Chap 2  豊家の巻

2.6 太閤、雫と消ゆ

(1)次の天下人は誰か
 慶長二年(一五九七)正月、かねて「我が大志を継ぐものは三成」と日頃寵愛して来た石田治部少輔が再三諌めるのも聞かず、独裁者・秀吉は再び朝鮮出兵を断行した。その秀吉が病に侵されたのは、翌春。豪華を極めた醍醐の花見の後である。
 微賤の身から天下人に成り上がるまで五體を酷使し続けた上に、独裁者となるや美食と荒淫の限りを尽くした事が、その急激な老衰をもたらしたか。または、七年に及ぶ朝鮮出兵の心労が一段と秀吉の死を速めたと云えよう。
 慶長三年(一五九八)の梅雨が晴れても一向に恢復の兆も見えぬ五体を励ましつつ、さすが一代の英雄も再び起つ日もない死出の旅の訪れを覚り、己の重大な誤算に愕然となったに違いない。
「人たらしの名人」と称された彼の事だけに、律義面はしていても肚の底に天下取りの野望を燃やし続けている徳川家康の心境は、鏡を見るように明らかだった。
 今となって、「絞兎死して走狗煮る」政策を採り小田原平定後に家康を断固として力で征すべきだったとか、朝鮮出兵を命じて戦力を消耗させれば良かった、等と悔んでも後の祭りである。
「天下は力ある者の天下で単に天下人の子と云うだけで保てる世でない」と判っていても、秀吉が関白の座に就いてから二十年に近く、五大老、五奉行制の豊臣政権の組織も出来ている。
 何とか秀頼が成人するまでこの幹部達が協力して政治に当ってくれれば、政権は安泰である。そこで秀吉の目が黒いうちに
「家康を引退させてその子・秀康を大老に抜擢し、その弟・秀忠には徳川家を相続させ、所領二五〇万石を両者にわける」
 この事を太閤最後の命として遂行せよ、と云うのが三成の秘策とも云われる。
 結城秀康は傑物で、三成とも親しかった。後に家康が秀忠に家を継がせた時、
「なぜ兄の私を置いて弟に譲られたか」
 と問い、
「太閤の養子にやったから」
 と聞くや
「それでは私は豊臣秀頼と兄弟であり、若し秀頼を殺そうとする者があれば、私は大阪に入城し、あくまでも弟を助けて断固戦います」
 と云い切った程の人物である。秀忠のように従順だけで、生涯、父に頭の上がらなかった男とは桁が違っていた。
 秀吉亡き後、天下を望む器量のある第一の人物は家康であり、次は秀吉の信頼した三成、彼と肝胆相照した上杉の家老・直江兼続、秀吉の軍師として活躍しながらその炯眼さを恐れられ冷遇された黒田如水、そしてこの秀康だったと云う。
 尤も伊賀天正の乱で「蒲ぢがくる」と云えば泣く子も黙ったと恐れられた蒲生氏郷は
「家康はけちで家臣を厚遇するのを知らん。あんな器量で天下が取れるものか」
 と笑ったそうだ。会津九十二万石に封ぜられるや
「もし家康が兵を挙げたらその尻に喰いついて断じて箱根を越えさせぬ」
 と前田利家に語った利休七哲で詩人。然も大の論語好きのキリシタン信徒と云う豪将・蒲生氏郷が生きていればもう一人ふえよう。

(2)秀吉、逝く
 然し慶長三年(一五九八)の半ばには秀吉の気力も尽き果ててこの策を實行できなかった。衰え切った肉体を励まして伏見城に諸大名を呼び、僅か六歳の子・秀頼に引見させた後、三成に向い
「せめて秀頼が十五歳になって今日の日を迎えるのを生涯の楽しみにしていたが、天寿はどうにもならぬわ」
 と涙を流した。続いて七夕の日になると秀吉は再び家康以下の五大老、中老、五奉行を呼び集め
「秀頼様に対して二心を抱かぬ」
 旨の誓書血判を取る。
 集団制で家康を圧さえんとしたのだが、それでも安心出来ない。八月には家康を枕元に招いて
「実の父とも思い、幼い秀頼の面倒を見てくれるよう頼み入る」
 と千姫(*1)を秀頼の嫁と定め、血縁の情によって野望を押えんとした。
 そして八月十八日
「返すがえすも秀頼こと、成り立ち候よう、真に頼み申候、名残惜しく候」
 を絶筆に六十三歳で世を去った。辞世は

●露とおき 露と消えぬる 我身かな……

で知られているが、実は

●露と散り 零(しずく)と消ゆる 世の中に、何と残れる 心なるらん。

の句が正しいとの説もある。
 子への盲愛に狂った彼の末路には英雄の面目は全くない。天下人として驕り、女色に溺れて、常々死生感を練る事を忘れた男の哀れさが身にしみる。
 恐らく秀吉は老衰の果にボケていたに違いない。さもなければ前に述べたような豊臣政権の大改革を断行して禍根を除くか、それとも天下は力ある者の支配に任せて万民の泰平を計るのが天下人たるの任と達観し、
「天下の事はすべて家康に任せる。唯秀頼が成人後はその器量に応じて身の立つように配慮してやって望しい」
 と云う事を、諸大名は勿論、北政所(*2)、淀君(*3)らを呼び集めた席で明言し悠然と死を迎えたに違いなく、その手本は丹羽長秀(*4)が身を以て教えている。

(*1)せんひめ。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は浅井長政と信長の妹・お市の娘である崇源院。
(*2)豊臣秀吉の正室であったねね
(*3)豊臣秀吉の側室。本名は浅井茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井菊子(あざいきくこ)。浅井長政の娘。母は織田信秀の娘のお市。織田信長の姪にあたる。同母妹に江(崇源院、徳川秀忠正室)、子に拾(秀頼)等がいる。
(*4)長秀の最期は、痛む腹を自ら切り裂いた上で、腸を握り出すという壮烈なものだったとも云われる。Chap 2豊家の巻2.3 大和百万石を参照。


(3)歴史は道徳を語らず
 慶長三年(一五九八)秋、巨星落ちた後にも懸命に、延べ四万隻に達する大輸送作戦をやり遂げ、出征軍を博多港に迎えに出た石田三成が在鮮中の労をねぎらい
「お疲れとは存ずるが、まず上阪され秀頼様を弔問された後、領国に帰られて戦塵を洗い落され、来秋に御上洛下され。其節は茶会でも設けましょう。」
 と述べると加藤清正は
「貴公らは茶会でも何であろうと好きなようになされよ。我らは野戦七年、労力も金も尽き果てて茶も酒もない有様じゃから、稗粥でも進ぜよう」
 と皮肉って居る。太閤の屍冷えぬ間に、子飼の大名達の間の文吏派と武人派に大きな溝が出来ていた事が判る。更に大政所(正室ねね)と淀殿(側室茶々)と云う妻と妾の対立がこれに油を注いで、遂には豊家の滅亡となったと云える。

 当時の二十万に及ぶ出征兵士の中での死傷は五割に近いと云う。後の日本陸軍のルールでは「全滅」で、日本全国に帰らぬ父や夫を待ちわびて眠れぬ夜を過ごした人々が如何に多かったことだろう。
 その中に主に代って、信長の嫡孫の岐阜宰相・秀信勢に加わった井戸覚弘一族は戦利品として高麗茶碗十数個に唐鞍を持ち帰った。そして、恐らく良弘の指示だろう。豊臣秀頼、徳川家康、筒井定次の主筋に各五個を献上している。
 天下に井戸茶碗で聞えた名器の本家が選んだ品だけにさぞかし見事な品だったに違いない。喜んだ徳川家康は、一門に配ると共に、その一個を「井戸」と銘して覚弘に返したのが世に大評判となったらしい。
 それを聞いた大坂の豪商達は順慶町の定次の邸に押かけて切望し、秀頼に乞うて下賜された者もいて、後世まで天下の名器として落語にまで持囃される程となっている。
 然し、これは全くの特例で、朝鮮出兵が如何に日韓両民族に悲劇をもたらせたかは幾百年をへた今日、韓国を訪ねれば明らかである。
 秀吉が日本民族の生んだ天才的英雄だった事は間違いないが、彼の存在によって“一将功成らず万骨枯る”と云う悲劇を日本全国の津々浦に波及した事もまた歴史的事実である。「古来征戦幾人か環る」の詩が心にしみる。
 敢えて繰返すが、世界史を展望すれば民族の興隆期には大英雄が出現して「強烈な自己主張と猜疑心、吾は神の子の信念と、果知らぬ名利と征服欲」によって、新しい兵器や戦法を組織的に駆使し、まず国家を統一し、次に国外に侵攻するのが歴史の常道である。
 そこには必ず流血と残虐な事件が発生する。世界最大の帝国を樹立したチンギスハーンは四十の民族を滅ぼし三百万人を皆殺しとし、美姫五百を奪って我物としたと云われる。その孫クビライは、我国を二度までも侵し、その命のまま、蒙、中、韓十数万が対馬、壱岐、九州を襲って民を殺傷した。「蒙古高麗」の名は「むぐりこくり=むごい」と云う古語を生み、やがて神風と云われる台風によって壊滅した。
 秀吉の侵攻はその反撃とも云え、弱肉強食を常とする古代歴史を後世に生れた道徳で論ずる事はできない。歴史は道徳を語らず、常に力が正義なのである。
 民族自決、人種平等主義の生まれた第一次世界大戦以後も、スターリンは四千万人を殺し、ヒットラーは八百万人を処刑したと云われる。
 条約を無視したスターリンによって満州は地獄と化し、親を求めて祖国を訪れる中国残留孤児が戦後五十年の現在も絶ゆることがなく、涙を誘う。更には不法に奪われた北方領土問題が尚も未解決なのだから、独り秀吉のみを責めるのは酷と云えよう。


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