Chap 1    安土の巻

1.3 本能寺の変

(1)信長は高野山を攻める
 天正九年(一五八一)十月、伊賀全土を灰塵に帰し、罪なき人々を容赦なくなで斬りにした信長は、続いて高野山の征伐にかかった。
 前年、信長は筒井順慶を大和守護に任じて所領の申告を命じた際、それを拒んだ弘法大師ゆかりの槇尾寺を焼き八百の僧を追放した。「根来寺と共に雑賀攻めに参じよ」と命じたのに、高野山はそれにも応じぬばかりか、荒木浪人を傭って防備を固めていた。信長は怒り、伊賀に向う前の八月、都付近を巡行する高野聖千余人の首を刎ねている。
 同年十一月、信孝(*1)を大将に任じて断固鎮圧に向わせた。
 これに対して高野山側でも軍師役に橋口隼人を招き、周辺七個所の要地に数千人を動員して築城する。飯盛山城(*2)を中心に一万五千に達する僧兵、地侍、浪人達をかき集めて懸命な防衛戦を固めて迎撃した。
 織田の先陣、堀秀政は鉢伏山に城を築くとここを拠点として攻撃にかかった。続いて信孝の率いる一万五千の大軍が飯盛山城に迫る。軍師・橋口や蓮上院らは巧みな作戦で大いに苦しめたものの衆寡敵せず、諸城は次々に落ちた。
 もはや壊滅は必死と思われたが、信長は寒気がせまると攻撃を中止させて様子を見守った。寺側が戦力つき、仏敵退散の祈祷にすがっているのを見て、処置は翌年にと考えたらしい。

(*1)信長の三男。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。
(*2)いいもりやまじょう。大阪府大東市及び四條畷市にある城。標高318mの飯盛山に築かれた山城。▽南北朝時代…僧正憲法により築城されるが、楠木正成の攻撃にあい落城する。正平年間、北朝方の高師直が四條畷合戦の折、この地に陣を築く。▽戦国時代…天文年間に畠山氏が河内国を領するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。永禄年間、三好長慶が畿内で勢力を拡大。当城を居城と定め、修復作業を行う。永禄12年、織田信長の河内統一に伴い、破却される。


(2)信長は「盆山(ぼんさん)の間」で神になる
 明くれば天正十年(一五八二)正月、安土城には新年の年賀客が殺到し、築地の柵が倒れる程の盛況を見せた。信長は参賀の大群集に「盆山の間」で百文の賽銭を取って壮麗極みない七層の天守閣を見物させた。
 当時百文で米三升が買えたと云うから結構高い賽銭だが、やがて伊勢神宮の遷宮費に三千貫文(一貫は千文)を寄進している。「他人の褌で相撲を取る」信長らしいやり口である。
 バテレン達が
「ヨーロッパのいずこの城や塔よりも遙かに気品に満ちた華麗なる城」
 と讃えた安土城に、井戸良弘父子が参賀したのは正月三日だった。安土城の黄金に映ゆる七層の天守閣が初日に映えきらめくのを仰ぎながら、百々橋を渡って昨年竣工した總見寺に参じる。
 門前の制札には
「寺の本尊は信長自身であり、貧者が詣でれば富者となり、富者は一段と福運と長寿に恵まれる。
 故に余の生れた日を聖日として必ず参拝せよ。それを信じて実行する者には八十までも長生きし、信じない邪悪な輩には現世も未来も只々滅亡あるのみ」
 と記されている。
 それを見た良弘は若い頃から「人間五十年ひと度生をうけ滅せぬ者のあるべきか…」と信じた信長が今や覇王と化したのを知り、「これでは天罰を受けるかも?」と感じたのは家代々興福寺衆徒だった為だろう。
 然しそれを色には出さず、城内を人の渦にもまれつつ進んで行くと、天守閣の「盆山の間」と称する絢爛極みない上段に、さながら神仏の如く信長が端座していた。参賀人の差出す賽銭を冷然と受取り、後に控えた小姓共にパラパラと投げる。
 小姓達が汗みどろになって、山のように埋高い賽銭の整理に走り廻っている。それを見て良弘は、毛利の安国寺の僧が
「信長はそのうち公卿にでもなるだろうが、きっと高ころびに転げ落ちるに違いない」
 と予言したことや、足利義昭が槇島城から退去する際に口惜し気に
「今に見ろ!きっと飼犬に肉をかみちぎられようぞ」
 と洩らしたと云う話を思い出して、ゾット肌の寒くなるのを感じたようだ。

(3)武田勝頼父子、散る
 天正十年(一五八二)も早春二月になると信長は自信満々で
「信玄は“人は石垣人は城”と云って居城に作らなかったのに勝頼(*1)は新城を築いたと云う。今こそ甲州攻めの時ぞ」
 と出陣を令した。先陣となった嫡男・信忠が忽ち高遠城を落とした三月初旬、南蛮衣裳もきらびやかに信長本隊は安土を発した。良弘も光秀傘下に加わり、雲山万里の征途についた。
 武田勢にはかつて三方原で良弘と島左近が舌をまいた程の騎馬軍団の面影はなく、一族の穴山梅雪(*2)にさえ裏切られた勝頼に愛想をつかした将士は雲散霧消して千に満たなかった。僅かに真田昌幸の好意を頼りに上州へ向わんとした途中で小山田信茂に欺かれてしまう。三月十一日、天目山上で

Dおぼろなる 月も仄かに 雲がすみ 晴れて行方の 西の山の端

を辞世に三十七歳で割腹。嫡男・信勝も青春十六歳の花の蕾を散らした。
 信長はその首を飯田の町にさらした。また、四月三日、光秀の諌めを拒んで、落武者を庇った恵林寺の快川国師ら百余人を山門に追い上げて焼殺した。その非情さと「心頭滅却すれば火もまた涼し」と喝破して従容と黄泉に赴いたエピソードは有名であるが、それらの光景は、良弘らの涙を誘ったに違いない。
 さらに勝利の祝宴で、酒を飲まぬ信長が光秀の言葉に激して満座の中で打ち叩いた話も有名であるが、真疑は判らない。

(*1)かつより。武田信玄の四男。武田氏の第20代当主。
(*2)穴山信君(あなやまのぶきみ)母は武田信玄の姉。武田勝頼の従兄弟になる。妻・見性院は武田信玄の娘。壮年期に出家し梅雪斎不白と号した。武田二十四将の一人。川中島の合戦など、信玄の主要な合戦に参加。▽信玄の死後、従兄弟の武田勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には勝手に戦線を離脱。▽天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り、徳川家康を通じて信長に内応した。▽本能寺の変が起こって、信君は急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、山城国綴喜郡(現在の木津川河畔。京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に殺害されたという。


(4)井戸良弘の次男・治秀が、明智光秀の娘と結婚する
 宇治の領民に迎えられて良弘が槇島城に凱旋したのは四月で、かねて婚約の整っていた次男・治秀の挙式が催され、城内は祝賀の色に満ちあふれた。
 井戸氏が城主となってから早くも七年、その所領は二万五千石で、かつて大和での所領と大差はないが、有名な茶所の税収は雲泥の差があった。更に観阿弥座発生地の領主で、父祖代々能楽と茶道を好む良弘の風雅さが、町民達の人気を高めていた。
 そして町民だけではなく、組頭である光秀が不骨な田舎侍ばかりの織田家には少ない彼の人柄に惚れ込み、娘をその次男の嫁にやる気になったのである。これは政略的な意味よりも「知己」であったからで、婚礼には信長の代理として万見仙千代(*1)を始め家中の名将が顔を揃え、正しく「城春にして茶園の緑深し」と云う盛況であったろう。
 特に亭主席に就いた光秀は子福者で女の子が多く、長女は荒木家から戻されて三宅弥兵次光春に嫁し、光春は明智左馬助秀満と改めた。三女と四女は信長の声がかりで細川忠興と織田信澄の妻となり、五女が長曽我部元親の嫡男・信親に嫁している。そして末娘が今日の花嫁で、母の名と同じくおひろと呼ばれていたようだ。
 長男は十兵衛光慶で、宣教師フロイスが「西欧の王侯とも見まがう優美な貴公子」と評した程だが、生来病身だったらしい。次男・十次郎は幼名を乙寿丸と呼び、順慶が定次を養子とした後も再三懇請している程の優れた少年だった。
 席に連なった人々は心から若夫婦の前途多幸を願ったに違いない。しかし「世の中は一寸先が闇」の諺通りで、当の光秀さえも夢にも思わぬ激動の嵐が都のやんごとなき辺りから俄かに吹きつけて来る。
 然もその震源地が主君信長のまいた種であろうとは神経質な程の君子人である光秀でさえ気づかなかったに違いない。

(*1)万見重元(まんみしげもと)。1549〜1578。信長の小姓。天正6年(1578)荒木村重が叛逆、その鎮定戦に参加するが、有岡城攻防戦の最中に戦死。だが、『信長公記』天正9年(1581)9月8日条、信長より知行を与えられた者の中に「万見仙千代」がおり、『信長公記』筆者の太田牛一の誤記でなければ重元の子息ということになろう。

(4)本能寺の変、前夜
 天正十年(一五八二)四月、武田を征圧した信長の勢力と云えば、それまでに征服した畿内、中部、中国十一州に加えて甲斐、信濃、東海、関東五カ国を傘下に入れて四百万石を越えていた。
 そして先に記したように、四月三日には、武田に頼っていた六角承禎、織田信賢らをかくまっていた土岐一族の快川国師を焚殺した。また、前関白・近衛前久(*1)が富士見物をしたいとの願いをにべもなく「木曽路へ行け」と拒み、己れ独りが念願の富士の高峯を仰いで意気高く安土に帰っている。
 信長に対し朝廷では勧修寺晴豊(*2)を勅使とし
「天下いよいよ泰平となり帝の満足比なく関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれの官にも任じ新しい幕府の開設を許す」
 との綸旨を下した。
 けれども信長は、かねて懸案の帝の譲位と己の猶子(*3)である誠仁親王(*4)の即位に就いて何の話もないので、木で鼻をくくった様な態度で追い返してしまう。
 苟しくも勅使に対する信長の帝威を無視した態度は忽ち心ある朝臣達を激怒させ、秘かに「今こそ皇室の存続も危うし」と日夜心肝を絞ったらしい。

(*1)近衛前久(このえさきひさ)。1536〜1612。公家。近衛家当主。関白左大臣・太政大臣。▽永禄2年(1559年)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、血書の起請文を交わして盟約を結ぶ。▽永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝を殺害した三好三人衆・松永久秀は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して揃って前久を頼った。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は兄義輝の死に前久の関与を疑う。前久は、本願寺の顕如を頼って大坂石山本願寺に。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子とする。▽天正3年(1575年)信長の奏上で帰洛。後、信長と親交を深め、鷹狩りという共通の趣味により、二人はよく互いの成果を自慢しあったと言われる。以降、信長に要請され、九州に下向して、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ったり、本願寺の調停を行ったりする。10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衛家に1国を献上する」約束を得たという。▽天正10年(1582年)6月2日本能寺の変によって、信長が亡くなり、失意の前久は落飾し龍山と号する。しかし、「明智に味方した」と讒言にあい、今度は徳川家康を頼り、遠江浜松に下向した。一年後、家康の斡旋により京都に戻るが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで両雄が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。▽晩年は一方的に銀閣寺を占拠して隠棲した。慶長17年(1612年)薨去。享年77。
(*2)かじゅうじはるとよ。1544〜1603。公家。武家伝奏を務め、織田信長、豊臣秀吉等と交流があった。その著書『晴豊公記(晴豊記)(日々記)』は信長や本能寺の変に関する記述も多く、史料価値が高い。本能寺の変の前日、本能寺を訪れ信長と会見。変直後に見聞した二条御所等の状況を記録。山崎の合戦後、明智光秀の娘を保護したとされる。
(*3)猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した「他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶ」こと。ただし、養子とは違い、契約によって成立し、子供の姓は変わらないなど、「法的な」親子関係という意味合いが強い。
(*4)さねひとしんのう。1552〜1586。106代正親町天皇の第五皇子。織田信長から屋敷を献上など優遇された。本能寺の変の際、信長の嫡子・織田信忠守る二条御所(二条城の前身)に滞在。信忠は明智光秀軍に二条御所が包囲される直前に休戦協定を結んで誠仁親王を脱出させた。子である邦慶親王は織田信長の猶子。誠仁親王が信長の猶子という説があるが、誠仁親王も邦慶親王もいずれも「五宮」と呼ばれていたのが原因の誤伝か。


(5)明智光秀〜その1〜
 歴史上は永遠の謎だが、王城千年を誇る都に住む廷臣、大社寺、上、下京の富豪達の間で幾夜か談合が繰返された末に、その危機を救う忠臣として選ばれたのが明智日向守光秀だったようだ。
 足利管領の土岐家の流れをくむ美濃明智の名門に生れながら、戦さに敗れて放浪の旅に出て辛酸をなめた彼は、やがて鉄砲術で朝倉家の客分となる。
 永禄十年(一五六七)足利義昭が細川藤孝を伴に朝倉を頼った際、義昭の家臣となり信長への交渉役として美濃に移った。
 そしてその秋、信長は三好勢を追払って入洛し、義昭を十五代将軍職に就任させ、光秀を織田家の京都駐在役に任じた。光秀は二人の主に使える事になったが、両主の器量から比べて次第に信長に惹かれていったらしい。
 天正元年(一五七三)、義昭が信長の独裁を怒って挙兵した際は信長に参じて槇島の義昭を攻めているが、彼は旧主を「将軍弑逆の汚名をさける為」と称して助命追放を乞い、その命を救っている。
 信長は織田の武将には無い深い教養と武略に期待して、光秀を京都管領とも云うべき重職に任じている。また、近江坂本城と丹波亀岡城五十万石の大守とし、朝廷や公卿達との交渉役とした。
 そして光秀に接した帝や公卿達もその人柄に好感を持ち
「光秀殿が平生たしなむ処は武芸のみならず、外には五常(*1)を専らにし、内には花月を愛して詩歌を学ぶ」
 と讃えている程で、咲庵と号して

D夏は今朝、島がくれ行く なのみかな。

等の数々の名句を残している。

(*1)儒教で、人が常に守るべきものとする五つの道。仁・義・礼・智・信の五つ(漢書)。

(6)明智光秀〜その2〜
 合理的な知識人であった光秀には信長の玉石共に焼くやり方は心中耐え難いものがあったに違いない。
 とは云え、「瓦礫のような漂泊の身から召し出され莫大な領土と将兵を預けて呉れた信長」に対する光秀の忠誠心はその軍令の中にも明らかである。
 彼の挙兵の根本は、信長の次のような野望を明らかにしようとした事であったろう。

信長の尊皇は名ばかりである。自分の野望実現の為に尊王を装っているだけだ。
信長は、朝倉、浅井、本願寺、叡山との苦戦を脱するために、将軍や天皇を利用してきた。
そして敵がいなくなった今、信長は天皇に譲位を迫っている。
これは信長が、平清盛や足利義満の如く、国父となり皇位の上に立つ独裁者たらんとしているからだ。

 そして正親町天皇が

D憂き世として 誰をかこたん 我さえや、心のままに ならぬ身なれば。

と嘆かれている事を知った。
「天皇は天授であり武力や智謀で侵してはならない」
 と云う古来からの伝統を守るのが武門に在る者の任と痛感していた上に、近年に於ける冷酷な扱いやら、今回の出陣で面目を失した噂等も重なり
「例え、大恩ある主であっても、真の主君は天皇であり、それを傾けんとする者こそ逆賊である」
 との信条から乾坤一擲!本能寺の挙に出たものに違いない。
 そして秀吉もまた内心では信長の野望を非としていた事は、後の賤ヶ岳合戦に際し
「もし信孝、勝家に天下を取らせれば必ず皇位を傾けんとするは必定なれば、天下の為にこれを討ち平げたり」
 と云い、彼自身はあくまで天皇の臣下の関白として天下統一を計ったのを見ても明らかである。
 光秀は常々親交を重ねている公卿から帝の嘆きと彼の決起を切望されているのを知った。そして悩んだ末、信長が驕って僅かな近臣のみで京に入る予定を知るや、五月二十七日、愛宕山に参じて神慮を問うた。遂に決意を固めたのは
「時(土岐)は今、天が下なる五月かな」
 と発句し、
「国々はなを 長閑なる時(土岐)。」
 と結んだ事によっても明らかである。

(7)信長の最後
 天正十年(一五八二)六月一日、これが一期の安土とも思わず、信長は近臣僅か六、七十名を従えただけの軽装で入京した。本能寺の宿坊に一泊すると早朝から、続々と押しかけて来る公卿や豪商達に天下の名器と称される茶道の逸品を賞翫させる。
 その日訪れた公卿、殿上人四十余人にかねて主張の「譲位と武家暦の採用」の根廻しを行った。その夜は、嫡男・信忠や京都所司代・村井長門守らと深更まで酒を汲み、上機嫌で明日の参内の構想を練りながら眠りに就いた。その夜、一万三千の将士を率いた光秀が「敵は本能寺に在り」の決意を秘めて急進撃を開始していようとは神ならぬ身の知る由もなかった。
 明けて六月二日の早暁、熟睡していた彼はなにやら騒がしい物音に目を覚まし
「足軽共が喧嘩でも始めたのか」
 と森蘭丸に鎮めさせんとした。これは不思議にも桶狭間で今川義元が信長の急襲に際し感じたのと同じで、さしも稀代の幸運児にも天運の尽きる日が来ていたのだろう。
 当時の信長の勢力外にある畿内周辺の敵と云えば、僅か紀伊中南部の地侍共に過ぎない。それだけに我家にでも帰るような気安さで入洛したのだが、慌しく帰って来た蘭丸から
「敵は水色桔梗の旗を翻した大軍にて、光秀の謀叛と思われます」
 と知らされるや、さすがに信長も一瞬呆然としただが、忽ち光秀の胸中を見抜き
「我ながら抜かったり!」
 と感じつつ
「是非には及ばず」
 の只一言、呟いただけで弓を取って力戦。矢つき身も傷つくや
「もはやこれまで」
 と館に火をかけ、濡れ手拭いで汚れを清め燃え上る焔の中で自刃し、一片の遺骨も止めなかったのは見事である。

D人間五十年 夢まぼろしの 如くなり。

 の句の通り、四十九歳で後世に語り残すべき数々の忍び草を止めて潔く消えたのは早朝の七時。嫡子・信忠が二条城で華々しく戦って父に殉じたのは午前九時前だったと云う。
 天目山で勝頼父子が切腹して僅かに三カ月後でしかない。正に因果は巡る小車の如き宿命と云える。

(8)明智光秀、自刃を思いとどまる
「信長父子横死!」の凶報はアッと云う間に洛中洛外を馳せめぐった。奇しくも同日、信長の密命で「紀州雑賀の本願寺一門を皆殺しにして禍根を断たん」と千五百の兵を進めていた丹羽長秀は驚き慌てて引返したと云う。
 高野山では「もはや仏の加護を祈るよりなし」と全山を挙げて「信長呪殺の大修法」を始めていたが、不思議にも吉報は満願の日だったから驚喜乱舞して仏恩に感謝したらしい。
 比叡山再建に全国を行脚していた熊野三山を始め、全国の寺院が一斉に「天罰!」と沸き立った様は今日の想像以上であろう。西洋より一世紀も早く断行された信長の惨酷極まる宗教革命の挫折を見て彼らが喜んだのは当然と云えよう。
 ましてや、信長の命で親、兄弟を惨殺された伊賀一円の遺族らが「時こそ来れ!」と狂気の如く立ち上ったのは当然で忽ち大騒動となった。権勢を誇っていた柘植の福地伊予守らは加太に逃げる。島ヶ原の観菩提寺でも「天罰なり」と沸き立っているが、後には北畠信雄の先陣となった滝川三郎兵衛(*1)らによって全部落を焼き払われた。本堂楼門を半焼したものの、幸い本尊は神明の森にかくして無事だったらしい。名張や赤目でも光秀を救世主のごとく仰ぐ人々も多かったようだが、当の光秀は洛外の妙心寺に入って髪を切り「明窓玄智」と改めた。亡き主の菩提を懇ろに弔うと「今や思い残すこともなし」と別室に入り、静かに辞世をしたため腹を切らんとしたらしい。
 けれどそれを知った若僧の急報で光春や斉藤、藤田ら重臣が驚いてかけつけ
「何とか新しい天下人として帝と万民の為に奮起して貰いたい」
 と懇願し漸く思い止まったと云われる。

(*1)源浄院。Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1凱歌編を参照。

(9)明智光秀、京を発して近江に向う
 六月二日の午前。重臣らの進言で改めて天下統一の戦略を練り上げた光秀は、直ちに秀吉と対戦中の毛利に、陸海両路から急使を発して協力作戦を要請した。それと共に、備後の鞆にいた将軍義昭に状況を報じている。これは旧主に毛利勢と共に秀吉を倒すか、協調して上京され将軍職に復帰願い、その下で活躍せんとの政略だったろう。
 其他にも柴田と交戦中の上杉家や、組下大名で長い親交を重ねた細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の高山右近や中川清秀らに次々と使者を走らせて参陣を求めると、午後には京を発して近江に向かった。
 それは安土城を攻略し、丹羽の佐和山、秀吉の長浜を落して、近江、美濃を平定。柴田勝家の進攻を防ごうとする作戦だったが、これは娘婿の光春や軍師・斉藤利三に任せ、彼自身は大軍を率いて摂津に進み筒井、高山、中川らをしっかりと手中に収めるべきだった。
 現に筒井は本能寺の変を知るや大阪の信孝からの救援にも応ぜず、覚弘ら一族を派遣して光秀に協力し、父の井戸良弘と共に近江に出陣して安土城攻略に参加している。
 もし光秀が大軍で摂津に進み大阪城に迫る勢を示せば筒井、高山、中川ら一万五千の兵力は続々と参加したに違いない。そればかりか、傑物と云われた娘婿の織田信澄(*1)もその時大阪城にいたのだから合流しただろう。信長の死を知って逃亡者が続出し、途方に暮れていた信孝(*2)は側臣と共に行方をくらましたかも知れぬ。

(*1)のぶすみ。織田信長の実弟・織田信行の子。正室は明智光秀の娘。父・信行が伯父・信長に殺された。幼少のため、信長と信行の生母である土田御前の助命嘆願もあって、柴田勝家の許で養育される。本能寺の変の後、同月5日に信孝と丹羽長秀の軍勢に襲撃されて大坂城で殺害される。首は堺で晒された。享年28。
(*2)信長の三男。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。


(10)徳川家康、伊賀越えの逃避行
 天与の絶好の機会を秀吉よりも勝家に重点を置いた光秀の作戦の失敗は後に致命的なものとなる。しかし、神ならぬ身の知る由もなく、勝竜寺城や山崎に僅かな兵を置いただけで慌しく北進した。漸く安土城に入ったのは六月五日で其間に家康一行をも空しく逸している。
 家康が本能寺の変を知ったのは、堺見物を終えて京に戻るべく飯盛山麓を急いでいた六月二日の午過ぎで、先発していた本多平八郎が枚方で聞き慌てて引帰して急を報じた。
 思いも寄らぬ大事件にさすがの家康も驚愕し、一時は途方に暮れ「本能寺で自刃する」と云い出したらしい。
 然し徳川四天王や、鬼の半蔵と呼ばれた伊賀出身の服部半蔵以下の五十余名の勇士と、信長に献じた三千両のうち千両を京、堺の見物料として返されていたのが何よりも幸運をもたらした。信長から案内役につけられた長谷川秀一の尽力で大和の豪族・十市遠光を先達にして、一揆勢に襲われながらも必死に切り抜けた。
 甲賀信楽の多羅尾光俊の邸に辿りついた時、出された赤飯を手づかみで貧ぼり食ったと云うから如何に難行軍だったか判る。
 六月二日の夜は多羅尾城で一泊すると甲賀忍者群に護られて御斉峠(*1)を越え伊賀に入ると半蔵の要請に応じた柘植三之丞ら二百余人が馳せつけて呉れた。
 それは去年信長勢になで斬りにされ、国を焼土とされたばかりでなく、辛うじて他国に逃げ延びた者まで容赦なく処刑されたのに、家康領内だけは手厚く保護された恩返しであった。一行は柘植、加太、と進んだが、加太越えの山中では明智方の敵襲を受け、死傷続出の苦斗を演じつつも無事に切り抜けた。
 六月四日には伊勢大湊の船奉行・吉川平助の尽力で白子浜を出帆し、無事に三河浜に到着した時は余程嬉しかったらしく、自から吉川に安着の礼状を認めている。

(*1)おとぎとうげ。標高は630m。滋賀・三重両県境に位置。その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧・夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するという。

(11)豊臣秀吉、「中国大返し」
 家康が無事に岡崎城に入って家臣達を驚喜させていた六月五日、光秀は安土城に残された金銀財宝を気前よく家臣達に散じ、京極高次を将として長浜城を、武田元明には佐和山城を攻略させて近江、美濃を平定した。
 七日には吉田兼見卿が勅使となって安土を訪ね、帝の叡慮により征夷大将軍扱いの「京都守護職」に任じるとの光栄を伝えられた。喜んだ光秀は安土の守りを光春に託して京に向う。
 九日には朝廷に銀五百枚、五山と大徳寺に各百枚を献じ、京都市民には地租免除を布告して善政を約している。
 然しながらその日の午後、秀吉がいち早く毛利と講和して「中国大返し」と名づけた驚くべき猛スピードで姫路に帰り「主殺しの仇を討たん」と意気高く尼崎をめざしていると云う情報が入った。
 十日早朝、まさかと信じかねながらも光秀は京を発した。男山八幡から洞ヶ峠に兵を進めて筒井軍の到着を待ったが、一向に姿を見せぬ。重臣・藤田伝五を郡山に走らせて督促させた。筒井家では、光秀が提示した「養子を約していた次男・十次郎を人質として順慶に紀州を併せた百万石を与える」墨付を見た。島左近ら猛将は大いに張切ったが、家老筆頭の松倉が猛反対で「もっと情勢を見るべきである」と力説。重臣達の意見が対立して決まらなかったのは秀吉勢の予想外の急進撃が大きな要因だった。

(12)光秀、山崎に布陣
 光秀にとって最大の不運は毛利家に走らせた使者が海路は海が荒れて船が出ず、陸路の密使は事もあろうに毛利の陣と誤って秀吉方に飛込んでしまったことだ。秀吉は一時驚転したが情報が漏れぬ様に厳しく警戒を固める。そして、かねて安国寺(*1)を介して進めていた和議を何くわぬ顔で急いで成立させた。
 六月六日の朝には高松を出発し、八日朝には姫路城に到着。ここで一日休むと、九日朝には再び猛攻撃を展開した。
 彼が尼崎に到着したのは十一日の朝で、途中でも次々に丹羽、池田、筒井ら諸将に使者を走らせて「主君の弔い合戦に参加する」よう要請した。四十里近い距離を一日十里(三十八粁)と云う快速(昭和の陸軍は一日三十二粁を限度)で走破。その凄しい勢いに誘われ諸将は次々に参加し、筒井順慶も十二日使者を走らせて麾下に参じる旨の誓書を出し、一万の大兵を洞ヶ峠から淀川畔に進めんとした。
 それを察した光秀はやむなく洞ヶ峠、男山の兵を転じ、淀川右岸の山崎一円に集結して秀吉勢と決戦せんとした。それを知った槇島城の良弘は
「我らが今日あるは光秀殿のお陰なのに武将としてあるまじき不義」
 と怒る。
「天下分目の大戦なれば身共は淀城の番頭勢と共に淀を下り精兵二千を率い船にて秀吉の側方に突進する覚悟である。
 よって殿は淀川左岸に兵を止めて機を待ち、ここ一番の切所に一挙に渡河して秀吉本隊の背後を襲われれば勝利は必定なるのみか、筒井の義侠は天下に轟かん。」
 と烈々血を吐くような密書を送った。これで順慶は亦もうろたえ、島左近と協議して淀川左岸で形勢を見る事にしたらしい。

(*1)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。1539〜1600。禅僧、大名。俗姓は武田氏で、「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺[不動院])の名。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)から、最終的には僧侶の身分のまま大名となった。


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