Chap 3  徳川の巻

3.1  天下分目の戦い

3.1.1 舞鶴城の力斗

(1)日本全土の総石高は一八五〇万石
 慶長三年(一五九八)八月、秀吉が幼い秀頼の前途を思い患いつつ、名残り惜しく世を去った時、「太閤検地」による日本全土の総石高は次の一八五〇万石に達している。

 朝廷公卿 十二万石
 寺院   十五万石
 神社   十三万石  (計 四〇万石)
 武家
  豊臣 二二〇万石
  徳川 二五五万石
  毛利 一二〇万石
  上杉 一二〇万石
  前田  八九万石
  宇喜田 五七万石
  小早川 五二万石
  佐竹  五四万石
  伊達  五八万石
  島津  五五万石
 以下三一〇家 七三〇万石 (計 一八一〇万石) 【総計 一八五〇万石】

 信長が本能寺で倒れた時、その支配地が四百万石余に過ぎなかった事を思えば、下剋上の戦国乱世を泰平の世にした主役は、やはり秀吉だったと云えよう。
 もし彼が大陸制覇などと云う信長譲りの夢を抱かず、あくまで天皇の臣下である関白として万民の泰平をめざし、豊臣一族と子飼の大名達の一致団結に心を配りながら豊臣政権の組織強化に努めれば、例え秀頼が幼くても僅か三年で崩壊するという惨めな事態を招く事はなかったろう。

(2)前田利家、死す
 明けて慶長四年(一五九八)一月、遺言によって秀頼守役として大阪城に移った前田利家と、伏見城によって政務を任された家康派の対立が生じた。これは今まで律義者で知られていた大老筆頭の家康が、誓紙によって定めた掟を次々破棄した為である。それを知った利家らは
「家康の横暴を見逃す事は出来ぬ」
 と激怒した。
 常々論語を愛し
「以て六尺の孤を託すべく、百里の命を寄すべし、大節に臨みては奪うべからず、君子人か君子人なり」
 を信条とする利家は
「秀吉公が今わの際に『秀頼の事ひとえにお願い申す』と繰り返されたのを決して忘れはしない。」
 と死を決して伏見に向かった。
 然し利家の病重しと見た老獪な家康は「待てば海路の日和」と考え、逆に歓待して帰した。秀吉の葬儀は方廣寺で盛大に挙行されたが、大役を終えて安心したか、利家の病は一段と重くなった。
 閏三月三日、利家は我亡き後三年以内に大乱勃発を予期して
「利長、利政兄弟は各八千の兵を率いて大阪と金沢に分れて詰め、秀頼公に謀反する者あれば金沢の兵は直ちに大阪に馳せつけ、一手となりて忠誠を励め。利長は三年間は大阪を動くな」
 と遺言し、秀吉の死後僅か八ヵ月で友の跡を追うように世を去った。

(3)石田光成、命を狙われ、佐和山に帰る
 利家が死ぬと、待っていた加藤、福島ら武断派が
「朝鮮で三成方の目付共が不正な報告をしたから太閤から叱責された。奴らに腹を切らせろ」
 と三成に迫る。
 正義感の強い三成は
「飛んでもない申し条だ。万事は上様の命であり、目付らの口出しを許されぬことは承知の筈じゃ」
 と突っ放ねた。このため、
「三成を殺してしまえ」
 と云う騒ぎになる。泉下の太閤は
「何と阿呆共が」
 と泣いていたに違いない。
 その計画を知った三成の朋友の佐竹、宇喜多、上杉が驚いて駆けつけた。しかし何しろ急な話だけに用意が整わない。三成は遂に死を覚悟して家康の邸に乗り込み、刺し違えても豊臣の禍根を断たんとした。
 騒動の黒幕だった家康もまさかと驚いたろうが、忽ち大狸の本性を発揮して武人派を圧さえて仲に入り、三成には奉行を辞職して佐和山に隠居するように命じる。
 三成も己の失脚よりも、この後のことが気にかかったのだろう。即答せずに直江兼続や上杉景勝らに相談した。すると、景勝は
「いずれ我らも会津に帰るが今度は容易に上洛せぬ決意じゃ。家康は恐らく討伐の兵を起すじゃろ。わしが手強く戦っている隙に貴公は大阪に出て友を集め挙兵されよ」
 と力強く約した。
 それを聞いて三成も大いに喜び固く密約を結ぶと伏見を去るが、その前夜、盟約を知らぬ島左近は
「今空しく佐和山に帰るより、私と蒲生郷舎に二千の兵を授けられれば、家康邸を襲い風上より火をかけ追いつめて必ず討ち取って見せ申す」
 と強く進言した。しかし三成は上杉との密約を守って島にも洩らさず、黙々と佐和山に帰っている。
 帰国直前に直江兼続が当代きっての学者・藤原惺窩を訪ねて
「継絶扶傾(*1)、は古聖の言と聞きますが、今日もこれを行う事が出来ましょうか」
 と尋ねた有名な話がある。これは絶え傾かんとする豊臣家を救わんと云う意味で直江や三成らの悲願であり大義名分でもあった。が、惺窩は黙して答えなかったという。正しいと云えば命のないのが判っていたからである。

(*1)けいぜつふけい。絶滅せんとする王朝を途絶えさせず、傾きつつある国を助ける。『大唐新語(巻十二)』豊臣家を助け、徳川を抑えること。

(4)上杉景勝と石田光成、立つ
 慶長四年(一五九八)九月になると、大阪城を我物とした家康は
「前田と浅野が家康暗殺を計った」
 との噂を流して前田討伐を騒ぎ立てた。それを知った前田側も熱血漢の次男・前田利政は遺言通り決戦を叫び、温和な利長も一時はその気になった。
 然し夫の遺言を忘れ、お家大事の母の言葉に従った。ひたすら陳謝し、母を人質にして加賀百万石の安泰を計ったのだが、何とも情ない話である。
 これに味をしめた家康は、翌慶長五年(一六〇〇)に入ると、次は上杉討伐にかかる。四月に謀叛の糾問使を派遣し脅し立てたが、かねて三成との密約通り着々と戦備を整えていた上杉方は厳しくはねつけた。
「秀頼公を見放し天下人となろうとも悪人の名は逃れまじく候」
 と後世に徳富蘇峰(*1)が、関ガ原戦没に於ける比類なき一大快文書と激賞した程の手紙を家康に叩きつけた。
 激怒した家康は六月半ば大阪を出陣して北上した。それを知った三成は
「時節到来!」
 と勇み立ち、七月二日、会津攻に向わんとする親友の大谷刑部を佐和山に招いて家康打倒の計画を打ち明け、尽力を乞うた。
 当代きっての戦略家で知られた大谷は
「時期尚早にして勝算なし」
 と逆に堅く戒めたが、三成は
「豊臣家の将来を思えば時は今しかない。上杉との盟約もあり見殺しには出来ぬ」
 と譲らない。遂に三成と生死を共にする覚悟を決めた大谷は次の二つを忠告している。
「常々、義を笠にきた横柄な態度を改め、今回の挙兵も毛利、宇喜多を大将に奉じて事を運ぶ事。
 また智恵才覚に双ぶ者はないが、勇断に欠ける点を反省せよ」
 こう手厳しく直言したのも、長年の親友なればこそであったろう。
 三成も素直に耳を傾けると、秘そかに招いていた毛利の政僧・安国寺を交えて綿密な作戦計画を練り上げた。
 久方ぶりに大阪に姿を見せたのは七月十六日で、計らずも淀川を下る船上で玉造の細川邸が炎上するのを目にして愕然とする。

(*1)とくとみそほう。1863〜1957。ジャーナリスト、歴史家、評論家。徳富蘆花は弟。

(5)細川幽斎、防戦す
 そして同じ日(七月十六日)、里夕斉・井戸良弘は、細川ガラシャ夫人(*1)の夫である細川忠興の居た宮津城にいたのも不思議な縁であった。
 と云うのは、この年はガラシャの父である明智光秀の十七回忌にあたり、かねて良弘は
「太閤在世中は果せなかった供養を、同じように玄旨(細川)、善玄(井戸)と入道した我ら二人で心ゆくまで弔いたいが」
 と便りをしていた処、幽斉(*2)も喜んで
「天下の名勝である天ノ橋立で供養の茶会を開きたい」
 との返事が届いた。
 それで井戸良弘は、明窓智玄(明智光秀)の命日である六月十三日に予定して旅立つ積りだった。しかし何せ六十半ばを過ぎた年だけに、折悪しく風邪に侵され、一カ月遅れの七月十三日、熊野からやって来た息子の泰弘を伴って宮津を訪れた。
 待ち兼ねていた幽斉(細川藤孝)と緑したたる松の根方に茶亭を設け、夏の夜もすがら光秀の冥福を祈ったばかりであった。
 そして引き留められるままに滞在するうち、大坂玉造り藩邸での事件の急報が入ったのは十八日の夜だったと云う。
「東軍の諸将の妻子を人質にせよ」
 との三成の命を受けた島左近が一足先に大坂に入り、諸街道口や安治川、木津川に舟番所を設けて厳戒体制をしき、細川邸を包囲して強引に夫人達を城内に連行せんとした。
 かねて夫から
「まさかの場合は潔くし、細川の名を汚すな」
 と命じられていた妻の玉子はそれを拒んで、留守居役・小笠原少斉に玉砕を命じ、幼い二人の子と共に自刃して果てる。
 急便によってそれを知った幽斉は、宮津らの小城を焼き、五百の家臣と共に舞鶴田辺にある丹後十二万石の本城に籠城する。
 浮世をすてた一介の風流人として気ままな日々を送っていた良弘は、東西いずれに味方する気もなかったが、窮地に立たされた老友を見殺しにはできず
「頼まれたからにゃ、降りかかる火の粉を払わにゃならぬ」
 と息子の泰弘や郎党達にも因果を含め、幽斉を補佐した。僅か五百の老幼兵や、近辺から馳せつけた知友の僧らを要所々々の配置につけ、防戦準備に奔走したらしい。

(*1)明智たま。明智光秀の三女。細川忠興の妻。キリシタン女性として有名。明治期にキリスト教徒らが讃えて細川ガラシャと呼ぶようになったが、この時期は夫婦別姓であり、本来は明智珠と呼ぶべきであろう。
(*2)細川藤孝(ほそかわふじたか、後の幽斎)と忠興(ただおき、細川ガラシャの夫)の父子は、織田信長の命により、明智光秀とともに丹後を平定。信長から丹後国を与えられ、宮津城と田辺城(舞鶴城)を建てて父子は丹後を統治。本能寺の変の後、藤孝は髪を切って隠居となり幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と称し田辺城に住む。細川幽斎は、剣法を塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘から弓術の印可を受け、弓馬故実を武田信富から相伝されるなど、武将として秀でていた。それだけでなく、若くして歌道や連歌の道を学び、「古今伝授」を受けて和歌の伝統を継ぎ、茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職故実などあらゆる学問、芸能の奥義を極める。当代随一の文人としても名高く、文芸に関する数多くの著述を残す。

(6)細川幽斉、引き延ばし作戦に出る
 石田三成が細川夫人の悲壮な最後を聞いて人質にする事を中止し、毛利を総大将、浮田を副将に推して作戦会議を開いたのは七月十七日である。
 先ず十三条に及ぶ家康の不埒な行為を糾弾した趣意書を各大名に発して義戦参加を求める。そして人質を取られ東軍につくのは必至と思われる舞鶴城の細川幽斉、加賀の前田利長らを含め、次の作戦を決定した。

一、浮田秀家を将とし、石田三成を参謀長とする先陣四万で伏見城を落し、美濃、伊勢に進む。
二、舞鶴城へは小野木ら一万五千、前田に備え大谷ら三万を北陸に進める。
三、総大将・毛利輝元、参謀長・増田長盛ら四万は大坂に在陣し、徳川家康西上の際は全軍を率いて美濃に進み決戦する。

 檄文に応じて参集した大名は百二十名、その兵力は十八万人。禄高で云えば九百万石に達し、正しく天下分目の大合戦となった。僅か二十万石の文吏・石田三成の必死の活躍がここまで大勢を動かしたのである。これは当時の大名達の大半が、武人派の加藤らを除いて、家康の野望を憎み、秀吉への義を貫ぬかんとする三成を正論と見たからだろう。
 そして、三成にせかされて福知山城主・小野木公郷を大将とする一万五千の大軍がひしひしと舞鶴城を包囲した。砲撃の雨を降らし始めたのは七月二十一日だったと云う。それを知って
「ガラシャが豊臣秀頼公の命を素直に聞けばこんな事にもならなかったろうに。武士の子は義によって死ぬのが常であると、幼な子を刺し殺して自らも死んだと云うが、秀頼公の命に従うのが眞の義であろう。はてさて気丈すぎる嫁も困ったものじゃ、治秀(良弘の息子)の妻にもよう云うて置かにゃならんな」
 と、良弘は内心そう思いながらも、大手の第一戦の指揮をとり防戦に懸命となったらしい。
 西軍の寄手の中には幽斉の歌道の門人も交り、格別怨みのあるはずもない。また里夕斉の親しい大名もいたらしく、中には空弾でお義理で戦うまねをしてお茶を濁している者さえいたと云う。
 それでも半月もすれば籠城が苦しくなるのは当然で大将の幽斉自身も世渡りの巧みな人物だけに色々と思案の末に朝廷の八条宮に対し
「古今伝授の奥義がこのまま絶えるのが残念でなりませぬので、是非お譲り申したい」
 と云う使者を出した。
 それを見た親王は勅使となって城を訪れ
「和議を結んで城を開け」
 と説かれたが、幽斉は
「武人の本意に非す」
 と拒んで引きのばしを計ったので、朝命を重んじた西軍一万五千が、二ヵ月近くも時を空費することになる。


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