Chap 2  豊家の巻

2.4 伊賀白鳳城の誕生

(1)筒井定次、伊賀を治める
 筒井定次が伊賀に国替となったのは天正十二年(一五八四)の八月末で、その時彼に従った者は次のようである。

1.一門親族(十市、千石、箸尾、福住)
2.家老、重臣(松倉、中ノ坊、島、芦田、中西。井上、井戸
(註)彼らはいずれも大和時代の五割程度に減禄された。

 当時の伊賀は三年前の大乱によって神社仏閣の殆どは焼土と化して見る影もなかった。定次は上野の守護・仁木友梅の邸跡に草館を建てて、ここを治政の中枢とし、平泉・薬師寺の荒地に築城を開始した。
 かねて秀吉は彼に気を配って羽柴の姓と従五位下伊賀守に任じた上で
「伊賀は大坂の出城としても秘蔵の地じゃ、文武両道に励みつつ要害堅固な大城を築け」
 と巨額の資金を下賜した。従って、築城の資金は豊かで、役夫数千人を集めて一日五合の米を支給し、突貫工事を敢行した。これは徳川家康、織田信雄との対戦中でもあったからだ。
 その年末、講和が成立してからは治政に気を配り、松倉を名張八千石、岸田に阿保三千石、箸尾に平田二千五百石を与えて領民の景気回復に努めている。
 そして首都とも云える上野に中ノ坊、島の家老職を始め一門の福住や十市を配して街の復興に懸命となり、京の豪商・角倉了意を起用して伊賀川の水路を掘削して物資輸送の便を計った。
 定次も親交厚い千ノ利休や茶人大名・古田織部に師仕して「破れ袋」と銘した水差しや抹茶器などを造らせ大評判となっているあたり、如何に産業を発展して住民の生計の充實に配慮したかが察せられる。
 現在でも盛況を極める天神祭は、彼が入国の際に雷除けの神として奉持してきたものである。秋の大祭には領主自ら能面をつけ、きらびやかな狩衣で行列の先頭に立って今年の豊年を舞い
「白鳳の名にふさわしい絵のように美しく、民にも優しいお殿様」
 として城下の人々の憧れの的であったとかで白鳳城と云う名が生れたらしい。

(2)石田光成、島左近を召抱える
 入国早々の天正十三年(一五八五)春、名張領主の松倉勝重が病没したが、嫡男・重政はまだ十二才で家督が継げず、筆頭家老は中ノ坊秀祐が就任。二番家老には島清興の子・左近猛勝が登用されたらしい。
 中の坊、島の新家老はいずれも豪雄で知られた硬骨漢だけに思う通りを直言する。若い定次はそれが煙たくって、新しく召抱えた桃谷、河村らを寵愛してろくに会いもせぬと云う状態となった事から、その治政が乱れ始めた。
 天正十四年(一五八六)、先ず松倉重政が浪人し、名張城をすてて行方をくらます。続いて島が残る家老の中ノ坊秀祐と別れの宴を開き、互に国の先行を案じつつ、子に譲って近江阪田郡に退身する。
 天正十六年(一五八八)になると石田三成が島の浪人を知り三万石の所領の半分を与えて召抱えたのが大評判となった。それを聞いた秀吉が
「主従が同じ禄高と云うのは聞いた事がない。佐吉はさすが大気者よ」
 と賞賛したと云われ、時に島は三十八才、三成は十才下の二十八才だった。
 それにしても島が去って秀吉は伊賀の守りが弱体化するのを恐れ、浅野長政を使者として一万石を加増しすると
「島に続いて一族の福住、森までがそなたが風雅の道に溺れ過ぎると愛想をつかして大和へ帰ったそうな。残る布施、十市、井戸らに分配して行状を改め、一日も築城を急いで大阪の外城たる役目を果たせ」
 と叱っている。

(3)山上宋二、秀吉に処刑される
 然しながら一旦、戦場に出ると定次の勇猛さは有名で、九州の島津攻めでは豊臣の姓を許され、天正十八年(一五九〇)の北条攻めには一万の部隊を指揮して菲山城攻めで武功を輝かせている。
 この戦いでは秀吉の口ききで千石を加増された井戸覚弘兄弟の活躍はめざましいものがあったと云うが、井戸家にとっては忘れてはならぬ痛ましい出来事が起こっている。
 家重代の家宝としてきた世阿弥ゆずりの高麗茶碗を一目見て
「おお、これぞ正しく井戸茶碗」
 と世に知らしめたのは若き日の千ノ宗易の一ノ弟子の山上宋二であった。
 本能寺ノ変の後に順慶が献上した井戸茶碗は秀吉の寵愛惜くあたわぬ品となって茶会には必ず用いた。宗易のすすめによる北野の大茶会が天下の評判を高めていた頃、これを運んでいた小姓が誤って割ってしまい
「あわや切腹!」
 と思われた時、側にいた細川幽斉が

●筒井づゝ 五つに欠けし 井戸茶碗。罪をば我に 負いにけらしな。

 と伊勢物語にある業平の「つゝ井筒」の句にちなんだ即興を詠じ、忽ち秀吉の機嫌を直させ小姓を救った話は当時知らぬ者もない評判となっている。
 利休さえ一目置いた程のその山上宋二が、師匠に劣らぬ直言癖から
「侘び茶の精神にもとる成金茶道」
 と秀吉を批判した為に追放されて各地を放浪した末に、天正十八年(一五九〇)には北条家の茶道頭となっていた。
 それが大戦となり長陣にあきた秀吉が宋二の話を聞いて召した処、宋二は
「その日は北条家の茶会があるから参上できかねる」
 と拒んだ為に断罪に処されると云う事件が勃発したからである。
 宋二は厳しい処刑にも恐れず、武士さえ舌をまくの豪快な態度で世を辞した。この事は忽ち都に飛び、茶人の間には秀吉の非道を怒る声が秘かに渦まいたのは当然と云える。
 大和の里夕斉と号した良弘の茶室でも、宋二を悼む人々がしめやかに追善供養の茶会を開いた。良弘もやがて宗易が非業の死によって佗茶の世界をかざる日が遠くないのを感じたのは、彼自身も太閤の黄金の茶室に茶人として一歩も退かぬ覚悟を抱いていたからだろう。
 そしてその予感はやがて現実のものとなる。

(4)利休、死す
 天正十九年(一五九一)正月、秀吉は奥州を征圧して天下統一を果し、続いて大陸への野望を燃やしていた。その彼にとって柱石とも称すべき只一人の弟・秀長が五十二才で世を去った事は何物にも代え難い打撃だったろう。
 秀長と利休が豊臣家の大黒柱であり、秀長もそれを自認していた事は九州の大友宗麟が大坂城で彼に会った際、
「公儀については身共が存じて居り、内々の事は宗易にお任せあれ」
 と語った事で知られている。その秀長が世を去ったことで利休に禍が及ぶのは必至で、果して翌月になると
「新しい茶器を高価で売った、大徳寺の山門に己の木像を掲げた」
 等の罪で追放される。大政所やねねがしきりに
「お詫びをせよ」
 とすすめても、それは出来ぬ、と莞爾として首を振り続けた為に、二月末になると切腹を命じられ

「人生七十、力囲希咄、吾此宝劍、祖仏共殺、」
“七十年と云う信長公に比べれば遙かな歳月を力一杯に努めたが、名利を断ち眞の茶道を悟のは容易ではなかった。
 然し今や生死の関頭に立ち、練り上げたこの宝劍を振い、祖師も仏陀も共に断ち切って、眞に「利休」名も利も払いすてた天衣無縫の人間となろうと心に誓った。”

 と詠じて快川国師にも劣らぬ見事な最後をとげた。黄金の茶室に勝る“わび” と“さび”に満ちた草庵こそ正しい、と死を以て示して茶聖の地位を不動のものとする。

(5)秀吉、明を攻める
 かつて天才的な人たらしの名人と云われた秀吉は、希代の独裁者であった信長の継承者たる色彩を強めていった。これは、豊臣政権を支えてきた秀長と利休の死による必然かもしれない。信長の特色であった兵農分離によって専門の兵士が誕生した。更に工兵、輜重兵、経理将校を育成して、日本全土を統一した秀吉だが、天下泰平後も彼らの生甲斐を見つける為に更に戦いを求めざるを得なかったのは因果と云えよう。
 更には天正十九年(一五九一)の夏、「権力を得た者は必ず腐る」の格言通り、老の掌中の玉であった嫡男・鶴松を失った傷心を癒さんと、太閤は全国に「唐入り」の準備と軍船建造令を発した。
 佐和山十九万石の領主となった石田三成は、島左近を奉行として大坂城の西北の守りを固める堅城完成に邁進していたが、それを知って
「その前にやるべき事がある」
 と叫んだと云う。
 島左近から
「家康が服部半蔵を介して、やがて天下を狙うべき情報活動の組織的な伊賀軍團の確立に努め始めたのは、信長の伊賀攻めによって路頭に迷った忍者達を陰密に召抱え出して以来の野望である。したがって此際は万民の泰平を固める為にも、愚かな名を求め危険な外征軍を派遣する前に、関東二五〇万石の徳川を滅ぼして置く事が豊家の為に先決。」
 と進言されていたからである。
 然し如何に寵臣・三成が「直言居士」の仇名通り秀吉の怒りにも恐れずそれを力説しても、「大明伐り取り勝手」の欲望に燃えた武断派の大名達や、小田原攻めに際し一夜城を築き上げた穴生の工兵軍や、米三十万石を金一万枚でかき集めて食糧輸送に鮮やかな手腕を見せた主計将校達を遊ばせては置けない。まず彼らと十五万近い元冠以上の最新式の小銃を装備した大侵略軍團の先陣が巨大な歯車を廻し始める。
 大坂城にも劣らぬ十六万坪の巨大な名護屋城が忽ちにして出現し、中国・印度までを支配せんとする太閤の野望は果てしもなく燃え拡がっていった。


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