Chap 1    安土の巻

1.2 天正伊賀ノ乱

1.2.3 伊賀つゝ井筒哀話

(1)横山万衛門の悲
 例え講和条件がどんなに寛大であろうとも長島では二万人を皆殺しにし、北陸でも数万人を容赦なく焼殺したと云われる惨酷な信長の事である。滝野も参謀の百田も爪の先程もトラブルの起きぬよう細心の心くばりを怠らなかった。しかし、思いがけぬ事件が足元の赤目の滝口で勃発した。
 これより数日前にかねて赤目砦を守った横山万衛門一族は籠城半月に及ぶや、食つきて食べる糧もなく敵の目をあざむく為にも臼に山土などを入れて杵の音を絶やさなかった。
 けれどこのままでは餓死する他はなく遂に砦を脱出する。かつて松永勢に攻められ落城寸前となっていた宇陀の沢源六郎一族を救出して「命の親」と喜ばれたことがあった。その縁を頼りに落ちてゆく途中のことである。
 山辺村白坂の里で、計らずも難をさけていた祖母と会い気丈な彼女から
「何とめめしい。南朝の勇者で知られた父祖の名を汚さぬ為にも直ちに帰って城を枕に討死せよ」
 と僅かな食物を与えられ、再び砦をめざした。これが開城直前のことで彼らは何も知らなかった。長坂子地蔵の前まで潜行してきた時、不運にも織田の巡回兵とぶつかって忽ち乱斗となり、敵多数を討ち果した末に主従十余人が悉く玉砕すると云う悲劇となった。
 かねて父から命じられ「事あれば」と待っていた信雄は烈火の如くいきり立ち、それを口実に弾圧政策に一転した。温厚な順慶の代りに滝川三郎兵衛を新代官に任じると滝野、百田以下すべての郷士を国外追放に処する。伊賀を出るなり片っ端から召し捕り、その罪条を窮命して処刑したらしい。

(2)増井遠江の最後
 詩人は「国破れて山河あり」と詠じるが、伊賀の郷士達は故郷に住むことも許されなかった。あてどなく他郷をさすらう間に僅かな路銀も使い果たし、やむなく妻子を娼婦にしてその日をしのぐ者もいたらしい。
 石川五衛門の如く大盗と化す者や、非人乞食となって高野山や紀州根来をめざす途中に病に侵されて野面に朽ちる者もいた。織田領となった近畿十余国に生きる術はなく、僅かに徳川家に仕える服部半蔵に救われた忍者三百だけが活路を見出す幸運に恵まれたのである。
 中でも哀れだったのは宇陀の沢家に落ちた人々である。信雄から
「伊賀者をかくまうとは沙汰の限りじゃ、すべて搦め取って首をはねよ。さもなくば沢家は断絶させるぞ」
 と厳命された。背に腹は変えられず、沢源六郎は彼らを城下の馬場に引き立てて処刑せざるを得なかった。
 その中に増井遠江と呼ぶ勇士がいた。彼は人々が仕置場に通じる石橋を渡りつつ
「ああ、これがこの世の渡り納めか…」
 と嘆くのを聞き
「何を情けない。例えこの首を斬られようと魂魄はこの地に止まって毎夜この橋を飛び廻り恩知らずの沢めに、この怨を果さでおくべきか」
 と意気高く死に就いた。果せる哉その夜から手毬程もある火の玉が橋上を飛び廻ったと云われ、その怨からか、やがて沢家は信雄に攻められて城は落ち、一族の大半は討死したと伝えられる。

(3)横山万衛門の遺言
 辛うじて生き延び得た人々も艱苦に満ちた日々にやりきれず
「ああ、今にして思えば開戦前の評議の際に島ヶ原衆のように強く平和の道を選べば良かったものを」
 と嘆き
「義を重んじて、命を惜しまず、名を惜しめ」
 と説いた菊岡丹波の雄弁を思い出して
「天下一の名剣で聞こえた浅宇田家の剣よりも、菊岡の舌先三寸こそ恐るべし」
 との諺を残している。
 遺族の中には、赤目砦で奮戦討死した横山万衛門が出撃に際しての言葉、
「古来から文武両道と云う。今度の大難も文盲にして武勇一片のみの国衆の無分別から招いたものじゃ、武に頼る者は武によって亡ぶのが世の常。さりとて武を卑しみ泰平に馴れて文のみにても危うく、常に誠の一字を旨に文武の大道をふみ外す事のあるまじく候也。」
 を家訓として永く後世に伝えている家もある。
 この事からも、和平論を正しいと信じながらも評議衆の結論を重んじて戦場に散った士も少なくなかったようで、その心情に涙なきを得ない。

(4)綾姫と中ノ坊忠政
 最後に“伊賀つゝ井筒哀話”とも称すべきエピソードによって結ぶことにしよう。
 十月一日の夜、筒井家の家老で十八歳の初陣を迎えた中ノ坊忠政は、長岡山で伊賀勢の強襲を受けるや、主君を守って懸命に戦った。しかし重傷で倒れ、あわや首を取られんとした。子飼の郎党の必死の働きにより辛うじて戸板に乗せられ、戦場を切抜けて大和に帰る途上に古山郷安場(*1)の里で遂に息絶えている。
 忠僕は涙ながらにこの地に遺骸を埋め、悲報を郡山の新妻・綾姫に報じる。それを聞いた彼女は坐視する気にならず、戦火の中を潜って安場に駈けつけると墓前で泣き崩れた。変り果てた夫の亡骸を焼くに忍びず、その傍に「うつろぎ庵」と号する草庵を建て、父母の嘆くのも聞かず、そのまま生涯をこの地で送ることを決心する。それを知った里人達も恩愛を離れて何くれとなく面倒を見たようで、彼女は念仏三昧の尼僧でその生涯を終えたと伝えられる。
 綾姫は幼い頃から忠政の許嫁で、その祝言は「美男、美女の花の宴」と称されて郡山一円から羨望されたという。平尾姫丸城の春姫にも似たその薄幸な運命に、袖を涙で濡らさぬ人はなかっただろう。
 乱から満四百年を迎えた昭和五十六年(一九八一)の秋、数々の悲劇に彩られた伊賀全土の戦場を尋ねた。
 英魂を弔しつつ、計らずも安場のバス停に近いこの史跡に立ち、「うつろぎ庵・武人ノ碑」から綾姫ゆかりの白樫神社の社殿に咲く白椿の古木を見た。姫の清純可憐にして悲しいばかりの哀切の想に打たれた。若き日に愛唱した「白椿の乙女」

●月も輝け青春の 花は涙の贈り物
 風に淋しく泣き濡れし 哀れ乙女の白椿


 この句を手向けて、戦いの非情さを痛感しつつ、姫の霊の永遠に安らかなる事を祈った。
 非業の死をとげた春姫の供養の為にも。

(*1)伊賀市安場


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