Chap 2  豊家の巻

2.2 秀吉の紀州征伐

(1)筒井順慶の没後
 天正十二年(一五八四)八月。大和四十万石の大守だった順慶の跡目は「定次若年に就き身分不相応」と云う話も出て問題となった。が、信長に愛されて養子となった程の定次だけに、秀吉の裁定で所領は大和十六万石と河内二万石計十八万石に半減で認めた。
 然しこの処置が家中に及ぼした騒動が並大抵でなかったのは、月給を半分にされたサラリーマン以上であったろう。
 外様大名らは筒井家から離れて羽柴秀長(*1)に仕えた者も多かったが、一門や譜代家臣ともなればそうもゆかず、禄高半減されても渋々承知せざるを得なかったようだ。
 井戸氏に就いても覚弘、治秀、直弘三人で併せて二千石程度が認められているが、大和を離れた良弘に就いてはとても旧領を認めるゆとりもなかった。良弘とてそんな気もなく葬儀を終えると再び熊野に帰って行った。良弘が慌しく王置山麓に急いだのは、かねて知友だった細川幽斉に呼ばれて茶会に出た際、秀長とも同席となり
「兄が家康に味方して大坂城を狙っている紀州勢の態度に怒り、やがて和睦すると紀州を征伐して後の患いを断つ決意である」
 と聞かされた後、
「十津川、北山の郷土達に天下の大勢を説き、和解の道を開いて貰えれば伊賀の如き惨禍はさけられ、共に幸甚であるが」
 と要請されたからである。
 天正十二年(一五八四)秋、良弘は再び霊峰、王置山の英姿を仰ぎ見る熊野篠尾の里に帰った。玉置、本宮一円や戸野、入鹿、竹原の郷士幹部に集合願い、中央に於ける秀吉の動きを詳細に説明した上で、
「秀吉は必ず信雄、家康との和睦を成立させ、現在の畿内に残された紀州征伐を断行して天下人たるの地位を確立するに違いない。織田家の長老・丹羽長秀らも『秀吉の器量たるや古今独歩であり、彼の為す処は大衆も文句なく従う。大衆の帰する処は天下の帰する処であり、余も天の心に従う』と語っている。貴殿らも秀吉の身分の賤しさや“猿面冠者”などの悪名にまよわず、戦国乱世の世を泰平の世となさんとの天の心に素直に従うべきと存ずる」
 と諄々と説いたらしい。
 然し王置山麓の人々はともかく北山(*2)の後南期の筋目を誇る連中は、伊賀党の悲劇を目でみながら、“鳥なき里のこうもり(*3)”の諺通り
「土百姓上りに屈しては先祖に相済まぬ。井戸殿の好意には感謝するが、こればっかりは」
 と頑として承知せず信雄、家康の口車に乗ったらしい。

(*1)ひでなが。1540〜1591。通称、大和大納言。豊臣秀吉の弟。秀吉の片腕として、文武両面で活躍。天下統一に貢献。▽元亀元年(1570) 越前討伐以降、主要な歴戦に参加。天正13年(1585)の紀州征伐後、秀吉から紀伊・和泉などの64万石の所領を与えられる。▽天正13年(1585)6月、四国征伐では総大将。功績を賞されて、大和を加増。郡山城に入り、116万石の大大名に。▽天正19年(1591)1月22日、郡山城で病死。享年52。
(*2)和歌山県北山村。三重県と奈良県に囲まれた全国唯一の飛び地の村。良質の杉に恵まれ林業で栄える。伐採された木材は新宮まで筏で運ばれた。明治22年に七色、竹原、大沼、下尾井、小松の5つの村が合併し、北山村と改称。
(*3)「鳥なき里のこうもり」鳥がいない所では、空を飛べる蝙蝠が威張るという意味で、優れた者がいない所では、つまらない者が幅を利かすということの喩え。


(2)秀吉、紀州征伐を決意する
 天正十二年(一五八四)小牧長久手で睨みあっているうちに、秀吉は、和泉に突出した根来、雑賀衆の大阪進攻の動きを見た。そこで秀吉は急いで信雄との単独講和を計る。十一月になると伊勢に進出し、信雄と会見して巧に口説き落した。続いて家康とも講和を結ぶと、伊勢に蒲生氏郷、鳥羽に九鬼嘉隆、そして大和の筒井の上に弟・秀長を配して万全を期した。
 明けて天正十三年(一五八五)三月始め、秀吉は足元を脅かした紀伊の鎮圧を決意し、十万の大軍を動員した。眞先に根来寺を槍王に挙げんと、秀長、秀次(*1)には和泉の千石堀砦を、細川、蒲生には積善寺砦攻略を命じる。
 秀長の先陣となった筒井定次は
「武名を世に轟かすは此時ぞ」
 と伝家の名刀筒井丸をかざして一気に千石堀を攻略した。秀吉は喜んで
「根来寺の先陣も汝に頼む」
 と煽り立てる。定次は勇んで風吹峠(*2)を越えて根来寺攻略の体勢をとった。秀吉は、寺領数十万石、僧坊二百、僧兵三万を誇る彼らに
「二万石の寺領を与えるから残りの寺領を返納せよ」
 と申し入れたが、日本一の鉄砲集団を誇る僧兵達は頭から相手にせず、三月半ば断呼として戦端を開き必死に戦った。
 然し秀吉の大軍の前には問題ではなく、僅か数日で壊滅し全山が炎上した。粉河寺も悉く烏有に帰し、三月末には早くも畠山貞政(*3)の城が落ちる、勝ち誇った秀吉軍は続々と太田(*4)、雑賀党の牙城に迫った。
 処が田井ノ瀬で雑賀鉄砲隊に迎撃され死傷続出するや、秀吉は力攻めをさけた。延五十万人を動員して紀ノ川を堰止め、得意の水攻め作戦を展開する。さすが豪強で知られた日前宮(*5)を中心とする太田党も手の打ちようがなく、四月末には太田ら五十人が自刃して住民を救った。
 秀吉は悠々と和歌浦の風光を賞でながら、次には高野山に使者を派遣する。
「僧でありながら広大な寺領を持ち、浪人共を傭って、天下の安泰をさまたげるとは以ての外」
 と脅し、根来の惨状を見た高野山側は、木食(*6)が代表して降伏した。


(*1)秀吉の甥。Chap 2豊家の巻2.1 良弘熊野落ちを参照。
(*2)かぜふきとうげ。和歌山県岩出市。標高200m。紀伊国と和泉国を結ぶ根来街道の途中にある。現在は大阪府道・和歌山県道63号泉佐野岩出線が通る。近辺に根来寺がある。
(*3)畠山氏(はたけやまし)は武蔵国秩父郡に起源を持つ武士の名族。坂東八平氏から出た秩父重弘の子・重能が畠山を称したことに始まる。▽南北朝時代には、足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって、越中、河内、紀伊の守護となった。▽室町時代、畠山持国(徳本)は、細川氏、山名氏と拮抗する勢力を維持した。しかし、持国の子・畠山義就と養子・畠山政長が家督をめぐって激しい争い、応仁の乱の原因のひとつに。応仁の乱の終息後、畠山氏は衰退の一途をたどる。▽天正4年(1576)、最後の当主・畠山高政が死去して滅亡。だが畠山貞政(高政の弟・政尚の子)が江戸幕府の高家の一人となる。
(*4)太田党。Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1 凱歌編を参照。
(*5)にちぜんぐう。名草宮とも呼ばれる。和歌山県和歌山市。一つの境内に日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の2つの神社がある。最寄駅は和歌山電鐵貴志川線日前宮駅。当時、紀北には五大勢力、1.高野の古義真言、2.粉河の天台、3.根来の真義真言、4.太田の日前宮、5.雑賀の一向宗があった。太田党の日前宮はその一つ。
(*6)木食応其(もくじきおうご)1536〜1608。真言宗の僧。近江国の出身。▽もとは武士であったが天正元年(1573)38歳の時高野山で出家。高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。▽全国を行脚し、天正13年(1585)豊臣秀吉が根来寺に攻め込んだ際には、秀吉との和議に臨んだ。結果、高野山の復興援助を得る。木食応其も秀吉の方広寺造営に協力。▽天正15年(1587)秀吉と島津氏との和睦交渉も力を尽くす。▽関ヶ原の戦いで豊臣家との縁から、近江の大津城(守将:京極高次)や伊勢の津城(守将:富田信高)における開城交渉にあたる。▽戦後は近江国飯道寺に隠棲。


(3)秀長、南紀に進攻する
 天正十三年(一五八五)五月に入ると、秀吉は自ら(後の)和歌山城の縄張りを行い“若山”と名づける。秀長を城主に任じ、反抗を続ける地侍共の討伐を命じた。秀吉自身は、鷺ノ森の本願寺顕如に大阪天満の地を与えて布教を許すと、さっさと帰阪して六月には四国攻めに着手する。
 いっぽう秀長は桑山重晴を若山城代に任じて北紀を征圧すると、根来や太田と連判状を交して抗戦し続ける海草(*1)、有田(*2)、日高(*3)や口熊野(*4)の豪族達の征伐にかかった。
 その鮮やかさを見て秀吉の天下人たる器量に惚れ込んだ堀内氏善(*5)は、藤堂高虎(*6)の客分となっている長男・氏治の尽力でいち早く臣従して許された。表高二万八千石の本領を安堵されたが、代りに本宮、北山一円の逆徒鎮圧に出陣を命ぜられた。
 和歌山(若山)城を発した秀長軍の先陣は、蜂須賀、藤堂、青木、仙石ら聞えた勇将の率いる数千である。有田岩村城の畠山定政、市野の宮崎城、田辺別当系の目良城を次々と攻略して南下する。
 平家の子孫である和佐城主の玉置直和は、日高郡の旗頭である武田源氏の湯川直春の娘婿だが、秀長軍に臣従して家の断絶を防がんとした。怒った湯川直春は坂ノ瀬で激戦を展開する。玉置直和の急報でそれを知った秀長軍は一挙に湯川直春の本拠亀山城(御坊市)を猛攻し、中紀第一の所領二万五千石を誇った湯川直春も芳養の泊城に落ちた。
 この情勢を見た芳養の杉若越後守は秀長に降伏した。攻撃軍の案内役となり大辺路を南下して田辺に乱入、斗鶏神社を始め名社大寺を次々に焼失させる。憤激した目良氏や神官衆徒らは凄ましい夜襲を敢行して、寄手の肝を冷やした。
 とはいえ、歴戦の将兵だけに反って闘志を燃やし、寡兵の熊野勢は次第に圧倒される。山本主膳は市ノ瀬の龍松山、湯川直春は田辺の龍神山城に籠り、巨木、大岩を投じて必死に戦った。しかし戦局は敗色を深めるばかりだった。
 それを知って本宮、尾呂志、入鹿、竹原の豪族達も懸命に応援に馳せつけたが、衆寡敵せず。中辺路の要衝は次々に陥落し、真砂、近露の勇将達も本宮に敗走する。

(*1)和歌山県海草郡
(*2)和歌山県有田市
(*3)和歌山県日高郡
(*4)和歌山県田辺市と白浜町の中間地点で、熊野古道が「中辺路」「大辺路」に分かれる分岐点。田辺から海沿いを離れて山中に入るため、「口熊野(くちくまの)」と呼ばれた。
(*5)Chap 1安土の巻1.1宇治川城の春秋を参照。
(*6)とうどう たかとら。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。彼自身「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と発言。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴がある。主君変遷…浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→徳川家康→秀忠→家光。


(4)秀長は大和を加増され、筒井定次は伊賀に移る
 天正十三年(一五八五)七月に入ると、海路新宮に到着した桑山、藤堂勢は堀内氏善を先陣に熊野川を溯り、中辺路を進んだ羽柴勢と呼応して本宮鬼ヵ城を落した。更に敵を追って、尾呂志の風伝峠で激戦の末に野長瀬左近以下百六十人を処刑したと云うから、熊野宮信雅王(*1)の後裔も哀れ彼らと共に難に遭われたかも知れない。
 勝ち誇った藤堂勢は西山の赤木に本格的な城を築いて北山一帯まで進攻し、平和な山里を荒し廻った。しかし篠尾(*2)に止まって侵攻軍との仲に立った良弘の尽力で、本宮一円は何の被害もなく無血占領できた。
 八月上旬、四国征伐から帰った秀長は
「伊勢に次ぐ熊野の霊地を戦火から守り得たのは大功である」
 と喜んで良弘に領主に拝閲できる「地士」の身分を安堵して、今後の協力を要請している。
 さて、秀長と共に凱旋した筒井定次が大坂城に召され、関白に昇任した秀吉から二万石を加増して二十万石を認められたものの
「大和は大坂城を守る第一の関門であるから秀長に譲ってやれ。そなたは伊賀に移って東国への防衛の牙城となって貰う。」
 と云われたから、正に青天の霹靂だったろう。
 然し拒めばどうなるかは明らかであり、一門協議の末に、大和へ残りたい者は秀長に仕える事にして、泣く泣く故郷を捨てたようだ。
 定次と共に伊賀、伊勢に移るのは十市、箸尾、福住、岸田、井戸の一門と家老職の松倉、島、中ノ坊、上士筆頭・井上以下の譜代家臣約三千余人。八月下旬に、彼らは初瀬街道から名張をめざして出発した。
 それを見て今迄は事ある毎に筒井の善政を賛え、御家安泰の祈願費などを貪っていた多聞院(*3)などは
「元来が大和は春日神領であったのに筒井ら武士共が数代にわたって横領し悪道な政治を行っていた。今度、関白殿の命によって憐れ追い払われるのも当然の報いであり、今になって他人を怨んでも遅い」
 などと日記に書いているのは社寺の本音であろうが、それにしても書く方も厚い面の皮である。
 定次の新領二十万石の内訳は伊賀十二万石、伊勢五万石、山城三万石となっている。けれど、伊賀は三年前の大乱によって荒廃しきって実質は十万石にも満たず、前任の滝川三郎兵衛(*4)、脇坂安治等も治政に手を焼いていた程である。筒井家の幹部達も前途の多難を予想して心細い限りであったに違いない。その足取りもトボトボと頼りなく「喪家の犬の如し」などと評されている。

(*1)Chap 4室町の巻4.2 結崎井戸の里を参照。
(*2)和歌山新宮市熊野川町篠尾。玉置山の南。
(*3)Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。
(*4)源浄院。Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1 凱歌編を参照。


back