Chap 2  豊家の巻

2.5 悲劇の朝鮮出兵

(1)秀吉、明攻めの準備をする
 秀吉の大陸征服の野望は信長に仕えていた頃から久しい念願だった。関白に就任した天正十四年(一五八六)には宣教師を大阪城に呼びつけ、
「下賤の身から最高の地位に就いた予は、天下を統一して泰平をもたらせば、弟・秀長に任せ、朝鮮と大明を征服して、その名を後世に残す決心である。
 大軍を渡海させる為に多数の軍船を用意させているが、汝らは充分に武装した洋船二隻に練達の水夫を用意せよ。勿論その代価は望み通りに与える。」
 と命じている事でも判り、以後着々とその準備を進めている。
 秀吉は物量作戦を得意とし、常に敵の二倍以上の兵力を用意するのが常であった。また単に武力のみでなく水攻めや長期包囲作戦で勝利を得て来た。今回も検地と人口調査を行い、百姓でありながら野良仕事に精を出さぬ怠け者は村の連帯責任とし、浮浪人はすべて追放成敗する等を厳命。
 各大名に
「海沿いの藩は十万石につき大船二隻、浦百戸に水夫十名を用意せよ、出征兵や水夫の田畑は村中で耕作させて荒れさせず、水夫には二人扶知と家族手当を出す。但し逃亡した者は一族まで厳しく罪を問う」
 と云った細部に及ぶもので、五山の僧を通訳とし、傷病者用の軍医群を同行させる等の細かな配慮まで見せている。
 秀吉の直領には十万石で大船三隻、中船五隻の建造を命じているからその数だけでも大船百隻、中船百五十隻に達する。優れた造船技術を持つ熊野沿岸の港々には注文が殺到して新宮港だけでも百隻を越える程だった。

(2)日本軍、緒戦の勝利
 文禄元年(一五九二)正月、遠征軍の編成が完了し、先陣は小西、加藤ら十四万、後陣は宇喜多ら六万、名護屋本陣には徳川ら十万が在陣し、総勢三十万に達した。
 然し水軍は、九鬼、堀内、来島らの海賊出身は少なく、藤堂、脇坂ら陸将を併せても一万に満たないのが致命傷だった。九鬼軍の日本丸(鬼宿)のように全長三〇m×巾一〇m、乗員百八十名砲六門を備えた大船でさえも、その内容は戦艦と云うより輸送船に近かったと云われる。世界初の鉄装艦隊を実現した信長を師に持ちながら、秀吉はやはり山猿の殻から抜け出せなかったらしい。
 三月に入ると秀吉は名護屋に向う。四月始め、食糧は五十万人分の用意が整った。加藤清正らは
「大陸に於て二十ヵ国拝領せしむ」
 と云う秀吉の言葉に勇躍して海を渡ったが、小西行長を始め、出兵に不満の将も多かった。
 堀内氏善は警固船を率い、総師格の九鬼嘉隆の片腕として活躍。諸戦の竹島沖の海戦には、浜田国次らが敵艦五隻を分捕った功により備前長光の名刀を賜り、海口の戦いには尾鷲の世古、古座の高互、小山達も武功を挙げた。
 喜んだ秀吉は、氏善に北山五千石を加増、諸将に感状を下して賞し、僅か二十日で首都京城が落ちたと聞くや有頂天となり
「天皇を北京に迎え、秀次を大唐関白とし、日本の関白には秀勝を任じて予は寧波に移る」
 と燥いでいる。
 朝鮮軍の敗因は何か。日本軍の精強と武器の優秀さに比べて、李王朝の腐敗と無能に呆れ、「李王の悪政に苦しむより日本につけ」と云う者も捕虜となった敵兵の中にはいたらしい。従って、もし秀吉に異民族統治に関する国際的感覚が優れて居り、特に儒教に対する民族的信仰を尊重すれば、前途にもっと明るい事態が生まれたかも知れない。
 然し残念ながら当時の日本でトップの儒家であった藤原惺窩などは
「日本では儒教は育たず、勝てばいいんで、手段などは問題ではない」
 事に絶望して韓国亡命さえ考えていたようだ。

(3)日本軍、敗戦が続く
 第二陣の加藤清正が釜山に上陸し、四月二十日、元の新羅の首都だった慶州に入った。処が先陣の小西勢が手当り次第掠奪し廻っているのを見て怒った。
「放火乱暴をすべて厳禁する。一般民を勝手に人夫に使う事もならぬ」
 と布告し、直接行長に強く抗議している程である。
 その清正でさえ韓国兵から「鬼上官」と恐れられた。儒教を信じる配下の阿蘇越後守と呼ぶ将などは千余の部下と共に投降し、日本の新式小銃を現地で製造して敵の戦力充實に協力した。その名も金忠善と改めて帰化し、王から貴族(両班)を許された程で、現在もその子孫が大邱の友鹿洞で繁栄しているらしい。
 緒戦は「神兵」と呼ばれる日本軍の快進撃だった。しかし戦いは続く。明の大軍が韓国を援助する。また韓国水軍の李舜水と云う名將が、鉄装の亀甲艦を主力とする百数十隻の大艦隊を出動して猛威を振い始めるや、戦局は一変した。
 巨済島を出撃した彼らはやがて、玉浦に上陸していた藤堂、堀内勢の五十余隻を発見して碇泊中の船團に猛烈な砲撃を加える。不意を打たれた日本軍は大急ぎで船に帰ると必死に戦った。けれども亀甲艦の砲火に次々に炎上し、始めて敗戦と云う痛打を浴びた。氏善は次の泗川沖海戦には亀甲艦の砲撃を潜って突進し、尾呂志伝平衛らの力闘によって敵将李までが負傷すると云う善戦を展開している。
 然し六月の唐浦の戦いでは亀井勢が大敗。村上水軍の豪雄・来島通之が戦死して七十余船を失い、全滅寸前に蘇川から駆けつけた堀内勢に辛うじて救われると云う惨敗だった。秀吉は大いに驚き
「水軍単独の戦いをさけ、必ず陸海共同で戦え」
 と厳命した。亀甲船に対抗すべく大砲数百門と弾丸を昼夜兼業行で製造し、自から渡海して指揮せんとした。
 七月には、閑山島海戦が展開されたが、大砲が届かぬ上に重なる敗戦に功を焦った脇坂安治が九鬼、加藤らと協同作戦をとらず単独で突撃した。その為に包囲されて潰滅的な損害を蒙り、救援に向った九鬼軍も旗艦日本丸の帆柱を折られる大苦戦で百余隻を失う。これで制海権を李舜臣(*1)に握られてしまい、やむなく、日本軍は釜山と巨済島に内地から続々と送られて来た三百門の巨砲群を配備してひたすら守勢に立つ。開戦以来の無人の荒野を行く急進撃で「神兵来る」と恐れられた陸上軍も補給難で開城から一歩も進めない。

(*1)りしゅんしん。文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の将軍。朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍し、日本軍を苦しめた。その功績から韓国では国民的英雄となっている。

(4)日本軍、反撃す
 折しも明の大軍が南下して平壤を攻撃し、戦局の不利を案じた小西行長が明の沈惟敬と秘かに和平交渉に入った。これは恐らく始めから共に出兵に反対だった石田三成の意向をも受けての事であろう。
 九月に入ると、勝誇った李軍は百六十余隻で釜山に迫り日本軍は専ら陸上砲台で敵の司令官ら多数の将士と百余隻を撃破したが、日本軍も港につないでいた船舶の半ばを失って敗色を深める。
 折から秀吉の名代として京城に到着した三成や大谷らは、日本で聞いた景気の良い報告とは大違いの現地情勢に、前途に容易ならぬものを感じた。そこで諸将を京城に集めて軍議の結果、進撃は平壤で中止し専ら守りを固める事とした。
 その上で行長に明との講和を促進させたが、文禄二年(一五九三)の正月五日、突如として李如松(*1)の率いる先陣五万の明軍が多数の大砲を繰出して襲来し、
「戦いよりも貿易で親交を計るべきだ」
 との信念から加藤らと常に口論を続けていた小西は平壤を捨て京城に退却、碧蹄館に陣をしいた。
 京城にいた三成は主将・宇喜多や小早川を招いて作戦を練ったが、味方の五万に対し彼は二十万の大軍である。勝誇った李如松は日本軍は京城を放棄したものと考え、意気高く一気に碧蹄館の草原に駒を進める。
 日本軍は猛将・立花宗茂を先陣に勇猛果敢に戦い、忽ち敵の先鋒を潰滅させた。驚いた李が本隊を投入すると。名将・小早川隆景は左右から包囲し、宇喜多本隊は立花勢の後方から襲いかかり、明軍は六千を越える大損害を受けて壊走。李如松も命からがら平壌に辿りついた。
 この一戦で戦意を喪失した明軍は講和を望み、稀代の山師である沈惟敬らが講和使として名護屋に向った。しかし秀吉から
「南鮮の割譲。明帝の娘を日本の皇妃とし朝鮮王子と大臣を人質とする」
 等の条件を突きつけられほうほうの態で帰国する。

(*1)りじょしょう。明代の武将。文禄の役で明軍を率いて、日本軍と戦った。

(5)豊臣秀頼の誕生
 日本軍は明の回答が来る迄は戦線を縮小し、諸将は交替で帰国休養して戦力の充實を計る事となった。かつて精強を誇った八百五十の堀内勢も勇将猛卒の多数を失って五百六十に激減し、辛うじて帰った兵も傷兵に苦しむ者が多く見られ、浦々は哀愁の気にみちたと云う。
 更に其頃、太閤秀吉と関白秀次の間には深い溝ができていた。独裁者だった秀吉は太閤となってもその権力をしっかりと握り、秀次の老臣木村常隆介なども
「これではまるで飾り人形に過ぎぬ」
 と血気盛んな関白を煽り立てる。
 元来、秀次は武人よりも文人肌なのは『日本記』『三代実録』『源氏物語』等を筆寫して朝廷に献じている事でも判り、朝鮮出兵を無謀として反対し、弟の小吉秀勝が朝鮮で陣没した事を悲しみ、再三の太閤の渡島意向にも従わなかった。
 そして名ばかりの関白の地位にあき足らず、次第にその性格も荒れ、正親町上皇の喪中にも鷹狩や茶ノ湯、平家琵琶やら相撲興行を催し、女漁りに日々をまぎらせていた。
 数々の悪評が巷に流れる中に文禄二年(一五九三)八月、秀頼が誕生して人々は千秋万歳を祝いつつ
「これで関白殿も滅亡」
 と攝いた。

(6)秀次の死
 喜んで名護屋から帰って来た秀吉は日本の二割を秀頼に与え、秀次の娘を妻として次の天下人にさせようと考えたが、秀次は応じようともせぬ。
 秀吉は焦って文禄三年(一五九四)春には共に吉野の花見に誘い何とか承知させようとしたが、実はこっそり影から豊臣家の崩壊を狙う徳川の本多正信らが
「秀頼は太閤の子ではない」
 等と炊きつけるから、うんと云わない。
 折しも文禄四年(一五九五)の春、十津川巡視中の大和中納言秀保(秀次の弟)が家臣に湯泉地の谷へ突落とされて変死する事件が勃発したのは、同じ影が動いたらしい。そして帰国してきた藤堂高虎は何を考えたか「主君の菩提を弔う」と称して出家して高野山に入ってしまった。
 結局大和百万石を継ぐ嗣子が絶えた。名護屋に滞陣していた筒井定次が内々国替を切望したが容れられず、郡山には二十万石で増田長盛が入った。然しこれで秀吉の身内は秀次ひとりになってしまい、専制者の秀吉もためらっている内に秀次の乱行は一段とつのり世人は「殺生関白」と噂する。
 文禄四年(一五九五)初夏になって明の講和使が北京を出発した頃、秀次がポルトガルの宣教師に
「秀頼は実子ではないから豊臣の世嗣は余しかない」
 と広言した報が三成の耳に入った。
 秀次には、かねて天皇に朝鮮出兵を差止めて貰いたいとか、毛利輝元ら大名に誓紙を出させて忠誠を求めている等の不穏な情報もあり
「もはや放っては置けぬ」
 と、三成は秀吉に報告した。激怒した秀吉は、遂に堪忍袋の緒を切った。
 七月に入ると詰問使を命じられた三成と増田が弁明書を取り、秀吉にその状況を報告した結果、秀次は高野山で切腹となった。今度の事件の主役は、元は秀吉の側室だった菊亭右大臣の娘・一の台で、こっそり秀次の側室となったうえに、あろう事か娘と共に秀次の床にはべっていた事を知ったからだろう。
 烈火の如く怒った太閤は、三十余人の妻妾幼児を三条河原で首をはね、次々に殺生塚に投げ込むと云う信長以上の大残虐を見せた。心ある人々は
「先々めでたかるべき政道にあらず」
 と豊臣家の前途に不安を抱き始める。
 かつての秀吉は人を殺す事が嫌いで出来るだけそれをさけたし、人情味も厚かった。それが一の台母娘はともかく他の女子供まで殺すとは、我子可愛いさに冷静な判断も出来なかったようである。この事件は大きな禍根を残し、三成も首切奉行としてすっかり人気を落した。只独り大儲けをしたのは、高野に入って秀吉を喜ばせ、宇和島七万石の独立大名となった高虎のみと云える。

(7)秀吉の死
 明使が再び来朝したのは慶長元年(一五九六)九月で、その国書が秀吉の要求を無視した上に
「汝を封じて日本国王と為す」
 と云う文句だったから、秀吉は怒髪天をつく有様で再征を命じる。
 諸大名は戦いに疲れ切っていたが天下人たる秀吉の命に背く事は出来ない。慶長二年(一五九七)一月、清正と行長を先陣に十四万の将兵は再び海を渡り、氏善も新造の安宅船に乗じてその警固に当り苦労している。
 緒戦は李舜臣が小西のわざと流した上陸日程を疑って王命に従わず敗れた。李舜臣はその罪を問われて一兵卒に降等され、代って臆病な朱元均が総師だったのが我に幸いした。七夕の日、朱の率いる水軍が釜山を襲ったものの折からの嵐に苦しみ、加徳島に上陸した処を逆襲されて大損害を出し、戦意不足の罪で朱は杖刑に処せられる。
 そして七月十五日には絶影島に進攻した朝鮮水軍を徹底的に大敗させる海戦が展開した。藤堂、堀内勢は巨済島の島津義弘と海陸呼応して猛反撃を展開し、六百隻の新鋭船で熊川を出撃して大夜襲を敢行した。
 総師・朱、以下数千の将兵が壊滅し、日本軍は二百隻に達する敵船を分捕ると戦勝報告に敵兵の耳を削いで送り始めた。惨敗に驚いた李王は再び舜臣を起用したから戦局は悪化する。我軍の損害も五万を超えたと云い、現在も京都の豊国神社(*1)に残る耳塚に埋められた敵兵の数は十万に近いと伝えられ、戦いは一段と惨烈を極めたらしい。
 そしてその年の十一月、さしもの朝鮮第一の名将・李舜臣も武運つきたか、露津梁の戦いで島津勢と大激戦の末、これを痛打したが、自からも重傷を負い戦没する
 朝鮮水軍のホープ・李の死は将士の志気に大きく響いた。加藤、小西ら陸上軍の苦戦も少しは柔らいだが、それでも兵の中には
「せめて日本の美味い水を腹一杯呑んでから死にたい」
 と云い残して息絶える者もいて、その死傷者は八万を越えたと云う。
 そのような中に慶長三年(一五九八)の年が明けた。名護屋で帯陣中に病となり、帰国療養を命じられた筒井定次の病も漸く快方に向ったと云うので、上野城下も春めいて見えた。しかし南鮮の沿岸で釘づけとなり、苦戦している将兵にとっては正月の雑煮どころではなかった。
 五月に入って藤堂、脇坂らが水軍増強の為に帰った為に、氏善らの辛苦は一段と増す。そして八月末、全軍を驚動させる一大悲報が囁かれた。独裁者太閤秀吉の死である。

(*1)京都市東山区大和大路正面茶屋町


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