Chap 2  豊家の巻

2.1 良弘熊野落ち

(1)井戸良弘、明智光秀の冥福を祈る
 天正十年(一五八二)六月十四日の夜深く、良弘は子の治秀と郎党数名と共に槇島城を落ちる。奈良の水門(*1)にある興福寺の末寺に潜んで機会を狙い、せめて熊野に入る前に光秀一族の霊を慰めようと、山伏姿で伏見の醍醐寺三宝院(*2)に入ったようだ。
 光秀終焉の地は寺の近くで、黄昏にまぎれて竹薮の中に“明窓玄智”の碑と心ばかりの読経を手向けると近江の坂本に向う。光秀夫人や娘達が自害した湖畔の焼跡に立ったのは夏の盛りに向う七月の始めであったと云う。
 良弘が始めて坂本城を訪ねたのは、十年前のことで新装の天主の威容に
「わしも何とか一城の主になろう」
 と斗志を燃やしたのが、つい昨日のように偲ばれてならない。瞳に露を浮かべた治秀と共に暫し佇むうち、折しも日は早くも叡山の西に沈みかけ、斜光が古びたお堂に映える。青い落葉を焼く煙が勢い良く立昇って、恰も落城の日の情景のように見える。
 若く貧しかった頃、緑なす黒髪を売って夫の友をもてなす酒代にしたと云う貞節な光秀夫人。
 フロイスから「謹厳でヨーロッパの王侯のように優雅な教養あふれる武将」と称された光秀。
 何故に土民の竹槍で悲しい死を遂げねばならぬ運命を天から与えられたのだろう。
 人間の価値は死を迎えた際の態度にあるとすれば余りにも悲惨である。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅…」と歌われるが、光秀とて懸命に信長の下で餅をつき上げ、秀吉に劣らぬ武功を重ねている。
 僅か十日に過ぎぬ天下人とは云え、彼の行動を見れば決して覇道主義ではなく王道を第一とした智的武将であった為に、返ってあの悲劇を招いたとさえ思われる。
 せめてもの慰めは光春の活躍であろう。同じように主・義輝を殺した松永に比べれば、正に雲泥の差で「物の哀れ」を知る武人と云えよう。
 そう考えて冥福を祈っていると裏手の森で美しい鳥の音が響き、フト

●ほとゝぎす 幾たび森の 木の間かな。

 との光秀の遺詠を思い出させた。信長や秀吉とは段違いの風流武将が、もし武運に恵まれれば、日本の歴史は大きな転換を見せたかも知れないと感じる。
 然し天は皮肉にも、秀吉と云う「人たらしの名人」と云われる英雄を世に送った。良弘は沁々(しみじみ)と天の非情を感じながら
「もはや都に未練はない」
 と雲山万里の熊野をめざした。

(*1)奈良市水門町。興福寺の北東、東大寺の西。JR奈良駅から約2km。
(*2)京都市伏見区醍醐東大路町22。光秀終焉の地(京都市伏見区小栗栖)まで、約2km。醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上に小堂宇を建立。准胝、如意輪の両観音像を安置。真言宗小野流の中心寺院。三宝院は永久3年(1115)創建。


(2)良弘、竹原の里に落ちる

 良弘の旅路の状況は良く判らない。恐らく吉野下市の興福寺末寺で、蔵王堂(*1)の天台、眞言両派の支配役に多分の寄進を行い、特別の許可証を手に入れる等の配慮も手抜かりなかっただろう。女人禁制の大峯山上の道場に登ると山伏らに交って「奥駆け道」を南下し、玉置山(*2)に向ったと思われる。
 古来から修験道には、役行者を開祖に仰ぐ三井寺円城寺(*3)の円珍らの「天台密教派」と、醍醐寺三宝院の聖宝(*4)を祖と仰ぐ「眞言密教派」がある。
 聖宝は園城寺を創建した弘文天皇の子孫で空海の弟・眞雅の弟子となり、新宮神倉で十二年間修行した。やがて伏見の醍醐寺を創建した名僧で、理源大師を贈られ醍醐小野法派(真言宗小野流)の祖と仰がれる。
 彼らは毎年吉野金峯山蔵王堂を道場として修行し、吉野から熊野をめざすのが常で「当山派」と呼ばれた。
 それに対して天台派の山伏達は後に検校・増誉(*5)が天皇、上皇の聖なる身を護る「聖護院(*6)」を創建し、熊野から吉野に向うのが順であるとして「本山派」と呼ばれた。
 良弘は、辰市の倭文神社の神宮寺が聖宝を開祖と仰ぐという歴史的な由来と、光秀の最後の地が醍醐寺に近いという縁から、当山派に加わったらしい。
 彼らは玉置山までの七十五行場を巡って修業に励む。良弘の一行は途中、「前鬼」から聖宝上人が役行者さえ苦しめられた大蛇を退治されたと云われる「池原」に下りた。そして「浦向」から不動峠を越えた「竹原」の里で、南朝の忠臣で有名な竹原八郎や戸野兵衛の子孫と交りを深めたらしい。
 と云うのは、糸井神社の楽頭職だった観世一族とも縁が深かった名張小波田の竹原大覚はこの里の出身とも云われるからである。
 暫し滞在を重ねるうち、「南朝こそ正統の天子」との信条から南朝筋目の郷士を誇とする硬骨の古武士らしい生き方を見て、大いに感動した。しかし、余りにも時流を知らぬ生き方に危ぶみもした。

(*1)金峯山寺本堂蔵王堂
(*2)奈良県吉野郡十津川村
(*3)滋賀県大津市園城寺町246。一般に三井寺と呼ばれるが、正式には「天台寺門宗 総本山 円城寺」。壬申の乱後、667年に大友与多王(敗れた大友皇子の子)が、父の霊を弔うため創建。天武天皇から「園城」という勅額を賜わったので円城寺と呼ばれる。
(*4)Chap 3南北朝の巻3.6 楠氏と観世一族を参照。
(*5)ぞうよ。1032〜1116。天台宗の僧。園城寺(三井寺)の乗延に師事。大峰山・葛城山で山岳修行。早くから霊験を現した。白河、堀河両天皇の護持僧としても活躍。寛治4年(1090)白河上皇の熊野参詣の先達をつとめて最初の熊野検校に。洛東に聖護院を建立。長治2年(1105)天台座主に任ぜられるが、延暦寺の反対により翌日辞任。85歳で没。
(*6)しょうごいん。京都市左京区聖護院中町。本山修験宗総本山の寺院。同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。開基は増誉。本尊は不動明王。近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の2つに分かれ、聖護院は本山派の中心寺院。代々、法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となった。


(3)良弘、再婚する
 ある日、良弘は奥熊野の霊峰・玉置山と、新宮の堀内氏にも近く古代熊野の国府であった本宮を一見したいと思い立った。
 竹原氏から“熊野は落人の極楽”との諺通りの扱いうけ、彼らの案内で北山川を下って入鹿の里から玉置山奥ノ院に参詣する。別当職や筋目の郷士達と交友を深め、後南朝の悲史を学んだ。修行の月日を送るうちに、「篠尾」の里の郷士で戸野一族の流れを汲む人々の世話を受け、ここで新しい生活の基盤を築くつもりになったらしい。
 とは云え、三十万石の大名だった佐久間信盛(*1)さえ、去年、十津川で山伏に殺されたとか、餓死したと云われている落人暮しだけに、気配りも大変だったろう。
 そこで良弘は、玉置山の別当から山伏の秘伝書を見せて貰う。山野に自生する植物、山また山と渓谷に群生する熊と狼や猿、猪やら鹿、山女や岩魚の魚類を猟して、その体内から特効薬を作り出して、里人の病いを直すことで共存を計ろうと思い立った。
 と云うのも、井戸家には昔から製薬の深い知識が伝わっていたからだ。良弘がその覚悟で困苦に耐えているのを見て戸野の主は喜んだ。彼はその先祖が平家の落人で、兵庫左衛門氏永と呼ぶ侍大将の家柄だった。それだけに、藤原宇合を祖とする大和井戸氏の嫡流の血をこの地に生かして、共に繁栄を計りたいと考えたらしい。
 半年ばかりが過ぎた年の暮のこと。良弘が順慶の妹になる妻を亡くし独身であるのを幸い、戸野は朴突な口調で切り出した。当主の姉は、年は四十に近いが、早くから夫と別れて後家を通していた。美人で聞こえたその人を
「是非とも貰って貰えまいか」
 と言うのである。良弘は
「もうこの年で妻など」
 と辞退した。しかし、二万石と云う大名であった身を誇らず、人情深く文武両道の武人である人柄を知った姉自身がまっさきに惚れ込んだらしく、話はトントン拍子で進んだ。
 天正十一年(一五八三)良弘が満五十歳を迎えた春、山々の雪も消えて里には白梅が綻び始めた頃、めでたく婚礼が催される。

(*1)Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1 凱歌編を参照。

(4)秀吉は柴田勝家を倒して大阪城を築く
 都では明智を打倒した秀吉が、清洲会議で長老・柴田勝家と信孝(*1)の意見を圧さえて、信忠(*2)の嫡男・三法師を正嫡としその後見役となった。天下人をめざす両雄の争いは今や避けられぬ情勢と成っていた。
 天正十一年(一五八三)四月、秀吉は大垣の信孝を攻め、急転北上して賤ヵ岳で勝家を潰走させると北の庄を囲んで自決させた。続いて信雄(*3)に信孝を殺させる。
「彼らは天皇の皇位を奪わんとした、故に帝と天下の為に誅した」
 と称し、六月には大坂城を築いて次の天下人たらんとした。
 天正十一年(一五八三)十一月、秀吉は八年間も織田勢を苦しめ続けた石山本願寺一帯に巨大な大阪城を築き始め、工事奉行は浅野長政(*4)と増田長盛で、一日三〜四万人の人夫が群がり集った。
 そして翌年八月には一日千隻にも及ぶ石船につんだ巨石によって完成した本丸、二の丸、三の丸の石垣の長さは十二粁にも達した。その上に高さは安土と同じ五十m程だが、十倍もある広大な天守閣が出現する。
 五層八階の最上部には廻廊がめぐらされ、上には鶴、下には虎の金彫刻と黒漆の重厚な装いで瓦は青銅、軒瓦には金で桐紋が輝いている。
 それを見た人々は「金城」とも「錦城」とも呼んで賛え、歴戦の武将達も猿面冠者と仇名した秀吉の底知れぬ経済力に目をむいた。
 今までは武力の表徴だった城は今や経済力が勝利の根源であることを示し、次の天下人が誰かと云う事を教えた。
 そして子飼の加藤、福島の武将や石田、増田の文吏らも一斉に黄金と黒漆塗りの名城を築いて天下に豊臣時代の到来を告げる。

(*1)信長の三男。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。
(*2)信長の嫡男。本能寺の変の際、二条城で戦死。
(*3)信長の次男。北畠信雄。
(*4)あさのながまさ。1547〜1611。長政は豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の義弟で、豊臣政権では五奉行の1人。官位:従五位下、弾正少弼。▽織田信長の弓衆をしていた叔父の浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘のややの婿養子として浅野家に迎えられこれを相続。長勝の養女となっていたねね(のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚となり、信長の命で秀吉の与力となる。▽1573年(天正元年)の浅井長政討伐をはじめに、1583年(天正11年)の賤ケ岳の戦い、信長の死後に秀吉が統一事業を継承すると朝鮮出兵などで武功を挙げ、またその卓越した行政手腕を買われて太閤検地や京都所司代としての任務を速やかに遂行するなど、様々な功を挙げて、1593年(文禄2年)には甲斐国22万石を与えられた。▽五大老の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行でありながら石田三成と犬猿の仲にあったとされる(これには近年になって疑問も提示されている)。1599年(慶長4年)、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて、甲斐国に謹慎を命じられた。▽1600年(慶長5年)秋の関ケ原の戦いでは家康の子の徳川秀忠に属し、戦後は嫡男・幸長に家督を譲って隠居した。家康は江戸に武家政権を成立させ、1606年(慶長11年)には、長政は幸長の所領とは別に、自らの隠居料として常陸真壁に5万石を支給された。1611年(慶長16年)、真壁陣屋にて死去。享年65。墓所:茨城県桜川市桜井の天目山伝正寺。また、和歌山県高野町の高野山悉地院。▽なお真壁5万石は三男・長重が継ぎ、その子・長直が赤穂へ移って、この家系から元禄赤穂事件で有名な浅野内匠頭長矩が出ている。


(5)秀吉対家康〜小牧長久手の戦い〜
 これを見て、自分が天下人になれると考えていた信雄は「話が違う」と腹を立てた。伊勢、伊賀を根拠とし、徳川家康や佐々成政に懇請して味方に加え、更に紀州の豪族らにも呼びかけて何とか拒まんとした。
 天正十二年(一五八四)三月、先ず信雄が兵を挙げた。続いて家康が清洲に入って共同作戦を展開すると共に、紀州勢には「和泉、河内に進撃して大阪城を脅かして貰いたい」と要請したので、根来衆が先ず動いた。
 それを知った秀吉は、急ぎ岸和田城の守りを固めると、かねて知友の雑賀孫市や九鬼嘉隆を動かして奥熊野の堀内氏善ら豪族を味方につけるべく彼一流の外交政策を進めた。このため北紀は家康方に参じたが、南紀は動かない。氏善は情勢を見て秀吉に応じ南紀を統一すべく、昔は客分として養っていた秀長の家臣・藤堂高虎の処へ子の氏治を送った。親交を深め、南紀統一の機会を待ったのである。
 戦は有名な小牧長久手の滞陣となる。功を急いだ池田勝入斉(*1)の要請で若い秀次(*2)を総大将とする三河急襲作戦が完敗して持久戦となる。秀吉方の脇坂安治が上野城を攻め、滝川三郎兵衛(*3)は伊勢に奔る。

(*1)池田信輝。1536〜1584。恒興とも。入道して勝入と称した。母が信長の乳母。年少より信長の側近となる。父・恒利が織田信秀に仕えた。信秀死後、信長に従い、各地に転戦。信長の弟信行の謀反のとき、信行を討つ。桶狭間で軍功あり、犬山城主となる。荒木村重が信長に叛くと、これを討伐。花隈城を攻め、信長より村重の旧領摂津を与えられ、摂州尼崎に居城を移す。本能寺の変で信長が光秀に討たれると、秀吉と結び、山崎の合戦で奮戦。清洲会議では、秀吉・勝家・丹羽長秀とともに、織田家の四宿老の一人に。秀吉の盟友として賤ヶ嶽の合戦にも参加。その功で織田信孝の旧領を得て、美濃大垣城主に。小牧・長久手の戦いで、討たれた。49歳。後、次男の輝政は大大名となり家名を現した。
(*2)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)。1568〜1595。大名・関白。豊臣秀吉の姉・日秀の子。はじめ三好康長に養子入り。後に秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、秀吉の養子。関白職を継ぐ。聚楽第に居住し、秀吉との間に二元政治をひく。その後、朝鮮征伐に専念する秀吉の代わりに内政を司る。秀吉に次男・豊臣秀頼が生まれると、秀吉から疎まれ、奇行を繰り返す。このため高野山に追放され出家。後、切腹を命じられる。享年28。首は秀吉によって三条河原に曝された。
(*3)源浄院。Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1 凱歌編を参照。


(6)筒井順慶、死す
 秀吉方に参じて小牧にいた筒井順慶はかねての胃病が悪化した。定次に任せて帰国療養に努めたが、八月には再起の望みも危ぶまれる状態となる。
 死期を覚った順慶は、父の例にならい熊野に潜んでいた良弘に急使を走らせた。驚いた良弘が秘かに郡山を訪れる。三層の天主を持つ新城に驚きながら、久しぶりに会う順慶が自分より十余才も年下なのにすっかり衰えたのに心を痛めながら、励まし続けた。
 八月十一日になると、順慶は枕頭に母の大方ノ局や福住、持明寺、井戸ら一族と、松倉、中ノ坊、島の家老達を集めた。嗣子・定次への協力を頼み、やがて息を引きとった。
 時に男盛りの三十七歳で、開祖・順武から四十七代を数えた筒井氏の正嫡は絶え、その早死を惜しまぬ人はなかったと云う。
 順慶は、信仰心に厚く、神学、仏、儒教の道にも通じていた。また、領民に対しては常に慈悲を以て接したので、深く尊敬され慕われていた。
 また茶道を好み「落葉」と呼ばれる肩衝きの茶入(*1)は知らぬ人もない筒井の名品として羨望された。能楽にも達人と云われ、その『百万』はとても大名藝とは思えぬ見事さであったと賛えられている。
 盛大な葬儀が催されたのは十月十六日で、一番の火を先頭に花、灯籠、馬、大刀、輿、長老などの大葬列が二十二番まで長蛇の列を為す。良弘は五番目に並び、天王山決戦に際して最も尽力してくれた知友の島左近と肩を連ねている。これを見ても当時の彼の評価が察せられる。
 引導僧は円證寺(*3)の名僧・高範で、当日の布施金が一千貫に達しているのを見てもその盛大さが判り大和守護の名にふさわしい葬儀であったようだ。

(*1)茶を入れておくための容器。特に茶の湯で、濃茶(こいちゃ)用の抹茶を入れる容器。主に陶器で、形も肩衝(かたつき)・茄子(なす)・文琳(ぶんりん)など種々の形がある。
(*2)『百万』のあらすじ…ある男が拾った少年を連れて京都の嵯峨に。嵯峨は大念仏の最中。寺の門前で男が念仏を唱えていると、女が現れて人々の念仏の拍子が下手だと言い、自ら音頭を取る(車之段)。女はひとり子を失ったことで心が乱れ、古烏帽子をかぶり笹を手にして狂い歩いている(笹之段)。神々に捧げるといって曲舞を舞う。舞は子の行方を訪ねて諸国を巡った身の上話(クセ)。群衆の中に我が子を探すうち、男に連れた子が我が子と知り、正気に戻る。
(*3)圓證寺。真言律宗。奈良県生駒市上町4713。予約無しでは拝観できない。0743-79-1170。▽890年頃、大和筒井庄(現大和郡山市筒井)に創建。後、戦国武将の筒井順昭が筒井氏の外館とした奈良市林小路町(現奈良ビブレ)に営んだ別院。天文19年(1550)順昭が没した後、息子の順慶が寺に改め、父順昭の菩提寺として寺籍を移す。昭和60年(1985)寺域周辺の市街地高層化による公害騒音震動等の被害が出て、文化財保護継続のため生駒市の現在地に遷寺。復旧された重文の「本堂」は、室町末期の特色をよく現した仏堂。▽「本堂」の直ぐ右横に花崗岩製で高さ2.6m、重文の「石造五輪塔」。地輪部に「順昭栄舜坊、天文19年(1550)庚戌六月廿日」の刻銘がある。この五輪塔が「円證寺」旧寺地の当主であった筒井順昭(筒井順慶の父親)の供養塔。▽「本堂」の斜め前が、昭和60年(1985)遷寺の時に新築された「奥書院(客殿、至聖坊)」。その一間には、天正13年(1585)筒井定次(順慶の養子)が伊賀の城主になって集めた古伊賀と云う伊賀焼の真髄を伝える名作を陳列した室が設けられている。▽「客殿」の前面が「石庭(雪山の庭)」。庭の名は、お釈迦さまが生まれた印度の仏跡ルンビニーへの道すがら、千古の白雪を頂いて天空に聳えるヒマラヤに因んで名付けられた。石は台湾の奥地、花蓮山より先住民の協力によって運び出された「古譚石」で、長い間深い水底で侵蝕された奇石。そして、中央「雲珠砂」の上の石は、印度「霊鷲山」より到来。


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