Chap 3  徳川の巻

3.1  天下分目の戦い

3.1.3 舞鶴城−関ヶ原遊歩

(1)細川幽斉、古今和歌集を八条宮に贈る
 良弘公が舞鶴城で戦っているのを知って、細川幽斉(*1)と井戸里夕斉(*2)の力斗の地、田辺城を始めて訪ねたのは昭和五十年(一九七五)の晩春である。
 西舞鶴駅に降り、一路、城跡をめざした。当時の城は、東西四百米、南北七百米もあったと云うから、今の市の半分以上もあり、丹後十二万石の城下町として賑わっていたようだ。
 学校や公園のある広場に、昭和初期に作られた二重櫓が昔ながらの城壁の上に聳え立ち、松の古木の下に「古今伝授の玄旨」の碑が立っている。

●いにしえも 今も変わらぬ 世の中に 心の種を 残す言の葉。

 と云う句が刻まれていた。細川幽斉が、藤原俊成(*3)が子の定家(*4)に伝えた古今和歌集(*5)を、八条宮(*6)に献じた記念碑で、松は三代目になる、と、案内板が教えている。
 さて、“玄旨”と云うのは細川幽斉の号で、一子相伝の貴重な資料に思えるが、後に研究の結果は、全く形式的な余り価値もないものと云われる。幽斉が「秘するは花」として宮に贈ったらしい。さすが“天下一の世渡り上手”で藤堂と双壁と云われる彼である。(*7)
 朝廷も三成をもマンマとその手に乗り、一万五千の大兵を二カ月も遊兵と化した手腕の凄さには舌をまくばかりで、或いは、井戸良弘を招いたのも籠城の片棒を担がせる下心でなかったか、とさえ感じる。
 土手に満開になった桜が潮風にハラハラと散り、何とも云えぬ気分で、引揚船の岸壁の母で有名な波止場の見える丘に立ち尽した。

(*1)Chap 3徳川の巻3.1天下分目の戦い3.1.1 舞鶴城の力斗を参照。
(*2)井戸良弘。Chap 4室町の巻4.1 後南朝序曲を参照。
(*3)ふじわらのとしなり。「しゅんぜい」とも。1114〜1204。歌人。『千載和歌集』の編者として知られる。藤原定家の父。
(*4)ふじわら の さだいえ。「ていか」とも。1162〜1241。歌人。道長の玄孫。父は藤原俊成。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。定家自身の作で「百人一首」に収められているのは「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。二つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。
(*5)こきんわかしゅう。醍醐天皇の勅命によって編まれた初めての勅撰和歌集。平安時代の 延喜5年(905年)成立。仮名序を紀貫之が執筆。
(*6)八条宮智仁親王、はちじょうのみや としひとしんのう。1579〜1629。正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子。▽兄に織田信長の猶子となった五宮がいた。信長が天皇家の邦慶親王を猶子にしていたのに習い、豊臣秀吉も智仁親王を猶子(*6-1)とした。1589年(天正17年)秀吉に実子鶴丸が生れたので、同年12月八条宮家を創設。1591年(天正19年)1月に親王宣下。▽1600年(慶長5年)細川幽斎から古今伝授を受け、甥にあたる後水尾天皇に相伝し、御所伝授の始まりとなった。▽関ヶ原の戦い直後、兄の後陽成天皇は皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して、弟の智仁親王に皇位を譲ろうと考え、時の天下人・徳川家康に譲位の旨を打診。家康は智仁親王が秀吉の猶子であることから反対。結局、皇位は1611年に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐ。▽1629年、51歳で薨去。
(*6-1)ゆうし。家の相続権のない養子。
(*7)外様ながら、徳川三百年を、細川は肥後五十万石、藤堂は伊勢三十二万石の大々名として繁栄したことから。


(2)ガラシャ夫人の謎
 長男を徳川の人質にとられた細川家の記録には、
「秀頼からの大坂入城を命じられたガラシャ夫人(*1)が
『武士の子は義によって死ぬのが常であり、汝らの祖父(明智光秀)が主君を害した為にその罪がそなたらに報いとなって襲ってきたのであろう。幼な心にもその因果を覚って母を怨むでない』
 と説いて、十才と八つの兄妹を刺し殺した」
 と記している。
 けれど、里夕斉に云わせれば、
「第一に、彼女が、妹(良弘の息子・治秀の妻)から、父(明智光秀)の挙兵の眞相を告げられぬ筈はなく、単純に主君を害したとはいえない。
 第二に、キリスト教徒の身で我子までも手にかけると云うのが何としても判らない。
 第三に、当時は主であった秀頼よりも家康への義を重んじたと云うのも、聡明な彼女には考えられぬ事である。」
 里夕斉が
「嫁した身でありながら、夫にも勝手に幼な子を殺すと云うのは、妻として貞節な処置とは云えぬ。治秀の嫁(ガラシャ夫人の妹)には厳しく教えねばならぬ」
 と考えたのも当然であろう。

(*1)Chap 3徳川の巻3.1天下分目の戦い3.1.1 舞鶴城の力斗を参照。

(3)里夕斉、菩提を弔う
 史書によれば、城を開いて西軍に渡した細川幽斉が関ヶ原の決戦を知り、意気高く前田玄以の丹波亀山城に向ったのは九月十八日だった。
 里夕斉父子も彼と同じ日に舞鶴城を立ったと思われるが、途中で別れて関ヶ原を訪ね、かつての盟友島左近の英魂にせめても香華を献ずべく、北国街道を南下した。木ノ本〜虎姫から春照村に入り、ここで一夜を過すと三成本陣の笹尾山を始め左近が裏切者共を震え上がらせた新戦場を終日歩き廻った。後になって知己の一人に「もしや」と友の面影を探し求めたと語っている。
 以後毎年のように六月には山崎、小栗栖、九月には関ヶ原を訪ねて菩提を弔うのを楽しみにさえしていたらしい。
 そして私自身も、それが中興の祖の招きとは夢にも知らず、始めて関ヶ原の古戦場に足を入れたのは昭和三十二年(一九五七)だった。当時は昔そのままに茫々たる戦野が残されていたらしい。以後、たびたび訪れて、何冊かの日記にその状況を記してある。以下に、その中からのエピソードを紹介しよう。

(4)関ヶ原 昭和三十二年 @素泊二百円
 昭和三十二年初夏
 岐阜城から合渡、墨股の古戦場を歩いて関ヶ原に入ったのは夕暮で「諸国商人御宿十一屋」の看板が気に入り、素泊二百円で投宿。五衛門風呂で汗を流してぐっすりと眠る。
 昨夜は田面に流れる蛙の音を耳にしながら寝たが、夜中にトタン屋根に降りしきる雨音に目が覚めて時計を見ると午前一時過ぎ「石田軍が笹尾山に着いた頃だなぁ。朝になれば止んでくるだろう」と思い、再びまどろむ。
 処が朝になっても、止む処か、伊吹下しの強風交りの嵐模様となって、とても山歩き等は出来そうもない。宿の主に「何でもいいから朝飯を食べさせて呉ないか」と頼み込んでやっと温かい味噌汁と炊き立て飯にありついた。
 切角来たのだ。もう一晩泊まる事にして雨音を聞きながら関ヶ原大戦前夜の情勢を考える。
 慶長五年九月十四日の夜、降りしきる冷雨の中を潜かに迂回して四里の夜行軍を開始、その途中三成は一晩中諸将の陣を訪ねて激励して廻った為に激しい下痢に襲われたのはナポレオンがウォーターローで遭った悲劇と同じである。
「生死をかけた乾坤一擲の正念場に何たる不運か!。天は正義の士に悲劇をもたらす事によってその最後を美しく彩ると云うが余りにも無情すぎる」と痛感し「雨ぐらいに宿でゴロゴロしていては申訳がない、せめて決戦場だけでも歩いて見よう。」と傘を借りて宿を出た。

(5)関ヶ原 昭和三十二年 A関ヶ原合戦開戦地
 関ヶ原の宿を抜け、中山道を西に向い、不破ノ関跡から右に折れ、早苗田が風に波うつ田んぼ道を濡れしょぼけながら「関ヶ原合戦開戦地」と刻まれた巨石の前に立つと、梅雨蕭々と煙り、四辺の山々も霧一色である。
 この地で三万余の生命が玉と散り砕け去ったのだ!そう思うと、鳥肌の立つ想いで、私は声もなく、無数の幽魂が咽び泣くように吹き寄せる風雨の中で黙然と立ち尽した。
 終日、南宮山まで歩き廻るうち、次第に雨が上り、美しい夕映が伊吹の山肌を染める頃、宿に帰ると一風呂浴びて散歩に出た。五月の爽やかな夜風を浴びつつ、始めての古めかしい宿場を徨うと一段と旅情が身にしみる。
 中山道と伊勢街道の別れ道の近くに「菊川」と云う看板を出した酒屋があり、フト昔承久ノ乱に連座した藤原宗行卿が「昔は南陽県の菊水下流を汲んで齢を延べ、今は東海道の菊川西岸に宿って命を断つ。」と詠じたのを思い浮べ、早速飛び込んで冷のままキューッとやる。
 空っ腹にほろ辛い酒の香は格別で忽ち二合を平げ「明日も早いこの辺で切上げよう」と云い聞かせて店を出ると ●番場、酲井、柏原、不破の関所は荒れ果てて…
と太平記を唸りながら表に出ると、満天は降るような星月夜で、家々はもう戸を閉していた。

(6)関ヶ原 昭和三十二年 B松尾山、宮上、天満山、笹尾山
 翌日は拭った様に一天くまなく晴れ渡った五月晴で、夜の白むのを待ち兼ねて宿を出ると、中山道を西に向い、軍師大谷吉継の練り上げた邀撃作戦の全貌をこの目に確かめるつもりで、先づ松尾山をめざした。
 赤松の茂った松尾山頂の小早川陣地跡に着いたのは朝の七時で、爽やかな薫風の吹き抜ける尾根に立てば、当時の地形がそのまま残されているのも嬉しい。
 当時はここに広大な山城が設けられ、秀頼、輝元が入る予定であった等は知る由もなく古戦場の全景を眺め、山を降ると、関の藤川を渡って、大谷の陣した宮上をめざす。
 菜の花が今を盛りと咲き乱れる清冽な谷川の畔りに、大谷軍の勇将・平塚為広奮戦碑が立って居り
●名の為に 捨てる命は 惜しからじ、遂に止まらぬ 浮世と思えば。
 の辞世を、秀秋の宿将の首にそえて吉継に献じ、討死した地で、後世に彼の子孫が建立したものである。
 川に沿って溯って行くと松林の中に吉継の五輪塔が鎮まり、傍には忠臣・湯浅五助の墓も並んでいた。墓前にぬかずき「なぜ三成軍を彼の隣りに配して望みなしと思えば早目に佐和山に走らせ次の策を立てなかったか」を問い、その霊示に耳をすました。
 然し涼風声なく、鳥声のみが美しくこだまするだけで、心を残しつつ、次なる天満山の宇喜多秀家の陣、小西行長の「池寺池」島津の「小関」を巡り、毎年記念祭に薩摩っぽが“関ヶ原の尻っぱらい”とやって来て「チエスト!」を叫ぶと云うが、殿軍の役など投げ出して、逆方向に遁走したに過ぎん。
 そう思いながら北国街道の左手に大きな碑石が見えるので行って見ると「決戦地」である。家康狸に尻尾を振った関ヶ原成金大名の陣跡なんか見る気もしないが、西軍の首塚だけは詣でようと陣場野に向う。桜の下を一巡りして最後は本陣の笹尾山をめざして相川沿い一気に笹尾山に登る。

(7)関ヶ原 昭和三十二年 C歌を捧げる
 頂上から家康陣までは一粁余「もし大砲が狸に命中したらさぞ面白かったろうにナ」と思いながら、土砂降りの中を、六時間の夜行軍の後に、五倍の敵を相手に、半日力斗し続けた島左近ら六千の石田軍の為にウィスキーを献じ、その冥福を祈りつつ、心をこめて作った歌を関ヶ原一杯に高らかに歌う。節は当時はやりの三橋美智也の「古城」である。

 戦雲暗く 霧白く 笹尾の丘辺  風さゆる
 遺命に殉ず 治部少の あゝ運命いかに 関ヶ原。
 矢たけびこだま 修羅の原 叛旗の中に 荒れ狂う
 病める参謀 大谷の あゝ軍略空し 関ヶ原。
 孤軍奮闘 力尽き 怨を止む 伊吹山
 されど正義の 赤き血は あゝ千古に薫る 関ヶ原。

 昔のままの粛々たる山野を眺め、声を限りに歌えば、正に「夢は戦野をかけめぐる」想いである。
 両軍の陣跡や首塚を巡り歩いた末に、笹尾山を降り、三成らの跡を追うて北国街道を北上し、右手に美しく残雪の残る伊吹山を眺めながら歩き、もう夕方に近いが、五月の太陽は暑い位いで、田舎道はうんざりする程に果しない。やがて黒々と北陸の連峯に日が沈み、漸く伊吹の登山口である春照村に着いたのは、“山は暮れ野に黄昏のたれ込める頃”だった。
 下痢はしてなくても三成以上に疲れきって今夜はここで泊る事にしたが、宿屋はないと云う。それでもやっと村の雑貨屋の二階を貸して貰える事になり、清烈な谷川の水で飯盒炊事の仕度を済ませる。

(8)関ヶ原 昭和三十二年 D初芽ノ局の伝説
 日が暮れるまで、巨大な杉の神木のそそり立つ神社に詣で、深遠静寂な境内で、老神主から思いがけず“初芽ノ局の伝説”を聞かされて驚き、宿に帰ると、焼酎に赤玉ポートワインを割った手作りのカクテルで、鰯の缶詰を肴に傾けつつ、其夜の三成の心境を偲ぶと、伊吹下しの山風が障子をホトホト叩くのを聞きつつ筆を取る。
 大阪城きっての美女と云われた“初芽”は、武人派の諸将が三成暗殺の密議を交しているのを知って、急ぎ彼に知らせ、自分の籠で宇喜多邸に脱出させ、やがて三成に乞われ佐和山に供すると、彼を慰め励まし、時節の到来を待たせた。
 そして関ヶ原の敗北を知るや、一目恋人に会いたく、矢も盾もたまらず若侍に変装してひたすら関ヶ原に急いだが、一面焼野が原と化し尋ねる人もない。小関の農夫から「江北に落ちたらしい」と教えられ、必死で伊吹山麓を探し求めるうち、馴れぬ旅に疲れ果てて、この春照村で倒れ、里人に救われ数日を養生した。との思いもかけぬ伝説が、酒で高潮した心を一入ゆさぶり、夜のふけるのも忘れさせた。
 それにしても哀れを止めたのは、春照村で病を癒やした初芽ノ局が、再び三成の跡を追い、木ノ本古橋村から京をめざし、やっと辿りついたのは処刑の翌日で、変り果てた恋人の姿を見て泣き崩れたと云う。
 その首の傍に立てられた高札には「此者、謀叛を起し京、田舎人を悩ませしによってかくの如く行うものなり」と記されていたが、それを信じる者は何人いただろう。
 それを憐れんで救ったのは、三成と親交の厚かった紫野大徳寺の円鑑国師(*1)で、三成の遺骸を寺内三玄院に葬って厚く供養し、初芽は髪を下して尼僧になると、朝夕、その冥福を祈って生涯を終えた、と云われているのは、何とも痛ましい。

(昭和三十二年の日記より)


(*1)春屋宗園(しゅんおくそうえん)1529〜1611。臨済宗の僧。出身は山城国。春屋は法号、宗園は法諱で、字号を一黙子という。諡号は朗源天真禅師、大宝円鑑国師。生前既に後陽成天皇から大宝円鑑国師号を賜る。建仁寺から大徳寺に入り、永禄12年(1569)大徳寺第111世となった。塔頭(*1-1)として三玄院を創建し、黒田長政の帰依を受け、龍光院の開祖にもなる。千利休・古田織部・小堀遠州などの茶人の参禅者も多く、大徳寺の黄金時代を築いた。慶長16年(1611)に没する。
(*1-1)たっちゅう。もともと禅寺において祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院のことをいう。それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも「塔頭」あるいは「塔院」と呼ぶようになった。



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