Chap 2  豊家の巻

2.3 大和百万石

(1)秀長、湯川と山本の一行を毒殺する
 天正十三年(一五八五)八月の末、筒井勢は、父祖伝来幾百年住み馴れた大和神国と誇る「まほろばの里」を追い立てられ、悄然と先の天正ノ乱で手痛い反撃を蒙った伊賀に向った。
 代って「大和大納言」と仰がれて温顔に笑をたたえ入国してきた羽柴秀長以下の将兵の志気は正に旭日のように高かった。とは云え、中辺路(*1)一帯の要害の地に籠る湯川、山本の反撃は厳しく新領主・秀長の苦労も並々ならぬものがあった。
 秀長は新しい寄手の大将に杉若越後を任じ、三千の兵を与えて龍松山に籠る山本勢を三ヵ月に渡って猛攻したが、僅か三百の敵に苦しめられてどうにも落ちない。
 田辺第一の高峰・龍神山の湯川勢も同様で、土地不案内の秀長軍は激しいゲリラ戦に悩まされるばかり。やむなく家中きっての剛腕、藤堂高虎が巧みに時流や本領安堵を説いて漸く和睦開城と決したのはもう年末だった。
 天正十四年(一五八六)の春、湯川や山本一行が大和郡山城に参じて秀長に謁見した。父祖伝来の本領を安堵され、安心して藤堂邸に帰り、浴室で汗を流し寛いでいる処を槍で刺殺されたとか酒宴中に毒殺されたと云われている。
 人情家で知られた秀長だけに彼らも信用していたのだろうが、かねて秀吉が帰る時
「元来紀州は昔から反骨の強い治め難い土地で知られて居り、お前のように情の厚い男でないと治まらぬ。然し昔からの領主と百姓達の結びつきは極めて固いから甘やかすばかりでもいかん、地侍の難物だけは手段を選ばず思い切った厳罰に処して衆の戒めとせい。」
 と懇々と命じていったからだろう。
 温和な秀長はその云いつけを守り、藤堂の提案でこの挙に出たのだろうが、何とも残酷な処置である。豪勇で聞えた湯川、山本を始め一族郎党数十人は、悲憤の怒りに燃えつつ無念の最後をとげたに違いない。

(*1)中辺路。下図参照。

http://www.tanabe-kanko.jp/midokoro/oujisya/index.htmより。


(2)井戸良弘、雑賀孫市を探す
 かくて入鹿、竹原、野長瀬氏と共に南朝方として活躍した湯川と山本の両家も没落した。僅かに生き延びた湯川直春の弟・勝重らは熊野川畔の日足の能城(*1)に潜んで帰農した。
 一方その功によって藤堂高虎は粉川(*2)で一万石を与えられて大名に列した。秀長は紀伊、大和、和泉百十余万石の大々名として、若山城(和歌山城)に桑山、田辺に杉若、新宮に堀内を置いて治政を進める。堀内氏善の所領は二万八千石だが、これは申告高と思われ、実収はその倍はあったようだ。
 井戸良弘が秀長に召され、領内の検地に先立って郷士達が血気の振舞なきよう下工作に北山方面に赴いたのはその秋だったと云う。彼が気になるのは一世の快男児・雑賀孫市の存在である。
 孫市は、先年、信長の雑賀攻めに城を開いた。その責任上から、家を小孫市と称された嫡男・孫三郎に譲って隠居し、秀吉の客分となって自由な日々を過ごしていた。然し今度の紀州攻めに際しては、郷党との情義もだし難く、泉州に出陣し、積善寺城(*3)に入っていた。四月半ば、秀吉の開城要請に応じてあっさりと城を出ると、風吹峠(*4)を越えて故郷に帰った。時に孫市は男盛りの四十歳と云われ、以後、史上から沓としてその消息を絶ってしまう。熊野に残る伝えによれば、彼は堀内氏善に乞われて新宮城に入り、悠々自適の生活を送っているうち、氏善の次男・主膳を当主とする有馬家の客分として、その治政に尽力する事になったようだ。
 雑賀城を囲んだ秀吉勢に小孫市があっさりと降伏し、秀長に臣従しているのも、孫市の情勢判断に従ったのだろう。進んで秀吉に仕えれば大名格の扱いを受けるのは確実と思われるが、天性自由気ままな孫市だけに堅苦しい宮仕えをする気はなかったらしい。

(*1)和歌山県新宮市熊野川町に能城山本という土地がある。
(*2)和歌山県粉河町。和歌山市の東側に位置する。
(*3)しゃくぜんじじょう。大阪府貝塚市橋本
(*4)かぜふきとうげ。和歌山県岩出市。Chap 2豊家の巻2.2秀吉の紀州征伐を参照。

(3)井戸良弘、雑賀孫市に会う
 井戸良弘は孫市が北山に入ったと聞いて、世話になった竹原や戸野一族が彼をかついで一揆を起こしては一大事と考えた。急いで海路、熊野新宮城の堀内氏善、その正妻で九鬼嘉隆の娘の生んだ嫡男・氏弘(後の新宮行朝)と会い、秀長の意向を伝えたと思われる。
 かねて良弘のことを聞いていた堀内父子はその人柄に惚れこみ、氏弘も喜んで弟・有馬主膳の城に案内する。折しも北山から帰ってきた孫市の話を聞いたが、それによれば北山の郷士らは天下に武名を轟かせた孫市の衷心からの和睦のすすめにも耳をかさぬ鼻息でどうにもならなかったらしい。
 風光明媚な有馬(*1)松原の白砂青松に囲まれた草庵で、大いに意気投合した三人は夜ふけまで語り合ったと云われる。良弘は生のいい鰹の刺身を大皿に盛り上げてすすめながら
「“君と寝ようか、五千石とろか。何の五千石 君と寝よ”との今様も歌うように、拙者はもう宮仕えは御免じゃ、残りの生涯は自由きままに楽しんで送るつもりよ」
 と豪快に笑い飛ばした孫市にすっかり同感させられたらしい。

(*1)三重県熊野市有馬町。花の窟を過ぎたところから志原尻河口までずっと松林だった。

(4)井戸良弘、大和に帰る
 それでも良弘が、北山花知(*1)の里に竹原四郎を訪ねたのは天正十四年(一五八六)の冬に入った頃で、そこで始めて風伝峠で行われた卑劣な策謀を知った。権謀家の藤堂は、死守し続ける郷士勢に手を焼いた末に、和睦を申し入れ
「武器を捨て城を開けば一切罪には問わぬ。もし承知せねば各村々の老幼男女を皆殺しにする」
 と脅しつけたので、かねて良弘から聞かされ、秀長の人望を信じて開城した郷士百五十八人のすべてを片っ端から首をはねたと云うのである。
「そんな卑怯な話があるものか!よし身共が直に大納言殿に会い確かめて見る」
 と始めてそれを知った正義感の強い良弘は腹を立てると、急ぎ郡山城に参じて秀長に事情を訴えんとした。しかし折悪しく秀長は病床に伏していて頭も上がらぬらしい。いかに「御目見得地士」の彼でも会うことが叶わなかった。やむなく堀内父子にその状況を語って協議の末、暫くは妻と生まれたばかりの幼児を連れて大和に帰り、後は堀内に善処願う事にした。

まほろばの 里の夕辺に 帰りなん、篝火ゆるる み熊野の山。

 と詠じて名残りを惜しんだが、責任感の強い性格だけに、この事は誠に心外だったに違いない。
 良弘が世に出る気をすてたのは、明智光秀が常々口癖のように
「坊主の嘘は方便と云い、武士の嘘は策略と称してごまかす。さりとて百姓は哀れにも可愛ゆきものなり」
 と嘆き、孫市が
「すまじきものは宮仕えよ」
 と、うそぶいて、浜辺の草庵に名利をすて清貧を楽しんでいるのを見て、つくづく羨ましくなったのだろう。
 良弘が秀長から暇を取り一介の地士となったのは間もなくである。熊野から伴って来た妻子と石ノ上田部の館で住み、熊野から送ってくる漢方薬販売を生業としながらその傍らに茶道と能楽に風雅の余生を楽しみ始めるのである。

(*1)熊野市神川町に花知神社がある。花知神社の案内には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が熊野落ちした際、ここで自分の館に迎え守ったのが竹原八郎と記されている。

(4)藤堂高虎、仙丸を養子に望む
 その頃、郡山城では秀長の嗣子・仙丸(*1)が八才で従五位下宮内少輔に任ぜられている。仙丸は丹羽長秀(*2)の三男に生まれたが、天正九年(一五八一)に秀吉の懇望で男の子のない秀長の養子となった。秀長が大和入城の年には七歳で供に入ったが、その可憐な姿が町民達の目を惹き
「いづれ一人っ子のお姫様の婿となり、次の大和大納言様となられる方よ」
 と大評判となっていた。
 それを知った秀吉は俄かに
「丹羽長秀が世を去った今では豊臣家の安泰を計る上からも一族から嗣子を選ぼう」
 と思い立ち、甥の秀保(*3)に代らせよと云い出した。
 然し秀長は
「亡き丹羽殿に対する義理を欠く」
 と仲々承知しなかったので秀吉は困り果てていたらしい。それを知って
「ここは一つ秀吉公の気嫌を取ろう」
 と抜目なく中に入ったのが家老の藤堂高虎で
「身共も嫡子がありませぬ。何とか仙丸様を養子に下され」
 と云い出し、その魂胆が見えすいているので秀長は非常に怒ったらしい。
 この高虎は秀吉に似て越前朝倉浪人の子で、十五で家を出ると浅井長政の足軽となってより生涯に七度も主人を代えたと云われる。新宮の堀内家にも百石で抱えられていた事もあるらしい。
 秀長には中国攻めの頃に見出されたと云うから、まだ十年にもならないのだが、やり手を買われて紀州攻めの功によって天正十三年(一五八五)一万石の大名に成り上がったばかりである。それなのに抜け抜けと、主の養子を呉れと云い出したのだから、秀長が怒るのは当然と云える。
 高虎も時期尚早と考え、専ら郡山城の拡張に手腕を振いその機嫌を直す事に努めたようだ。筒井順慶が信長の一国一城令に応じて、現在の郡山城を大和唯一の城として大改修を始めたのは天正九年(一五八一)と云われる。天守閣が完成したのは天正十一年(一五八三)四月だが、それから僅か一年四カ月で順慶はその生涯を閉じた。
 秀長が入城した天正十三年(一五八三)八月からこの城は大和、紀州、和泉の三国を支配する首都として面目を一新すべく工事が着手された。天正十五年(一五八七)には根来寺の山門が移されて大手門となり、翌年から奈良中の家毎に大石の強制割り宛てが始まり、社寺にも容赦なく供出が命じられた。今日、城壁の諸々に見られる石仏や墓石、土台石はその時の慌しさが忍ばせるが、奈良の商家を移住して城下町が形成されたのは略、天正十五年(一五八七)と思われる。

(*1)藤堂 高吉(とうどう たかよし)。丹羽長秀の三男。羽柴秀長、次いで、藤堂高虎の養子となった。
(*2)織田氏の家臣。長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。政治面においても優れた手腕を発揮し、信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられた。▽家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられた。織田家の柴田・丹羽の双璧といわれることから、当時「木下」姓だった豊臣秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、長秀が秀吉に対し好意を持つというエピソードもある。このことを快く思った丹羽は、柴田とは対照的に秀吉の保護者となり、その後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。
(*3)豊臣秀保(とよとみひでやす)。豊臣秀吉の姉である日秀の子。大和中納言。叔父秀長の養子となり、天正19年(1591)に秀長が没すると大和豊臣家を継いだ。藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役に任命された。▽文禄4年(1595)、療養のために大和十津川にあった折、変死を遂げる。享年17。死因は疱瘡の悪化とされるが、秀保の後見役の藤堂家関係の史料には「十津川に遊覧に出かけたところ、小姓が秀保に抱きつき、ともに高所から飛び降りて転落死した」とある。同じく秀長の養子で藤堂高虎の養子の羽柴高吉への大和豊臣家の家督継承が認められず、大和豊臣家は断絶。

(5)北山郷士、検地に対して蜂起する
 この年(一五八七)の春に京の三条河原で伊賀の百地に仕えたらしい忍者上りの石川五右衛門という大盗賊が大釜に油を入れて煮殺された事件が大評判となっている頃。
 かねてから問題となっていた大和十津川、北山一円での検地が断行された。いわゆる太閤検地である。一介の土民から天下人に成り上がった秀吉が民衆の苦しみや悲しみを充分知り尽くしながら「検地、刀狩」の農民政策を開始したのも其頃である。九州征伐を終え大納言に昇進した秀長は、郡山城に帰ると兄の政治方針を忠実に守って太閤検地と呼ばれる領内の検地に着手し、一枚の隠し田も洩れなく調査せよと厳命した。
「武士の知行は一時、百姓は永久」との秀吉の意向通り農民の移住を禁じ、地侍と農民の結びつきを断ち切って領主の支配力を強めた。「二公一民」と定めると、諸税は排し、反当り一斗以下は無税にし、農民を無償でこき使う事を厳禁して善政を計っている。
 本宮や十津川郷民は良弘らの工作もあって素直に検地を受けた。その上で、それをそのまま丁戴する代りに、夫役として毎日四十五人の筏乗りが材木を新宮まで輸送する事を願い出る。秀長はそれを認めた上に、人夫の食料として年八十石を下賜する事にした。
 それに対して北山郷民は、検地役人の立入りを拒み
「ここは昔から先祖代々受け継いで来た土地で何も領主から貰ったものじゃないから年貢など納めるものか!」
 と強気に出て弓鉄砲等を持ち出し騒ぎ立てどうにも手がつけられない。
 検地代官を命ぜられた杉若、青木ら武将も、かねて南朝の根拠地として室町幕府も手を出せず治外法権的な扱いを受けてきた土地柄だけに、十津川同様の赦免地にしたいと秀長に申し出た。ところが、彼は
「領主を力づくで脅すと云う態度は誠に怪しからぬ」
 と激怒して
「今年はもう冬に入り大雪等で成敗できなければ、明年なりとも北山者は悉く首を刎ねる故、そのつもりで此際は忠義を専一に心がけよ」
 と本宮篠ノ坊に命じている。
 それを聞いた北山郷士達は
「成上りの猿面冠者の弟めが何をぬかす」
 と沸き立ち、北山から神川、西山、入鹿、尾呂志の全郷に檄を飛ばし砦を築いて一斉に蜂起した。風伝峠の怨とは云え、時勢にうとく「盲蛇に怖ぢず」の類であったろう。

(6)吉川兄弟、北山郷士を破る
 豊臣勢の強大さを知っている堀内氏善は何とか事を穏便にすまさんと色々奔走したと思われるが、硬骨の郷士達は頑として聞かない。天正十六年(一五八八)の九月になると秀長の厳命を受けた吉川平助、三藏兄弟が三千の強兵を率いて乗り込んで来たから、氏善もやむなく先陣となり出撃した。
 氏善は有馬城から井戸川を溯り大馬谷を進むと飛鳥郷の境に辛ぬた城を築いて拠点とした。精兵五百を指揮した氏善は、まず飛鳥の神山、野口、佐渡、小坂、大又の村民を集めて時勢を説き味方に加えると、一揆勢の籠った寺谷の多尾岩葺倉山砦に攻め寄せた。
 一揆勢の兵力は二千五百余と云うから大和領の北山衆も多数参加していたに違いない。伊賀郷士のように
「南朝の忠臣として勇名を馳せた先祖の名を恥ずかしめるな」
 と意気高く迎え討った。けれども歴戦の羽柴勢に堀内軍、それに勝手知った飛鳥村の猛者三百余を加えると四千近い大軍である。
 岩葺倉山をゆるがさんばかりの鯨波を轟かせて一気に攻め立てた。新式鉄砲隊の一斉射撃と共に勢い鋭く猛攻したから、誇りは高くとも戦馴れぬ一揆勢は死傷続出して崩れ落ち四方の山々に逃げ込んだ。これは優れた指揮者を持たぬ悲しさでもあろう。
 大勝に満足した吉川兄弟は南帝三代尊雅王ゆかりの神山光福寺住職から秀長公への献上品として平維盛愛用の赤扇子等を託された。兄弟は、ひとまず新宮に引揚げて冬を過し、明春再攻と決め、凱旋将軍の威勢も高く軍を返した。

(7)吉川平助、神倉炎上させ、悪事露見により処刑される
 この吉川平助は、家康の伊賀越を助けた伊勢大湊の船奉行である。後に秀長に仕え、七千石の大身だけに、新宮滞在中も暴若無人の振舞で速玉大社の神宝を捲き上げている。神倉聖の制止も聞かず、聖地・天ノ磐盾に登って月見の酒宴を催す等の専横ぶりに、たまりかねた修験者らが暗殺を計ったらしい。熊野年代記は
「天正十六年十月十六日神倉炎上、三藏、平介これを焼くに、大和大納言殿の御用にて十津川北山へ参りたる木奉行にて両人を切殺す。」
 と記している。
 その真相は、「魔所だから登ってはならぬ」と止めるのも振り切って登った二人を、聖達が襲い三藏を斬り捨てた。それに驚いた平助は本堂に放火して早鐘をつき鳴らした。社人達も慌てて駆け登ったが間に合わず悉く炎上してしまった。…と、いうことらしい。
 平助達はその前年にも秀長の命で郡山城建造用木材集めに北山にやって来たらしく、池峯明神の神木を伐ったのも彼らと云われる。神官達には「秀長公の落し種」と称して権勢を振い、望んで今回の討伐隊長を命じられたようだ。
 神倉炎上事件は、恐らく大検校たる氏善の報告によって秀長の耳にも入ったらしく、平助は即座に召喚された。厳しく詮議の結果、彼が熊野材を勝手に伐り、大阪で売り払って私腹を肥やしていた事が露見した。平助は、その十二月に奈良西大寺前で斬罪に処せられている。
 誠に秀長らしい正邪曲道を誤らぬ大領主らしい裁決であったが、これには良弘も大いに尽力しているようだ。

(8)第二次北山討伐
 然しこれ程に明哲な秀長も、同じ年、兄・秀吉の懇請もあり、藤堂高虎の誠実に期待して、愛する仙丸を彼の養子とした。養育料として一万石を加増して粉川に送っている。
 時に宮内少輔高吉、十一才の幼年である。高虎がマンマと二万石の大名となったのは時流を見るに敏と云えよう。然し彼を父とした高吉の人生は決して幸福なものとは云えず、後には名張で生涯を終えるのだが、詳しくは年を追うて述べる事としよう。
 翌天正十七年(一五八九)、秀長は、先の風伝峠の卑劣なだまし討ちも作略と称する高虎らの言を信じて北山暴徒鎮圧を命じ、郡山城では着々と戦さ準備が進められた。
 春四月に入ると、藤堂高虎、羽田長門守ら名だたる勇将が討伐軍の大将に任じられて新宮に到着し、堀内氏善と共に作戦を練った。
 同じ頃、秀吉が検地に向う浅野長政に対して
「反抗する領主は城に追込んで皆殺しにせよ。田畑を隠すような百姓共は女子供まで残らずなで斬りにしてしまえ、その為に国や郡が荒れ果てても一向にかまわぬ」
 と厳命しているのは信長に習ったのだろう。
 恐らく藤堂らも同じように
「源平の嫡流や、南朝に忠節を尽くした名家であろうと天皇の命によって天下を治める予に反抗する者共は一切情など無用」
 と云われたに違いない。
 古代から日本の伝統だった天皇制度を無視して公武の上に立つ独裁者たらんとした信長の態度が朝廷の厳しい反感を買い光秀の叛乱を招いた。それを知って配慮した秀吉も、権力を得れば治世上で万民の幸福等は眼中になかったとは悲しい。
 風薫る四月から開始された藤堂、羽田の第二次北山討伐は苛酷を極めた。神ノ上要害城に籠もった一揆勢を敗走させて西山郷に進み、入鹿ノ庄に進んで入鹿城主の入鹿友光以下の地元豪族を次々に討ち取ると北山一円を鎮圧した。

(9)北山一揆の残党、田平子峠で虐殺される
 然し一揆の残党達が山野に潜み村々にかくれて容易に捕らえられない。これに業を煮やし、藤堂らは風伝峠と同じ策を考えた。西山の赤木に本格的な城を築き上げると村々に布告を廻し
「今度、無事に城が出来上がったので盛大な竣工祝いを催ほす事にした。就いては各村から一人残らず祝いに参上せよ多分の祝儀もつかわすぞ」
 と巧みに呼び集めた。何も知らずに集った里人の中からかねて一揆の首謀と目をつけていた連中を一網打尽にからめ捕った。
 その数は三百数十人と云う多数に上った。情容赦もなく田平子峠で極刑に処したのは藤堂の発案とは云え、温厚な大守で知られた秀長とも思えぬ冷酷無惨なやり方で、それを知った村々では帰らぬ父や夫を恋い慕い

●行たら戻らぬ 赤木のお城、身の捨て処は 田平子じゃ。

 と云う悲しい里歌を子々孫々まで歌い継ぎ、その怨みは綿々と数百年に及んでいる。
 それに比べて、堀内の築いた大里京城では、地元領主だけにそんな悪辣な策謀を巡らす事もなく、検地も無事にすんで民心は安定していた。厳罰主義を断行した赤木城の藤堂に比べて格段の治政を見せている。
 それを知った秀長は民の福祉向上にせよと三千石を堀内に加増し、続いて秀吉も翌年小田原攻めの勝利を願って三山に黄金百五十枚を寄進としている。当時の金一枚は十両で十五貫文になるから、一万五千文と云う高価である。米一升が三十文程度だから、総額では七千五百石となる。三山も大喜びで、造営に着工して秀長の善政を賛え、十津川では後の徳川時代まで

●トンと十津川 御赦免所、年貢要らずの 作り取り、

 と歌ってその善政を喜んでいる。それに比べて、北山郷の郷士や農民達は其後も代官の圧政に堪えられずに、北山、竹原衆は再び阿田和方面に来襲して代官・塩田左内を苦しめている。藤堂のまいた因果の種は、大坂夏ノ陣の後までも熊野の里人に悲劇をもたらしているが、この史実を大和、伊賀の人々は何一つ知らない。

(10)風伝峠から赤木城を訪れる

 天正十三年から五年に及ぶ豊臣勢の紀州攻めは幾多の悲劇をもたらしたが、特に熊野、北山一円について『南紀古士伝』は次のように記している。

「天正十三年夏。南朝以来の名家で知られた野長瀬左近らを和議とだまして赤木城に招いた藤堂与右衛門はなおも奥山をふみ越へ本宮神官の尾崎ら百六十人を風伝野にて容赦なく首をはねる。
 翌年春には龍松山城にて力戦した清和源氏の嫡流である湯川、山本らを和議の使者となって巧みに説得し、郡山城に招き寄せると、先づ湯川直春一族を秀長公に拝閲させ本領安堵で喜ばせた後に邸で酒宴を催ほし毒殺する。
 それと知った山本主膳、西蔵人ら十三名が城下を脱出したのを紀和国境の眞土峠で待伏せ、丁重な扱いで一泊をすすめて宴を張り、彼を信じ新設の湯殿でくつろぐ山本を板壁越しに七本の長槍で刺し殺し、西ら従者もすべて騙し討った。
 続いて天正十六年に勃発した北山一揆では主だつ郷士ら三百余を田平子峠で斬首して怨みの里唄を後世に残した」

「一度その地を訪れて香華をたむけねば」と心にかかりつつも、その機会を得ず、やっと宿願を果たしたのは平成八年(一九九六)の桜咲く頃である。
 何時ものように全龍寺(*1)の哲宗さん(*2)の車で風伝峠を越えつつ、野長瀬左近らの処刑跡は何処だったろうと探したが良く判らぬ。遺族らが毎年供養の盆踊りを続けたらしいが、そんな史跡を支配者が許すはずはない。名題の狭霧に追われるように紀和町役場につき、西村さんの案内で先ず名物の千枚田を眺めるべく山を登る。
 るいるいと重なる山田に果てしもない先人の苦労を偲びながら「国指定史跡」の碑石も堂々たる赤木城の大手門から入鹿鍛冶屋敷、堀跡、馬場を歩き城に入れば標高二三〇mの西北に走る尾根上に東西三十三m×南北二十七mに及ぶ高さ四mの野面積み石垣に囲まれた三の丸、二の丸、本丸が築城当時の原形のまま聳え立っている。
 先に完成した大河内行宮跡と好一対の史跡の誕生に改めて町当局の歴史保存の熱意の高さに感嘆した。一刻を本丸跡に佇み、風光悠大な北山郷の景観を満喫した。
 やがて城を下り西南の山陰にある田平子峠をめざした。「タビラコ」と云うのは七草の一つ「仏の座」の別名だそうで、残された人々が涙と共にその名をつけたに違いない。血にまみれた処刑場をそう呼んだ遺族の心根がいじらしい。
 昭和四十三年(一九六八)に建立された慰霊碑と今回新しく可憐な六地蔵を刻した巨岩に詣でた。磔付柱の穴跡が残る岡一帯に桜の若木が春風に薫っているのが鬼哭愀々たる処刑場の印象を柔げている。
 然し、罠にかかり無残に斬首された里人の死体は弔うことも許されず、深い谷間に蹴落とされ、空しく狼らの餌食になったと云い、今も谷底から吹き上げてくる冷風は腸にしみる。
 その怨みからか、温かな人柄で豊臣家の大黒柱であった秀長公はその翌年、二代目の秀保もやがて変死し、大和百万石は絶える。
 しかし、手を下した高虎は巧みに勝ち馬に乗り

●伊勢は津で持つ…

 と歌われる名君として今も尚、高く讃えられているのを見るとつくづく
「歴史は勝者のものでしかないか」
 と嘆きつつ、山を降った。

(*1)和歌山県新宮市千穂1丁目9-29
(*2)荒木哲宗氏。全龍寺二十七世住職。Chap 2源平の巻2.6 源平群霊を弔して、を参照。


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