Chap 4  室町の巻

4.4 辰市城の快勝

(1)信長が筒井順慶を味方にする
 元亀二年(一五七一)春、天下布武をめざす信長が伊勢長島の一向勢に苦戦していた頃、大和では姫丸城を奪回した井戸良弘が仇敵・松永久秀に対抗して本貫地(*1)の一つでもある九条辰市の倭文神社(*2)一円に堅固な砦を築き始める。
 折しも将軍義昭は元の興福寺一乗院門跡の縁から春日大社官符衆徒頭梁の筒井順慶に九条家の姫を嫁がせ己が傘下に加えんと秘そかに話を進め、それを知った明智光秀は直ちに岐阜に急報。
 信長はそれを知って
「『毒になる奴は薬になろう』と大姦物の弾正めを臣下に加えたのが将軍は気に容らんようじゃ。よし先手を打って筒井一族を大和鎮圧の筆頭に活用しよう。即座に手配せい」
 と命じた。
 姫丸城での良弘の奮戦ぶりを聞いていた光秀も「それが正論」と仲介に奔走した。信長の京都管領とも云うべき智将光秀の人柄に惚れ込んだ良弘が順慶にすすめ、話はトントン拍子で約定を交したのは五月始めだったと云う。
 そして、五月半ば窪津城(*3)に攻めかかった松永勢を敗走させた良弘は急ぎ辰市の倭文神社や神宮寺の僧兵、神官總代らを説得して本格的な築城工事に入り、突貫工事で終えた六月末、櫟本の松永方の付城を攻めて凱歌をあげる。

(*1)律令制で、戸籍に記載された土地。転じて、本籍地。出身地。
(*2)Chap 1上代の巻1.4 開祖・右衛門忠文(うえもんただふみ)を参照。
(*3)不明


(2)井戸良弘が松永弾正に勝つ〜辰市城の戦い〜
 それを知った多聞城の松永久通(久秀の子)は大いに怒り、信長との密約も知らず父の久秀に援軍を乞い辰市攻略を計画。久秀も一軍を率いて出撃し、八月四日總攻撃と決した。
 松永軍の總兵力は三千と云われ、それに対する辰市城の良弘勢には勇将で知られた島左近、松倉右近ら千余の他に、秘そかに郡山城を取戻さんと虎視眈々の順慶主力を併せると二千に近かったろう。
 八月四日の戦いは大和最大の合戦と云われ、両軍は開戦に先立ち鬨の声を三度繰返すと一斉に弓鉄砲を乱射し、その声は天地をゆるがせた。
 緒戦は松永勢の案内に立った豊田中ノ坊とベテラン戦略家で知られた松永の作戦の巧みさによって優勢に進められ、堀には忽ち橋が架けられる。
 城塀は引倒され多勢を頼みとする寄手は三の丸、二の丸に攻めこみ五千近い両軍の激斗が半日近くも続いた。
 夏の日が西に傾いた頃、突如として思いも寄らぬ森陰から出現した筒井勢が松永軍の背後を突いたのが決定打となり、戦局は急転して松永勢の勇将河奈辺伊豆、松岡左近を始め松永孫四郎、久三郎の一門までが次々に討死し戦局は一転した。
 歴戦の弾正も為す術なく武器弾薬から兵糧一切を放棄して壊走。筒井本城を守る味方も見殺しにして命からがら信貴山城に逃げ走ったと云われ、その損害は死者五百、傷者は千を越えその中には剣の名手・柳生石舟斉の嫡男・厳勝も交って居り彼は不具者となって生涯を柳生谷に籠って終える事になる。

(3)信長が井戸良弘を部下にする
 井戸勢の大勝を喜んだ光秀は信長に上覧を乞い、八月七日には兜首二百五十余をひっさげた良弘らが信長の検分を賜った。
 其際信長はひどく上機嫌で色々と良弘の身の上を尋ね、生れが天文三年と知って
「ホウそなたも余と同じ午か」
 と傍に控える午年の細川藤孝に
「午が三頭そろたとはめでたいぞ!」
 笑いかけると、すかさず藤孝が
「同じ馬とは申せ、殿は金覆輪の鞍置いたる名馬、それに比べて若狭殿はちと荒駒、身共などはさしずめ荷駄馬のたぐいかと存じ候。」
 と軽口を飛ばし一同大笑いになったと伝えられる。
 それを知って腹を立てたのは信貴山の弾正で
「己れ信長め今に思い知れ!」
 と洩らしたのは「大和一国切り取り勝手」の約束を袖にされたからであろう。
 これが縁となり良弘の爽やかな男振りが気に入った信長は光秀を呼んで
「春日坊主の順慶には過ぎた男じゃ余に仕えさせい」
 と命じ、猜疑心の強い彼だけに順慶の母・大方局ら人質の世話役と云う名儀で話をつけさせたのは吝ん坊の信長らしく仲に入った光秀も頭を悩ませたに違いない。

(4)井戸良弘は明智光秀の丹波平定に参加する
 良弘が住み馴れた結崎井戸の里や石ノ上姫丸城を順慶に託し、辰市城は嫡男・覚弘に譲り、後見を井上(戸)十郎とし、岐阜に出発したのは元亀三年の春で良弘は三十九歳の男盛りであった。
 妻や若い次男三男を伴い、主席家老・中村刀祢(*1)以下「生死は共に」と望む将兵二百余を率いて始めて岐阜城下に入り、到着のあいさつに参上すると喜んだ信長は当座の糧として山城国久世郡(*2)一万石を与えたと云う。
 光秀や藤孝の初任給に比べると二倍と云う破格の待遇で如何に信長が期待したかが判るが、清廉で物欲も爽やかな良弘は内心「これも光秀殿の取りなし」とその好意に感謝したに違いない。
 やがて望み通り光秀の与力となり困苦に満ちた丹波平定の軍旅が始まる。「天下布武」の礎石としての使命感に燃えた良弘の文武両道に秀でた働きは、尾張の田舎育ちの武将に比べ抜群のものがあったらしい。
 光秀の信頼も深く、「天下平定の暁にはきっと一国の主に推挙致す」と約束された程で前途は正に洋々たるものがあったようだ。

(*1)井戸家の重臣
(*2)現在の京都府宇治市(宇治、槇島等)


(5)九条辰市城を訪ねて〜倭文神社〜

 昭和六十年の三月、天理市の石上で良弘公の献じた仏像に接した後、奈良市九条の辰市城跡を訪れたのは昭和六十年の四月末だった。還暦を迎えた風薫る日で、日記には次のように記している。
 郡山駅から佐保川に沿って北上するとやがて道端に羅城門(*1)跡の碑石が立っている。改めて平城京の広大さに驚きながら国道を横切ると赤い鳥居が見える。近づいて始めて辰市神社(*2)と判り、その隣が開祖の一人である時風神社(*3)だった。
 元は伊勢神宮領であったのを時風が手に入れ、辰の日に市を開いたので辰市神社と呼ばれたらしい。時風神社は彼を旧姓の「中臣連」としているのは不思議(*4)だが、きっと色々な歴史が秘められているに違いない。
 考えながら行くと、右手に楠の古木にかこまれた大きな神社と、神宮寺だったらしい建物が鎮座されている。鳥の音と薫風が楠の若葉をゆるがして爽やかに流れる大鳥居の傍に墨色も鮮やかに「倭文神社(*5)」と記されている。由緒書には「神護景雲三年(七六八)時風が武羽鎚、経津主、応神天皇の三神を奉じてこの地に創建したと云う。
 神国大和の守護神である春日大社の武神(経津主)を織物神(武羽鎚)に奉じたのは何故だろうと不審に思いながら広々とした楠の巨樹の下のベンチで一服つける。
「女王日御子(ひみこ)が魏王に斑布二匹二丈を献じたのが西暦二三九年で、時風が神社を創建したのがそれから五百年後になる。日本の織物技術は決して浅い歴史ではなく縄文時代から始まると云えるかな(*6)」
 と自信が満ちてさあ次は辰市城跡だ。と腰を上げて広い境内を一巡して
「平城宮南面の鎮護に創建された神社だけに主神は倭文大神であっても配神は武神であるのは当然であり、まして後世の動乱時代には防衛の拠点となり、大和第一の大戦に彼の武名を轟かす日がやってくるのは不思議ではない。良弘公はついていたなあ」
 と感じられた。

(*1)らじょうもん。平城京や平安京といった条坊都市の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門。
(*2)たついちじんじゃ。奈良県奈良市杏町64。祭神…武甕槌命(*2-1)、經津主命(*2-2)。辰市神社は杏町東西集落の中央、時風神社の向いに鎮座する。もと神宮神社(こうのみや・鴻の宮)と称した。祭神は春日大社神で「常陸国鹿島明神」と「下総国香取明神」のニ座。鎮座地は春日大社社家中臣氏の采地で、その末裔・辰市家の居館地であった。
 神護景雲二年(七六八)春日大神が御蓋山に遷座された。後に侍従の社司・中臣時風(なかとみのときふう)、中臣秀行(なかとみのひでつら)がその住居を神託によって西南の方へ神木を投じその落ちる所とした。それが辰市郷中この地に落ちたので、このあたりに居住し、春日の神木を崇敬し、中臣時風らが奉祭したのが、この神宮社すなわち今の辰市神社である。
 天正年間(1573-70)筒井順慶が松永久秀との戦いで、その戦火のため南門拝殿神楽所移殿ことごとく、焼滅。その後、慶長の乱などがあって神楽もほとんど中絶。享和二年(1802)から神事は再興され、明治・大正にかけて社殿や境内は復興された。例祭は十月十日。
(*2-1)タケミカヅチノミコト。「神産み」においてイザナギがカグツチの首を切り落とした際、「天之尾羽張(あめのおはばり)」という剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた。葦原中国(あしはらのなかつくに。出雲地方。諸説あり)平定において、アメノトリフネとともに敵を制圧。タケミナカタとの戦いは相撲の起源とされる。
 また「神武東征」において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下(タカクラジ。物部氏の祖神である饒速日命の子)に自身の分身である佐士布都神(*2-2)という剣を与えた。
 名前の「ミカヅチ」は雷のこと。雷神は剣の神でもある。別名のフツ神は本来は別の神。フツヌシは香取神宮で祀られている神。
 元々は鹿島の土着神で、海上交通の神。ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることに。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。
(*2-2)さじふつのかみ。ふつぬしのみこと。「ふつ」は物を断ち切る音を表す。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣。剣の霊力が軍勢を毒気から覚醒させ、戦争に勝利。荒ぶる神を退けるちからを持つ。
 物部氏によって石上神宮に移され、御神体となる。鹿島神宮にも布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝指定で、鹿島神宮の宝物館にて展示。
(*3)ときふうじんじゃ。奈良県奈良市西九条町414。杏町の辰市神社の道をへだてて、すぐ南にある。祭神は御蓋山(*3-1)に鹿嶋の神を遷してきた中臣時風・中臣秀行の霊をまつる神社である。時風は辰市家の祖、秀行は大東家の祖といわれる。例祭は十月十日。
(*3-1)みかさやま。春日山は御蓋山と書いて「みかさやま」の別名がある。奈良公園の東端の若草山(わかくさやま)も山が三つ折り重なっているため三笠山(みかさやま、みかさのやま)とも呼ばれ、両者はよく混同される。
(*4)「天御中主尊−略−国摩大鹿島命−1.大楯命、2.相鹿津臣命、3.巨狭山命」の系譜がある。時風は「1.大楯命」の系統で、鹿島大宮司家/春日社司家へ連なる。藤原氏の開祖・鎌足は「3.巨狭山命」の系統。だから時風は中臣姓。
(*5)Chap 1上代の巻1.4 開祖・右衛門忠文(うえもんただふみ)を参照。
(*6)「弥生時代から」の誤記か。


(6)九条辰市城を訪ねて〜辰市城跡〜
 今は奈良市となったが昔は辰市町だったと云う。素朴な家々や露地裏をあちこちと辰市城跡を求めて歩くうちに新装のお寺があり山門に「井戸寺」の額が揚っている。驚いて住職に会い、歴史を尋ねると
「本尊は、観世音菩薩、不動明王、弘法大師であるが、詳しいことは判らない」
 という。
 それでも糸井神社の神宮寺(*1)が観世音寺であり、井戸氏が代々「弘」の字を尊ぶ由来はここらにある。
「この寺は辰市合戦の殉難者供養の為に良弘が寄進したに違いない」
 とピーンときた。
「それにしても我家の性と同じ寺が大和になろうとはなあ」
 と今更の如く胸打たれる想いで歩くうちに幼稚園があった。ここが城跡だが石垣一つ残ってない。
 近くに大きな池があり土手の若草がやさしく招く。草をしとねにスケッチブックを開いて眺めれば、東方には高円山や春日三笠山が紫色に連なって正しく山河襟帯をなしている。合戦当時は、多聞城の天守閣も弾正(松永秀久)本陣の大安寺(*2)も望めたろう。
 辰市城は平城で要害堅固とは云えない上に四周は平野だから、敵は大軍を頼みに力攻めにかかった。そこを背後から襲われては手の打ちようもなく、さすがの松永弾正も恥も外聞もなく三十六計を決めねば全滅したに違いない。
 平野のあちこちに水面をきらめかせた上池、東九条池、大永池等も頼もしい味方となったようだ。

(*1)神社に付属して建てられた寺。神仏習合の結果生じたもので、社僧(別当)が、神前読経など神社の祭祀を仏式で行った。明治の神仏分離令で分立または廃絶。神供寺。宮寺。別当寺。神護寺。
(*2)奈良市大安寺2−18−1。高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つに数えられ、奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。南都七大寺は、興福寺(奈良市)、東大寺(奈良市)、西大寺(奈良市)、薬師寺(奈良市)、元興寺(奈良市)、大安寺(奈良市)、法隆寺(生駒郡斑鳩町)。


(7)九条辰市城を訪ねて〜辰市城跡2〜
 それにしても勝利に驕らず両軍七、八百に達したと思われる死者の供養にと一寺を建立した良弘公の人間愛がこよなく嬉しく誇らしい。
 折からの薫風にわく水面にクッキリと
「四百年後にあの日の大捷(*1)を祝ってやって来る子孫があろうとわのう」
 と破顔一笑する公の姿が浮かぶようだ。四辺はたたなずむ青垣が連なり時はまさに春過ぎて夏来るらし五月である。折りしも日は傾き三笠山の上に白い月が浮かんで

“菜の花や 月は東に 日は西に”

の句の通りの風情を呈し、私は薫風の中で黄昏に夕月が光るまでこのまま居ようと思った。
「何はともあれ、満六十歳を祝うか」
 と、さっき村の酒屋で仕入れてきたオーシャン宇井寿毛(ウィスキー)を取り出した。

(昭和六十年の四月の日記より)

 読み返すと幾つになっても童心を忘れず旅と酒を愛する「自称大正ロマンチスト」ぶりである。
 平成八年の初秋、中村方保氏(*2)に案内されて、再び井戸寺を訪ねた。
「早いものだ。あれからもう十余年の歳月が流れて古稀もとっくに過ぎたわ……」
 そう笑いながら新装の倭文神社に詣で、井戸寺に廻った。
 蛇足であるが、四国八十八寺の中で徳島市に十七番井戸寺があり、弘法大師が発掘された伝説から「水大師」と呼ばれ、境内には「面影の井戸」も残されている。本尊が薬師如来であり、訪れた天理市櫟本の井戸寺の本尊も同じく薬師如来である。しかし、その末寺と云う訳ではない。
 おそらく良弘公は、良水の沸く地に建立したのでそう名づけたものであろう。

(*1)たいしょう。大きな差をつけて勝つこと。大勝利。
(*2)筆頭家老の中村氏の養子となった、良弘の末子の血をひく方。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。


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