Chap 1    安土の巻

1.1 宇治川城の春秋

(1)織田信長は「天下布武」を決意する
 戦国時代と云うのは、歴史学上では応仁の乱が終った文明十年(一四七八)から始まるが、然し真の激斗は元亀、天正(*1)以後である。織田信長が足利義昭(*2)を擁して上洛し、都の金融資本を握っている四百軒の土倉(*3)の大半が比叡山の還俗僧であり、畿内一円から東海、北陸にはびこる一揆(*4)共が領主に年貢を収めず本願寺に収めている事実に愕然とした。
「このままでは武士は滅び、山門(延暦寺)や本願寺らの宗門国家となってしまう。玉石共に砕く徹底した宗教改革を断行せねば、打ち続く戦乱の世を統一する事はできない。」
 信長がこのように「天下布武」を決意した元亀元年(一五七〇)こそ真の戦国時代の始まりと考えるのが正しいと信じる。

(*1)元亀は1570〜1573の4年間。天正は1573〜1592の20年間。
(*2)室町幕府の第十五代将軍。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。
(*3)鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
(*4)一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味。惣村(*4-1)が支配者等へ要求活動を行うとき、一揆を結成した。
 惣村による一揆を土一揆(つちいっき)という。生活が困窮したためというより、惣村の自治意識が高まったため、主張すべき権利を要求して発生した。
 ほとんど徳政令(*4-2)の発布を要求したが、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆(播磨の国一揆)、不作により年貢の減免を要求する一揆もあった。惣村から見れば、これらは自らの権利を要求する正当な行為だった。
 戦国時代に、戦国大名による一円支配が強化され、惣村の自治的性格が薄まり、土一揆の発生も減少した。
(*4-1)百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)。惣(そう)ともいう。
(*4-2)当時、天皇や将軍の代替わりに、土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んでいた。


【参考】日本の土地制度の変化
(1)中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)まで

 この当時の荘園公領制においては、
@公領領主(郡司、郷司、保司などの資格を持つ)
A公領領主ともしばしば重複する荘官
B一部の有力な名主百姓
 上記の三者が、モザイク状に混在する「名(*4-3)」を管理した。
 百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らは、それぞれの領主や名主(みょうしゅ)に「家人」、「下人」などとして従属していた。
 百姓らの生活・経済活動はモザイク状の「名」を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態はなかった。
(2)鎌倉後期ごろ
 「地頭」が荘園・公領の支配を進めたので、「名」を中心とした生活経済は姿を消し、従来の荘園公領制が変質し始めた。
 百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強めた。まず畿内・近畿周辺で、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する「村落」が形成された。「村落」は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員で形成されたので、「惣村」または「惣」と呼ばれた。
(3)南北朝時代
 全国的な動乱を経て、畿内に発生した「村落」は各地へ拡大。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する「惣荘(そうしょう)」、「惣郷(そうごう)」も形成された。
 惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成され、これを「郷村(ごうそん)」という。
(4)室町時代
 守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加。惣村は自治権確保のため、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人(*4-4)と関係を結ぶ事が多かった。(守護領国制)
 惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れた。これを「地侍(じざむらい)」という。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まった。
(5)戦国時代
 戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていった。最終的には、豊臣秀吉による「兵農分離(刀狩)」と「土地所有確認(太閤検地)」の結果、惣村という結合形態は消滅。江戸時代に続く近世村落が形成していった。
 惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度(*4-5)や分郷(*4-6)下における村の統一維持に大きな役割を果たした。


(*4-3)みょう。名田(みょうでん)。荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位。
(*4-4)こくじん。鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代から室町時代に諸国の開発を推進した武士層。国人領主。「在地領主」の一般的呼称。
(*4-5)年貢諸役を村単位で村全体の責任で納める制度。明治の地租改正で村請制度は解体。
(*4-6)ぶんごう。相給(あいきゅう)とも。近世期における領知(*4-7)の一形態で、一つの村落に複数の領主がいる状態。村(郷)が分割されたために分郷とも言った。
(*4-7)領主が行使した土地に対する支配権や、そこに所属する住民に対する支配権など。


(2)民族の興隆は英雄の出現によって左右される
 歴史上から見ても民族の興隆は英雄の出現によって左右されるのが常である。日本民族が東アジアにその旗色を鮮明にする第一歩が天智、天武天皇の世(七世紀)である。
 それに続くのが安土、桃山(*1)の時代で、
「独創的な発想、強烈な自我と『我は神の子なり』の信念、あくなき猜疑心と征服欲によって民族の独裁者となり、やがては国外に進展する」
 これが世界の常道である。
 例をあげれば、広大な中国大陸を始めて統一した秦の始皇帝。蒙古をその支配下に収め、やがて世界最大の大帝国を樹立したチンギスハーン。等々、枚挙に暇がない。
 そのチンギスハーンの孫であるフビライが黄金の国ジパングを二度に及んで侵攻してきた。しかし元寇の狂涛は神風によって潰滅した。その歴史が日本民族の信念となって神国思想を誕生させ、やがて活力の源泉となり華々しく開花する。
 それを拓いたのが信長であり秀吉に受け継がれた安土・桃山時代なのである。

(*1)安土桃山時代(あづちももやまじだい)1568〜1603。織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代。織豊時代(しょくほうじだい)とも。

(3)後世の基準によって時代を論じる事はできない
 洋の東西を問わず弱肉強食を常とした古代の世界史は後世に生まれた道徳(基準)によって論じる事はできない。「力は正義」なのであり、ギリシャ民族にとってアレキサンダー、ローマ人にとってはシーザー、中国民族には始皇帝、蒙古民族にはチンギスハーン、そして日本民族には信長、秀吉こそ英雄なのである。
 信長は「啼かぬなら 殺してしまえ 時鳥。」の句で知られる。彼の天馬空を駆けるような生涯を顧みて、凄さと五月の薫風のような爽やかさを感じるのは、文武両道を常とし平和ボケしていなかった昔を憧れる国民性であろう。

(4)明智光秀は近江坂本城六万石の領主となる
 さて、時は元亀三年(一五七三)の春。一山焼土と化した比叡、比良のここかしこに山桜が綻び始める頃。つゝ井筒の井戸家中興の祖・若狭守良弘が、近江坂本城六万石の領主となった光秀の招きで、城の完工祝いに参じた。焼土の上に聳える三層の天守を仰いでその威容に打たれ、唐崎に松を植えて緑を増し、

D我ならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 滋賀の浦風。

 と詠じて、善政に努める光秀を見て心から羨望にたえなかった。
 その三月、松永弾正が再び反旗を翻した。義昭や信玄(*1)と計って信長打倒に参じたものの忽ち攻め立てられて窮地に落ち、幼児二人を人質に自慢の多聞櫓で知られた西洋風の多聞城を献上して降伏する。

(*1)武田信玄(たけだ しんげん)。本名は武田晴信(たけだ はるのぶ)。1521〜1573。余りに有名な戦国武将。甲斐の守護大名・戦国大名。対立した越後の上杉謙信と川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定。上洛の途上、病没。『甲陽軍鑑』により「風林火山の軍旗、甲斐の虎、上杉謙信の好敵手」のイメージが形成。

(5)武田信玄が三方原で徳川家康を破る
 信玄が漸く上洛の大軍を遠州に進め家康を三方原(みかたがはら)で完敗させたのがその年(一五七三)の暮である。信長の命により援軍に参じた良弘と島左近ら勇将も武田騎馬軍団の重厚無敵ぶりを見て「手も足も出なかった」らしい。
 惜しくも信玄は上洛途上で病没するのだが、武田家はその喪を秘めた。

(6)足利幕府は幕を閉じる
 信玄の死に気づかぬ義昭は相も変らず策謀を続けたから元亀四年(一五七四)正月、信長は十七条の将軍を非難の絶縁状を叩きつけた。七月、義昭は四千近い奉公衆に護られて二条御所を出ると宇治槇島城(*1)に入り信長打倒の御教書を発して諸将を招いた。
 けれど頼りにした信玄は既に世に亡く、本願寺も浅井、朝倉も動かない。家臣の細川も明智も信長方に参じて攻撃軍に加わる有様で、五万の大軍に囲まれてはどうにもならず、幼子を人質にして降伏した。
 信長は義昭を殺すつもりであったが、光秀と秀吉が「それでは将軍殺逆の汚名をかぶる」と説得して河内若江の三好義継の城に追った。元の坊主に変り、昌山道休と改めた義昭は孤影悄然と槇島城を落ち、二百年の足利幕府はここに幕を閉じた。それに殉じるように八月には朝倉、浅井が滅亡した。

(*1)槙島城は重要拠点だったが、現在は城跡の石碑だけが宇治市槙島にある。


(7)信長は、朝倉、浅井、長島一揆を滅ぼす
 将軍を追放した信長は天皇に迫って天正、「正しく清らかな者が天下の支配者となる」と云う意味を持つ年号に改めさせ将軍職就任を要請したが、「先例なし」と朝廷はこれを認めず、天正二年(一五七四)三月、信長を従三位参議に昇任させただけであった。
 信長は不満に耐えず、正倉院の名香、蘭奢待(らんじゃたい)を切り取る特権を強引に勅許させ、天下にその覇者ぶりを誇示したのは不逞としか云い様がない。彼は近世を拓いた天才児であり、その比類なき創造性や数々の革命的政策は秀吉、家康らの遠く及ばぬ存在であった。
 光秀や良弘は、生来が詩人肌で名利に淡白な文武両道の武人である。それだけに、信長が朝廷や神仏さえ恐れぬ稀代の独裁者である事を知ると、内心その信条に対して秀吉のように盲従できぬのは当然だったろう。
 然し覇者としての信長の武運は強く、朝倉、浅井、長島一揆と次々に壊滅させた。天正三年(一五七五)には長篠で孫市仕込みの三段式銃火網より武田騎馬軍団を全滅して凱歌を轟かせた。

(8)明智光秀は石山本願寺を破れず、信長に助けを求める
次には光秀を大将とする丹波征討軍を編成して進攻した。順慶、良弘もその組下となって出陣すると数々の手柄を立て、年末には久しぶりに帰国。
 天正四年(一五七六)の正月、順慶は大和守護として宇治槇島城に在った元幕臣・原田直政を招いて春日神社で観世、金剛、金春の三座の薪能を催した。良弘も信長に許されて列席すると、子飼とも云うべき結崎の糸井神社の観世一座の人々ともなごやかな一時を過している。
 大和生れの彼らにとって何より念願とするのは崇徳天皇の世から始まった秋の若宮おん祭(*1)の流鏑馬や万民豊楽の祭典が大仏焼亡以来、中絶されたままになっているのを再現する事だった。
 然し毛利を頼った義昭の策動によって、四月に入るや雑賀軍団が続々と鉄壁の守りを誇る石山本願寺に入った。これを知った信長は明智軍団に出動を命じる。
 原田に率いられた順慶勢は木津を猛攻したが、狙撃されて原田は討死、順慶は辛うじて天王寺に敗走する。勢いに乗じた石山勢の追撃にさすがの光秀も
「急ぎ援軍を賜わねば全滅しかなし」
 と訴えた。

(*1)春日若宮おん祭。春日大社の摂社である若宮神社のお祭り。平安時代の保延二年(1136年)に関白藤原忠通が五穀豊穣、万民安楽を祈願したのが始まり。大和一国を挙げて盛大に執り行われる。

(9)信長は順慶に大和守護を約束する
 それを知った信長は自ら百騎足らずの親衛隊を率いて駈けつけた。銃弾に傷つきながら物ともせず若江城(*1)を落すと順慶を呼ぶ。
「成功すればそちを大和の守護に取立てよう。根こそぎ動員して何とでもして切抜けよ」
 こう命じたから彼も
「これぞ一期一会の瀬戸際、十五から六十までの男はすべて出陣せい」
 と厳命して必死に動員にかり立てる。
 然し寺々からは
「仏門の身で戦場には行けぬ。不眠不休で戦勝祈願の読経に励むから」
 と泣きつかれて困り果てた。窮情を見た良弘は一族悉くを投じ、二千近い兵力で天王寺に馳せつける。玉砕覚悟で敵の側背を突き、遂に敵を本願寺内に押返したので、その力戦を見た信長は大いに喜んだ。

(*1)大阪府東大阪市若江南町2-9-2若江公民分館。現在は城跡の石碑だけがある。

(10)信長は安土城を築く
 かくて天正四年(一五七六)早春、安土に壮大な七層の天守閣を持つ巨城が完成する。
 ここで日本の城について眺めて見よう。楠木正成の千早城は別として戦国時代に入っても城の築城技術はさして進まず、かき上げ土壁に根小屋と呼ばれる櫓程度の木造家屋でしかなかった。しかし元亀元年(一五五八)平尾山姫丸城の三階櫓を見た松永弾正が奈良の多聞城や信貴山城に始めて天守閣を作って将兵を驚かせた。
 天正三年(一五七二)、信長は松永から多聞城を取り上げて詳しくその内容を調べると当時、築城の名人とも云われた明智光秀に設計させ、丹羽長秀の指揮下に超突貫工事で出現させたのが安土城(*1)である。
 鉄砲攻撃から守る総石垣は近江の穴太衆(*2)の野面積(*3)技術を採用した。大天守閣は、中国大陸から伝わる寺院建築や南蛮風を思い切って取り入れた豪華絢爛たる建物である。外人宣教師(*4)さえも「ヨーロッパに例を見ぬ素晴らしい芸術的な城!」と驚嘆した。
 その宣教師によると、一階の石蔵の上に五層七階の設計で、最上部は内外装や瓦もすべて金箔。柱は黒漆で、屋根に金の冠を取付け、朝日夕日にさんぜんと輝いて見えた。六階は八角形で内装は金。外柱は朱塗で、縁側には鯱や龍虎が画かれていたと云う。五十m近い高さの威容を誇る様を見た秀吉や家康は、やがてこれを手本に、より巨大な城を築き上げる時代が到来する。

(*1)城跡は滋賀県安土町。ハ見寺(臨済宗)の私有地。2006/9/1より見学料大人500円、小中学生100円。開山時間9:00、最終受付16:00。近くに「信長の館」「安土城考古博物館」がある。
(*2)あのうしゅう。織豊時代に活躍。寺院や城郭などの石垣施工を行った土木技術者集団。滋賀県大津市坂本穴太町(*2-1)出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。安土城の石垣を施工したことで、信長や秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わる。江戸時代初頭にかけて多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られ、彼らは全国の藩に召し抱えられたという。
 現在でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊」とよばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ町並みに特徴を与えている。
(*2-1)穴太の里。比叡山の山麓の坂本の近郊。坂本は延暦寺と日吉大社の門前町。
(*3)のづらづみ。石垣の積み方。ほかに、「打込みハギ」「切込みハギ」「算木積み(さんぎづみ)」「布積(ぬのづみ)」等、多数ある。
(*4)ルイス・フロイス。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。


(11)筒井順慶は大和守護に、井戸良弘は槇島城主になる
 正しく城の黄金時代の幕をきって落した安土城により「天下布武」の道に大きく一歩を進めた信長は、明智光秀の進言で筒井順慶を大和守護に良弘を槇島城主に任じる。
 松永弾正によって長く苦しめられていた順慶は今や大和四十万石の領主となった。同じく平尾姫丸城で苦斗した良弘は、足利義昭と家臣の槇島が籠城し、大和守護の原田が住んでいた宇治槇島二万石を与えられた。良弘は城を宇治川城と改めて我世の春を迎える。
 宇治と云えば昔から京への東の関門として知られた要地で、当時は茶の本場で有名となっていた。茶は鎌倉時代の禅僧栄西(*1)から種を貰った高山寺の明恵(*2)が新しく育て上げた栂尾茶を宇治万福寺に移植して生れた名茶で、室町以後は最高とされていた。
 永祿八年(一五六五)に松永弾正が千ノ利休を招き、宇治橋の中流に設けた三の間から汲み上げた名水で催した茶会が有名である。足利幕府は製茶業者を保護下に入れて生産に力を入れていた。
 信長の世になると森、上村氏を茶頭取として召抱え数百人の職人を使って増産して居る。その地の領主には茶道にも詳しい文武両道の武将が必要で、その点から見て信長が良弘を選んだのは人を見る明があったと云える。
 良弘は、結崎糸井神社の楽頭職(*3)だった観世一族から幽玄能「井筒」にちなんで贈られた高麗焼の逸品“つゝ井筒”を持っていた。利休の一ノ弟子である山上宗二(*4)がそれを見て「井戸茶碗」と賛え、忽ち茶人の間に大評判となったのも此頃であろう。
 更には新領主となった良弘が昔、大和古市ではやった夏風呂と斗茶(*5)を組合せた「淋間茶湯(*6)」の遊びを取入れたのが流行して一段と景気を高めたようだ。

(*1)えいさい。ようさい。1141〜1215。臨済宗の開祖。建仁寺の開山。喫茶の習慣を日本に伝えた。
(*2)Chap 3南北朝の巻3.1 元弘の乱を参照。
(*3)猿楽演能の権利
(*4)やまのうえのそうじ。1544〜1590。堺の豪商で茶人。茶匠として豊臣秀吉に仕えていたが、天正12年に持ち前の口の悪さから秀吉の怒りを買い、浪人。前田利家に仕えるが、同14年に再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れる。その後、小田原の北条氏に仕えた。同18年の秀吉の小田原攻めの際には、利休を介して秀吉と面会。またも秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれて打ち首。享年46。
(*5)とうちゃ。闘茶とも。種々の茶を点てて、多数の人に供し、その産地や種類などを当てる茶技。足利義満の頃盛んになり、茶かぶき後、茶道に発展するようになったといわれる。
(*6)風呂をともなった茶寄合


(12)信長は「鉄甲船」を造り、足利義昭は再挙に懸命となる
 そんな中にも暑い夏が訪れる。
 変らず織田軍の本願寺攻めが続いていたが、孫市の鉄砲隊に多数の将士を失ったばかりでなく、石山に兵糧を輸送して来た毛利水軍を襲撃した織田水軍が新兵器「ほうろく弾」に大敗した。続々と武器や食料が城内に届き、本願寺宗徒の志気は大いに挙った。
 信長は下手をするとこちらが総崩れになりかねぬ、と戦況を見た。彼は率先陣頭に立って督戦しながら、毛利水軍を壊滅させる為に「船体を鉄装し大砲を装備した大艦隊を編成する」と云う新戦法を思いつき、九鬼嘉隆(*1)に建造を命じた。その天才的着想に舌をまいた嘉隆は直ちに鳥羽に帰り、突貫作業で七隻の大安宅船(*2)の建造に懸命となる。
 天正四年(一五七三)の秋、井戸良弘が槇島城主として領民の信頼を集め、宇治の町が秋祭りで賑わっていた頃。義昭は槇島昭光ら旧臣と共に河内若江から紀伊由良の興円寺などを転々とさすらい再挙に懸命となっていた。やがて毛利を頼って備後の靹に邸を貰い、ここを根拠に上杉・武田らに京都進撃を説き、更に伊勢三瀬谷に隠居している北畠具教(*3)に密使を派し
「伊勢熊野の豪族達を糾合して信長打倒の兵を挙げ、毛利、武田と共同作戦を展開せよ」
 との御教書をもたらした。具教は腹心の老臣と密謀の末、堀内氏善(*4)に
「伊賀忍者共と赤羽の奥村勢に協力させる故、期を失せず貴下の総力を挙げて長島を攻め取れ、成功すれは長島領はすべてそなたに与えよう」
 との密書を送った。

(*1)くきよしたか。戦国武将・大名。九鬼水軍を率いた。九鬼氏の第8代当主。志摩の国人の一員として身を起こし、信長・秀吉のお抱え水軍として活躍。3万5000石の禄を得た。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害。
(*2)おおあたけぶね。軍船。安宅船の大型のものを大安宅と呼ぶ。有名な信長の「鉄甲船」は毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐため、当時、世界的にみても珍しい鉄張りだった。大砲と大鉄砲で装備され大阪湾で毛利氏や雑賀衆の水軍と戦った。
(*3)きたばたけ とものり。伊勢国司である北畠家の第8代当主。1528〜1576。伊勢安濃郡を支配していた長野氏と戦い、具教の次男・長野具藤を長野氏の養嗣子として勢力拡大。信長の侵攻を受け、降伏。信長の次男・信雄を養嗣子として迎え入れた。出家して三瀬谷(多気郡大台町)に隠居したが、殺害される。享年49。
(*4)ほりのうちうじよし。1549〜1615。 熊野別当。 安房守。


(13)信長、北畠具教の謀殺を命じる
 北畠具教の密書を見て勇み立った堀内氏善は諸将を集めると、快速船団を飛ばせて長島城を包囲し、二千の総力で猛攻した。
 城主の加藤甚五郎は必死の抗戦を見せたが、十月末の嵐の夜、伊賀忍者隊が城に潜入して放火した。その炎を見て大手口の堀内勢に呼応し、峯づたいの搦手から赤羽勢千五百が一斉に攻め下ったから戦局は一変した。城と運命を共にする覚悟を決めた加藤は城内の「容膝亭」と呼ばれる小亭に火をさけ、僅かな腹心達と別れの盃をくみ交し自刃して果てた。
 首尾よく長島を落し、その城主に奥村新之丞を任じた氏善は錦浦一帯までを支配下に入れ、具教に数々の貢を献じて新宮に帰った。しかし、それから僅か一カ月後、武田勝頼に送った具教の密書を手に入れた信長は激怒して、信雄に具教の謀殺を命じた。
 天正四年(一五七三)十一月末、具教やその一族重臣二十余人が信雄についた近臣達によって騙し討たれ、剣の名手で知られた具教も死闘の末に無惨な最後をとげる。
 それを知った北畠家中は大騒動となった。翌年(一五七四)正月には奈良興福寺東門院主だった具教の末弟が還俗して北畠具親と称し、家の再興に決起した。伊賀の吉原将監らに助けられて伊勢に進攻する。
 北畠一万余の家臣群は重代の主家に殉じて義を貫かんとする忠臣や、信雄について一旗あげんと野望を燃やす連中で内乱状態となった。具親勢は多気霧山城を始め、各地で奮闘を重ねつつも、大勢利なく、最後に残された川股谷の森城が落ちるや、義に固い伊賀豪族の尽力で伊賀神戸の我山(*1)に館を築き、北畠再興に努めた。しかし、これが信長の怒りを買い伊賀の大乱を招く導火線となるのである。

(*1)我山城は三重県伊賀市上神戸字我山。最寄り駅は近鉄伊賀神戸駅。ほかに、三重県名張市奈垣に伊賀北畠具親城跡などがある。


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