Chap 1    安土の巻

1.2 天正伊賀ノ乱

1.2.2 血戦編

(1)信長は、全軍五万を配置する
 天正九年(一五八一)九月二日、安土城の大広間に旗下の諸将を参集した信長は凛然として
「かねて伊賀の凶徒共は余の天下布武の大志をさまたげたるばかりか、常々より驕奢を極め無道の沙汰を改めぬ振舞は誠に奇怪至極であり、今度こそは断呼討滅する。
 凡そ僧俗、男女の区別なくすべて些でも抗する者はなで斬りにし、一人も容赦するべからず。全土を焼き払い天下にその酬いを示せ」
 と秋霜厳烈の出陣を令し、全軍の配置を次の如く明らかにした。

(1)伊勢口…総大将/北畠信雄(兵力・一万)
(2)柘植口…参謀長/丹羽長秀(兵力・一万四千)
(3)甲賀口…将/蒲生氏郷(兵力・七千)
(4)大和口…将/筒井順慶(兵力・三千七百)
(5)多羅尾口…将/堀 秀政(兵力・二千三百)
(6)初瀬名張口…将/浅野長政(兵力・一万)
総計 四万七千人

 当時の天下布武をめざす信長の支配領土は四百万石を越え、総兵力は十三万人と云われるからその三分の一を投じた訳である。彼が如何に伊賀武士を高く評価していたかが判り、逆に和を求めれば容易に道は開けたと云えよう。
 情報網の整った伊賀郷士達だけに信長勢の来攻はその春以来広く伝えられて居り、中でも甲賀の多羅尾光俊から、去年の夏以来、深くつながりのある島ヶ原郷士衆に大勢を説いた懇切な手紙が届き、和議に合力を要請されていたらしい。
 然し強硬派の多い上野、名張の郷士達は、織田の主力・柴田は北陸、羽柴が中国、明智は丹波平定に苦斗している現在の情勢下で大挙襲来の恐れなしと甘く見ていたようだ。

(2)伊賀衆は上野平楽寺で軍議を開く
 「織田軍五万、七道より進攻開始」の大凶報が伊賀に届いたのは同年九月七日で、直ちに上野平楽寺で評議衆の軍議が開かれる。
 十二名の評議衆の筆頭に押された名張の滝野十郎が日頃の温顔に沈痛な色を浮べて敵の状況を語ると、常々から硬派で知られた長田の百田藤兵衛や森田、小沢や、久米の菊岡らもさすがに腕をくみ、天井を睨むだけであった。
 評議の細部は残されていないが、島ヶ原の代表である富岡忠兵衛らは一統の合議として
「我ら郷士は民を安んずるのが第一の役目であり、勝てぬ戦さはさけるべし」
 と和を説いても、タカ派は尚も徹底抗戦を叫び
「勝敗は度外視して末代まで家名を汚さじ」
 と怒号し論争は深夜まで続いた結果。
「信長勢と我らを比べれば九牛に一毛の大差があり、万に一つの勝算もないが、義をすて降を乞うことは父祖の名を汚すものである。よって正々堂々最後の一兵まで戦い抜き名を千載に止めん。元より一期の戦いであるから各々思いのままに心置きなく戦って花の如く散るべし」
 と云う決議となった。
 その意気たるや正に壮なりとは云え、孫子の云う
「兵は詭道にして国の大事、存亡の危機なり。凡そ敵を知り己を知って初めて勝敗を知る。その基本は次の七則をつまびらかにすべし。主君の道義心。将の能力、天地の利、法令の厳、兵数の大小、兵卒の練度、賞罰の明らかなることこれなり。彼我を比較して“勝算”なくば、断じて戦うべからず。」
 の大原則にそむいている。さらに「義」の為に戦うと決した以上は、勝つべき戦略を練り上げ、全軍が一糸乱れぬ作戦計画に従って勝利への血路を開かんと奮闘努力せねば「やるだけやった!」とは云えない。かつて正成公が、金剛山千早城の嶮により奇想天外な戦法を展開してねばり強く戦い抜いたからこそ、僅か千余の兵で北条十万の大軍を撃破し得たのである。
 我に十倍の大敵に対し、各自が好き勝手に戦っては伊賀勢が如何に勇猛なりと云っても所詮勝利は望み得ないのを知りつつも敢えて戦いを望んだその心底は悲壮としか云えない。


*** 第一戦 〜開戦〜***


(3)信雄は、伊勢路より東禅寺を無血占領する
 かくして天正九年(一五八一)九月二十七日、天高く馬肥ゆる秋風をついて歴戦の織田軍五万の将兵は百、千の馬印をなびかせ、きらびやかな甲冑の金具を鳴らしつつ、恰も時雨に急ぐ雲のように旗鼓堂々と七道から伊賀の国境へ雪崩こんだ。
 先ず東方伊勢路の戦局を眺めれば、総大将信雄の一万余は全軍一丸となって隊伍堂々と大峠を越え、夕刻には伊勢路の東禅寺を無血占領している。そこを本営とし、厳しく哨兵を配置して
「明日こそは二年前の怨を晴さん」
 と気負い立った。
 これに対して伊賀勢は、前回の勝利の作戦通り、第一線の掛田城の富増、柏尾の本田、別府の城、岡田、勝地の勝木、奥鹿野の羽柴の勇将らは思い思いに父祖伝来の砦に立籠った。防備を固め、社寺の宝物は山中に埋めて敵の迫るのを待受ける。
 作戦本部となった天童山寿福寺には郷士、僧兵の他に多数の女、子供や老人達が避難して炊出し、武器弾薬の補給に懸命となっていた。中には伊勢路に到着した敵の余りの大軍と安土から派遣された百戦錬磨の軍監達の迅速な指揮を見て
「こりや一つ処に固まらんと、とてもじゃないがどうにもならんぞ」
 と勝手に砦を捨てて第二線に退却する者やら、逆にどうせ死ぬなら父祖の地でと最前線に駈けつける者などが入り乱れて大混乱を呈したらしい。

(4)滝川一益は、伊勢路より奥鹿野〜老川〜種生を焼き尽くす
 翌二十八日早く、伊勢路の本陣では一万の軍を三分して滝川の率いる三千が奥鹿野から老川、種生方面に向う。日置、長野らの三千が比自岐、丸山城へ、残りの四千は信雄が直率して阿保から美旗の参宮道を西進し、前回とはうって変った凄しい斗志で襲いかかる。
 忽ちにして掛田砦は百雷の轟くような銃声に包まれた。奥鹿野の久昌寺は猛火に焼け落ち、大村神社や天童山にかくれていた里人や女子供達までが容赦なく殺傷される。神社や寺の内陣、外坊から庭園、泉水まで紅葉を散らしたような血潮に彩られた。
 その凄しさに猪田神社を守っていた福岡一族は一斉に比自山に退却して猫の子一匹も見えず、勝ち急ぐ寄手はそのまま進んだので奇跡的に戦火を免れた。また老川極楽寺の本尊が滝川の手で松ガ島城に戦利品として運ばれた為に戦火をさける事かできた。しかし、それ以外のすべてが灰塵と帰し罪もない神官僧侶までが悉く首をはねられた。

(5)丹羽長秀は、北伊賀より加太〜柘植七郷に進み、柏野城を落とす
 続いて北伊賀に目を転じれば九月二十七日、一万四千の大軍を関の地蔵に集結して陣容を整えた織田軍の参謀総長・丹羽長秀は、内応した福地伊予守の案内で、延々長蛇の陣をなし、加太から伊賀唯一の石垣造りの福地城へ入る。「大軍に切処なし」の諺通り一兵も損せず柘植七郷に進出する。
 かねてから和平論者であった柘植の福地や川合の耳須に対しては硬派の田屋掃部介と音羽半六らが
「どうも織田の間者らしい行商人がしきりと出入りしている」
 との噂で厳しい監視の目を光らせていた。しかし、一戦にも及ばず敵に降伏するとは思わなかったらしく柏野城に集まった上柘植の富田、満田、中村、中柘植の西田、島、下柘植の松山、西川の郷士達は追捕刀(*1)で城に入ると懸命に戦ったが、所詮は衆寡敵せず半日足らずで落城。
 意気揚った寄手は霊山寺の大伽藍に放火し、里人は僅かな食糧だけを肩にして山中に逃走したものゝ馴れぬ野宿に病いとなり木の根、岩角に力尽きて倒れる者が算を乱したらしい。

(*1)おっとりがたな。武士が危急の場合に刀を脇に差す余裕もなく、手に持ったままの状態をいう。緊急の場合に取るものもとりあえず駆けつける様子。

(6)滝川一益は、春日山を攻めあぐねて大山田に迂回する
 柏野城を落した滝川一益は春日山に向い、丹波勢は伊賀国府の置かれていた御代、新堂へ進む。土橋の長橋寺は郷士の評定所や鉄砲練習所のあった軍事拠点だったから激戦となった。原田木工之助と云う豪勇の士は織田勢十余人をなぎ倒して奮死、寺は天を焦がす業火の中で灰塵に帰した。この時、芭蕉の祖父も討死したと云われ

●月さびよ、明智が妻と 話しせむ。

 の句が残っている。
 滝川のめざした春日山には、御代の中村丹後を主将に、西の沢の家喜を副将にして川東の清水、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであった。そこで滝川は全軍に対して
「ここに籠った奴らは頼朝公さえ手を焼いた程の勇士の子孫共じゃ、一人残らず皆殺しにして末代までの禍の種を除け」
 と先頭に立って攻め立てたが、城兵は評議衆でもピカ一の中村に指揮された強兵揃いだけに、さしもの滝川も攻めあぐんだ。
 やむなく大山田に迂回し、平田鳳凰寺を抜いて背後から攻める事にした為に丹羽・滝川勢は比自山決戦に出遅れる事になるのである。

(7)蒲生氏郷は、甲賀口より友田雨請山城、田屋の砦を落とす
 さて北方の甲賀口から南下したのは織田きっての勇将蒲生氏郷で、耳須弥次郎の先導で玉滝寺に本営を置き、脇坂、山岡らを併せて七千の総力を挙げて猛攻した。
 これに対する伊賀勢は、友田雨請山城に集った上忍・藤林長門に山門左門、山尾善兵衛ら勇将揃いである。織田軍が名題(*1)の大鉄砲隊の筒先を揃え轟々と射ちまくってもひるまず、城を死守して一歩も退かず防ぎ戦った。
 けれど日が落ちる頃になると矢弾がつき、猛火の中を第二線である田屋の砦に集結して再挙を計った。しかし、部落を焼き尽す火煙の中で次々に一族は全滅し、女子供も容赦のない織田兵の刃にかかる。後世「蒲生氏が来る!」と聞くや、泣く子も黙ったと云われる惨劇となった。

(*1)なだい。名題看板(なだいかんばん)の略。原義は歌舞伎劇場の表看板。転じて、「有名な」ものを表す言葉。


(8)堀秀政は、多羅尾口より島ヶ原に入る
 更に西方の多羅尾口から進撃した堀秀政、多羅尾光弘らの二千三百は甲賀小川郷で二手に分れ、堀勢は御斉峠から一路島ヶ原をめざした。この地の郷士達は源三位頼政(*1)の嫡男・仲綱(*2)を祖とする。去る元弘ノ乱(*3)に際しては笠置山に馳せ参じて忠誠を尽った父祖を誇りとする人々だけに、「天下布武」を号とする右大臣・信長に反抗する事が大義であるとは思えなかったようだ。
 去る六月、名ばかりとは云え伊賀守護の仁木義視が上野の館に姿を見せ、内々に伊賀評議衆を招いて信長の「伊賀なで斬り」の意向を伝え、何とか和平成立に尽力せよと説得した。その際に島ヶ原一門三十数家は一致団結し、和平に決した程に大局を見る目があった。
 然し代表の富田忠兵衛は徹底抗戦派で、平楽寺での評議には一応和平を説いたものの、決戦ときまるや喜び勇んで単独で比自山に駈けつけている。
 織田軍でも信長に愛され側近の一人だった堀秀政は副将・多羅尾からその辺の事情は充分聞いていたらしく、標高八百mの御斉峠を越えても放火開戦を命令せず慎重に兵を進めたらしい。

(*1)Chap 2源平の巻2.2 新宮川の開戦を参照。
(*2)仲綱の次男が有綱。Chap 2源平の巻2.5 義経党悲話「名張の歴史愛好家・吉本貞一氏の話」を参照。
(*3)Chap 3南北朝の巻3.1 元弘の乱を参照。


(9)堀秀政は、島ヶ原を救う
 島ヶ原を一望に見る峠に達した時、路傍に平伏した十六名の人品卑しからぬ郷士が丸腰のまま丁重な態度で言葉をかけてきた。
「これは、これは、堀家の方々とお見受け致す。身共は当島ヶ原の地頭・増地小源太、これに控え居るは、いずれも由緒正しき一統にて御大将・堀秀政殿に嘆願の儀これあり、何とぞ御取なし下され」
 それを聞いた秀政が拝謁を許すと増地は誠実な面持で弁説さわやかに
「当地一円には聖武天皇の勅願によって天平二年(七三〇)創建されたる観菩提寺正月堂を中心とする七堂伽藍十二僧坊を始め、数々の名社古寺が残されて居ります。これらを空しく焼土と化し、罪なき民を塗炭の苦しみに陥し入れるは地頭たる我らの本意にあらず。一命にかえても格別のお情けを賜りたく、元弘以来、菊一の旗印を賜りたる父祖の誇りを忍んで御願い仕る。」
 と涙と共に言上すれば、さすがは信長側近の第一の人物とされた秀政だけに
「その心底相判った。誠に神妙である」
 と即座に承知し、直ちに全軍に
「当地一円の寺社民家には一切乱暴あるべからず」
 と厳命を下した。
 然しいきり立った第一線の将士達は既に林立する伽藍、僧坊に乱入放火を始めて居り、慌てて消火に努めた。辛うじて本堂、楼門と本尊仁王像等は焼失を免かれたので、奉行を置いて治安維持に努めたと云う。
 けれども此様な処置は彼個人の独断でやれる筈もなく、かねて信長は島ヶ原郷士の和平論を知って
「抗する者は女子供とて容赦せぬが、降伏する者共は寛大に扱い勝手な乱暴は許さぬ」
 と内示していたに違いない。

(10)堀秀政は、西山郷を焼き尽くす〜高倉神社の不思議〜
 それ故に島ヶ原から西山郷に入るや堀勢はその態度を一変して、日本最初の駅と云われる「新家」を始め、建長五年(一二五三)に築かれた補陀落寺への町石街道に立ち並ぶ社寺、民家を次々に火の海と化した。
 続いて清和天皇の貞観三年(八六一)創建されたと云う神武大帝を補佐して建国に大功あった熊野高倉下命を祭る高倉神社に対しても山野の柴草を集めて放火した。ところが、火が天正二年(一五七四)に守護・仁木長政の寄進したばかりの神殿に迫るや忽然と現れた童子がヒラヒラと飛廻って火を消し止めてしまう。
 怒った寄手の一人、林三郎と云う荒武者が大斧をかざして斬りつけると、斧は我身にはね返って忽ち即死。これを見た猛者達も神罰に震え上って手を合わせると逃げ去ったと云われる。神殿は斧跡を止めたまま、今も現存しているのは不思議で、さすがは武神・物部氏の高祖・高倉下命や応神天皇の御神徳と云えよう。

(11)筒井順慶は、大和口より薦生、短野、西田原を焼き尽くす
 最後に伊賀南部の要衝名張周辺の戦況を見る。
 大和口を進んだ筒井順慶、定次父子の率いる三千七百の軍勢は、九月二十八日、笠間峠の頂上で兵を駐めた。名張方面の伊賀郷士の動静を確かめ、背後を突かれる恐れなしと知るや一気に薦生、短野、西田原の村々に乱入する。
 この地の郷士達はかねて筆頭評議衆、滝野十郎の作戦計画通り、要害の地・柏原城に集結していたので何の反撃もなかった。筒井勢は無人の野を行くが如く、沿道の大社名寺は元より拠点となりそうな家々は片っ端から略奪放火し、上野めざして北上を開始した。
 その背後を庇うように初瀬街道を三輪、宇陀方面から進撃して来た秋山、芳野、沢らの一万余は、宇陀川の左岸沿いに安倍田、鹿高から錦生、黒田荘へ進んだ。三人は、秀吉の妻・ねねの実家の浅野長政を主将とし、「吉野三人衆」と云われた。彼らは柏原城の伊賀勢に備えて名張梁瀬の宇流布志根神社付近に先陣を置いた。
 そして柏原城に籠った敵の奇襲に対する万全の布陣を固めつつ、浅野勢の主力は馬蹄の砂煙りも高く一路上野をめざした。筒井勢と共に桂の里から大滝、そして花垣余野の伊賀上忍の一人、千賀地一族の砦に襲いかかり、忽ち占領して高らかに凱歌を奏した。

*** 第二戦 〜比自山の戦いまで〜***


(12)信雄は、小波田砦を落とす
 以上が緒戦に於ける両軍の戦況で伊賀勢にとっては誠に四面楚歌の思いであったろう。
 第一線の砦を死守して玉砕した将兵は恐らく千に近く、全軍の三割近い数字でそれも百戦錬磨の勇将猛卒ばかりである。かねてより内心で伊賀侍に大きな恐怖心を抱いていた織田軍に
「皆でかかれば伊賀侍とて案外にもろいぞ!」
 と大きな自信と勇気を与えてしまったのは、戦略上からも明らかに失敗と云える。
 特に北畠(織田)信雄の伊勢勢は
「前二回の恥辱を晴すのは此時」
 と阿保一円の大村神社や幾多の名寺を次々に焼土と化しつつ、伊勢街道を急進する。羽根の里から美波田平野の馬塚に本営を置くと、観阿弥座旗上げの地で知られる小波田砦の攻略にかかった。
 ここには岩崎、竹原を始め父・信長から「必ず首を取れ」と名指しされた程の小波田兄弟、或は太平記でも知られた豪勇・名張八郎の血をひく中村半太等が
「ここが男の死場所ぞ、命を惜しまず、名を惜しまん」
 と固く誓い合って獅子奮迅の働きを見せつつも衆寡敵せず次々に玉砕。秋晴の野には村々を焼く黒煙が高く低くたなびく中に老若男女の里人らが逃げまどう。哀れな断末魔の叫びを耳にしながら、生き残った郷士達は「最後の死場所」ときめた種生国見城めざして落ちていった。

(13)蒲生氏郷は、上野平楽寺に向う
 甲賀口から破竹の勢いで友田城を占領した蒲生氏郷は佐奈具に本陣を進め
「先ずは幸先よし」
 と祝杯あげたが、二十八日の夜半に雪辱の意気に燃えた伊賀勢の急襲を受けて大混乱を呈した。
 然しさすがは猛将、翌朝には忽ち陣容を立直し、銀の鯰の前立を朝日にきらめかしつつ悠々と馬上豊かに上野に向う。
 当時の上野には平清盛の創建と伝えられる寺領七百石と称された平楽寺が鎮まり、丈六の本尊を中心に七堂伽藍や巨大な楼門、十九の僧坊が林立して威容を誇って居た。楼門が朱に塗られている処から人々から“赤門”と愛称された伊賀第一の大寺である。今度の乱でも伊賀勢の作戦本部となって数百の僧兵がいかめしく警備に立ち、「平楽寺の僧兵」と云えば三つ子も泣き止み(*1)、猛者郷士も途中で会えば必ず道を譲る習慣だったと云う。
 従って開戦と決した作戦会議の席上では当然平楽寺側では「ここを拠点として死守せよ」との意見であった。
 けれど評定衆は余りにも広大で大軍を相手にしては守りきれぬから
「長田の比自山観音寺に移る」
 という事に決した。しかし、僧兵達は頑として承知せず、やむなくそれを認めざるを得なかったらしい。

(*1)三歳の子供でも泣き止む。それほど恐ろしいこと。

(14)蒲生氏郷は、上野平楽寺を落とす
 蒲生、脇坂ら織田勢七千が耳須弥次郎に案内されて押寄せた時、寺には僧兵と下人合わせて七百余人が勝手知った寺内の要所々々に必死の守衛陣を固めて猛攻撃を展開した。
 我に十倍する大軍を相手に一刻はめざましくおめき戦い、さすがの氏郷も手を焼いた。が、半日の激斗が続くうちに僧兵の中でも勇者で知られた面々は悉く討死。玉塔、楼閣のすべてが敵の放火によって雷光の砕け散るように崩壊する。焦熱地獄と化した中で高僧、長老から女子供まで一人残らず焼死んだと云われる。
 無惨とも哀れとも比えようもない有様だったが、緒戦に於ける阿保や天童山での悲劇の再現でしかなかったのは「己れを知らず、敵を知らざる鳥なき里の何とか(*1)」で、経も読まず、鎧長刀をもて遊んだ者の辿る修羅道であった。
 同じ道を辿ったとは云え一際、死花を咲かせたのは剣の名手で知られた木興の町井左馬充夫妻である。彼は新田義貞を祖と仰ぐ誇り高き家系図と中黒の長旗を子の清兵衛に与えて比自山に向わせた後「共に死にたい」と望んでやまぬ郎党数名と共に父祖伝来の館に籠って好機を狙い敵の背後に斬込まんと決めていた。
 然しかねて耳須からそれを聞いていた氏郷は一隊を差向けて館を包囲した。これを知って町井は愛妻お清を呼び
「せめて我ら親子の菩提を弔う為に落ちよ」
 と命じたが、彼女は頑として聞かず白装束に身を固め手練の薙刀を抱えて夫と共に討って出ると、敵兵多数を倒した夫に折重なって斃れ伏し、その壮絶な最後を見た寄手は
「伊賀には惜しき名花よ」
 と手厚く葬ったと云われる。

(*1)「鳥なき里のこうもり」鳥がいない所では、空を飛べる蝙蝠が威張るという意味で、優れた者がいない所では、つまらない者が幅を利かすということの喩え。

(15)筒井順慶は、菊岡丹波の砦を落とす
 蒲生勢が上野一帯を征圧した頃、長岡山に本陣を置いた筒井順慶は、町井と並び称された久米の菊岡丹波の砦へ襲いかかって火攻めにした。衆寡敵せず彼は猛火の下をかい潜って比自山に落ち延びた。そして平泉寺での評議の席上で
「とかく我ら伊賀侍は進むを知って退く事を知らず、血気に任せて死に急ぐ習性が強い頑固一徹なのが短所である。
 一時の恥を忍んでも最後までねばり強く戦い抜くこそ真の勇者と云える、各々方どうかこの事を肝に命じ、己れ独りの名利に走って全軍の破れを招く如き所業は固く謹んで貰いたい」
 と苦言を呈した。これは、命ある限り戦い抜く信念からであろう。
 菊岡丹波が辛うじて比自山に辿りついた時、それを知った主将の一人百田藤兵衛は
「よくぞ切り抜けて来られた」
 と肩を抱いて喜んだ。
 兵法家の菊岡と、強硬派の代表であった百田でさえ織田軍の強大な兵力を知って
「前回のように各自が第一戦の砦に籠っては全滅あるのみ。北伊賀の面々には第一の要害である比自山に集まり打って一丸となるしかない。」
 と力説した。
 これは、血気の僧兵や盲蛇の一部の長老らの反対で拒まれ、統一指揮ができなかったからでもあろう。それでも緒戦の崩壊を知るや慌てて百田の意見通り駈けつける郷士が急増した。
 中でも小田村の下人・与助と左八が、折から偵察に来た耳須弥次郎の一隊を平井天神で発見して襲いかかり、首尾よくその首を土産にして城に入ってきた。
 かねて百田ら幹部は緒戦の敗北が福地、耳須らの裏切からと考えて
「彼らを討取るのは敵の大将北畠(織田)信雄を倒すに等しい功名」
 と全軍に布告していただけに大いに沸き立った。直ちに彼を士分に取立て「横山甚助」の武名を許す国奉行の感状を与えたから、人々の志気は一段と高まった。

*** 第三戦 〜比自山の戦い以降〜***


(16)伊賀衆は、比自山観音寺に城を築く
 伊賀勢の選んだ比自山には伊賀名寺二十五座の一つ観音寺が鎮まる。
 寺領三百石を持つ山門に立って東を望めば、伊賀一の宮敢国大社の鎮護される南宮山を中心として連なる東嶺はさながら海波のようにたゆとう姿を浮べる。青山から流れ落ちる河水や白砂の川原には田鶴が舞い、条々と拡がる田園に拡がる民家から昇る炊煙は不老不死の霊雲に似ていた。
 南を望めば常磐木が蒼々と聳え立って、秋は紅葉の中で雄鹿の妻を恋うる声も繁く、中腹には伝教大師創建になる西蓮寺も鎮まっている。
 西方には山々が重なる中に一条の嶮しい山道が続き、その上に寺の浴室が建っていたので風呂が谷と呼ばれ、何時も颯々(*1)たる松風がざわめいていた。
 北辺一帯は断崖絶壁の下に奈良、京に通う細道が通じているが、比自山側は飛ぶ鳥でさえも希な天然の要害で、如何な猛将でも「ここをよぢ登って背後から襲う」などは思いも寄らなかった。
 幼少から長田に住み、この地が萬夫不踏の堅城である事を熟知していた百田は、童友の小沢一族や朝屋の福喜田、浅宇田の吉富、高田、上野の上野一族、音羽の城戸らの勇将達と
「いざとなれば節目々々の精強な一族のみでこの城に籠り長期抗戦に出れば、いかな織田勢とて半年は持久可能」
 と信じていたのも当然であろう。
 従って緒戦の敗北を知っても彼らの志気は少しも衰えなかった。島ヶ原の評議衆だった富岡秀行のように、平楽寺で開戦と決すると立ち帰って一同にそれを伝えたが「あくまで和でゆくべし」と拒まれるや、憤然と「父祖の名を汚す事はできぬ」と単身馳せつけた豪の者も交る。参集した棟梁は百三十余人、一族郎党は三千を算したと云われる。
 彼らは互に
 「この霊場を戦さの庭とする事は誠に恐れ多いが、大慈大悲の御仏の加護にすがり、一期の働きを見せて父祖の名を汚さじ」
 と心に誓っていたようで、その心根こそ貴く哀れであった。
 そしてそれを聞いた人々は我も我もと比自山をめざして集まった。女子供までが石や瓦をつぶて代りに集め、土居築きや防柵作りに汗水を流し、僅か一夜で次々と工事が進んだ。山頂には長田丸と朝屋丸の望楼や「貝吹き坪」と呼ぶ戦斗指揮所が完成した。
 俄か作りとは云え、天然の要害と敵の進撃路に設けた大石、巨木の落下設備に助けられて、千早城にも負けぬと思われる堅固な設備の山城建設が昼夜兼行で続けられた。一晩中晴夜の星の如く炎々と天を焦す業火が、寄手の陣からも手に取るように見えたと云われる。

(*1)さつさつ。風が音を立てて吹くさま。

(17)比自山城の決戦1〜伊賀衆一勝〜
 それを見た蒲生氏郷は
「丹羽軍の到着を待たず、明日早暁を期して出撃せねば手を焼くぞ」
 と力説した。
 諸将も同意し、九月三十日の朝早く、蒲生勢は北方仏性寺より、筒井は朝屋の南方から鯨波の声も凄ましく進撃を開始。島ヶ原一統を降伏させた堀勢は総力をあげて西村の出城から比自山の背後に進む。総勢併せて一万五千の大軍が「我こそ一番乗り」と怒涛の如く秋風を突いて山麓に迫った。
 これを見た百田、福喜田の両主将は小沢、町井ら九人を隊長に選んで要処々々に手ぐすね引いて待ち構えた。全軍に迎撃の鬨の声を挙げさせれば、城に籠った百姓や女子供までが咽頭もさけよとばかり叫び、その声は山々にこだまして百雷の轟くようであった。
 比自山城の大手口に迫った筒井と浅野勢の五千余は衆を頼んで一気に大門口に迫ったが雨のような矢石に打たれて忽ち潰走した。
 搦手の風呂カ谷の急坂を冑を傾けて攻め上った蒲生勢も「父母の仇!思い知れ!」と強弓を引き絞った町井の矢を受けて次々に射倒され、名うての猛者揃いもひるんで見えた。
 かくてはならじと軍監・安藤将監が「我に続け!」と先陣に立ったが、主将福喜田に急処を射られて落馬した処を首をかかれる。勢い立った森四郎、高田郷助の両隊長の奮戦で風呂カ谷は人馬の屍で埋まった。
 さすがの勇将・蒲生氏郷も「このままでは全滅!」と感じたか、一軍を率いて大手口に転じた。敗色にひるむ筒井、浅野勢に「何とも云い甲斐なき奴原、我に続け」と叱咤して陣頭に立てば、若いだけに負けじとばかり筒井定次が死を決して自から陣頭に立つ。
「それ若殿を殺すな」
 と筒井の将士が我先にと大門坂を駈け登ったが、主将百田の見事な采配で次々に死傷続出して再び追い崩される。けれど寄手は大軍だけに新手々々と蒲生、筒井が交互に繰出し、伊賀勢でも聞こえた吉住、村田の隊長らも次々に力尽き討死した。
 あわやと思われた時、堀秀政は「強襲は無理」と引き鐘を乱打して総退却に転じた。常住寺の西から嶮路をよじ登った堀勢が伊賀の仕掛けた大木に先陣の大半を失うのを見たからだ。
 勇将氏郷も無念の歯喰みをしながら攻撃を中止して佐奈具に引揚げる。筒井勢も長岡山に帰って丹羽、滝川勢一万四千の主力の到着を待って再攻する事となった。

(18)比自山城の決戦2〜伊賀衆二勝〜
 旗をまいて去って行く寄手を見て高らかに凱歌を奏した伊賀衆は本日の論功行賞を行った。百田、福喜田らを比自山七本槍とたたえ、中でも森四郎と高田郷助、横山甚助らの武功は後世にまで残される。
 そして意気揚った彼らは長岡山の筒井勢に夜襲をかける事に決した。その夜半に長田川を渡って忍び寄り、午前二時を期して一斉に松明に点火して敵陣に乱入した。
 順慶は八幡宮付近の本営で熟睡している処を横山勢に不意を打たれ
「もはやこれまで潔く腹を切らん」
 と云うのを伊賀出身の近習・菊川清九郎が必死になって先に立ち山道を脱出せんとした。
 折しも吹きしきる風雨に真暗闇ではどうにもならず、八幡宮に火をつけて辛うじて逃げ落ちたがこの一日で筒井勢は兵力の半ばを失ったと云われる程の大苦戦だった。
 島左近と並び家中きっての豪勇を知られた松倉豊後守や、城代家老・中坊飛騨守の嫡男忠政らは「御大将を討たすな」と必死に戦ったが、松倉は落馬して行方不明、中坊は重傷を負うて倒れる惨敗であった。
 この凄しい大夜襲は勝誇った織田軍を震い上らせ、中でも松倉の乗馬を分捕った横山の武功は「全軍に比なし」と羨望されている。

(19)伊賀衆は、食料がなく、比自山城を脱出する
 これ程にめざましく戦った伊賀勢であるのに今年の刈入れ前であったのと平楽寺の食糧庫が炎上した為に全員の腹を満たす米が底をついてしまったのは、勇はあっても備えの甘さを嘆くしかない。
 頭をかかえた幹部達が評議の末に決めたのは、
「敵の新手が加わらぬうちに城をすてて名張滝野勢と合流して再挙を計る」
 ということであり、十月二日の夜半に手負いや女、子供をいたわりつつ思い思いに落ちて行った。
 そうとは知らず翌日早暁、丹羽、滝川勢を加えた織田の大軍は一斉に総攻撃を敢行した。前回の猛反撃に恐れを為し、一番乗りを狙う将士もなくジリジリと山麓に迫ったが、砦の篝火が赤々と燃え立っているのに敵兵の姿もなく砦は妙に静まり返っている。
「これはおかしい。伊賀者の事じゃ何か罠をかけるつもりかも知れぬ。油断するな」
 と戒め合いながら漸く長田丸に突入した。処が、一兵もないもぬけの空だったから顔を見合せ
「天をかけたか他に埋ったか、あれ程の敵勢が逃げ去るのに気がつかなかったとはハテさて呆れ返った者共よ」
 と舌をまいたらしい。
 先夜の怨みをすすがんと決めていた順慶は大いに腹を立て
「草の根わけても探し出し一人残らず斬れ」
 と厳命して追求したので、巧みに比自山を脱しても柏原城に辿りついた者は少なかった。手負いや家族を抱えてやっと伊賀を抜け出て大和春日山で野宿をしていた者達も信長の厳命で悉く処刑されている。

(20)種生国見城は、玉砕する
 十月上旬、比自山一帯が織田勢の手に帰した頃。伊陽の野から南の種生国見城に落ちた伊賀衆はここに集結して雪辱を期し陣地作りに懸命となっていた。
 この地は前深瀬川の上流にある。山頂には草蒿寺の七堂伽藍が林立した牛頭天王垂跡の霊場で、徒然草で有名な兼好法師の墓も残された要害堅固の城である。
 ここに集まった郷士の面々は種生の大竹、小竹、川上や比土の中村、小波田の一族や我山の北畠の残党など五百余人でその中に下山甲斐(*1)が名を秘めて加わっていたらしい。
 彼は事が志と違って信雄の怒りを買い奈垣城に蟄居する事、二年に及んでいた。時勢は彼の予想した通り最悪となった。伊賀亡国の危機の迫るのを知るや
「郷土の亡びるのを座視するに忍びぬ、せめても伊賀武士として一命を故里に捧げよう」
 と種生城に入ったのである。
 信雄が種生城の攻略を滝川、長野、古田に命じ、六千近い大軍が押し寄せたのは十月上旬と思われる。伊賀勢は比土の中村、今中の両将が指揮を取って懸命に防備を固めここを最後の死場所と定めていたようだ。
 果せるかな伊賀勢の力戦は凄しいものだったが、五百対六千では最後に玉砕となるのは当然である。勝ち誇った織田軍は国見城の一角に首斬場を設けて降人やその家族まで容赦なく首をはねた。
 荘厳を極めた草蒿寺を焼く猛煙は青山白雲の彼方にたなびき、女、子供の泣き叫ぶ声は田園にこだまして流れ、数々の悲話が今も尚、周辺の村々に残されている。

(*1)Chap 1安土の巻1.2 天正伊賀ノ乱1.2.1 凱歌編を参照。

(21)滝野十郎は、名張柏原城で兵糧攻めにされる
 「種生国見城、玉砕!」の悲報を聞いた名張柏原城の滝野十郎は伊陽の各地に急使を飛ばして集結を命じた。名ある勇将猛士が続々と入城して棟梁株は四百を越え、続く一族郎党千六百に達した。
 参謀長には有名な百地丹波が北伊から馳せつけ、城周辺の要地には布生、福地、大道寺、吉村、吉原、横山の勇将達が籠城して万全の守りを固めた。
 彼らは何とかして小波田に本陣を置く信雄の首を挙げるべく日夜機会を狙った。それを知った織田軍は、伊賀ではトップ級の大きさを残す滝川城や桜町中将館と呼ばれる砦を築いて、日夜奇襲に備える。
 北伊を征圧した丹羽、滝川勢が信雄軍と合流して柏原城の第一回総攻撃を開始したのは十月八日と云われるが、中旬に近かったと思われる。総勢三万をこえる大軍の一斉に挙げる鯨波の声は名張平野をどよめかした事だろう。
 これに対して伊賀勢は滝野小三郎の率いる三百の遊撃隊が出丸から出撃して敵を誘い出し、防柵に構えた本隊が一斉に弓鉄砲を浴びせかける。
 軍師百地の宰配に応じて進退する布生。吹井勢の勇猛さは、蒲生氏郷さえ舌をまいたと云い、此日だけでも織田軍の死傷は千五百に近かった。老巧の丹羽は強く信雄に進言し
「力攻めは中止し、各隊は急ぎ防衛線を固めてみだりに出撃を禁ずる」
 と軍令を発させると、織田信澄を安土に走らせて戦況を報告させた。

(22)七十歳の森田浄雲、宮坂で挙兵、玉砕する
 信長は
「開戦十日にて伊賀の大半を壊滅し、余すは南辺の滝野城のみ、急ぎ御出馬を乞う」
 との報に直ちに安土を発した。
 『信長公記』によれば、信長が伊賀一の宮敢国大社に一歩を印したのは十月十日の夕刻である。小波田から名張周辺まで駒を進めて戦況を眺め、丹羽の説く「兵糧攻め」を承知し、十三日には帰路についている。
 その途上を狙って山中から狙撃弾が飛び側近は色を失ったが、幸い弾はそれて何の怪我もなかった。信長は歯牙にもかけず颯々と馬を飛ばせて去ったが、関心は怒り心頭に発して他日を期したらしい。
 然し面目玉を潰された警備隊長らは直ちに徹底的な捜索を行った。その結果、犯人は音羽の城戸、循岡、原田らしいと判明し、彼らの部落一帯を虱つぶしに掃討し始める。
 その為に、森田浄雲以下阿波七郷の郷士数百は、不本意な挙兵をすることになる。森田らは、比自山から荒木の忍田砦に落ち、極秘で宮坂の要害に新しい拠点を築いていたのだ。
柏原城と呼応し戦局を覆すためである。ところが狙撃犯探しのために建設中の砦が発見される恐れが出てきた。森田らが工事半ばのままに挙兵せざるを得なくなったのは残念だったろう。
 十月十五日それを知って驚いた織田軍では、吉野衆と呼ばれた秋山、沢等三千が直ちに攻撃を開始した。七十歳の森田は秋山と一騎討の末に華々しく討死。一族郎党も悉く主と共に玉砕し、強風に戦火は敢国大社に飛んで大彦命以来の伝統を誇る社殿が空しく烏有に帰した(*1)のは惜しい事であった。

(*1)うゆうにきする。すっかりなくなる。特に、火災で焼けることをいう。

(23)百地丹波は、服部半蔵に決別の書を送る
 敢国大社の炎上を知った柏原城では「彼らの死を無駄にするな」と十六日の夜、織田勢の周辺の山々に一斉に松明を燃やした。敵を驚かせ、その隙を突いて信雄本陣を急襲するという作戦である。
 然し折しも雲がきれて皎々たる月が姿を出し、為に歴戦の丹羽、滝川らは
「これぞ偽兵の策、いたずらに騒がず各自の持場を固めよ」
 と命じて警戒線を厳しくした為に闇にまぎれての奇襲作戦は失敗。城に呼応して松明を掲げ敵兵を脅かした里人達は片っ端から首をはねられ、犠牲者はおびたゞしい数に達したと云われる。
 やがて十月も下旬に入ると丹羽の予想した通り柏原城の食糧も底を突いた。二十六日の夜を期して最後の突撃を敢行する事に決し、百地丹波は知友であった徳川家の忍者・服部半蔵に決別の書を送った。
 それを知った半蔵は何とかして三百を数える歴戦の忍者らを徳川家に役立たせたいと家康に願い信長に配慮を乞うて無血講和の道を開くべく奔走したらしい。そして結崎糸井神社の観世座の尽力で滝野と親交のあった大倉五郎次という猿楽師が、滝野を訪ねたのが二十六日の朝である。

(24)織田軍と伊賀衆、講和が成立する
 その日は主将滝野から柏原城に籠った人々に
「将士は今夜城を出て敵陣に突撃し、一気に雌雄を決する。筋目の老人や女房は城に火をかけて自決、幼い子供や里人らはその隙に後方の竜神岳をこえて生き逃びよ」
 との軍令が下り、「今日が最後ぞ」と悲壮な決意を固めた朝だったと云う。
 城門を入った大倉が服部半蔵の密書と信雄の花押が入った
「開城すれば一切罪には問わぬ。家名の存続も認めよう。但し滝野十郎が全員武器をすて反抗せぬ約条を出し一子を人質とせよ」
 と云う意外に寛大な書を示した。そして、その内情を語ったので、滝野も百地も疑わず忍者達も徳川隋身を承知した。忽ち講和が成立し、服部半蔵に率いられた数百の伊賀忍者群が後に家康を天下人にする強い絆が結ばれる。
 天正九年(一五七三)十月二十八日、伊賀には珍しく小春の穏やかな日に滝野十郎は一子亀之助をつれて北出の本営に出頭すると信雄は
「勝手に国主を追放し、余の家臣多数を殺したのは無法の至りではあるが、井の中の蛙の例えもあり、父の大志を理解し難い向もあったようじゃ。今後国主に忠誠を尽し正直一途に稼業に励む事を誓うなれば一切罪は問わぬ」
 事を明らかにし、黄金五枚と名馬一頭を与えて調印式を終えた。城受取役には筒井順慶が選ばれて城に入った。滝野と百地はかねての約束により三百近い忍者らを三河に送ると百地は責任をとって「高野山に上って仏門に入る」と称し、やがて根来に潜んだらしい。
 主将の滝野は伊賀各地に急ぎの使者を走らせて約定の厳守を命じ、硬骨の郷士達も次々に承知して事は順調に進行するかと思われた。


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