Chap 3  徳川の巻

3.1  天下分目の戦い

3.1.2 秋風悲し 関ヶ原

(1)堀内氏善と九鬼嘉隆は、西軍・石田光成に付く
 ここで視野を志摩、伊勢の沿岸に転じよう。
 古来から、熊野の海賊で有名な熊野別当の嫡流である堀内氏善、九鬼嘉隆らは、かねてより太閤秀吉の恩義に感じていた。諸将が
「太閤は明るくてお人好しな甘さがあったが、家康公は大狸で何とも肝の底が判らぬ恐ろしい男よ」
 と寒気を感じているのを見ると、黒潮生れの叛骨をむき出して三成の檄文に振い立った。同じ熊野八荘司(*1)の周参見主馬(*2)と協議し、西軍の水軍指揮官として直ちに快速船団に乗じて志摩、伊勢方面に北上した。これが伏見城の攻撃が始まった慶長五年(一六〇〇)七月下旬で、朝鮮出兵で鍛えられた将兵の士気は高かった。
 やがて
「伏見城主・鳥居元忠は鈴木孫三郎が討取った」
 と云う朗報が入る。孫市の子が大手柄を立てた訳で、それを聞いた堀内氏善の嫡子・行朝らは一段と勇み立ち、日頃から家康嫌いの母の義父・九鬼嘉隆に尽力を乞わんと鳥羽港に入る。
 去年の秋、鳥羽の嘉隆は航行税の事で家康の裁定に激怒し、大声で怒鳴り散らして、国に帰っている。そして家督を嫡男・守隆に譲り、時勢を睨んでいたから、氏善の要請を快諾した。守隆の留守を預っている城代家老を一喝して城を奪うと、堀内、菅平左衛門らと水軍を編成し、大船団を連ねて伊勢に進み津城をめざす。

(*1)Chap 3南北朝の巻3.6 楠氏と観世一族を参照。
(*2)すさみしゅめ。熊野八荘司。石田三成に仕え、急使としてやって来た。


(2)石田光成、決意を詠う
 ここで北の会津戦線を眺めれば、西軍の作戦は先づ、上杉景勝が家康の大軍とがっぷり四つに組んで手強く戦っている間に、大阪城で三成が挙兵し北上する盟約だった。
 景勝もそれに基づき、白河口に四万の兵を集結する。佐竹義宣は三万の兵を率いて棚倉に進み、家康が鬼怒川を越えるや一斉に包囲攻撃する作戦を立てた。
 七月二十一日、家康の本隊が江戸を発したのを知った佐竹はその状勢を三成に急報。
「上杉勢は勇躍、白河城の南革籠原で決戦し、その際、我軍は敵の側方を痛打する」
 という旨を伝えて来た。
 これを見て三成は大いに勇み立ち、八月五日には信州の真田宛に
「まず美濃に進み岐阜中納言と共に尾張に出撃致すつもりである」
 と報じている。八月八日には佐竹に同様、作戦計画を伝え
「万が一にも家康がうろたえ上り候わば、尾張と三河の間にて討ち果すべく候」
 と自信満々である。
 然し出陣前夜の祝宴では
「万ガ一、余が不尚の為に天運に叶わずとも、豊家の忠臣として天下に名を挙げて死するに聊も怨なし。『白骨を野にさらし、名を万人の岸に止めん』と思うが各々は如何ならんや」
 と語って

●筑摩江や 芦間にとぼす 篝火と、共に消えゆく 我身なりけり。

 と詠ずるや、即座に受けた島左近が

●名は野原、身は朽ちなわの 住家かな。

 と応じ、一同は大いに感動してどよめいたと云われているから、悲壮な決意であったようだ。

(3)石田光成、大垣城に入るが、上杉景勝は、動かず
 かくして慶長五年(一六〇〇)八月八日、佐和山を父と兄と三千の将士に守らせ、三成は五千八百の兵を率いて出陣した。八月十日、美濃大垣城に迫ると、城主・伊藤盛正に義戦を説いて城を明渡させる。真田宛に
「拙子しかと濃州に在陣致し候、この口の儀、家康程のもの十人登り候とも御心安かるべく、きっと討ち果し申し候」
 と意気高らかに報じている。
 処が東北の戦局は彼の思いも寄らぬ状況となっていた。東軍の先峰・徳川秀忠勢が上杉の第一線の地、白河へ後一日と云う地点にまで迫った七月二十四日のこと。小山(*1)の家康に
「西国大名、悉く石田に参加」
 との鳥居元忠の急使が到着した。そして急拠、転進が決せられたのである。
 宇都宮に結城秀康ら二万を残した東軍は、七月末から豪雨をつき、続々と雪崩をうって引揚げ始めた。これを知った直江山城守兼続や佐竹義宣らは、直ちに追撃して一気に小山の家康本陣を突かんと景勝に迫った。
 処が意外にも上杉景勝は
「逃げる敵を追うのは上杉の家訓に背く」
 と反対し直江が
「それでは三成との盟約に反する、義を守り是非断行されたい」
 と懇請し、佐竹もまた強く要請したが景勝はどうしても承知しない。
 三成が、直江や景勝の誠実を疑わず、大垣から岐阜に進まんとしていた頃。景勝は会津に帰り、義宣も独力では勝算なしとやむなく水戸へ引き揚げると云う事態となっていたのだ。

(*1)栃木県小山市中央町1丁目1-1に、「小山評定跡」の石碑がある。

(4)徳川家康、反転し、伊勢防衛を命ず
 それとは知らず堀内氏善ら熊野水軍は安濃津に迫る。伏見城を落した毛利秀元らの陸上軍の三万も、瀬田から鈴鹿越え関ノ地蔵から橋本まで進み、百に満たぬ留守勢に開城を迫ろうとしていた。
 今一日早ければ城は簡単に落ちていたろうに、小山で転進を決した家康は、直ちに津の富田信高や松坂の古田重勝らに帰国防衛を命じた。
 七月下旬、小山を発した二千の彼らは、三河から小船百余隻に分乗して、安濃津に急航して来たのである。
 海上遙かに陸続と南下して来る富田勢を見た西軍は、折しも家康の忍者群がまき散らした
「家康急拠上洛!」
 の風聞に脅えていただけに
「それ!家康の大軍がやって来たぞ」
 とあわてふためいた。
 先陣の長束正家や安国寺恵瓊(*1)は臆病風にとりつかれ、夜陰に乗じて関ノ地蔵まで総退却。これを知った氏善勢は
「不甲斐ない腰抜け共め」
 と激怒して海上から攻撃を開始した。それに励まされた西軍が漸く攻撃に転じたのは八月半ばである。
 折しも三成は福島正則(*2)、黒田長政(*3)ら猛将達が続々と清洲城に集結し始めたのを知り、二千の兵を岐阜に援兵を送る。それと共に急使を宇喜多秀家に走らせ、伊勢路の諸将を至急大垣に集結させるように要請した。が、時既に遅かった。

(*1)Chap 1安土の巻1.3本能寺の変を参照。
(*2)ふくしま まさのり。母が豊臣秀吉の叔母だったため、幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳七本槍の筆頭格で、豊臣家きっての勇将。▽石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪に。前田利家の死後、朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。徳川家康に慰留され、昵懇大名の一人となる。▽小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が、いち早く家康の味方につくことを誓約。西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢と激闘。▽戦後、安芸広島藩主(50万石)となるが、家康死後まもなくの元和5年(1619年)、広島城の一部を無断改修したことから、信濃高井野藩主(4万5000石)に改易された。
(*3)くろだ ながまさ。関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げた事から、筑前福岡藩52万3000石を与えられ、その初代藩主となった。父は豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(くろだ よしたか、官兵衛、如水)。


(5)岐阜城は落ち、石田光成、諸将に美濃口結集を呼びかける
 八月下旬には、二手に分かれて木曾川を渡った福島、池田ら四万の東軍は大挙して岐阜城に迫り、血気の織田秀信(*1)は籠城を説く老臣達の意見を
「信長の嫡孫たる者が一戦も交えず城に籠るのはその名を汚す」
 と木曾川岸に迎撃したものの衆寡敵せず敗走して、前衛陣の竹ガ鼻や犬山も次々に東軍の手に渡った。
 折しも伊勢の西軍は安濃津城攻撃の最中で大激戦となったが、城方の反撃は激しく美貌の夫人までが緋縅の鎧に片鎌槍を振って奮戦したという。
 織田秀信が敗走した同じ八月下旬、やっと二ノ丸、三ノ丸を落とした時、豊臣びいきの高野の木食上人(*2)が仲に入って開城となり、城の守備は氏善らに預けられた。
 勝利の祝盃を挙げる暇もなく、大垣の三成から
「東軍大挙して岐阜城に迫る。諸軍は急ぎ美濃口に参集されたい」
 との急使が届いた。宇喜多秀家以下の諸将は慌しく大垣をめざして出発する。三成は大阪の輝元にも
「急ぎ出陣して総指揮をとって望しい」
 という旨の使者を走らせている。しかし、これは使者に任せず自から大阪に馳せつけて輝元の首に縄をつけても引張り出すべきであったろう。
 家康が三万の旗本を率いて江戸を発したのは九月一日だから三成が前線を離れて大阪に急行し輝元を説得して共に関ヶ原に到着するには充分間に合った筈で情報不足でこの機を失したのが政戦両略上から大きな誤算となる。

(*1)おだ ひでのぶ。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。幼名は三法師。岐阜城主、中納言であったので岐阜中納言とも呼ばれた。
(*2)Chap 2豊家の巻2.2秀吉の紀州征伐を参照。


(6)家康、四万の軍を率いて清洲に到着す
 さて、舞鶴城は細川勢の力斗で、開戦一カ月をへても頑として城は落ちなかった。敵の包囲網をかすめて、良弘は伊賀出身の郎党に美濃方面の情勢を偵察させ、幽斉と戦略を語り合った。
「身共なれば北陸の前田に向った大谷勢と、ここを包囲している小野木勢の合計三万を、直ちに古代からの街道の要地“不破の関”に集結して東軍を待ち伏せるがのう」
 と嘆じれば、幽斉も諾いて
「左様々々。そして何よりの旗印に千成瓢箪と幼い秀頼公を出馬願い、高見の見物させながらの天下分目の大戦に持込めば云う事はない。さあそうなればお互いに年貢の納め時となろうて。ハッハッハッ」
 と声を合わせて大笑し、茶会にしたと云われている。
 幽斉はその覚悟を胸に収めながら、帝の弟になる八条宮宛に「古今伝授の奥儀」を手品の種に仕掛けたのが効を奏し、僅かな老弱兵で二カ月近くも降伏開城を引き伸していた。そのうち、天下の名城・岐阜城がアッと云う間に落ちた事が西軍の諸将の臆病風をそそった。伏見城を落とした小早川秀秋(*1)は一万六千を率いてさすらい続ける。淀君(*2)の妹婿・京極高次(*3)が大津城に籠って叛旗を翻えしたのが九月上旬だった。
 家康側近の記録によればその行動を
「九月十日、熱田着。海辺の村々四、五ケ所炎上し居り、沖には紫に白桐の幕はりたる九鬼嘉隆の大船鬼宿丸ら悠然と浮びたり。よって家康公は一の宮より引返し、清洲城に入らる」
 とある。
 家康は四万の軍を率いて清洲に到着した。この報は、大垣城の北方・杭瀬川をへだてた赤坂に進出していた東軍先陣の士気を高めた。藤堂勢は関ヶ原の宿場を焼いて家康を喜ばせる。

(*1)こばやがわひであき(はしばひでとし)。秀吉の正室・高台院の甥。正室は毛利輝元の養女。羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊に。後、秀吉の命で小早川隆景の養子、秀秋と改名。▽関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。一説に、当初から東軍と内通していたとも言われる。戦後、西軍の宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石に加増。▽2年後の1602年に死去。享年21。無嗣につき、小早川家は断絶。
(*2)Chap2豊家の巻2.6太閤、雫と消ゆ、を参照。
(*3)きょうごくたかつぐ。近江で浅井氏の下克上を受け没落した名門京極氏に生まれる。▽豊臣秀吉の側室である妹(竜子)や、淀殿の妹である妻(浅井初。常高院)の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれた。▽関ヶ原の戦いでは居城の大津城に妻とともに篭もり、一万を超える西軍を引き付け関ヶ原へと向かわせなかった。その功により若狭小浜へと封ぜられ、京極氏の再興を果たす。


(7)石田三成、毛利輝元に即時出陣を乞い続ける
 四万の軍を率いて清洲に到着した家康に比べて、毛利輝元は一向に姿を見せない。西軍の動揺は掩うべくもなく、藤堂や黒田の誘いで次々に内通する将が出たらしい。
 焦った三成は、九月十日、周参見主馬に佐和山から水路大津に急行して大阪に馳せつけるよう命じた。毛利輝元宛に
「家康西上の風説もっぱらなり。急ぎ秀頼公を奉じて出馬され全軍に下知を乞う」
 との一書を持たせ
「必ず直ちに出陣されるよう強く要請せよ」
 ときつく念を押し、主馬もその責任の重大さに身の引き締まる思いを感じつつ大阪に急行したらしい。
 かねて三成は、大谷の作戦計画に基づき、関ヶ原の南に聳える松尾山に豊臣秀頼の本営を置く山城を構築中であった。

・まず大垣周辺に集結した八万の西軍で、東軍と対持してその進撃を喰止める。
・次に舞鶴を落した福知山の小野木勢一万五千と、目下、大津城攻略に向った毛利元康、立花宗茂の一万五千を落城次第、関ヶ原の戦線に投じる。
・そして、やがて到着するであろう輝元の奉じる秀頼公以下四万五千をこの山城一帯に布陣させ、城頭に千成瓢箪の大馬印を翻して決戦を展開する。

 と云うのがその大戦略である。
 三成は、九月十二日付の手紙で再び増田長盛(*1)宛に
「江濃の境に築いた松尾山城には、中国衆(毛利勢)を入れ置かるべき御分別こそ、尤も存じ候。」
 と力説している。
 これは先日、周参見を大坂に走らせ、輝元に即時出陣を乞わせ、承諾させたのに
「留守を狙い増田が家康に内応するらしい」
 との噂が飛び、亦もや輝元の腰が上らなかったためである。
「輝元、出馬なき事、家康上らざれば要らざるかと存じ候えども、下々は此儀不審なりと噂し居り候。
 また貴公(増田長盛)と家康との間に人質は殺さぬ密約あり、為に大軍を率いる秀秋も内通せりと敵側は勇み居る由、このままにては裏切や内通が続出するかと思われるにつき、厳しく処置せられよ」
 等と色々書き送っているので、三成の苦労が判る。
 それにしても目と鼻の岐阜に家康本軍が到着しているのを知らなかった西軍の情報網の頼りなさが痛嘆される。現にこの文書も大津の東軍に奪われて大阪に届いていない。誠にもって“不運”としか云いようがない。

(*1)ましたながもり。豊臣政権五奉行の1人。▽秀吉が信長の家臣の頃から仕えていた古参家臣。上杉景勝との外交交渉や太閤検地などで功績を立て、秀吉に大和国郡山城に20万石の所領を与えられる。朝鮮出兵にも従軍。▽家康に三成の挙兵を内通し、関ヶ原の戦いには不参加で、大坂城の留守居を務めていた。戦後、家康から所領を没収されたが、一命は助けられて身柄を高野山に預けられた。▽1615年(元和元)、徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂の陣で出奔して豊臣氏に与したため、自害を命じられた。享年71。

(8)杭瀬川の戦い〜西軍一勝〜
 九月十二日、舞鶴城が降伏開城と決した。
 続いて刻々と関ヶ原大戦が迫っていた十三日の早暁から、猛将・立花宗茂(*1)ら一万五千の精鋭を挙げての大津城急襲作戦が開始される。その日のうちに二ノ丸、三ノ丸が陥落、十四日には高野の木食上人(*2)の尽力で降伏開城となる。
 然しその朗報が大垣に届かぬ九月十四日、かねて西軍幹部は大谷刑部を交えて軍議の結果
「いかなる家康も九月半ばには上杉、佐竹、真田らに三方から攻め立てられて上洛出来る筈はない。よって九月十六日を期して赤坂の敵を追い立て続いて清洲へ攻め下らん」
 と結議。準備を急いでいる最中に、上杉や佐竹にからまれている筈の家康が突然大垣の対岸にある赤坂に現われた。そして歴戦の武功に輝く金扇の大馬標を翻したから、三成も愕然としたらしい。それを見た島左近は、味方の志気高揚の為にも、家康の面前で敵を痛打する要ありと進言。
 島左近は、蒲生郷舎と共に杭瀬川を渡ると敵前で稲刈を始めた。これを見た中村一栄、有馬豊氏らが柵を出て追い払わんと出撃して来る。それを誘い出し、散々に打ち破ると兜首百八十余を挙げた。意気揚々と引揚げ、家康の鼻をあかせたあたりはさすが島左近であった。

(*1)たちばなむねしげ。陸奥棚倉藩主。のちに筑後柳河藩の初代藩主。
▽九州平定…統虎(幼名)は智勇に優れた名将として、大友宗麟をして豊臣秀吉へ、「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と言わしめた程の武将。秀吉から筑後柳川に13万2,000石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名に。
▽小田原征伐…秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花統虎という天下無双の大将がいる」と、高く褒め称えたという。
▽文禄の役…数で誇る明軍を撃破し、小早川隆景が「立花家の3千は他家の1万に匹敵する」と評するほどの獅子奮迅の活躍、秀吉からも感状を拝領。
▽関ヶ原の戦い…徳川家康から東軍に付くように誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶。9月15日の本戦には大津城を攻めていたために参加できず、西軍壊滅を知って、大坂城に引き返した。大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元は聞かず家康に恭順したため、自領の柳川に引き揚げた。
▽引き上げる時…父の仇である島津義弘と同行。関ヶ原での戦で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退けた。島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついたが、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)に攻められ、家康への恭順を示すため自身は城に残って、家臣団だけで出陣。
▽関ヶ原後…改易されて浪人に。その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、拒絶。清正は諦め、食客として遇したという。しかし徳川家康からの熱心な引き合いは断り難かったようで、まもなく陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰。最終的に3万5,000石を知行し、この頃から宗茂と名乗っている。
▽大坂の陣…家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという。戦後の元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳河に10万9,200石を与えられ、大名として完全に復帰。
▽島原の乱…戦略面の指揮、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せた。諸大名は武神再来と嘆賞。
▽寛永15年(1638年)、家督を忠茂に譲って致仕・剃髪。寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。
(*2)Chap 2豊家の巻2.2秀吉の紀州征伐を参照。


(9)石田三成、島津の申し出を拒む
 西軍は久方ぶりに胸のすく思いだったろうが、予期せぬ家康の出現に三成は急ぎ使者を大谷に走らせてその意見を求めると、再び諸将を招いて軍議を開いた。
 大垣籠城説と関ヶ原で野戦決戦論が出たが、
「東軍は一路佐和山をめざして進撃するらしい」
 と云う情報が入ったので、野戦決戦論に一決した後で島津義弘から
「家康本陣では遠野の行軍で疲れきったらしく守りも固めず眠りこけていると云う。今夜襲えば必勝疑いなし。我らが先峰を勤める故ぜひとも決行されたい」
 と強い要請があった。
 歴戦武功の義弘の申し出であり、先に墨俣で彼の進言を容れなかった事からも三成は当惑した。諸将と協議の上、再び拒んでいるが、周参見は
「此際は島津の顔を立て少数精兵で家康本陣を奇襲させ、その乱れに乗じて主力は一路関ヶ原に直行すべし」
 との意見だったらしく、左近がなぜ賛成しなかったか判らない。
 その夜七時、折悪しく降り出した大雨の中、秘かに大垣城を発した西軍は、石田勢を先頭に牧田道を迂回して関ヶ原に向った。しかし舞兵庫(*1)と共に泥路に悩みながら行軍していた周参見は
「島津らが家康本陣を襲い、我らは山路五里(二〇粁)を大廻り等せず、街道を直進すれば僅か一刻で関ヶ原に着き“逸を以て労を待てた”(*2)ものを」
 と嘆じ合ったようだ。

(*1)まいひょうご。前野忠康(まえのただやす)。一般的には「舞兵庫」の名で知られている。妻は豊臣家の老臣・前野長康の娘とされ、その縁で当初は豊臣秀次に仕え、若江八人衆の一人として各地を転戦、活躍。▽文禄3年(1593年)に秀次失脚時、豊臣諸将が秀次を見限る中、「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次助命に動いた石田三成に感激。以後、三成と行動を供にした。▽三成が加藤清正などに襲撃された時も、三成を命がけで護衛。▽関ヶ原の戦いでは石田三成隊の前衛部隊として黒田長政隊や田中吉政隊と激戦、何度も押し返すなど獅子奮迅の戦いをみせた。小早川秀秋隊の裏切りにより西軍が敗北濃厚になると、三成の恩に報いるべく、敵陣へ切り込み、嫡男とともに討死。
(*2)いつをもってろうをまつ。以逸待労(いいつたいろう)。戦力を温存しつつ、敵を疲労させてから攻撃する。『三十六計(中国の兵法書。作者や成立時期は不明)』


(10)石田三成、豪雨の中、馬を飛ばして打合せ
 そして三成は、豪雨の中を南宮山の毛利秀元、安国寺、吉川ら中国衆に作戦を打合せる。休む暇なく、その日やっと関ヶ原に姿を見せた小早川秀秋の布陣する松尾山城に馬を飛ばせた。
 後に勝敗の分れ目となる小早川勢を松尾山城に布陣させたのは大谷刑部一代の失策となる。しかし、刑部としては裏切りを噂される秀秋を第一線に配するよりも山上に置いて、まさかの時の用意にその山麓に脇坂、朽木、小川、赤座の四隊数千を配した。その上で、直接秀秋に対して
「明日こそ正しく天王山なれば秀吉公の霊に応えるべき」
 ことを懇々と訴えたようだ。
 側近の磯野ら小姓連は、三成が戦意の揚らぬ諸将を最後の督励に向かう後姿を見送り
「殿は元来が帷幕の謀将、雨中を飛び廻って風邪でもひかれねば良いが」
 と案じているが、不幸にもその予感が的中する事になる。
 栗原山の長曽我部陣で焚く篝火を目ざし、三成が懸命に馬を飛ばしていた頃。
 赤坂の家康は何とか得意の野戦に引込むべく、わざと佐和山攻撃の報を流し、服部半蔵に大垣城の動きを厳しく見張らせると、自分は行旅の疲れを休め、高鼾で寝込んでいた。
「西軍、秘かに城を出て関ヶ原に向う!」
 の急報が入ったのは夜半で、してやったり、と飛起きた家康は直ちに出撃を命じる。
 先峰には福島正則、黒田長政ら豊臣子飼の將を選んだのは、如何にも古狸らしい配慮である。
 猪武者の正則は勇み立って、火のつくように部下を叱咤し、雨と霧に煙る中山道を急進し始めたのは午前二時だった。西軍は地の利は得たが、六時間の行軍に“逸を以て労を待つ”作戦を展開する事はできなかった。度々の進言を拒まれた島津義弘などが、すっかりお冠になったのは当然かもしれない。
 元来が正義漢で知られた三成だけに、まさか豊家の一族であり、秀頼成人まで関白を約された秀秋が土壇場で家康に味方するとは思えなかったのも当然であろう。家康の目付役が松尾山城に秘そんでいる等とは夢にも思わなかった大谷や三成を責める事はできない。

http://blogs.yahoo.co.jp/ghostezweb/22182070.htmlより。
(11)開戦前
 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、冷雨をついて夜間四里余の山路を辿り、石田勢が関ヶ原の小関に到着したのは、夜半一時過ぎだったと云われる。
 途中で三成が単騎、南宮山麓諸将を“天満山の烽火を合図”に進撃し、東軍の腹背を突く作戦を打合せた。休む暇なく松尾山の小早川をたずねて秀頼公への忠誠を力説。大谷陣から本営に帰ったのは朝の五時で、下帯までしとどに濡れ、唇の色もなかった。
 下腹に妙にしみ込む痛みを感じながら、それでも三成は
「やるべき事はやった。後は天命に従うのみじゃ」
 との満足感に浸りながら疲れ切った五体を幕舎の一角に横たえ、一刻ほどトロトロとまどろみ、夜明けを待った。
 早暁と共に雨が上る。深い霧が関ヶ原一帯を埋め、相川山麓の笹尾山の石田勢に続く小関の島津、池寺の小西、八幡山の宇喜多、中山道を押えた大谷、そして松尾山、南宮山に布陣した総勢八万余の西軍。
 味方を眺めた周参見らは、島左近の令する
「忠義を冑に軍律を守り、必死の覚悟で必勝を期さん」
 を固く誓い合った。が、この大戦は既に数々の史書が出されているから、ここでは専ら石田勢の敢闘に重点を置き、その活躍を追う事にしよう。


(12)島左近、奮戦す
 開戦は午前八時で、西軍の最も左翼に陣した石田軍六千の先陣は、相川沿いに島左近、北国街道側には蒲生郷舎を配し、その後方に三成の本陣を置いた。
 左近は長男・信勝に
「家康の旗本まで斬り込む覚悟で働け!」
 と励まし、手兵を二分して一隊を柵内に置いた。柵外の一隊は自からが率い左手に槍、右に采配を持ち
「かかれ!かかれ!」
 と火を吹くように叫ぶ、その指揮ぶりは正に鬼神の如くであったと云う。
 東軍の右翼に陣した黒田長政、田中吉政、細川忠興、加藤清正勢二万は三成の首級を挙げれば功名第一と多勢を頼み、集中攻撃を展開した。しかし島の進退の見事さは目もくらみ肝もつぶれん程の凄しさで家康本陣に迫る勢いを示す。
「このままではいかん何とか島を倒さねば」
 と感じた黒田の鉄砲隊長の菅野は名手五十名を率いて右手の丘に散開し、猛烈な弾幕を張りめぐらして左近の脚に重傷を与えた。さすがの豪雄も従兵に負われて、暫し、柵内に退いた。
 これを見た東軍の田中勢は勇み立って突進したが、石田の大砲隊の猛反撃で忽ち撃退されて敗走。その機に乗じた蒲生郷舎の奮戦で、あわや総崩れ、と見えた折、横合から救援に参じた細川、加藤隊の力戦で辛くも持ちこたえる。

(13)島津豊久、動かず
 三成は昨夜雨中の各陣廻りで激しい下痢に襲われながら
「此機に東軍の右翼を包囲して一気に家康本陣を突かん」
 と全予備隊を投じて猛攻し、一時は石田隊の砲弾が家康本陣近くに次々と落下した。苛立った家康は刀を振り廻して近臣を脅かさせる有様で、本多忠勝らが奮戦して必死に喰止めたと云われる。
 関ヶ原軍記は
「敵味方おし分けて鉄砲を放ち、矢たけびの声天地をゆるがす。黒煙に日中も暗闇となり敵も味方も入り合い押しつ、まくりつ、攻め戦い、日本国を二つに分けてここを詮度と厳しく争う」
 と記している。
 笹尾山の本陣から眺めれば、盟友・大谷勢は、関ノ藤川を越えて、藤堂、京極隊を押しまくっている。宇喜多隊の先峰・明石全登は、福島正則、寺沢広高隊を四、五町も撃退する勇戦ぶりを示しているのに、隣りの島津勢だけは傍観している。
 三成は再三使者を走らせたが島津豊久(島津義弘の甥)は頑と動かない。遂には三成自身が馬を飛ばせ
「共に内府本陣を突かん」
 と要請しても
「今は各隊が思いのままに戦うのみ」
 と嘯いた。これは度々の献策が採用されなかった腹いせだろう。島津はかつて三成から財政立直し等で大恩を受け、誓詞を入れて感謝している。しかるに大事の場に臨んで、この態度は、義を知る者とは云えない。
 三成は黙って引き返しながらも、大谷の忠告が身にしみる思いであったろう。

(14)毛利秀元も小早川秀秋も一向に動かず
 けれど開戦以来三時間、戦局は西軍優勢のうちに進んでいる。
「今こそ狼煙を挙げて小早川秀秋、毛利秀元、長曽我部盛親勢四万六千に下山出撃させ、家康軍の背後を突くべき好機」
 と考えた三成は痛む腹を圧さえつつ
「狼煙を上げろ!」と命じた。忽ち笹尾山の上に白狐のような烽火が天高く立ち昇った。時に午前十一時と云われる。我に倍する東軍に対し、善戦敢闘を展開中だけに、松尾山、南宮山から逆落しに四万の大軍が襲いかかれば、東軍は袋の鼠となる事は必至だった。
 然るに毛利も小早川も一向に動かない。長束正家や安国寺恵瓊は毛利と共に進撃するつもりで再々督促の使者を走らせたので、秀元は先陣の吉川広家、福原広俊に出撃を命じた。しかし、かねて家康に内通していた彼らは「もっと情勢を見て」とか「先づ弁当をすませて」等と云い立ててさっぱり動かなかった。
 また松尾山の秀秋も内応の約束だったが、眼下に展開する戦局は西軍が優勢なので日和見的な態度に変り、一向に背撃に出ない。家康は
「あの小伜めに計られたか!口惜し々々!」
 としきりに指をかんだと云う。
 そして遂に我慢が出来ず、一か八か、山上の秀秋本陣に誘い鉄砲を打ち込ませた。
「早く態度を決めぬと攻め込むぞ」
 と云う嚇しで若い秀秋が剛気な性格なら逆に
「何をその気なら一戦交えん」
 と怒って東軍に攻め込んだろう。
 処が慄え上った秀秋はあわてて
「大谷勢の側面を突け」
 と命令した。それを聞いた先陣の松野主馬は
「そんな馬鹿な話があるか、わしは福島勢に突込む」
 と云って聞かず、遂には旗を折り、颯々と戦場を去ったと云う。

(15)小早川秀秋、裏切る
 小早川の一万数千は雪崩のように大谷吉継(刑部)隊を襲った。吉継は半ば予想されただけに六百の決死隊でがっちりと喰い止め、逆にその側面を突いたから、秀秋勢は忽ち四百近く討死し、家康の目付・奥平貞治も首を挙げられた。
 崩れ立つ小早川勢を見て藤堂勢が救援に向う一方、「秀秋裏切」と知って笹尾山から銃創の身にも届せず、慌しく援護に馳せつけた島左近の一隊が加わった。大谷勢の死物狂いの反撃が続くうち、かねて吉継が秀秋の裏切りに備えていた昔からの戦友である脇坂安治、朽木元綱ら五千の兵が、これまた鉾を逆さにして大谷勢に襲って来た。
 大谷勢がいかに勇猛とは云え、僅か三千に過ぎず、三方から二万の敵を受けては力戦玉砕するしかない。勇将平塚は

●名の為に 捨つる命は 惜しからじ…

 の句を吉継に送って討死。吉継も

●契りあらば 六つの巷に 暫し待て、遅れ先立つ 事はありとも。

 と返し、秀秋を呪いつつ、切腹する。
 最も勇猛果敢に戦っていた大谷勢の玉砕は、宇喜多軍に波及した。それを見た宇喜多秀家は
「総大将たる輝元が約束を違えて出馬せぬ為に、毛利は只見、秀秋めは裏切。行末どのような世になるか凡そ察しはついた。左様な汚い世に生きとうはない。人面獣心の秀秋めを死出の首途に討ち果して、太閤の下に参じん。共に死なんとする者は続け!」
 と怒号し、愛馬に鞭打って秀秋本陣をめざそうとする。それを老功の重臣・明石全登は
「大将たる者は最後まで志を捨つるべきに非ず」
 と慰め励まし、戦場から落した。
 三成から
「共に内府本陣に突入を」
 と懇請されても頑と戦わなかった島津隊は、味方の敗走を横目に敵中を突破して伊勢路に逃れんとした。豊久以下の大半が討死。島津義弘と兵七十が辛くも薩摩に落ち延びている。

(16)最後に残った石田勢
 最後に残った石田勢は尚も家康本陣を突くべく力戦奮闘を続けた。勝ち誇る東軍を七度も撃退して、日頃から文吏と嘲笑された三成の面目を一変した。特に島左近の勇戦は凄まじく、彼を銃撃した黒田勢の菅野正利などは後々まで彼を賞賛し続けて
「鬼神をも欺くと云われた左近の獅子奮迅の有様は今も尚、瞼に焼きついて離れぬ」
 と思い出話をしている。
 その島も大谷救援に赴いて帰らず、蒲生郷舎(*1)は織田有楽を馬上から斬落しながら敵の包囲下に討死。それを知った嫡子・大膳は

●待て暫し 我ぞ渡りて 三瀬川、浅み深みを 父に知らせん。

を辞世に討死した。大剛・藤堂玄蕃を討取った島の嫡子・信勝と共にその死を惜しまれる。
 軍師・舞兵庫は、大勢如何とも為し難いと知るや
「いざわしも最後の一稼ぎ」
 と笑って駒に跨がりつつ、周参見に
「一刻も早く主君を戦場から落し、再挙を計られるよう進言せよ」
 と命じて戦場に突進した。

(*1)さといえ。関ヶ原の戦いにて織田有楽を負傷させるも、その後討ち取られたという話は、同姓の別人蒲生喜内頼郷との混同とも云われる。

(17)石田三成、敗れる
 周参見は直ちに本陣に参じ、三成に舞の意向を伝え
「かねて万一の用意にと快速船数隻を朝妻筑摩港に用意させてござる。間道を急げば精々四里、それより湖上を突走れば夕刻には佐和山に着きましょう。直ちに御出発を!」
 と迫ったが、三成は
「必死に戦っている家臣達を見捨て予独りが逃げられるか、内府を討ち取れば戦局は一変する。勝負は最後の一瞬まで投げてはならぬ」
 と聞かず、周参見もやむなく前線に戻って死力を尽した。
 けれど午後二時を過ぎるや、老躬に鞭打って早暁から奮戦し、黒田の勇将・後藤又兵衛と激闘百合の後、遂に相引きとなった程の豪将・渡辺勘兵衛が重傷の身で三成に名残りを告げに帰ると
「戦さは最早これまで。即刻落ち延びて再挙を計られよ」
 と熱涙を滴らせた。
 渡辺勘兵衛は、三成が五百石の近習の頃、全額を投じ「将来は十万石を与える」約束で召し抱えた勇将だけに、三成もやむなく落ちる気になって
「かねてそなたに十万石を与えんとの約も夢になったのう」
 と痛恨な面持ちで別れを告げた。そして近習らと共に相川山に姿を消し、周参見が再び本陣に取って帰した時には既に三成の姿はなく
「各自思い思いに戦場を離脱し大阪にて再会すべし」
 との命令のみが伝えられたので、一族十余人と朝妻筑摩港をめざして馬を飛ばし、幸い敵と会う事もなく乗船すると、一路大津をめざし脱出している。

(18)石田三成、捕らえられる
 佐和山では敗戦と聞き、千余の決死の救出隊が関ヶ原をめざし、駆けつけたものの遂に主君の姿を発見できなかったのは、三成の天運の尽きる処であったろう。
 両軍の死傷者は三万余と云われる。主を討たれた鞍置馬千五百頭が戦場を狂ったように走り廻る中に、午後四時頃から沛然たる豪雨が降りしきり、不破の川水は戦死者の死骸を押し流し、水の色も朱に染んで見えたと云う。
 そして一夜が明けた翌朝
「最後までお伴をして生死を共にしたい」
 と懇願する磯野ら近習に
「大坂で再会しよう。予のことは案ずるな」
 と笑って只ひとり山路に分け入った三成は古橋村の三珠院に隠れていた。しかし里人の噂となったので、更に山奥の洞窟に移り、百姓与次郎の世話を受けていた。
 然し家康の厳命で、金百枚に永代無役の莫大な賞金が賭けられたのを知った与次郎の婿が名主に訴え出た。三百余の追手が洞窟を包囲し、腹を傷めて起居もままならぬ三成は
「もはや天命つきたり」
 と高月郡井ノ口村の田中吉政の陣に曳かれた。
 時に慶長五年(一六〇〇)九月二十一日だった。

(19)小早川秀秋の最期
 田中吉政は三成の世話で秀吉に仕え出世した間柄だけに三成の顔を見ると
「今度天下の大軍を率いて存分の合戦をなされた智謀の程は、後世長く傅えられましょう。勝敗は天命にて人力の及ぶ処ではありませぬ」
 と慰める三成も
「秀頼公の為に大害を除き太閤殿下の厚恩に報い奉らんと思い立ったが、武運も尽きたのであろう。乱軍のまま戦いの成り行き敵味方の働きも定かでなかった故、しかと見定めて地下の太閤に報ぜんと存じ、かくの体じゃ」
 と微笑み、秀吉から賜った正宗の短刀を遺品に与えたと云う。
 然し二十五日に大津の家康の陣に連行されるや、本多正純の邸の門前に縄付きのまま晒され、心ない東軍の諸将の冷笑を浴びた。
 三成は平然とこれに耐えたが、小早川秀秋が勝者面をして現われた時だけは腹にすえかね、
「金吾!そちはそれでも人間か!日本中にそちぐらい根性の腐った男は二人とおるまい、見下げ果てたる二股武士め!」
 と叱咤し、秀秋は一言もなく意気消沈して逃げ去ったと云うが、
「おのれ人面疑獣心の秀秋め、三年が間に必ず人の怨念のあるやなしやを思い知らせてくれる!」
 と叫んで死んだ大谷や三成の祟りであろうか。小早川秀秋は備前ら七十三万石の大守となったのも束の間、二年後には精神錯乱して狂死し、跡絶えて千年の汚名をさらす。
 然し裏切りを命じたのは何と北政所(秀吉の正室)であったのを知る人は少ない。

(20)石田三成、処刑さる
 三成が処刑されたのは十月一日だった。前日は後手に縛られ、首には鉄輪をはめられて、裸馬で堺、大阪を引廻され、当日は輿で都大路を数万の群集の目にさらされた。三成らが洛中を引き廻されるのを一目見ようと数万の貴賎群衆が争って押しかけ、野次馬共が
「治部少輔が天下を取った態を見ろ」
 とはやし立てると三成は、
「わしが大軍を率いて天下分目の大戦を為した事は天地の破れぬ限り語り継がれよう。そう囃し立てる事はないぞよ」
 と悠然と笑ったと云われる。途上で獄吏に白湯を所望した処、
「そんなものはない。柿でも食え」
 と云われ
「柿は身体に毒じゃ」
 と断る等、最後まで毅然たる態度で数々の逸話を残している。
「大義を望む者は、息のある限り命を惜しみ、本望を達せんと尽すべし」
 との教訓を歴史上に止めたのは、武人の亀鑑とすべきであろう。この情況を見た公卿・山科言経も日記に
「治部少輔六条河原にて生害、首は三条橋畔に架けらる言語同断なる貴賤群衆なり」
 と彼を悼み、家康を始めとする心ない野次馬共に憤激している。

(21)勝敗とは
 私は日本史上を彩る武将の中で最も清廉な英雄と云えば源義経、楠木正成、石田三成、真田幸村、西郷南洲の五人と考えている。いずれも敗軍の将となっているのは
「天は、英雄の末路を悲劇を以て終らせる事により、万世の生命を恵む」
 と云う詩人の言葉通りと信じている。
 只、人間の成功に社会的と人間的の両面があるように、戦いにも浮世の勝敗と人間の勝敗があり、それを判断するものは悠遠な歴史である。義経、正成は帝に殉じ、三成は秀吉に殉じた。勝てば官軍で、徳川時代に三成は姦臣の首魁とされた。家康の子孫・水戸黄門だけはさすがに
「三成は豊家の忠臣なれば憎むべきにあらず」
 と断じ、哲人大西郷も
「成敗存亡君説く事勿れ 水藩の先哲公論あり。」
 と詠じてその義戦を賛えているのは嬉しい。

(22)九鬼嘉隆、死す
 百を数える西軍大名の中でも世界最初の鉄製艦で名を上げながら悲運だったのは九鬼嘉隆である。堀内と新宮に落ち、熊野一円に安住の地なしと知るや、再び志摩の石島に逃れたが、ここも危く、和具の娘婿の青山豊前守邸に潜居した。
 その頃、九鬼守隆は何とか我功に代えて父の一命を許されたいと懇請したが、家康は仲々許さない。それを知った九鬼の家臣・豊田五郎衛門は勝手に
「残念ながら御助命は困難と思われます。此際お家の為にも潔よい御最後を」
 と進言し、嘉隆も覚悟を決めて答志島の潮音寺に移った。
 やがて十月十二日、かって日本水軍の勇将として遠く大陸にまで武名を轟かせた豪雄も九鬼家と子孫の繁栄を計る為に、青山豊前の介錯で従容と自刃して、五十九才の生涯を閉じた。父と行動を共にした五男、六男は後を追い、七男は朝熊山金剛証寺に入って出家し、その菩提を弔う事になった。
 嘉隆の首を伏見城の家康に見せるべく、青山が涙ながらに答志島から鳥羽城に帰り家臣一同に見送られて出発した。家康の助命書を持った守隆の急使と出会ったのは伊勢の明生茶屋だったと云われる。家臣・豊田の独断を知った守隆は激怒して、堅神村で極刑に処したと云う。
 家康から二万石を加増され、守隆の所領は五万五千石となった。しかし父の死を悼んだ守隆は、答志島の山頂に首塚を大隅大明神として祭り、山麓の胴塚に五輪塔を建てて、深くその冥福を祈っている。そして鳥羽城の裏手にある豪壮な菩提寺・常安寺の九鬼家歴代当主の墓碑の林立する中でも中興の祖・嘉隆の五輪塔は一際立派なものである。


back