Chap 4  室町の巻

4.2 結崎井戸の里

(1)武家は笑い、公卿は泣く
 室町時代は金閣の出現(一四〇八)によって始まり、応仁の乱(一四六七)によって終ると云ってもよいくらいである。足利幕府は将軍の力が弱く、まるで政治不在の世の中と云った印象が強い。
 然し実際には農業生産は大きく延び、倭寇や私貿易は活発を極め、輸入品のトップが「書物や絵画」であったと云うから驚かされる。
 現在に全世界から注目を浴びている日本の古典文化の代表とされる能、茶道、立花、小笠原礼式、数寄屋建築ら数々の美術工芸品が誕生したのも実にこの時代なのである。
 と云っても我世の春を歌うのは武家ばかりで、公卿の衰微は甚だしく、都を焼土と化し雲雀さえずる野と変えてしまった。
 応仁ノ乱の終った百三代・後土御門天皇の文明九年(一四七七)に入ると、果てしなく続く戦乱で皇室領さえ豪族達に横領されて年貢が入らなかった。毎年正月熊野三山から献上されていた牛王ノ証紙も絶えて朝廷では任官辞令の用紙を買う金さえ無い有様。
 まして公卿、殿上人の窮迫ぶりは甚だしく、前ノ関白は奈良興福寺の居候となり、大納言は家伝の妙薬と称する薬を売って日々を凌ぐ。中納言などはまるで乞食同様な姿で知人宅を転々とさすらう状況だった。

(2)寺社勢力は、守護に対抗する
 年を追う毎に足利幕府が担当すべき伊勢、熊野の式年遷宮は遅れ、皇居の修理も滞った。将軍を補佐してその祭り事を果すべき斯波、畠山、細川の三管領も領内に吹きすさぶ下剋上の嵐の中で在って無きが如く、世は正しく群雄割拠、弱肉強食の世となった。
 守護、地頭共の横暴に対抗して自衛力を講じ何とか法燈祭典を守り続けるべく必死となったのは、叡山、高野、南都、根来の中世以来の大社寺ばかりではない。本願寺を大本山とする一向宗(浄土真宗)などは地侍と信徒で強力な武装集団を組織して法王国家をめざした。北陸、三河、伊勢長島などには地元豪族らが本願寺と組んで守護を追出して政権を握るいわゆる「一揆持ち」の村々が急増していた。

(3)後土御門天皇が逝き、葬式代に困る
 西軍の山名宗全に擁され「西陣の南帝」と呼ばれた後南朝第四代の帝・熊野宮信雅王が「南北併立」の悲願を諦めて野に下ったのは明応九年(一五〇〇)と云われる。この年に崩御された北朝の後土御門天皇の大葬の費用がなく、朝廷は困りきっていた。
 百四代・後柏原新帝の即位の大典などは二十年後にやっと挙行されている。これを見ても勝者の北朝とても名ばかりで、もし第二の将門の如き覇者が出現すれば、天皇制は絶えていたかも知れないと薄氷をふむ想いがする。信長の登場が約八十年遅れたのは天の配慮であったろう。

(4)興福寺・東大寺は、大和に守護を入れなかった
 そんな世の中でも春日神国を誇る大和は守護不入(*1)の歴史を守り続けた。興福寺の一乗院、大乗院や東大寺等は、向井、井戸一族や北畠配下の越智や秋山、沢、吉野の宇陀三人衆らを下司(*2)職として、その権威を維持し続けた。
 藤原式家の宇合(*3)六代の孫と云われ、将門、純友らを征討して朝廷の危機を救った忠文公を開祖と仰ぐわが井戸家は大和に居を構えてより五百余年、結崎井戸を本貫とし九条辰市、石ノ上平尾山らを拠城として二万数千石を支配し、第二十五代と云われる時勝や時武、覚弘が代々住民から深い信頼を受けてその地位を守り抜いてきたのである。
 特に覚弘は筒井中興の傑物と賛えられる順覚の右腕と信頼されていたらしい。

(*1)守護不入権。守護(*1-1)またはその使節が荘園内に立ち入ることを禁ずる権利。
(*1-1)しゅご。鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制。当時の国単位で設置された軍事指揮官・行政官。令外官である追捕使が守護の原型。後白河上皇が幕府に守護・地頭の設置を認めて、幕府の職制に。設立当時の任務は、在国の地頭の監督。
参考)守護領国制…守護は各種権利(*1-2)により、領国内の荘園(*1-3)・国衙領(*1-4)へ侵出。応安元年(1368、正平23年)6月、の「応安の半済令」で、土地を半分割して接収する権利が、守護に与えられた。また、荘園領主・国司と請負契約を結び、収入の中から領主・国司へ年貢納入する一方で、実質的に荘園・国衙領を支配していく「守護請(しゅごうけ)」も行われる。現代でいう「取り立て屋」のようなものである。これらにより守護は、各地の荘園・国衙領の下地進止権(土地支配権)を主張。土地を獲得し荘園制を解体していく。これらは、荘園領主の利害と真正面から対立したため、荘園領主の中には朝廷や幕府へ働きかけて守護不入権(前出)を獲得し、守護と対抗する者も現れた。
(*1-2)半済(はんぜい)給付権(年貢半分の徴収権)や、段銭(たんせん)徴収権(臨時に課する税。銭納が原則)など。
(*1-3)しょうえん。私有地。荘園領主の私有財産で、公的支配を受けない。
(*1-4)こくがりょう。公有地。国衙は国の役所。
(*2)げし。下級役人。現地で実務を行った荘官。京都の荘官の上司に対して云う。げす。
(*3)「Chap 1上代の巻 1.1 天皇は神にしませば」参照。


(5)戦国時代には水田面積が70%増えた
 戦国時代と云えば常に戦いで明け暮れたように聞こえるが、応仁ノ乱が終って帰国した武将達は農地を開拓して生産力の拡充に懸命だった。各地に溜池を築き用水路を掘削して新田を作っている。室町初期、全国で九十四万町歩だった水田が戦国末期には百六十万町歩にも達している。(70%増)
 正に“水を治める者は国を治める”との諺通りで、武力的征服と荒野開発の二本立政策の結果とも云える。優れた武将は常に優れた土木開発のベテランでもあった。
 兵農一体だった当時の軍役から云えば、百石取りの侍は兵四、五人を連れるのが常だから、二万石の井戸家の兵力は千人程度と思われる。その中で侍は精々二百、残りは半農半漁の農漁民で「いざ出陣!」となれば鍬や櫂を刀や槍に替え戦場に飛出す有様だった。
 それでも戦場で臆病な振舞を見せれば戦いが終り村に帰っても笑い者になって人並みに扱って貰えないから彼らは精一杯勇戦奮闘し、一坪でも農地を増し漁場を拡めて貰う為には命がけで頑張ったらしい。
 然しこれでは専門の兵士とは云えず、信長が「天下布武」と号して兵農を分離した精兵組織がめざましく躍進し続けたのは当然だったかも知れない。
 信長が生れた天文三年(一五三四)と云う年は歴史上の大きな節目と考えて良かろう。
 そしてこの年には紀伊守護として広城を最後の居城として下剋上の波を必死で圧さえていた畠山尚順が、武田源氏の一族である御坊の湯川氏の攻勢に耐えきれず都に奔った。紀伊もまた守護不入の本願寺派一揆持ちの国となるのである。

(6)井戸の里(奈良県磯城郡川西町)を訪ねて
 井戸覚弘の次男が生れたのも同じ天文三年(一五三四)で、生れつき聰明利発な処から才助と名づけられた。長男は小殿之助と呼ばれ早くから主家の筒井本城で育ったが、彼は糸井神社の井戸の里でノビノビと育ち、大和宮の若君として観世一族や里人達にもその前途を期待されながら文武両道に勵んだだろう。
 生れつき清廉正直で能や茶道を好み親孝行で知られていた、と伝えられるから、武よりも文人肌の夢多き少年だったらしい。
 さて、それでは寺川(奈良県磯城郡川西町)の清流の畔りにある井戸の里「つゝ井筒」にゆかりの地を、ゆっくりと遊歩して数々の史跡を見学しよう。

(7)糸井神社
 井戸家中興の祖とも云うべき若狭守・良弘公の故郷に初めて一歩を印したのは、伊賀の名張に移り住んで早々の昭和五十年(一九七五)の秋で、日記には次のように記している。
『「歴史を愛し父祖を尊ぶ事を信条とする」私としては、ここを訪ねるのが甚だ遅きに過ぎ誠に申訳ない限りだと思いつつ結崎駅を下車し、先づ川西町役場に行き史料を漁る。
 結崎郷には井戸、市場、辻、中村、出屋敷の五つの里があり、いずれも井戸氏創立当時の重臣や拠点の名である。しかし現在「井戸」を名乗る家は一軒もないと云うからいささか寂しい気がする。
 町のパンフレットには、聖徳太子の通学路であり、観世発祥の地である糸井神社の当家行事やら島の山古墳に就いては書かれているが、井戸家の話は何もない。淋しいが、これが浮世時節だろう。
 糸井神社は井戸の里の中にあり、役場の向いの森がそうだと云うので、早々に切上げて鳥居を潜る。境内には井戸の里在住の観世八世左近が慶長八年(一六〇三)寄進の立派な石燈籠が林立する。社殿は江戸中期、春日大社から移設建立とか。ズシリと歳月の流れが感じられる古社である。
 社殿の裏手に神宮寺(観世音寺)跡があり、「結崎還濠」が残っている。大和造りの豪壮な民家の庭に大輪の黄菊、白菊が咲き乱れ
「もしかしたら筒井戸の史跡があるかも知れんぞ」
 と人影も見えぬ井戸の里を歩き廻る。
 寺川の土手に出ると対岸に広大な島の山古墳が横たわっている。四世紀末の前方後円墳で皇后御陵とか入鹿の墓とも云われる立派なものである。

(8)「観世発祥の地」と「面塚」
 寺川を渡って土手を左に折れると昭和初期観世二十四世左近の建立した「観世発祥の地」と「面塚」が立つが、何とも狭い。戦後の河川改修の為に川底に沈むことになった為に移設したらしく有名な結崎ノ松も観世結崎座も土手上に散在しているのは惜しい。
 「水を治むるは、国を治むるなり」の諺は正しくても、全国各地に盛大な古典藝術薪能の夕べがもてはやされる時代が近いのに、その大成者たる観世父子ゆかりの史跡がこれでいいのかと天を仰ぐ。今し夕日が二上、葛城、金剛山に傾き、侘しい斜陽が室町時代の貞治二年(一三六三)の嵐の夜、天から降ってきた翁の面と葱の種の碑石に注ぎ、何かを語りかける。
「せめて年に一度でも観世一門の手でこの糸井神社の境内で、観世と楠氏父子の菩提を弔う薪能の夕べ”でも催されれば嬉しいんだがなあ」
 としみじみ思いながら家路についた。』
 再び糸井神社を訪ねたのは平成八年(一九九六)の春で、実に二十年ぶりである。郡山城で豊臣秀長公の百万石祭りが賑わっていた頃で、まず新装の社殿に詣で、宮司さんの話を聞かせて貰う。
 観世一門も里帰りと称して顔を見せ、昭和三十八年(一九六三)には世阿弥生誕六百年祭、昭和六十年(一九八五)には建碑五十周年で賑わったらしい。川西町のコスモポールには舞台もできて毎年記念行事が催されるらしく来年は業平東下りの夢幻能「杜若」が上演されるとか。
 我が家から近い名張市小波田でも毎秋は観世祭で賑わい、可憐な少年能が評判になっている。観世ゆかりの両地は世間によくある本家争いもなく、能楽によって泰平の世をめざした一門の悲願達成に努めているのは嬉しい話だと思う。


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