Chap 1    安土の巻

1.4 天王山の戦い

(1)布陣
 天正十年(一五八二)六月十二日、光秀は洞ヶ峠(*1)を降りて男山から下鳥羽に本陣を移すと山崎、八幡の兵を撤退させ、淀と勝竜寺(*2)を拠点とした。西国街道を突進して来る敵を山崎の街はずれを流れる円明寺川沿いに迎撃する作戦に変えたのである。
 考巧の軍師・斉藤利三が
「四万の秀吉軍に三分の一程度の兵力で決戦を挑むのは不利。ここは一時京をすて近江各地に散在して北に備えている勇将・光春以下五千の兵と合流し、阪本、亀山城によって戦うべきである」
 と力説しても光秀は
「京都守護の勅命からもそれは出来ぬ」
 と聞かなかった心境は充分察せられる。
「ああ、荒木村重ら一族二万が健在であったら」
 と内心痛嘆していたに違いない。
 明けて六月十三日、決戦の日は朝から強い雨だった。
 光秀は安土城を守る光春らに急ぎ参戦の急使を走らせた。雨の中を下鳥羽から勝竜寺の前方に位置する御坊塚(*3)に本陣を進めたが、その配備は
 中央に斉藤、阿閉、柴田、明智茂朝らの近江勢、
 右翼天王山麓には松田、並河の丹波勢に伊勢、諏訪、御牧ら旧幕府奉公衆、
 左翼には津田、村上らが淀川沿いに守りを固めた。
 光秀本陣には筒井から帰った藤田伝五が予備隊として控え、その総勢は一万六千余と伝われる。光秀が最も頼みとする勇将・明智光春以下三千の精鋭の姿が見られなかったのは、何としても惜しまれてならない。
 それに対する秀吉軍は、
 中央に高山、中川、堀。
 右翼淀川堤に池田、加藤、木村。
 左翼天王山麓には秀長、黒田が布陣、
 続いて秀吉本陣、蜂谷、丹羽、
 殿軍は信孝で、總軍三万九千余がびっしり両国街道を埋めていた。
 光秀と親交のあった吉田兼見卿がこの日に下鳥羽から山崎近くまで来て観戦しているのは帝の内意を受け「何とか光秀が勝ってくれぬか」と神に祈る気持ちだったろう。

(*1)京都府八幡市八幡南山。かつて東高野街道の中継地。現在はその少し東を国道1号(枚方バイパス)が通り、交差点の名前として『八幡洞ヶ峠』がある。峠だが、曲がりくねった道はなく線形の良い道路。
(*2)しょうりゅうじじょう。京都府長岡京市に所在した。城名は、付近の同名古刹に由来。本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備された。
(*3)御坊塚(境野古墳群)は、京都府大山崎町の東北端に位置する。サントリー京都ビール工場の裏手にあり、御坊塚(境野古墳群)と光秀本陣跡の標識がある。


(2)開戦
 戦端が切られたのは午後四時過ぎ天王山方面だったと云われる。やはり天王山が戦局を左右する重要地点となった。寡兵ではあっても自由に地の利を選べた明智勢だけに、もし織田軍の中でも「明智の鉄砲隊」で知られた精鋭三千が勇将・光春に率いられて街道を見下す天王山に堅陣を築いて居れば戦局は大きく変ったに違いない。
 緒戦は戦さ上手で知られた斉藤勢が凄しい戦さぶりで高山陣を圧して優勢を示した。伊勢ら幕府奉公衆が予想外な奮戦を見せたのは
「この一戦に勝てば再び将軍義昭を京に迎えて幕府再興を実現出来る」
 と云う期待感からだろう。
 緒戦の不利を感じた秀吉は、弟・秀長と黒田、堀軍に
「何としても天王山を攻め取れ」
 と叱咤し、本陣一万の精鋭のすべてを山崎の隘路に投じる。それと共に右翼の第一線の猛将達に
「一気に円明寺を突破して淀川沿いに敵の左翼を包囲せよ」
 と激励。猛将・池田勝入斉や加藤光泰らが勢い立って斉藤勢に襲いかかった。
 その朝、筒井順慶は、秀吉、長秀から
「きっと命じる、信孝様に従って淀川際に陣取り油断なく救攻せよ」
 と厳命されていた。しかしこの時、筒井勢一万が峠を下り、突如淀川を渡河して秀吉本隊の背後を突けば、待ち構えていた良弘らは勇躍これに呼応し、戦局は一変したろう。
 残念ながら戦場に筒井の梅鉢の馬印は姿を見せなかった。

(3)明智光秀、勝竜寺城に退く
二千に満たぬ斉藤勢は包囲されて崩れ始める。予備隊となった明智の猛将・藤田伝五が名題の押し太鼓を轟かせて猛反撃を展開し、戦局は一進一退を繰返す。しかし、山ノ手の明智の勇将・松田太郎左衛門らが討死した為に、遂に天王山は秀吉勢の手に帰し、破局はここから始まった。
 激闘二時間にして明智の第一線で奮戦を見せていた斉藤、藤田隊も死傷続出して崩れた。奉公衆の御牧兼顕が本陣に急使を走らせ
「戦さは早これまででござる。身共は残る将士と共に敵陣に突入して討死仕れば殿には一刻も早く勝竜寺に退き後図を計られますよう」
 と進言する。
 光秀は
「死なば共にぞ」
 と残る旗本隊の全力を投じて最後の一戦を敢行せんとしたが、老臣・比田帯刀が駒の口論にすがりつき、
「日頃冷静な殿にも似ぬお振舞、例え此場は破れても安土、坂本、亀山には光春殿始め五千の味方が健在であり、再挙は決して不可能ではありませぬ、ここは先ず勝竜寺に移られませ」
 と無理やり引き揚げさせた。

(4)明智光秀、落ちる
 光秀も思い直して城に退ったが、明智軍の討死は三千を越え傷者を加えれば万に近く彼と共に入城した将兵は千に満たず、如何に死力を尽しても落城は時間の問題と思われた。
 慌しく軍議が開かれ、近江勢と合流して戦局逸回を計る事となる。光秀が溝尾勝兵衛、明智茂朝らと数十騎と共に秘かに城を出たのはまだ秀吉が勝竜寺を囲む前だった。秀吉勢は勝ったとは云え、将士の死者は三千三百、傷者は数知らずと云うから、主(信長)を殺した光秀に明智の将士はあくまで忠節を尽した訳で、主従愛の強さが偲ばれる。
 城を出た光秀の一行は久我縄手の間道伝いに伏見、深草大亀谷を北上して六地蔵に入ったが、勝竜寺から七里近い暗夜の雨中潜行に疲労困憊しきっていたに違いない。然し彼がここから目と鼻の先にある宇治川城に入れば、良弘父子は必ず其夜はゆっくりと城で気力を養わせただろう。そして翌早朝に宇治川左岸の近道を馬を駈って瀬田に直行したに違いない。さすれば急を知って安土を発した光春以下三千の将士と合流できたろう。
 けれど君子の光秀は敗戦の渦中に井戸一族を捲き込む気になれず、六地蔵から道を左にとり小栗栖に向った。これは人力の及ばぬ天運の尽きる処、と云うしかあるまい。
 義理固い良弘ら数百が槇島城で待ちわびているのを察しつつも、光秀は冷たい死神の操るままに宇治醍醐村の小栗栖に入った。八幡宮の社前で神助を乞うと疲れきった五体に鞭打って日蓮宗本経寺の裏の竹薮にさしかかった。
 折から薮の中の小道を横切る小川の畔りで、落人狩りで一儲けせんと網を張っていた土民・長兵衛の繰り出した竹槍が運悪くも鎧の脇の隙間から横腹を深く貫いた。

(5)明智光秀の最後
 暫くは傷の痛みに耐えながら馬を急がせていた光秀もやがて力尽きて落馬した。驚いた近臣に囲まれながら最後の気力をふり絞ると妙心寺での辞世に筆を加えたと思われる。

 順逆二門無し
 大道は心源に徹す
 五十五年の夢
 覚め来り一元に帰す

「日本の武士の真の順逆は帝に使える大道によるのみであり、その事はかねて心源に徹して居り、秀吉から例え主殺しの汚名をかけられようと“大義親を滅す”と云い、少しも恥ずる処はない。
 とは云え、帝と天下万民の為に役立たんと奔走した五十五年の理想も今やさめて、幽玄の世界に帰る日が訪れたらしい。」

 この詩を残すと溝尾勝兵衛に
「遺骸は深くかくして見つからぬようにせよ」
 と命じた。
 そこで家臣達は涙ながらに遺体は近くの薮の溝に埋め、御首は鞍覆いで包んで勧修寺に近い泥田の一角に埋める。それから或者は主に殉じ、或者は坂本城をめざした。

(6)明智光春の最後
 十三日の夜半、左馬介光春以下、三千の精鋭は安土を発していた。光秀からの「山崎で決戦」との急使が途中で敵に遮られて遅れた為である。取る物も取敢ず、瀬田にさしかかった処、甲賀忍者共が明智の敗北を知って勢い立ち、大挙して襲いかかった。
 それをふり払って大津に入ると天王山で奮戦した堀秀政らが「やらじ」とばかり立ち塞がって激戦となった。有名な「湖水渡り」の名場面が生まれたのは此時である。この日、彼は乱軍の中、琵琶湖中を唐崎ケ浜まで約一里、水馬の妙技を発揮して突破した。敵を驚嘆させつつ、唐崎の松に愛馬をつないで別れを告げる。
 歓呼の中に妻子の待つ坂本城に駈け入ると、光秀の愛好した貴重な芸術品をこのまま焼失させるのは国家に対しても申訳ないと堀秀政に譲渡した。その後に最後の一戦を心残りなく戦って光秀夫人以下一門悉くが城と運命を共にした。これは信貴山での松永弾正と比べようもない爽やかさであり、明智の家風が偲ばれる。
 天正十年(一五八二)六月十四日、琵琶湖畔を紅に染めて土岐一門の嫡流であった明智一族が
「ときは今、天の下知る 五月かな」
 と詠じてから僅か十三日で強く美しく哀れに亡び去った。
 余談ながら、日本築城史に輝かしい金字塔を樹立した安土城が灰燼に帰したのも其頃である。伊賀から進んだ北畠信雄が何を血迷ったか、父の貴重な遺品とも云うべきこの巨城をむざむざ焼き払ってしまったと云うから論外である。こんな馬鹿殿に伊賀を壊滅させられたかと思えば涙が止まらない。

(7)井戸良弘、語る
 更に同じ夜、秘かに宇治城を訪れた筒井順慶は良弘の嫡子・覚弘と共に現情勢を語って開城降伏をすすめた。
 すると良弘は次男・治秀を傍らにはべらせて、おもむろにその心情を述べたらしい。

*

 本能寺の変を知った時、拙者は君子人と尊敬している光秀殿だけにこれには必ず深い事情があるに違いない。それを聞いてわが行き方を決めようと慌しく馬を飛ばせた。
 そして菩提寺でもある洛外の妙心寺にいた彼を訪ねると非常に喜ばれ
「お主にはすべて真実を語ろう。」
 と帝の意向やら朝臣、社寺の長老から京の町年寄らの動向やら要請を詳しく述べた上で
「我国が神国と誇る由来は神代より一系の天子を仰ぎ、帝は天授にして武力や智謀の覇道によって望んではならぬのを国是としてきたからである。
 信長公が稀代の英雄である事はよく判っているが、この歴史と伝統を無視して帝の上に立たんとの野望を抱かれたのは臣として許すべからざることで、幾夜か悩み抜いた末に“大義親を滅す”と涙を呑んでお命を頂戴致した。

D心知らぬ 者は何とも 云わば云え、身をも惜しまじ、名をも惜しまず。

 この句を示され、さりながらこれは周の武王が悪逆な主君・紂王を除いたのと同じで主殺しと云う家臣としては大罪を侵したもので、かねてより事が成就の際には臣道を全うして入道し、切腹する覚悟をきめていたとのこと。
 ところが、光春を始め重臣らは
『殿があくまで自決されるなら拙者共もお供を仕る。なれど、その清廉なお心を以て一歩高く帝の為、天下万民の為に王道にそむかぬ新しき天下人をめざすのが真の大義と云うものではありませぬか。
 どうかお心を強く持たれ事の成否は天に任せて、思いのままやるだけやり抜き“時利あらず駒行かざる”時こそ共に腹かき切って地獄の果までお供致しましょう。』
 と涙ながらにかき口説かれて思い直した次第じゃ。
 忘れもせぬ天正三年(一五七五)秋、丹波の保月城で波多野一族に欺かれ、九死に一生を得た陣中でそなたに“上様の天下布武が成った時には大国は無理でも一国の主なら必ず”と約したことは今も忘れては居らぬ。
 どうであろうと息子達の為にも身と生死を共にしては貰えまいか。」
 と真情を吐露されたのに答え“人生意気に感ず”と快諾した次第である。
 すると光秀公は涙を光らせつつ、今し書き上げたばかりの毛利、小早川殿への次のような書を見せられた。
「きっと飛檄を以て言上す。今度秀吉ら備中にて乱暴を企て、将軍御旗を出し、毛利と共に御対陣の由、誠に忠烈の至りに候。
 然らば光秀、近年の信長の振舞に怒り、今二日、本能寺に於て信長父子を誅し、素懐を達し候。……将来に将軍本意を上げらるるの条、大慶これに過ぎずよろしく御披露に預かるべきものなり……」
 そして数々の政戦両略を説き、有名な明智風呂にも浴させて貰い、杯を交わして前途を祝し必勝を期して居った。
 また安土攻略後の十日には、帝よりも征夷将軍の内旨を賜わり、義昭公からも
「首尾よく上洛の際には、身共を副将軍に任じて、朝廷に忠誠な足利幕府を開設して天下泰平を招かん」
 との返書も届いた由にて秀吉とは協調の策も整ったとか、聞いて居たのに…。然るに天運つきたか、二十余年の知友であった細川一族や組下大名の中川、高山、池田ら戦場で辛酸を共にした友に見すてられ、果は大和四十万石の大守に任じられた貴殿にまで背かれようとは…五十路を迎える身共らには思いもよらぬことであった。

*

 と血を吐くように洩らしたので、三十半ばの順慶は只うなだれて、一言の返す言葉もなかったと云う。

(8)井戸良弘、熊野に落ちる
 然し良弘はそれ以上は何も云わず
「……とは云え天は時として非情な計らいを示されるのは幾多の歴史の示される通りにて凡夫の身の及びもつかぬ処じゃ」
 と呟き、ハラリと頭巾を取ると既に髪は落して山伏姿となって居た。
「朝廷は権力に答え、変に応じて将軍宣下は許してもその責を負わぬのが習わしであり、今度のこともすべては光秀殿の独断として処されよう。それは百も承知の上で過ぎし日、妙心寺で入道され“明窓玄智”と改められた光秀公に習い身共も“里夕斉善玄”と号す。例え万人が何と罵ろうと拙者の公に対する尊敬と信義はいささかも変らぬ。もはや二度と世に出る望みはなく、生涯その菩提を弔うことに決め、秘かに熊野に落ちるつもりであった。
 されど、もし身共が姿をかくすことで息子達や筒井家に罪を及ぼすようならこの場で腹を仕ろう。よしなに計って下され。」
 と潔く云い放った。
 それを見て一同は
「これぞ“士は己を知る者の為に死す”の諺通りじゃ。猿面冠者(秀吉)が勝ちに驕って何と云おうとここで死なせては大和武士の男がすたる」
 と今後の対策を協議の末に
「明智に参じた責は良弘が一身に負い、城を開け渡して僧となり高野、熊野に入る。井戸家は嫡男・覚弘が当主となり、後見役は今まで通り井上十郎が勤め、順慶は罪が彼らに及ばぬようあらゆる手段を尽す」
 と確約して、城を受け取ることにしたらしい。
 天正十年(一五八二)六月十四日の夜半、良弘は次男・治秀と僅かな郎党と共に槇島城を秘そかに抜け出て姿を消した。

(9)戦いの後
 翌十五日朝に筒井順慶が遅れ馳せながら醍醐の秀吉本陣に姿を見せる。仏頂面で今にも雷の落した気な秀吉に、順慶は洞ヶ峠に出撃したのは大嘘である事を弁解した。その上で有名な「つゝ井筒」の井戸茶碗を差し出し、良弘の明智に参じた事情を明らかにして詫びた。秀吉は
「何たる曲事か!」
 と大喝しただけで、後は何も追求せず機嫌を直したと云う。“時勢を先取りする事と人たらしの名人”と云われた秀吉だけに、順慶や良弘を責め立てる事よりも、この井戸茶碗を利休(*1)に見せようと考えたのだろう。そして利休を茶堂(*2)として次の天下人たる貫祿をつけ、やがて捲き起こる柴田らとの天下分目の第二戦に大和衆を味方につけるのが賢明。…と、素早く算盤をはじいたに違いない。
 そして後日、吉田兼見(*3)が光秀から大枚の銀子を貰った事が明らかとなっても
「甚だ怪しからぬ事」
 と叱ったものの、その金を返却させ、不問にしているのも同じ理由からであろう。
 古代天皇の親政の世はともかく、承久の乱や建武の中興などの痛い経験から天皇は自ら権力を握らず、時の権力者の意を迎える代り「忠誠と天皇制護持」を求めるのがその伝統政策であった。
 従って「敗ければ賊」の諺通り光秀が汚名にまみれたのも当然と云えよう。

(*1)千利休(せんのりきゅう)。1522〜1591。茶人。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという「わび茶(草庵の茶)」の完成者として知られる。七十歳のとき、利休は、突然秀吉に京都の聚楽屋敷内で切腹を命じられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首。死罪の理由は定かではない。「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤(ひっさぐ)る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛(なげうつ)」(辞世の句)
(*2)さどう。「茶頭」「茶道」とも書く。貴人に仕えて茶事をつかさどった茶の師匠。安土桃山時代に千宗易(利休)・津田宗及らが信長・秀吉の茶頭を務め、江戸時代には各藩にも茶道方という職掌ができた。
(*3)よしだ かねみ。1535〜1610。京都の吉田神社神主の神道家。『兼見卿記』の著者。

(10)小栗栖 〜宇治川城跡を訪ねて1〜
 古い日記を開いた。

“昭和四十七年(一九七二)十月、高野山奥ノ院に林立する信長、秀吉、家康ら覇者の墓碑を早暁に一巡して三宝院住職から
「不思議に光秀公の墓だけは『予は逆臣に非ず』とよく崩れる事がある」
 との秘話を聞いた。”

 山崎天王山の古戦場をさまようた若き日から三十余年の歳月をへた平成元年(一九八九)の桜咲く頃。公が我家にも浅からぬ歴史の縁を学び、改めて光秀終焉の地を訪ねて香華を献じようと思い立ち、京阪電車に揺られて伏見に向った。
 あの当時は紅灯の娼家で賑わった中書島から一駅先の六地蔵で降りて、小栗栖行のバスに乗った。小栗栖のバス停から左手の山道に入ると、貞観八年(八六六)紀古道が男山から分霊した小栗栖村の総鎮守八幡神社(*1)が鎮まっている。土岐源氏の光秀がその社前に神助を祈ったのはそれから七百余年後になる。
 鳥居下から右に折れて山路を辿ると本経寺と云う寺があり、その裏手の竹藪が俗に「明智藪(*2)」と呼ばれる光秀終焉の地で椿の古木には無数の花が咲き満ちていた。
 勝竜寺を出てから暗夜七里の逃避行に一行は疲れ切って自然と警戒心も鈍くなり、ひたすら勧修寺への道を急ぐばかり。真逆こんな片田舎の藪の中にまで凶刃が待っていようとは夢にも考えなかったろう。
 椿と竹林に囲まれた「明智藪」の碑石には里人が供えたらしい線香と仏花が枯れ残り、點々と小道に落ちた赤い椿の花が何故か光秀の血にまみれた首を思わせる。
 丘の柿畑で百舌鳥がけたたましく鳴いた。その向うに醍醐三宝院の屋根が聳えて見える。「百姓土民は可愛ゆきもの」と云った光秀が土民の竹槍で最後をとげたのが哀れでならない。新しい煙草を線香代りに供えた。その冥福を祈りつつ、静寂な竹林の中で一服する。碑前の熊笹をリュックに入れてせめてもの記念とし、別れを告げた。

(*1)京都市伏見区小栗栖宮山町。祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。清和源氏の祖である清和天皇の御代、貞観7年(865年)に武内宿禰(すくね)の子孫である紀古道に関東の守護を命じた。下向に際し男山八幡宮より祭神を勧請し、小栗栖八幡宮として当地に建立。小栗栖の産土神(うぶずながみ)として現在に至る。
(*2)京都市伏見区小栗栖小阪町。1990年に京都洛東ライオンズクラブが建てた碑には、光秀を襲ったのは信長の近臣小栗栖館の飯田一族と記されている。街道を山科方面に20分程度歩くと、明智光秀の胴塚の碑が立つ。

(11)小栗栖 〜宇治川城跡を訪ねて2〜
 宇治駅に着いた。橋の中央にある茶の名水を汲み上げるので有名な三ノ間の欄干に立つと、白濁々の川面から吹き上げる川風が身にしみる。
 京の関門で有名なこの地は、承久の乱以来の激戦場で良く知っていたが
「まさか我家の祖先が城主として四年間も支配していようとは夢にも気づかなかったナ」
 と思いながら、橋上から宇治平等院を眺めた。源三位頼政が自刃した扇の芝の彼方に連なる山々。点々と白い山桜が匂う山肌に見とれながら宇治橋を渡る。左岸の堤防沿いに下って行くと中洲に鴨の群れが急がしく餌をあさっていた。
 昔は川中の小島で農協の近くの茶畠がその城跡だと云うが、石垣一つ残っていない。将軍義昭が信長打倒の為に四千近い軍で籠城した処だから相当な城郭だったろうが、後に秀吉が伏見築城に際し取壊して運び去ったらしい。
 「槇島城跡」とある碑石には足利最後の将軍だった義昭のことさえ記されてない。土地に残るエピソードでもなかろうかと近く古めかしい寺院を訪ねたが、井戸良弘が城主だったのも知られていない。これは敗者の常かも知れぬ。
 順慶が良弘に応じて淀川を渡り秀吉の腹背を突けば、例え敗れても悔いは残らなかったろうにと思う。
 まして順慶が二年後に若死して“日和見順慶”の汚名を残し、養子定次は領地を半減されて伊賀に移され、やがて家康の罠にかかって父子共に切腹し、筒井家は哀れ断絶である。悲運を辿るのを予感すれば断行したろうに…。「神ならぬ身の知る由もないか」と考えながら宇治橋に戻った。折から春の夕日が今日の最後の光放を山肌に投げかけ、そよぐ川風が暖かい。
 フト子路(*1)が
「春の夕暮に仕立下しの着物をきて若者達と川風のそよぐ土手の道を歩くのが私の望みです。誠に小っぽけな話で申訳ない」
 と頭をかくと、あの厳格な孔子が
「さなり、さなり、私もそう思う。」
 と同意したエピソードを思い出した。
「そうだ三十年昔、山崎の古戦場を歩いて川を渡り、橋本の銭湯でさっぱりして一杯やった。あの紅燈の町を訪ねて、世の中の流れを回顧し、渡し舟にゆられて帰るのも悪くないぞ」
 と還暦の近い老の身も忘れて勢いよく宇治駅に向った。

(*1)しろ。前543〜前481。中国、春秋時代の人。孔門十哲の一人。魯(ろ)の人。姓は仲、名は由。武勇にすぐれ、孔子によく仕えたが、衛の内乱で殺された。季路。


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