とする。義は必ず不義に勝ち、義のみが世を正し乱を治める道である」
 との言葉を信じる男のほうが好きだ。学者の孔子、孟子と軍学者の孫子を併せ考えるべきだと思う。
 大谷刑部のように、常に孫子の言を座右の銘とし、三成の挙兵に際しても「孫子に説く七則を比べて勝算なし」と止めながら、敢て己を知る者の為に殉じた「世渡り下手」に惹かれるのは、良弘公の血の流れであろうか。
 郷土愛の強い生粋の伊賀の人の中には
「己の好き嫌いで勝手にきめられては困る。人間の短所は長所でもあり云うなら伊賀名産こんにゃくの裏表でもあるんじゃ。徳川三百年にわたる伊賀の平和と繁栄に貢献した藤堂家を何と心得るか」
 とお叱りを受けるかも知れないが
「その分は名張藤堂家の人々は大いに好いとるケン。まあ勘弁してつかさい」
 と答えることに決めている。
 さて、筒井定次が、秀吉から「義を重んじ、文武両道に秀でる領主たれ」との教えを守って、国を滅ぼした先例がある。
 高虎は、「常に時の流れに逆らわず義や情に溺れることはなく只々一族と家臣の繁栄を計ること」を旨としたらしい。
 その結果、藤堂藩は、三十二万石の領土を永代地として、明治維新まで一粒も減らされたり転封されることなく繁栄し続ける、と云う歴史を残す。
 鳥羽伏見での戦さに土壇場で寝返り、幕軍を敗走させたことから色々悪くいわれるが、それは彦根の井伊も同じである。高虎の「常に時勢と共に棹さして逆らわぬ」家訓を守り抜いたと云えよう。



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