Chap 1    安土の巻

1.2 天正伊賀ノ乱

1.2.1 凱歌編

(1)仁木長政は信長に従う
 『伊乱記』に云う。
「それ伊陽は固偏の小国なれど京より僅か十八里、西は大川の利を帯び、東は東山の嶮に恵まれ沃野開けて五穀豊穣。然して人情淳朴にして華美に流れず正に天府とも称し得る秘蔵の国なり」
 ここで改めて伊賀平氏の歴史を辿ろう。壇ノ浦で一門悉く滅亡したように云われているが、事実はそうでなく北伊賀には長田、服部、柘植の一族が根強く生残り、伊賀忍者で知られた六十六家の大半はその流れを引くと云っても良い。
 中でも、有名な服部半蔵が徳川家康に仕え“鬼の半蔵”と愛されていた如く、上忍と云われる百地、藤林、千賀地家は各地の大名に乞われて傭兵契約を結んだ。特に鉄砲渡来後は雑賀、根来にも劣らぬ名人、上手が揃っていた。
 伊賀在郷の彼らの日常は後の薩摩隼人の如く、午前中は稼業に励み、午後は忍びの鍛練に専念し団結を固めた。他国の大名守護の介入を許さず、
「伊賀侍は例え甲鉄の網をめぐらせた城にも安々と潜入し、高い壁や深い堀をも飛鳥の如くに飛び越す猛者揃い」
 と恐れられた。
 然し信長が伊勢征圧に乗り出すや、時流の赴く先を察した上野の元守護、仁木長政(*2)は永禄十二.年(一五六九)七月、進んで信長に帰服した。信長も満足して
「今後とも伊賀の動きをつぶさに知らせて忠誠を励めば決して粗略にはせぬぞ」
 と約している。

(*1)いらんき。延宝7年(1679)に菊岡如幻(*1-1)が編述。天正9年の信長伊賀攻め(天正伊賀の乱)に、伊賀の諸豪が団結して立ち向かった概要を書き記したもの。当時の諸豪らがほとんど網羅されており研究文献としても評価が高い。
(*1-1)きくおかにょげん。1615〜1703。伊賀上野福居町生まれ。出自は清和源氏頼政の流れをくみ、島ヶ原菊岡村より起こったと伝わる。如幻は伊賀上野で質商を営む裕福な商家業を継ぎ、学問を好み、和歌をよくした。「伊乱記」の他に、荒木又右衛門の仇討ち実録「殺法法輪記」、伊賀の地誌「伊水温故(いすいうんご)」、民話を集めた「茅栗草子(しばくりそうし)」、大著「世諺一統(150巻)」などを著わす。また、「伊賀国忍術秘法」や「伊賀忍者考」という、伊賀忍術研究の論考もある。
 79歳で没した如幻の墓所は、伊賀市九品寺。菊岡如幻生誕家の前に石碑がある。
(*2)信長の北畠攻めに先んじ、滝川一益を介して信長に降る『新津秀三朗氏文書』

(2)伊賀天正の乱〜前夜〜
 二年後、元亀二年(一五七一)になるとさすが時勢にうとい豪族達も信長の信頼厚い仁木義視(*1)を伊賀守護に奉じ、十二人の有力豪族を評議衆に選んで国政に参画し、天正三年(一五七五)、北畠信雄(信長の次男)が当主となるやその傘下に参じた。
 それだけに最近一部の豪族達が伊賀神戸・我山の北畠具親を助け、反信長派の六角承禎(*2)の娘を妻に迎えさせて再興に尽力している事が判れば信長の侵攻を呼ぶ事は必至である。仁木義禎が何とか思い止まらせんとしたのは当然であろう。
 かねて和平派で知られた名張・比奈知の豪族・下山甲斐守、柘植の旗頭(*3)・福地伊予守らは天童山寿福寺(*4)の長老達に時勢の流れを説き
「このまゝでは五百年不乱を誇り神仏の霊場伊賀の郷土も必ず戦火に侵されるのは必定であり何とか和解の道を」と要請した。
 長老達も
「先に協議の際に申し上げた通り、文武は両道であるのに最近の若い者は武に片寄って己の名さえ書けぬ者や、僧のくせに明け暮れ槍や刀を振廻して経文一つ読めず善良な里人から鼻つまみになっているのが目に立って何とも心配でならぬ」
 と色々と血気の荒僧や郷士らを慰め、信長の怒りを買わぬように努めていた。
 幸い北畠の亡んだ天正四年(一五七六)は事なく済んだ。

(*1)にきよしみ。伊賀守護として、元亀二年(1571)織田信長の支援を受け、伊賀に入国。しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、天正六年(1578)伊賀を追放され甲賀に逃れた。信長の家臣団には「長政」の名があるが、仁木義視と同一人物かは不明。
(*2)ろっかくしょうてい。隠居後の名前。本名は義賢(よしかた)。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。第13代将軍・足利義輝らを助けて三好長慶と戦い敗戦。義輝を京都に戻して面目を保つ。従っていた浅井長政が反抗し大敗。重臣惨殺事件で一度観音寺城から追われている。信長の援軍要請を拒絶して大敗。甲賀に逃げ、六角家は滅亡。足利義昭が信長包囲網が形成すると、義賢は仇敵の浅井長政らと結んで戦うが敗れて降伏。監禁されるが信楽に逃亡。その後は不明だが、秀吉が死んだ年に義賢も死去。享年78。
(*3)集団を率いる者。はたがしら。
(*4)天童山寿福寺。三重県伊賀市神戸。丸山城跡が近い。最寄り駅は近鉄丸山駅。なお丸山城跡は三重県伊賀市下神戸字坂田。最寄り駅は近鉄丸山駅または上林駅。


(3)伊賀守護の仁木義視が追放される。
 天正六年(一五七八)になると硬派の代表とも云うべき長田の百田藤兵衛が家重代の家宝である仏像を仁木が返さないのに腹を立て館に押かけて追い払うと云う事件が勃発した。
 それを知って上野平楽寺(*1)に集った評議衆は名張の滝野十郎、長田の百田、朝屋の福喜田、木興の町井、河合の田屋、音羽・島カ原の富岡、依那具の小泉、比土の中村、西ノ沢の家喜、布生・下阿波の植田の面々である。いずれも仁木の汚いやり方に腹を立てて百田に味方して、長老達の反対を押切り、
「以後は織田の息のかかった国司などは無用じゃ!」
 と自主独立体制に戻してしまった。これは何とも時代の流れを知らぬ愚策であったと言わざるを得ない。
 命からがら伊賀を脱出した仁木は直ちに安土に参上して信長に伊賀郷士共の驕慢を色々と針小棒大に訴えたに違いない。信長も激怒したろうが、彼を取巻く周囲の情勢から見て、迂闊に手を出して豹悍で聞えた伊賀忍者共に名を為さしめては算盤に合わぬと感じたらしく、暫くは何の動きも見せていない。

(*1)平清盛の発願で建てられたという。天正伊賀の乱で焼失。天正13年(1585)伊賀一国の領主として移ってきた大和郡山城主・筒井定次が、平楽寺や伊賀国守護・仁木氏の館のあった跡に新城を築いた。

(4)雑賀孫市が信長に勝つ
 当時すでに三百万石を越える所領を得ていた信長には伊賀十万石は問題ではなかった。それよりも、石山本願寺の難攻不落ぶりに手を焼いた末に
「作戦を変え戦力の根元である雑賀党を鎮圧する事が先決である」
 と太田党(*1)や根来の杉ノ坊(*2)を口説き落して味方につけた。
 天正五年(一五七七)二月、信忠(信長の嫡男)、秀吉、滝川らの名だたる武将が五万の兵を率いて紀伊に進攻した。
 三月になると信長も太田党の先導で紀三井寺山麓に陣を進める。大田、根来衆の裏切りを知った孫市は先代以来の縁も深い堀内ら熊野衆に急使を飛ばせて援軍を乞うた。堀内氏善の妾腹の長男・氏治が快速鯨船に乗じて雑賀城に入り、三月三日、戦端は紀ノ川の支流雑賀川で切って落された。
 かねて孫市は雑賀一帯の城々の守りを固めると共に、雑賀川に大樽を沈め乱杭を張りめぐらしていた。大軍を頼んで強行渡河にかかった織田軍を河中で痛打したので、さすがの信長もさんざんな目に逢い辛うじて大田城に逃げ込むと云う大敗北を喫した。
「孫市めがやり居るわ!」
 と口惜しがったと云う。
 緒戦の快捷に孫市は味方の志気を高めるべく産土神の矢ノ浜八咫烏神社の社前で大祝宴を開き、根来の杉ノ坊との一騎討ちで傷ついた足で跳びはねながら
「アラ有難や嬉しやな、法敵滅び宗門は末広がりに御繁昌、跛の足をひきずりて扇子かざして跛踊り。」
 と歌い、
「あたかも狂える如く刀を杖に弓、鳥銃を打ちふり旗差物をかざして舞う」
 と『紀伊名所図会』は云う。

(*1)雑賀衆の一部グループ。雑賀衆は「鉄砲傭兵集団」であるが、「一向宗」の信者が多く、本願寺の要請を受けて織田家の軍勢と戦った。しかし一部の雑賀衆と真言宗の「根来衆」は織田側を支援した。つまり雑賀衆は@「雑賀孫市」が率いる本願寺派と、A「根来衆」に近い織田派の雑賀衆に分裂していた。@を「雑賀党」、Aは、太田定久とその一族がリーダーとなっていたため「太田党」と呼ぶ。
(*2)Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。


(5)雑賀孫市が信長に負ける
 然しながら孫市の上機嫌も長くは続かなかった。何と云っても秀吉以下錚々たる武将を擁する五万の織田勢と大田、根来の鉄砲隊との連合軍である。三月十日には紀ノ川左岸の要衝・中津城が落ち、続いて甲崎、東禅寺の各城も次々に陥落した。それを憂えた毛利の小早川隆景(*1)より堀内氏善宛に
「今度信長が雑賀に打って出て城を包囲せるに就き、将軍義昭公よりも各国将兵を率いて尽力するよう下知あり、輝元も出陣する覚悟なれば貴殿にも上意に応じ雑賀に一段と力を副へられ忠義を尽される事が肝要。」
 との一書を送っている。
 然し戦局は一段と悪化して雑賀本城も危うくなり、さすが日本一を誇った雑賀鉄砲集団も「このまゝでは壊滅」と思われた時である。かねて彼の人柄に惚れ込んでいた豊臣秀吉が懸命に
「ここは一時開城して四海に名を轟かせた雑賀党を天下の為に役立てよ」
 と説いた。宇治槇島城主として攻撃に加わっていた井戸良弘もかねて孫市とは交友があった縁からそれに尽力し「二度と叛かない」と云う条件で降伏させた。孫市が所領安堵されているのは、信長自身が孫市の豪快な男ぶりを愛したからと思われる。

(*1)こばやかわ たかかげ。毛利元就の三男。隆景の小早川氏と、元春の吉川氏の両家が、本家である毛利氏を支えたことから、両家は「毛利の両川」と呼ばれた。しかし隆景の死後、後継者が無く、家中の分裂と関ヶ原の戦い不戦敗により、防長2国への減封となる。

(6)松永弾正が爆死する
 信長の実力は遠い紀州へ五万の大兵を遠征させる程だった。それを見て伊賀の支配者らは「以て他山の石とすべきであった」のにその好機を逸したのは残念だが、それには大和の松永弾正の叛乱が起きた為でもあるらしい。
 松永弾正が三度目の叛旗を翻したのが天正五年(一五七七)の夏である。信長は三度も叛かれながら、それでも弾正の肚が判らず説得使を出している。信長は案外お人好しの面があったようだ。
 けれども弾正は頑として聞かず、やむなく信長は幼い人質の兄弟を六条河原で斬りすてる。同年十月には信忠を大将に羽柴(秀吉)、明智、筒井、井戸ら五万をさしむけた。良弘らは北葛城の片岡城(*1)に籠る敵勢を一日で落し、弾正のいる信貴山に向った。
 信貴山城は三年の籠城に耐える兵器弾薬食糧を貯えていたと云われる。順慶は、弾正が石山本願寺に援軍を乞う使者を走らせたのを知って、数百の手勢を援軍に偽装して入城させた。そして十月十日の夜に放火した為に豪装な毘沙門堂を始めすべてが落ちた。
 それは奇しくも弾正が大仏殿を焼いた十年前と同じ日であり、石ノ上城で殺された愛娘春姫の十七回忌に当る。それを知った良弘は、「因果は巡る」の実感をかみしめながら一段と猛攻を続けた。
 弾正は僅か十日しか保たなかった城の悲運を嘆きながらも、信忠が
「平蜘蛛の釜を差出せば命を助けよう」
 と云う矢文を手にして
「先に九十九茄子をまき上げられたが釜だけはやるものか。わしがあの世まで持ってゆくわい」
 とせせら笑い、病い圧えの灸をうって天守もろとも爆死したのは有名である。
 その火を眺め、良弘は改めて娘の成仏を祈ったことだろう。

(*1)奈良県北葛城郡上牧町下牧。最寄り駅はJR和歌山線畠田駅。案内板の北側にある雑木林と畑が城跡。片岡城は、室町時代に片岡氏が築く。片岡氏は、筒井氏としばしば戦うが、筒井順昭の娘を娶り、筒井一門に。後、松永久秀と戦い落城。松永が織田を裏切ると、明智光秀によって攻められ落城。

(7)北畠信雄、伊賀に丸山城を築く
 天正五年(一五七七)の十一月には久しぶりで戦塵をすすいだ筒井順慶が盛大な若宮祭りを催した。
 これには槇島の井戸良弘も招かれた。奈良の町は沸き返り、人々は昔懐かしい矢鏑馬にどよめき、宵には薪能が上演されて観世、宝生の名手に交り、順慶や良弘もそれぞれ得意の狂言を舞って興をそえたと記されている。
 かねて子のない順慶は光秀の次男・乙寿丸を養子にと望んでいたが、
「長男光慶が弱いでのう」
 と仲々承知して呉れないので福住家から定次を迎えたのは此頃である。
 明けて天正六年(一五七八)の新春二月、伊勢田丸城(*1)の庭園の梅や桃が美しく咲き匂う中に新国主・北畠信雄に目通りを許された名張・比奈知の豪族・下山甲斐はつぶさに伊賀の実情を語ると
「まことに強勇愛すべしとは云え、井の中の蛙の彼らに信長公の大志を知らせる為にも先年具教公が手をつけられていた丸山城(*2)を完成し伊賀鎮護の拠点となさいませ。身共及ばずながら先手となりましょう」
 と進言した。
 信雄も去年熊野征伐に失敗しているだけに大いに乗気となり、直ちに築城に取りかかった。その大将となったのが北畠一門でありながら織田の家老・滝川一益の婿となって滝川三郎兵衛と名乗る才子の源浄院(*3)で里の郷士達には
「伊賀の平和と威勢を示す」
 と称して盛んに銭をまく。昼夜をとわぬ突貫作業で、六月に入ると豪華な三層の天守閣も姿を見せ始めた。

(*1)たまるじょう。三重県度会郡玉城町田丸字城郭。南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる。戦国時代、織田信雄の居城として天正3年(1575)に改築され、三層の天守を備えた城へと生まれ変わるが、5年後に火災で天守を焼失。その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏と主を移し、最終的に紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。かつての城内に、玉城町役場および玉城町立玉城中学校がある。
(*2)丸山城跡は三重県伊賀市下神戸字坂田。最寄り駅は近鉄丸山駅または上林駅。
(*3)げんじょういん。はじめは源浄院主玄。僧侶として木造家に仕える。滝川一益に才能を見出されて還俗、一益の娘婿・滝川雄利(たきがわかつとし)となる。信長の命で織田信雄に仕える。北畠具教暗殺、天正伊賀の乱に関わる。天正伊賀の乱の際、伊賀の豪族を調略し結束力を弱め、織田軍の大勝利に貢献。


(8)伊賀の諸豪が、丸山城を乗っ取る
 伊勢大湊で、信長の発案した世界最初の鉄装艦が次々に竣功していた頃である。全長二十二m、幅三m、大砲三門を備えた新鋭艦六隻が海を圧して威風堂々と大坂をめざし進航して行った。もし伊賀の強硬派がその目で見れば考えも変ったかもしれない。大海を知らぬ郷士達は噂を聞いて「鉄の船なんぞ浮ぶ訳があるかい」と気にもかけなかったらしい。
 備後の毛利へ援軍依頼の旅から帰った北畠具親は、次第に威容を増す丸山城を見て
「これこそ織田の伊賀征服の一歩!」
 と警鐘を鳴らした。秘そかに寿福寺に集まった評議衆は
「伯父・具教を殺し、滝川の婿になって権勢を驕る源浄院の生臭坊主めに、父祖の地を汚させてはならぬ。城の完成せぬ前に一気に乗っ取れ」
 と決議したのは時の勢いであったろう。
 十月の早暁、百田藤兵衛を大将とし神戸の長浜、比土の中村、猪田の森田一族が猛烈な攻撃を開始し。伊勢でも勇将で知られた野呂彦右衛門や湯浅兵部ら大半を討取って高らかに凱歌を轟かせる。
「高が知れたる田舎郷士め」
 とあなどっていた滝川三郎兵衛(=源浄院)は城を捨てて生命からがら伊勢路を逃げ落ち、勢いに乗じた郷士達は完成したばかりの丸山城を焼き払って快哉を叫んだ。
 評議衆は
「城はすべて焼き払い武器や食糧弾薬は公平に分配する。この勝利に驕らず兜の緒をしめよ」
 と布告しているが、覇者信長に戦いを挑んだ以上は万全の備えを整えねばならない。それなのに防戦の拠点となる城をむざむざ焼いてしまった。
 この事からも当時の評議衆に優れた戦略家を欠いた事が惜しまれてならぬ。

(9)荒木村重が、信長に謀反を企てる
 それにしても天正六年(一五七八)は信長にとって不運な年で、春には播磨の別所長治が裏切って中国征伐に向った秀吉の足をすくう。秋になると摂津守護に抜擢した伊丹の荒木村重(*1)が
「秘そかに本願寺に内通している」
 と云う飛報が細川藤孝から入ったから、さすがの信長も「寝耳に水」と驚いただろう。
 そこに伊賀天正ノ乱の序曲とも云うべき丸山城陥落の悲報を知ったから、持前の赫怒癖に襲われたに違いない。
 然も荒木村重の嫡男に光秀の長女を嫁がせたのは信長である。
「下手をすると取返しがつかぬ大乱にもなりかねぬ」
 と、信長は急ぎ上洛して光秀に
「予としては村重がそんな不埒な事をする筈もないと思うが確かめて来い」
 と命じた。
 光秀も驚いて伊丹城に急行し、秀吉の方からも黒田官兵衛(*2)が駈けつけて説得に当った。それで荒木も母を人質として安土に参上する旨を誓った。光秀が喜んで信長に報告したのが十月二十日で、それを聞いた信長もホッとしたらしい。
 然しながら村重は中川清秀(*3)から
「信長公は虎狼のような方じゃ、長年の功臣でも意に従わぬ時は容赦なく斬りすてるのが常である」
 と反対されるや再び気が変った。
 石山本願寺には
「信長の所業は許せぬ。我たとえ一人になろうとも必ず誅すべし」
 との書を送り、毛利には
「有岡城で二カ月は支えるから早々に弾薬と兵糧を送って望しい」
 と密書を出して城の防備を固める。

(*1)あらきむらしげ。武将・大名。利休七哲のひとり。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名。先祖は藤原秀郷。
(*2)本名は黒田孝高(くろだ よしたか)。武将・大名。豊前国中津城主。通称の官兵衛、並びに出家後の如水の号で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。ドン・シメオンという洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
(*3)なかがわきよひで。武将。子に秀政、秀成、糸姫(池田輝政の先妻)。妹は古田織部の妻。出自は清和源氏頼光流の多田源氏の後裔であると称した。


(10)荒木村重の一族は滅亡する
 そうとは知らず信長は、折しも鉄装の九鬼艦隊が和泉沖淡ノ輪で本願寺方の水軍を一蹴して堺港に入港したのを知って大いに喜び、公卿達を引連れて見物に出かけている。
 やがて十一月六日、毛利水軍六百隻が木津川口に接近し、本願寺へ武器と食料補給にやって来た。それを知った九鬼勢は直ちに出撃すると、敵の得意とする「ほうろく弾」など物ともせず、僅か六隻の鉄装艦に備えた十八門の大砲でその殆どを撃沈した。さしも歴史を誇る瀬戸内の村上水軍(=毛利水軍)も顔色なくあわてふためき敗走していった。
 鉄装艦の快勝を知った人々は目をむいて驚いた。外人宣教師さえ世界初の鉄艦隊の勝利を本国に急報し、天才児・信長サマの偉業をビッグニュースとして「名にし負う熊野海賊の樹立した輝かしい新兵器の脅威」を賛えている。
 やがて村重の心変わりを知った信長は、直ちに村重の両腕である中川と高山に書を送り、“返り忠”をすれば、摂津一国を約する。それと共に、宣教師オルガンチーノを呼び、
「キリシタンの教えを守り主君に叛いてはならぬと説得せい」
 と命じた。
 果せるかな両人は忽ち降伏し、村重一族は悪戦苦闘の末に滅亡。ひとり村重だけが尾道に逃げて生恥をさらす結果となる。
 もし村重が光秀の切なるすすめを守れば後世まで千載の汚名を残し、罪もない女房子供を尼ケ崎の松原で『信長記』が伝える
「百余の女房らが悲しみ叫ぶ声は天にも響きこれを見る人三十日の間は身に忘れやらず。更にこの女房に仕えた五百余人を小屋に閉じこめて大焦熱にむせび苦しむ様は地獄の獄卒の呵責にも勝りてふた目と見る人もなし」
 との惨劇は起きなかったろう。
 そして光秀にとっても村重が与力でいれば、本能寺の変後も旗下の中川、高山らの二万は揃って光秀勢に参じたに違いなく天王山の勝者は彼であったかも知らぬ。

(11)伊賀の諸豪が、信雄に勝つ
 それにしても秀吉が主君の世界的発明を活用して大艦隊を編成し、後の朝鮮の役に用いればアジアの歴史は大きく変ったかも知れないのにと惜しまれる。
 世界海戦史を彩る木津川に於ける九鬼水軍の完勝が畿内一円にも広く伝えられていた天正七年(一五七九)の春、さすがの一向坊主共も闘志を失って見えたので信長は久方ぶりに信雄の軍役をといて帰国させた。
 地震、雷、火事より百倍も恐い親父の目を逃れて松ガ島で連日遊宴を楽しみ戦塵を落した信雄は一息入れると去年の伊賀丸山城で手痛い惨敗を喫した口惜しさを思い出し、この機会に伊賀一国を我が一手で切り取って父を喜ばせてやろうと思い立った。
 かくして血気に逸る信雄が
「今度こそ伊賀忍者で聞こえた凶徒共を皆殺しにせん」
 と勇み立ち、一万余の兵力を挙げて田丸城を出陣した。第二次の戦いは天正七年(一五七九)の秋半ばに始まった。
 信雄の作戦は全軍を三手に分け信雄本隊八千は長野峠から、右翼隊千五百は柘植三郎左衛門が榊原から鬼瘤越えに向い、左翼千三百は秋山右近が率いて青山峠から初瀬街道をめざすと云う計画だった。
 処が今度も三千に満たぬ伊賀勢の思いも寄らぬ奇襲や反撃に大敗し、柘植以下数千の死傷を出し、命からがら城に逃げ帰ると云う大惨敗でそれを聞いた信長は激怒して
「そもそも此様な大戦を予に一言も知らせず勝手にやるとは怪しからぬ。我らが直面して居る摂津表の戦いは天下統一の為の大事な一戦で何よりも先にこれに協力するのが父や兄に対する第一の奉公である。
 それを遠い上方への出陣は難儀じゃから手近な伊賀で手柄を立て、お茶を濁そうと云う魂胆が若気の至りとは云え何とも思慮の足りぬ奴よと無念至極でならぬ。その上に柘植三郎左の如き大切な勇将を討死させ、己だけ醜く逃げ走るとは全く言語道断の振舞。これでは一生親子の縁を切る外はあるまいぞ!」
 と千雷の落ちるように叱責された。その上、完成したばかりの田丸城が、使い込みのばれるのを恐れた金奉行の放火で全焼する、と云う災難続きに、信雄はしょげきって謹慎した。

(13)石山本願寺が、信長に降伏する
 やがて天正八年(一八五〇)三月、頼みとする雑賀衆と毛利水軍が敗れて補給を断たれた石山本願寺側は遂に
「信長の要求に屈して石山を去る事が宗門の生き抜く唯一の道である」
 と決したが、光佐顕如(*1)はそれにしても長島に於ける信長の卑怯な行動から見て天皇の勅命を賜って開城する事が安全と、それ(=勅命)を要請した。
 然し長男の教如は
「石山本願寺は蓮如聖人以来の霊場で十一年間仏敵に一歩も踏ませていない。今になってこれを捨てる事は全国数万の殉教者の死を無駄にする事になり余りにも無念である。
 例え勅旨を賜っても安心は出来ぬ、必ず信長の謀略にかかり取り返しのつかない結果となる事は明らかで絶対に承服出来ませぬ」
 と力説してやまない。
 やがて勅使が到着し、処置に窮した顕如は涙ながらに教如を義絶して弟の淮如光昭を嫡子として石山を去った。
 いっぽう教如はあくまで石山に籠城し続けたが、抗戦派の信徒達は次第に軟化して孤立状態となり、天正八年(一八五〇)八月遂に石山を去る。其際、失火か放火か本願寺が全焼してしまったので怒った信長は厳しくその行方を追求した。
 教如は各地を転々としながら尚も再挙を計ったが、遂に進退に窮し、側近の者達とも別れて只一人乞食坊主のような姿で雑賀に潜入すると、孫市に救いを求めた。
 これより先、顕如夫妻や次男・淮如光昭の一行も孫市に迎えられて紀伊に落ち、鷺ノ森御坊で安らかな日々を過ごしている。顕如から頼られると根が権力に媚びぬ反骨を誇る孫市だけに彼らを雑賀崎の鷹巣洞窟にかくまい追手から守り抜いた。だからこそ今日の東、西本願寺が生れるのである。
 漸く十年がかりで本願寺を降伏させた信長はその責任を家老の佐久間信盛(*2)父子らにありと二十五万石を没収して高野山に追放。多くの家臣が続々と彼を追うのを見て、更にそこも許さず、彼らはやむなく熊野に逃げる。その哀れさを見て人々は信長の非情を憎んだ。

(*1)けんにょ。1543〜1592。本願寺第11世門主。諱は光佐。
(*2)さくま のぶもり。1528〜1582。武将。織田信長の家臣。佐久間氏の当主。出羽介、右衛門尉。子に佐久間信栄、甥に佐久間盛政、佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之。


(14)信長は順慶に指出検地を命じる
 その夏、久しぶりで大和に帰った順慶は信長から
「全土の釣鐘を徴発し鉄砲を作れ」
 との厳命に続いて
「郡山城の他の城はすべてこわせ、すべての田畑を指出検地し報告すべし」
 との命に頭を抱えたようだ。
 けれども「検地、城割り、兵農分離」は信長の基本政策で否応もなく、やがて明智光秀を奉行とする審査が実施される。指出検地とは書類で提出するのだが、若し偽りを書いたのが判ると容赦なく没収、皆殺しと云うので大和一円は大恐慌だった。
 幸いその結果は順調で、順慶とその一門領十六万石、外様大名十三万石、寺社領三石、郷民他四万石、計三十六万石が認められた。
 寺社領については信長からも「特に適正にやれ」との指示があった。興福寺一万五千石、東大寺二千石がそのまま認められたが、高野山領の槇尾寺(*1)は拒否して焼払われた。高野山は天皇に訴えたがどうにもならず、それを知った信長は怒って高野征伐を計画した。大将に信孝、参謀長は堀秀政と云うメンバーで着々と準備が進められていた。
 処が秋に入った頃それを延期したのは
「山また山の高野よりも京から十八里しかない伊賀を先にやるべし」
 と変ったらしい。伊賀にとっては大災難だが、然しそうなるのは当然とも云えよう。
 従ってそれが決った天正八年(一八五〇)秋から翌年夏までが伊賀にとっては最後の講和のチャンスであった。

(*1)施福寺(せふくじ)。「まきおでら」は通称。天台宗。大阪府和泉市。槇尾山の山頂にある。空海の髪の毛を切った場所(愛染堂)やその髪の毛を飾っている祠がある。堂内には愛染明王像を囲んで勤操と空海の像が安置。織田信長に焼かれる前は山岳仏教の一大修行地で、行基も修行を行った。現在の本堂は豊臣秀頼が再建。

(15)信長は、謎の熱病に伊賀攻めを阻まれる
 しかし、それとも知らぬ伊賀の里には昔ながらの長閑な天正九年(一五八一)の初春が訪れる。そして二月に入ると安土では豪勢な大馬揃が光秀の指揮下で挙行され名馬二万頭、将兵見物十余万で賑わった。
 天皇はその豪勢さに舌をまき、式が終ると「左大臣昇進」の勅使を派遣したが、信長は喜ぶ処か、
「かねて提案している皇太子への譲位が実現したら受けましょう。」
 と木で鼻をくくったような態度に朝廷内は大騒動となった。
 それを他人目に信長は「伊賀のなで斬り」を実現する決心を固めた。というのは秘かに大馬揃えを見物した伊賀豪族の福地伊予、耳須弥次郎らが内応を申し出たからだ。それを聞いた彼はニンマリと笑い、四千と算定した「伊賀栗の実が熟れたような」伊賀侍の十倍を越える大兵力で一気に叩きつける短期作戦を練った。
 出陣は五月始めと予定されていたが、信長が城を出ると俄に熱病に襲われ、七転八倒の重態となり、都の名医を招いて診察させても病の正体がよく判らない。
 さすがの信長も気力が衰え、側近の森蘭丸に
「お蘭よ、こんな事を云うのも気が進まぬが、実は伊賀攻めを決めてより毎晩の如く夜叉にも似た翁めが枕元に立ちよって『伊賀攻めを止めよ』と睨みつけくさる。『何をほざく!』と一喝しようとしても凄しい眼光に五体も金縛りになり遂には気を失ってしまう有様で我ながら情けないぞよ」
 と洩らす程となったらしい。
 それを聞いた蘭丸は「こわ只事ならず」と感じて、有名な占師に祈祷させ病魔退散に心を砕いた処、七月になって漸く健康になったので再び安土を出陣した。
 然し半里も進まぬうちに又もや大発熱で失神して安土に引返すと云う始末である。

(16)伊賀一ノ宮敢国神社が封じられる
 困り果てた家臣達は近衛関白に懇請して朝廷の神祇官取締役である吉田家の筆頭を勤める占部朝臣に祈祷を願った結果、正体は伊賀一ノ宮敢国神社(*1)の主神らしい事が判った。
 そこで直ちに神霊の怒りを封じる古代からの秘法を講じる事となり、七月末に勅使となった占部朝臣が伊賀をめざして出発。清浄な白布百反を馬につんだ一行が敢国神社に到着したのは涼秋八月の始めであったと云う。
 驚き迎え出た宮司達を
「畏くも帝の勅命である」
 と、偉丈高に脅しつける。定められた修法通り白布で神殿を幾重にも包み込むと、拝殿の〆縄や神具一式を除き、由緒深き古代勒(*2)を軒端に吊して神威封じの儀式を行った。
 物々しい修法に何も知らぬ神官や氏子総代らは只々恐れ怪しむのみであったのを
「七日の間はいささかも手にふれてはならぬ、もしそれを破れば神罰により忽ち一命を失う事は必定。」
 と脅しつけて都に帰った。占部朝臣は蘭丸を招き
「修法を終えたからもはや心配御無用と思われるが、何とか総大将は余人に命じられるほうが安心であろう」
 とすすめる。
 それを聞いた信長は常々
「己の目で見ぬ限り何物も信じぬ」
 と豪語するのを一変して自ら出馬する計画を中止した。九月始め、信雄に伝家の名刀「藤四郎」の短剣を授けて、総師に任じる旨を内示すると諸将に登城を命じた。

(*1)あへくに。三重県伊賀市一之宮877。御祭神は、大彦命、少彦名命、金山媛命。
(*2)勒は、くつわ。


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