Chap 4  室町の巻

4.3 石上姫丸城

(1)鉄砲渡来し、翌年には根来寺が国産する
 天文十年(一五四一)武田信虎が子の晴信に追われて今川義元の邸にかくまわれた話が乱世のビッグニュースとして大和一円の噂話として流れた頃、井戸家では嫡男の小殿助が若狭守良弘と改めた早々に若死した。
 筒井家では順興に代って十二歳の順昭が当主となったばかりだけに、後見職となっていた覚弘は辰市城で慌しい日々を送っていたが、やむなく次男・才助を嫡子に改め筒井本城に預ける。
 七才になった少年は、以後は順照の娘達に囲まれて家族同様に温かく育てられた。当主の順昭が若く思いやりの深い人間であったからだろう。
 才助が元服して兄の良弘の名を継いだのは天文十二年(一五四三)種が島に鉄砲が渡来した年である。
 ポルトガル人のもたらしたこの新兵器の射程は六十m程度とは云え従来の弓矢に比べて格段の威力だ。大金を投じそれを買った根来寺の杉ノ坊(*1)は早速国産品の製造にかかり、翌年には早くも第一号を作り上げた。
 それを知った雑賀党や堺衆でも我遅れじと競い合い、忽ちのうちに続々と生産されて各地に出廻った。当時の日本人の優秀性に白人達は舌をまいている。
 五年後の天文十七年(一五四八)、「尾張のうつけ者」で知られた織田信長が美濃の斉藤道三の娘を妻にしているが、初対面の際に信長は数百丁の鉄砲隊を率いていたと云う。

(*1)根来寺(*1-1)の杉の坊算長(かずなが)は種子島に渡り、鉄砲と火薬の製法を習い、同じ物を根来坂本に住む堺の鍛冶師・芝辻清右衛門に製作させた(本州最初の鉄砲)。鉄砲の国産化と量産化に成功した算長は、根来鉄砲隊を創設。砲術を工夫しその精鋭度を高めた(津田流砲術の始祖)。
 算長は、津田監物(つだけんもつ)ともいい、楠木正儀の三男で河内の国・交野郡津田(現大阪府枚方市津田)の城主、津田周防守正信の六代の孫と伝えられる。
(*1-1)ねごろでら。正しくは大伝法院。大法五年(一一三〇)新義真言宗の宗祖・覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院密厳院を創建。高野宗徒との対立が続き、正応元年(一二八八)、根来の地に移転。室町時代末期の最盛期、坊舎二千七百余、寺領七十二万石、根来衆と呼ばれる僧兵一万余を擁する一大軍事集団だった。織田信長、豊臣秀吉に抵抗し、天正十三年(一五八五)秀吉の討伐により焦土化。江戸時代より復興。新義真言宗の総本山として、八百五十年あまりの法灯を護り継いでいる。


(2)織田信長、筒井順慶、井戸良弘らの父、死す
 天性、武将としての器量に恵まれていた筒井順照は、覚弘らの尽力によって着々と勢力を拡大した。
 天文十三年(一五四四)には二十歳の若き主将として六千の大軍を指揮して古市城を落し、続いて兵法者で聞こえた柳生宗厳の柳生城を三日で攻略して国中に武名を轟かせた。
 天文十五年(一五四六)、順昭が一万と号する大軍で宿敵・越智氏の籠る高取城を落して大和一連を支配下に収めた。やがて嫡男・藤勝(後の順慶)が誕生する。
 天文二十年(一五五一)、順昭は病に侵された。再起不能と知るや娘婿の福住、箸尾らを枕辺に集めて嫡男・藤勝への忠誠を誓わせたが、其際末娘の婿として幼馴染の才助を選んだ。
 順昭はかねて虎視眈々と大和を狙っている三好、松永らに備える為にも、彼と良く似た風貌の盲目僧・黙阿弥を招いて死後一年間は病床に臥させて喪を秘めさせた。
 その死が発表されたのは天文二十一年(一五五二)で、将軍・足利義勝が三好長慶と和睦し、近江から京に帰った年である。
 筒井家の当主は僅か四才の藤勝で、家老職には島と松倉、一門としては福住、箸尾ら。若い井戸良弘も若狭守に任官して将来を期待されていた。
 折しも尾張の織田信秀が没し、良弘と同じ歳で「大うつけ」と仇名された信長が当主の座についたが、その奇妙な行動から到底長く家督を守れまいと見られていたらしい。
 良弘が井戸家の当主に就いたのは天文二十二年(一五五三)で老父・覚弘が没し、供養の為にと、彼は阿弥陀如来石像を菩提寺・花園寺(*1)に寄進してその冥福を祈っている。
 石上平尾山に新城を築いて守りを固めると、幼馴染の新妻とここに移住し、弘治元年(一五五五)には長男も誕生する。
 夫婦仲も至ってむつましく、人々は良弘を石ノ上殿とか「つつ井筒殿」と呼んで羨んだらしい。

(*1)けおんじ。奈良県天理市石上町67。浄土宗。

(3)織田信長は今川義元を破り、井戸良弘は松永久秀を破る。
 三好長慶に仕えた松永久秀(*1)は「蝮の道三」と云われた斉藤道三と同国の山城生れの稀代の姦物で、此年には長慶の堺代官として着々と支配力を伸ばしていた。
 永禄二年(一五五九)の夏、摂・河・泉三国を手中に収めた松永は、信貴山城(*2)を築いて反三好派の飯盛山城主・安見美作守を襲った。敗走した安見が救いを求めて石ノ上平尾城に入るやそれを追って激しく責め立てた。
 良弘は再三敵を撃退したが、救援に馳せつける途上の筒井勢が惨敗した為にやむなく開城して再挙を計った。これは当時は降伏しても領土の半分は残る習わしだったからで、皆殺し等と云う惨酷な扱いは信長以後であったらしい。
 石ノ上城を手に入れた松永はそこに築かれていた三階櫓に感心した。後に松永が、東大寺に近い高地に豪壮な多聞城(*3)を築いた際に、これを「天守閣」と名づけたと云われている。
 永禄三年(一五六〇)になると海道一の弓取りと稱された今川義元が四万と号する大軍を率いて上洛する。その途上、意外にも“大たわけ殿”と仇名された信長に首を取られて、人々を驚かせた。
 同じ年の秋、突如石ノ上城を夜襲して松永勢を壊走させた良弘の快勝に、筒井勢は大いに振い立った。情況不利と感じた松永は飯盛山城に入って、長慶や三好三人衆を説いて入洛させた。勢力拡大を計ると共に、長慶の手足とも云うべき一族を毒牙にかけて、実権を手に入れる。松永は、長慶没後も三人衆を扇動して、将軍・義輝を襲わせている。
 それは永禄八年(一五六五)の五月で、兵法者で知られた十四代将軍・義輝が三好家の大軍を相手に凄しい奮闘の末に見事な最後をとげた。それを知った旧臣達は涙を流してその冥福を祈ると共に、下剋上の乱世を一掃して天下泰平を実現する英雄の出現を待ち望んだに違いない。
 けれどもそれが尾張の大たわけ殿の信長であり、彼から「猿」と呼ばれて重宝がられている氏素性も判らぬ土民上りの秀吉であろうとは夢にも思わなかったろう。

(*1)通称・松永弾正。三好長慶に仕えたが、長慶の死後は三好家を凌ぐ実力をもって第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配。織田信長に降伏して家臣になるが、後に反逆して敗れ、爆死(文献上では日本初)で自害。下克上の典型的な戦国武将。第十三代将軍・足利義輝暗殺、東大寺大仏殿焼失の首謀者など、狡猾で傲岸不遜の乱世の梟雄として悪名。一方、立ち振る舞いの優雅な美男子で連歌や茶道に長けた教養人、領国に善政を敷いた名君としても知られる。墓所、奈良県王寺町の達磨寺。
(*2)しぎさんじょう。奈良県生駒郡平群町にあった木沢氏・松永氏の居城となった山城。大和国と河内国の国境にある生駒山系・信貴山(標高433m)山上。大和国と河内国を結ぶ要衝の地で、松永久秀は山上に南北700m、東西550mに渡る巨大な城郭を築いて、大和国経略の拠点とした。
(*3)多聞山城(たもんやまじょう)とも。奈良県奈良市法蓮町にあった。城には多聞天が祀られていた。現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれる。東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和国支配の拠点となった。城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四重櫓(四階櫓とも)は、安土城をはじめとする近代城郭における天守の先駆け。その様子は、宣教師ルイス・フロイス(*3-1)によってヨーロッパにも伝えられた。
1562年、松永久秀が入城。
1573年、久秀は信長に反逆、降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入る。
1574年、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院の名香「蘭麝待」を切り取る。
1577年、久秀は信貴山城で爆死。それまでに、多聞山城は筒井順慶によって破却。石材は筒井城に、更に郡山城にも移されたという。現在の城跡は奈良市立若草中学校。周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏が幾つか残っている。
(*3-1)リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。1569年、織田信長と対面して、畿内での布教を許可された。『日本史』を執筆。


(4)松永弾正が東大寺大仏殿を焼く
 十三代将軍・足利義輝亡き後の都は一段と乱世が続き、興福寺一乗院門跡だった弟の覚慶(*1)の命さえ危うくなった。それを知った筒井順慶は官符衆徒筆頭の立場上見るに忍びず、良弘とも協議して一族は打倒松永の兵を挙げる事に決め、三好三人衆と共同作戦を展開した。
 永禄九年(一五六六)の夏、石ノ上城に中坊秀祐ら二千の将兵を迎える。喜んだ良弘は、家宝の“つゝ井”と銘した茶碗を、今日の祝いにと順慶へ献じた。世阿弥が夢幻能『井筒』を完成させた記念に井戸家に贈ったものである。高麗産の飯茶碗型の蜜柑とビワ色の釉の肌もあざやかな逸品で、後世、利休の高弟・川上宋二が“井戸茶碗”と名づけた。
 喜んだ順慶は、城内の井戸から沸き出す名水で茶を立て

●つゝ井筒、筒井の底の 岩清水 結ぶ手多き 今朝の東雲。

 と詠じて、意気高く出陣の茶会を催したと云う。
 永禄九年(一五六六)十月、順慶は五千の兵を率いて松永弾正の多聞城攻略に向う。翌年になると三好家と合流して一万五千の大軍となり、東大寺一帯に布陣して總攻撃の機を狙った。
 それを見た松永勢は手当り次第に放火して廻ったから
「大仏の回廊の火が仏殿に移り、やがて天をも焦がす猛火となり、雷電の如く大仏も湯にならせ給う。治承四年の平氏の放火より四百余年、その修復は百年かけても不可ならん。誠に言語道断なり」
 と記される惨状となった。

(*1)室町幕府の第十五代将軍・義昭のこと。第十三代将軍・足利義輝は同母兄。仏門(興福寺一乗院)に入り、覚慶と名乗った。義輝が松永久秀らに暗殺されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて京都から脱出。美濃の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて信長によって京都から追放され、事実上、室町幕府は滅亡。その後は毛利輝元、そして、豊臣秀吉らの援助を受けて余生を送った。

(5)織田信長が伊勢の北畠一族を攻略する
 永禄十年(一五六七)の春に入ると織田信長が老臣・滝川一益の大軍を北伊勢に派遣して北畠傘下の神戸、関一族の攻略にかかった。その猛攻により、三重郡の正成の子孫と云われる楠木貞孝が善戦した程度で、次々と織田の軍門に降った。信長は神戸家に信孝(*1)、関家に信包を養子に入れて幕下に加えた。
 翌十一年(一五六八)、信長は義輝の弟・義昭を奉じて入洛し、十四代将軍に就任させた。「天下布武」の理想実現の第一歩であり、引続いて南伊勢の北畠一族の攻略に乗り出した。
 永禄十二年(一五六九)八月になると八万の大軍を動員した信長の包囲作戦により大河内城では糧つきて餓死者が続出した。北畠具教も遂に抗戦を諦め、信長の次男・信雄を養子に迎え、やがて当主とする事で和を結んだ。
 その案が出された時、頭の古い北畠の重臣達は
「信長の子を人質に取って置けばお家は安泰じゃ」
 と喜んで賛成したが、どっこい信長は役者が一枚上だった。
 守役と云う名目で滝川一益を始め織田家でも頭の切れる優秀な家臣二十余名を派遣し、貴族流に門閥を第一とする北畠の家中に実力第一主義の織田の新風を吹き込んだ。「見込みあり」と見た人物は思いきり抜擢した。
 その為に北畠の家中は二派に分れた。具教の弟・具康の子などは滝川一益の娘婿に望まれ、滝川三郎兵衛と改めて信雄の寵臣となって忽ち立身出世する。それを見て具教の側近の中にさえ進んで信雄方につく者が出た。
 反対に忠義一徹で「奴らこそ獅子心中の虫」と旧主を擁して信雄派に対抗する硬骨派も生れる。二百年一致団結を誇った北畠国司家も混乱状態となったのを見て信長は内心ほくそ笑んだに違いない。

(*1)のぶたか。織田信長の三男。永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定の際、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継ぐ。▽天正10年(1582年)、四国征伐の総司令官になり、三好康長の養子に。四国渡海の準備中、本能寺の変が勃発。「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流。総大将として山崎の戦いに参戦し、明智光秀を撃破。弔い合戦の総大将であったが、織田氏の後継者は甥の三法師に決定。三法師の後見役として美濃国の岐阜城主となる。▽後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介。柴田勝家・滝川一益らと結び、秀吉に対して挙兵するが失敗。▽天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで再度挙兵。しかし、頼みの勝家が北ノ庄城で敗れると、降伏。後、自害。享年26。


(6)織田信長が松永弾正に「大和一国切り取り勝手」を認める
 そんな中でも筒井勢の松永弾正に対する攻撃は休みなく続けられた。信貴山城を落して志気大いに振ったが、永禄十一年(一五六八)の秋に入ると情勢が一変した。
 足利義昭を十五代将軍に就任させた信長の天下布武の勢いの鋭さを見て、松永弾正が「これはいかん!」と大芝居を打ったからだ。すなわち、単身信長を訪ね、世に名高き「つくも茄子の茶入れ」と、天下に一振と云われる銘刀・吉光を手土産にした上で、臣従を申し出たのである。
 信長は、弾正が「主の子や弟を毒殺し、将軍を自刃させ、大仏を焼失する」と云う稀代の姦物であるのを百も承知の上でこれを許し、「大和一国切り取り勝手」の朱印状を与えたから筒井順慶らには降って沸いたような大災難となった。

(7)松永弾正が春姫と権介を処刑する〜姫丸城の由来〜
 忽ちにして弾正勢は織田軍をバックに次々と大和を侵攻し、筒井本城や良弘の辰市、石ノ上城に襲いかかり、順慶は福住城に敗走する。良弘は中坊一族と石ノ上城を死守せんと悪戦苦斗を続けた。
 然し虎の威を借りた松永弾正勢の大軍に攻め立てられ、元亀元年(一五五八)の一月には孤立無援の中で全滅寸前となった。城に籠った中坊の一族は松永に内通せんとして裏切る寸前に気づき辛くも喰止めたが、城内の将兵は「卑怯者を処刑して見せしめにせよ」と迫る。
 それを知った弾正は筒井城で捕えた良弘の娘・春姫や松倉の子の権介を濠際に引き立てて開城せねば刺殺すると脅しつける。
 良弘は断腸の思いで娘を諦めた。「生死を共にせんと誓った人々に背く事は武士の義が立たぬ」と松永の申し出を拒んだから、哀れや、末は夫婦と約した幼馴染の春姫と権介は悲惨な最後をとげる。
 このいたましさに一族は血涙にむせび、“つゝ井筒城”と呼ばれたのが「姫丸城」と云う悲恋の城と変ったらしい。

(8)井戸良弘が松永弾正から姫丸城を取り戻す
 城内の将士は主将・井戸良弘の義に感激して一段と結束を固めた。籠城半年に近い三月末の夜半、良弘は突如として壮絶極まる總攻撃を敢行する。防衛網を突破し、東方の山中に脱出したが、一人の老幼男女も敵に残さなかったと云う。
 それを知った弾正は切歯扼腕して腹いせに全城を焼払ったが、歴戦の織田兵らは口々に「敵ながら天晴れ!」と舌をまいた。その噂は織田一の出頭人と稱される明智光秀の軍にも伝えられたらしい。落城直後の『多聞院日記(*1)』にも「井戸良弘が城内に生活用具一式を備え籠城に徹した事」に驚いている記述がある。筆者の多聞院・英俊は松永に気嫌伺いに参じているが、この辺りに当時の社寺の様子が伺える。
 井戸勢の再挙は早かった。その秋には「蔵の庄城」に梅鉢の馬印を掲げて十市城の順慶と呼応し姫丸城奪回の機を狙う。翌年早々には、櫟本の松永守備隊を潰走させて見事に姫丸城を取戻している。
 愛娘をむざむざと松永の毒牙に失った痛恨の地を我手に取戻した良弘は、その年の三月の初午の日に城の守護神である姫丸稲荷社を新築して、ささやかな遷宮祭を催したらしい。筆者は、その吉日に始めて城に一歩を印しようと思い立った。

(*1)たもんいんにっき。奈良興福寺の塔頭・多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。

(9)石ノ上・姫丸城遊歩〜石ノ上広高宮〜
 初めて“悲恋のつつ井筒城”を訪ねたのは昭和六十年の三月初午の日で日記には次のように記している。
 江戸時代には同社の大祭は伏見ら三大稲荷の一つに数えられて盛大を極めたと云われ、今年も三月八日に挙行されると云う。日の丸弁当を用意して伊賀を出たのは早朝であった。
 桜井でJRに乗り換えて櫟本(いちのもと)駅で降りると大和平野は一面に乳色の霞がたれこめ絶好のハイキング日和だった。町角の大祭のちらしに導かれて石ノ上の里を歩くうちに天理教教祖の中山みき苦難の史跡が残されていたので拝見した。
 春姫ゆかりの里の聖女に天理王命が天降られる云う人智では計り知れぬものを感じて平尾山をめざすと、四つ角に古びた巨石の稲荷社への道標が立ち、昔の繁盛ぶりが偲ばれる。
 資料によれば神社の丘近くに別所城跡があり田部の井戸若狭守の居城と言われている。良弘の父祖時勝が永享年間に始めて築かれたものらしいので先ずそれを訪れる。五百年の星霜をへた現在でも広い城跡とそれを囲む濠も残っており、井戸家中興の祖三代が苦闘した歴史を物語るようだ。
 良弘が築いた姫丸城は、ここから数百米の北方に連なる丘一帯に築かれている。一段と高まった頂上に本丸を設け姫丸神社を守護神と仰ぐ平山城である。深い外濠が築かれていたと思われる山麓伝いに大手門跡の石の小道から急坂を登ると「石ノ上広高宮(*1)跡」の碑石がたっていた。

(*1)いそのかみのひろたかのみや。第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう、四四九〜四九八)の都。同市嘉幡との説もある。




(10)石ノ上・姫丸城遊歩〜姫丸城〜
 五世紀中頃の二十四代仁賢天皇の皇居が置かれた広い台地の奥に姫丸稲荷の社殿が建っており、大勢の信者が焚火を囲んで忙しげに働いている。
 境内の四辺には山頂の宇賀御霊大神(*1)を中心に白滝、姫丸、広隆、兼松、藤時、藤徳、の諸神の石碑が林立してその歴史の古さが判り、中でも春乗大神の碑前に立つと
「これがつゝ井筒の悲恋の姫を祭った霊碑に違いない」
 と直感され、謹んでその冥福を祈り、合掌する。
 城の配置等は何も判っていないので碑前でスケッチの筆を走らせていると素朴な農夫らしい信者が
「よう参られた。何せ年に一度の大祭じゃからマア一杯祝って下され。」
 とコップ酒を振舞ってくれる。遠慮したがその気持ちが嬉しくて、
「これは春姫よりの賜り物。辞するは礼に非ず」
 と有難くお流れ頂戴し、里に残された伝説などを聞かせて貰う。すきっ腹に神酒が心地良くしみ急に元気が出て城跡を一巡した。裏手には広々とした用水池が拡がり、到る処に古墳が散在して銅鐸等も発見されたらしい。
 天守閣跡を求めて歩いたが、竹藪と雑木に覆われて判らない。一段と高い社殿の裏の丘に立てば遙かに生駒から二上山に連なる山々が霞の彼方に浮び、まほろばの野を渡る風にほのかに梅の香が漂う。
「良弘公が建てた日本最古の三階櫓はここに聳えていたに違いない」
 と草をしとねに日の丸弁当を開き、過ぎし数々の歴史を回顧する。
 苦闘の籠城、裏切り者への処刑、礫柱に縛りつけられた“つゝ井筒の二人”。玉砕を覚悟しての大突撃、天を焦がす落城の日の業火、元亀二年(一五七一)の初午に催された遷宮等の風景が走馬灯のように流れた。
 そして今、満目(*2)城跡を偲ぶ何物をも止めず、城春にして只草木のみ深い。豊臣秀長が百万石の大守としての厳命で根こそぎ郡山城に運び去った為であろう…。

(*1)うがのみたまのおおかみ。元来「稲」を主宰し給う神。五穀豊穣・商売繁昌の神と崇められる。
(*2)見渡す限り、あたり一面の意。


(11)石ノ上・姫丸城遊歩〜花園寺〜
 汲めども尽きぬ歴史のエピソードを追って時移るのも忘れ、フト気づけば竹林の彼方の三輪山には肅々と(*1)暮色が流れる。
「これはいかん。今日は良弘が父の供養に建立したと云う天文二十二年(一五五三)の石仏だけは何としても一見せねば」
 と急いで山を降り花園寺を訪ねた。長閑な石ノ上の里のはずれに立つ小ぢんまりとした本堂の参道の角に、きれいな阿弥陀如来の石仏が立っている。敗戦後に寺の墓地を整理中に発掘されたもので、肉眼では判らぬが超音波をかけると
「天文二十二年覚弘、良弘建立……」
 と刻まれているのが読み取られ、良弘が父の菩提の為に築いたものとされている。
 始めて中興の祖と対面した感激に胸も高鳴る想いにうたれ
「さあこれからがいざ本番だぞ。名利を求めず信ずるままに一介の里の夕辺を愛する翁として八十年を生き抜いた尊敬すべき祖先の生き方をしっかりと学ぶのだ」
 としみじみ石仏に祈り、喜び勇んで家路についた。

(昭和六十年の三月初午の日の日記より)

(*1)しょうしょうと。さみしいようす。

(12)石ノ上・姫丸城遊歩〜在原寺〜
 十一年後、平成八年三月の午の日にも城を訪れた。JR櫟本駅を降りると第一番に業平ゆかりの井筒を見たくて在原寺(*1)を訪ねる。
 縁起によれば光明皇后(*2)が、四十五代聖武天皇の御縁仏である十一面観音を本尊にして、平尾山に本光明山補陀落観音院の在原寺を創建されたのが始まりである。阿保親王は深くこの観音を信仰して業平が生れたので彼をここで育てる事にしたらしい。
 承和二年(八三五)少年が元気で十歳になった年に、阿保親王はこの地に在原寺を建立して、旧所在地の平尾山から移転している。親王が亡くなられた後も業平はここに住み、都に出て朝臣となってからも折あらば訪ねているのは、若き日の数々の思い出があったからだろう。
 天慶四年(八八〇)、業平の没後はその遺言によって邸は在原寺に寄進されたが、その名が世に知られるや立派な業平神社が創建されて人々の参拝も絶えなかったと云われる。
 境内には業平の烏帽子塚や「つゝ井筒」を始め「夫婦竹」や「むら薄」の史跡も残されて昔を語る。かの芭蕉翁も訪れたらしく

●うぐいすも 魂に眠るか 嬌柳(たおやなぎ)

 の句碑が立っていた。あたりには幽翆の気が漂い、木陰から今にも冠、直衣の美しい姫が出現しそうだ。

(*1)Chap 4室町の巻4.1 後南朝序曲を参照。
(*2)聖武天皇の皇后。


(13)石ノ上・姫丸城遊歩〜姫丸稲荷再訪〜
 名残惜しく寺を出て街道の東に連なる平尾山に向い畑道を行くと小さな薬師堂が楠の根方に鎮まる。
 これが良弘公ゆかりの堂で、今も中村氏(*1)の祖父の名儀になっていると聞き、歴史を一段と身近に感じた。
 坂を上ると石の鳥居が聳えた深い竹林の丘の向うに「姫丸稲荷」の赤い鳥居と小旗が春風にゆれて居る。
 今から四百余年昔の天文年間、良弘公がここに城を築いた頃には式内社で祭神に少彦名命(*2)を仰ぐ石上市神社(*3)とその境外社(*4)で元は在原寺にあったと云われる姫丸稲荷も祭られ、広く里人の信仰を集めていたらしい。
「良弘公は午年だから、三月の初午の日を大祭に定め城の守護神としたのだな」
 と思いながら境内をめぐり、今でも澄みきった沸水を湛える石造の井戸で手を洗い神前に詣でる。
 仁賢天皇の広高宮(前出)と云われる平尾城跡を一巡し、昔は外堀だったらしい用水池や銅鐸の出土碑などを見た。昔を偲びつつ、山を下って光台山花園寺(前出)に向う。

(*1)井戸家重臣である中村家の子孫のかた。この時同行された。当時、奈良県室生に在住。井戸家について種々ご教示をいただいた。
(*2)スクナヒコナ。日本神話における神。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主(*2-1)と協力して国土の経営にあたり、医薬・禁厭(まじない。日本在来の呪術)などの法を創めたという。日本神話では、国津神の王・大国主が出雲国の美保岬にいた時、海の向こうから小さな船が近づいてきた。そこに蛾の皮を着た極めて小さな神が乗っていた。それがスクナビコナである。スクナビコナは大国主と兄弟の契りを結び、国津神の仲間となり、彼らの国を助けた。国造りを終えたあとは、スクナビコナは粟の茎にはじかれて、海の彼方にあるとされている常世の国に去って行ったという。
(*2-1)おおくにぬし(のみこと)。出雲神話に登場する神。天の象徴であるアマテラスに対し、大地を象徴する神。葦原中国の国作りを完成。国土を天孫・瓊瓊杵尊(*2-2)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神に。素戔鳴尊(*2-3)の直系の血を引く。
(*2-2)ににぎのみこと。天照大神の孫。
(*2-3)すさのおのみこと。神産みにおいてイザナギが黄泉の国から戻って禊を行った際、鼻をすすいだ時に産まれた。イザナギは、天照大神に高天原を、月夜見尊に夜を、スサノオに海原を治めるように言うが、スサノオはそれを断る。母神であるイザナミのいる根の国に行くと言い始め、イザナギは怒って近江の多賀に引きこもる。
 スサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に挨拶をしようと高天原へ行くが、天照大神はスサノオが高天原に攻めて来たと思い、武装してスサノオに応対する。スサノオは疑いを解くために誓約を行い、潔白であることが証明されたとして高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れた。
 そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。葦原中国にある出雲の鳥髪山(現;船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した。スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていたクシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」と詠み、これが初の和歌とされる。その後、スサノオは根の国へ向かった。
 文化人類学的にはトリックスター(*2-4)との位置づけをされる神。
(*2-4)「創造者であって破壊者、贈与者であって反対者、他をだまし、自分がだまされる人物である。」と定義される。詳細は割愛。
(*3)天理市石上町255
(*4)神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や元々その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社(せつまつしゃ)と総称する。境内の外に摂末社がある場合もあり、それは境外社と呼ばれる。


(14)石ノ上・姫丸城遊歩〜花園寺再訪〜
 花園寺は石ノ上在原寺の南にあり、室町末期に阿弥陀如来を本尊として建立された浄土宗、いわゆる大念仏宗である。
「井戸家の菩提寺は真言宗の本光明寺なのにどうしてこれを寄進したのかなあ」
 と考えたがよくわからない。
 恐らく田部の邸から小一里も離れて居り不便だから当時全盛の本願寺本山からの要請に応じ、父・覚弘(さとひろ)の成仏を願う意味からもこの石仏を寄進したのだろう。本道は折から修復中で、夏には完成すると云うから再訪する事にした。

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