Chap 4  室町の巻

4.1 後南朝序曲

(1)後亀山天皇、嵯峨の大覚寺に入る
 後醍醐天皇の厳しい遺詔を奉じて吉野、賀名生、住吉、天川行宮を転々としながら南朝再建に苦斗した事六十年、「一天両帝の世」と稱された果しなき動乱も終った。
 明徳三年(一三九二)の時雨が冷たい日、後亀山天皇は「万世の太平を開かん」と決意され、都に還られた。
 天下泰平と皇位無窮を願う熊野三山や楠木正儀或いは道義政治家・細川頼之ら、幾多の人々の努力によって遂に南北合一して天下泰平の世が開かれんとする時代が訪れた。
 後は北朝の貴族達と足利幕府が誠意を以て
「南朝の正統性を認め神器は禅譲の儀式を以て後小松天皇に渡し以後の皇位は昔のように両統交替とする。南朝の生計は国司の支配する国衙領の税収によって賄う」
 との約定を果す事だった。
 嵯峨の大覚寺に入った南朝方の貴族や吉野熊野の遺臣は勿論、観世一族も心からそう願いつつ一段と藝道に精進し、日本古典藝術の粋である侘とさびの幽玄の世界を求める能楽の大成に努めていたに違いない。

(2)足利義満、約定を破る
 然しながら虎の威を借る北朝の貴族達は約定などは守る気はなく
「南朝は降伏したものとして扱うべきだ」
 との強硬意見で禅譲と約束された神器の授受にも儀式などはせず強引に取上げ、後小松天皇は顔も見せなかった。
 後亀山天皇に対しても太上天皇(上皇)の尊号を贈らず、幽閉同様の扱いで賀名生で捕えられていた時の怨を晴らし、将軍・義満に色々と訴えて対等の待遇を与えるのを阻んだ。
 そして義満も位人臣を極め、将軍職は義持に太政大臣は辞して出家はしても法皇の如く官位の任免や、都の土地支配権、警備違使など公武の実権を一手に握った。そうなると、もはや両統交替を実現して北条幕府の二ノ舞を演ずる気は毛頭なく北朝を飾り雛とした武家独裁政治をめざしていた。
 両統交替の約定から云えば次は南朝系の皇太子が選ばれるべきだのに一向に実現せず、南朝系貴族は次々に出家させてその血筋を絶やそうとした。有名な一休さん(*1)も母が南朝系の為に父は後小松天皇と云われても寺にやられている。
 日々の生計費も全国衙領が大覚寺へ入る約束だったのに僅か紀伊の一部しか入らない。亀山上皇以来の広大な荘園も打続く戦乱で幕府の守護や地頭達に奪われて、役職にも就けぬ南朝公卿達の中には栄養失調で病床に伏す人達も出たがそれを救ってやる事も出来ない。

(*1)臨済宗の禅僧・一休宗純の愛称。1394〜1481。南朝・後小松天皇の落胤という。6歳で京都の安国寺に。早くから詩才に優れ洛中の評判に。21歳で師の死によるものか、自殺未遂。後、大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子に。25歳で『洞山三頓の棒(*1-1)』という公案に対し、「有漏路(*1-2)より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、一休の道号を授かる。応仁の乱後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に。88歳、酬恩庵(*1-3)で没。
(*1-1)曹洞宗を開いた洞山がまだ若い頃、雲門大師を訪ねた。雲門「どこから来たのか」、洞山「サトから」。雲門「この夏はどこにいたか」、洞山「湖南の報恩寺」。雲門「そこをいつ出発したか」、洞山「8月25日」。すると、急に雲門は「三頓の棒(打ちのめすこと)をくれてやりたいところだが、今日は帰れ!」と大声を発して追い返した。一晩中悩んだ洞山は翌日「私の返事のどこがいけなかったのでしょうか」と尋ねた。雲門は「まだそんなことを言ってるのか、帰れ!」と一喝。この時、洞山は悟りに至った、という話がある。
 宗純(一休の戒名)は、平家物語「琵琶法師の祇王・祇女姉妹と仏御前(*1-4)」の一節を聞き、この公案を解いたという。その心境を「有漏地より〜」と詠った。
(*1-2)有漏路(うろじ)は迷いの世界、無漏路(むろじ)は悟りの世界。
(*1-3)しゅうおんあん。通称「一休寺」。京都府京田辺市の薪地区。荒廃していた妙勝寺を一休が再興した。墓は酬恩庵にあるが、宮内庁管理の御廟所で、一般の参拝は不可。
(*1-4)白拍子(*1-5)の祇王は、妹の祇女、母の刀自とともに平清盛の寵愛をうけ、幸せに暮らしていた。ある日、仏と呼ぶ白拍子が現れ、清盛に会いに来るが追い返される。哀れに思った祇王は仏を招き、清盛の前で歌わせてやる。清盛は、たちまち仏に魅せられて祇王を遠ざける。無常を知った祇王は、「もえいづるも枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋にあはではつべき」と歌を残し、親子三人出家して山里に去る。ある夕暮れ。親子が念仏していると、出家姿の仏が来た。祇王の歌を見て、いつかは同じ運命をたどる身の上を悟り、ならば余生は一緒に念仏をと、やって来たのであった。四人は念仏三昧の暮らしを送り、往生の願いをとげたという。
(*1-5)しらびょうし。一種の歌舞及びそれを演ずる芸人。男装の遊女が歌いながら舞った。


(3)長慶上皇、死して、楠木正勝、敗れる
 かねて義満のやり方に不信感を持たれて都に還らず、天川行宮に残って幕府の態度を見ていた長慶上皇(*1)や四条資行、日野邦氏、中園宗頼らの公卿、楠木正元、越智通頼や熊野八庄司の山本修理、湯川式部、色川左兵衛達も「見ろ!思った通りだ」と憤激して上皇を奉じて挙兵せんとした。それを知った幕府は秘かに刺客を派遣したらしく十津川に残る傳説によれば、上皇は殺害され河中に投ぜられた御首が無残にも河津の里の川畔に流れついた。
 そして黄金色に輝いていたので里人は驚いてその岸辺に丁寧に葬ると南帝陵と呼んで葬ると、年忌供養を怠らずその麓に建立されたのが現在の国王神社(*2)で今も尚毎年盛大に祭り続けられている。
 長慶上皇は、恐らく傳えられる様な非業の死を遂げられたのだろう。その皇子達も世を捨て、僧門に入られたり、野に下ったりしただろう。伊賀でも伊豆有綱の子孫で南朝方として活躍した服部季行に助けられた成円親王は、義経が潜伏していた神戸の永浜家に入り、「高貴な家」と里人から敬われている。
 これでは南北合一は全く北朝と幕府の詐欺行為で、断じて天下の政治を司る者の取るべき態度ではなかった。
 応永十一年(一四〇四)には正儀の四男・正勝が再び金剛山に立籠って善戦したものの衆寡敵せず十津川に落ちた。再挙を計るうち惜しくも十津川の武蔵の里で病死する。(*3)

(*1)長慶上皇は、謎につつまれた上皇で、伝記には諸説ある。全国二十六個所も崩御の地と伝わる。唯一高野山にご宸筆の祈願文だけが残る。南朝派の最後の拠点と云える北東北地方には、長慶上皇伝説が多い。岩手県宮古市の黒森神社などに終焉の地の伝説が残る。
(*2)奈良県吉野郡十津川村高津。十津川村上野地字の河津裏に、毎夜水底より、不思議な一条の光が発せられた。村人が尋ねてみると、十津川の上流、天の川で難にあわれた長慶上皇のお首だった。丁重に葬り玉石を安置してお首塚と呼んだ。宮を建てたのが、今の国王神社。大鳥居の額の「国王神社」の四字はかの大久保利通の筆。
(*3)応永十一年(一四〇四)は不明。一般には、元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)足利義詮の和議申し入れを拒否したため、大軍が千早城を総攻撃、陥落。後、正勝は十津川に走り、以後再び千早城に戻ることはなかった。応永六年(一三九九)南北朝合一後、正勝・正秀兄弟は堺で足利軍に完敗。以後の正勝の消息は不明。十津川で亡くなったとか、摂津の西光寺(*3-1)に隠棲したと伝わる。
(*3-1)大阪市東淀川区豊里6丁目。現在の定専坊。


(4)世阿弥、『井筒』を作る
 楠木一族の苦斗を知った世阿弥は内心「何とか義満公が南北合一の約束を守ってほしい。」と願っていただろう。しかし父・観阿弥とは違い「能楽は民衆の敬愛と貴族の心に叶う風体を為すべし」との信条だけに、敢えて火中の栗を拾わなかった。子の元雅に任せ、自身は専ら『花伝書』や夢幻能『井筒』の完成に勵んでいたようだ。
 この曲を創作するに際して世阿弥は結崎の観世座の人々を糸井神社(*1)の金比羅の井や石上の在原寺(*2)の業平神社などに走らせて詳しく調べ上げ、自らも足を運んで想を練ったと云われる。
 やがて彼自身も「幽玄能の上花」と誇っている『井筒』が世に出るのだが、そのあらましを述べよう。
 諸国の行脚僧が初瀬寺を詣でる途中に石上の在原寺に立ち寄り業平やその妻の旧跡を弔っていると、美しい里の女が古塚に花と水を手向けている。話を聞けば、これが業平の妻の亡霊でやがて忽然と井筒の陰に消えてしまった。
 その夜更けに僧は夢に業平の形見の冠や直衣(*3)をつけた目も覚めるような美女が現れて「恥ずかしや昔男に移り舞い」と歌いながら井戸水にその姿を映し「目にも見えず男なりけり」と業平の面影を懐かしんで幽玄な舞を繰り返しつつ、暁の光と共に消えた処で目が覚める。
 こんな内容で、現在も石上の在原寺に幾ばくかの史跡が残っている。

(*1)Chap 1上代の巻1.4 開祖・右衛門忠文を参照。
(*2)ありわらじんじゃ。天理市櫟本町。祭神は阿保親王、在原業平。第51代平城天皇(774〜824)の孫、在原業平の居宅跡に十一面観音を祭った在原寺の跡。創建は平安初期、阿保親王。謡曲『井筒』の舞台になった。明治までは本堂・楼門・庫裏を具えた寺だったが廃寺となりわずかに神社として残った。本堂は大和郡山岩槻の西融寺に移されたという。『筒井筒(伊勢物語)』の歌に縁ある井戸はこの地で、低めの井筒がある。河内高安(現在の十三峠西麓)にも同様の話が伝わる。伊勢物語では少年少女は行商人の子になっているが、河内高安では通う男は「業平」本人になっている。
(*3)のうし。平安時代以降の天皇、皇太子、親王、および公家の平常服。


(5)三代将軍・義満、急死す
 応永十五年(一四〇八)の三月になると百万貫の巨費を投じて北山文化の代表的存在である金閣寺(*1)が完成し、後小松天皇を迎えた義満は豪華な祝宴を催おし、世阿弥や近江猿楽の犬王が初の天覧能を演じた。
 観世父子の絶妙な演技は後小松天皇を大いに感動させ、能楽史上輝かしい一頁を止めた。将軍・義満は「北山の法皇」と呼ばれた程の独裁者となり、勘合貿易の利益で金閣寺を建て、能、連歌、茶、立花など我国の古典文化の基礎を築いたと云われる。その義満はこの豪華極まる大遊宴の直後に急死した。
 女房を国母にして頼朝や尊氏さえ考えもしなかった皇位の上に立たんとした野望家が五十一才で死神に召されたのは天命である。
 この四年前の応永十一年(一四〇四)、大和では興福寺衆徒・筒井順覚(*2)と春日若宮の箸尾為妙(*3)とが合戦となり国内は二派に別れて騒動となった。(*4)
 幕府は慌てて国中の衆徒と国民(外様大名)五十余名を招いて忠誠を誓わせるとその中
の有力豪族二十名を官符衆徒に任命し、結崎の豪族・井戸氏がその一人に加えられたのも観世一族の尽力が大きかったようだ。

(*1)京都市北区金閣寺町。舎利殿(*1-1)の金閣が余りにも有名なため、通称金閣寺と呼ばれるが、正しくは鹿苑寺(ろくおんじ)。臨済宗相国寺派。鹿苑の名は、創設者の足利義満の法号・鹿苑院殿に因んだ。鹿野苑はお釈迦さまが初めて説法された場所。
(*1-1)しゃりでん。仏舎利を安置した建物。一般に方形で、中央に舎利塔を置く。
(*2)永享元年(一四二九)将軍・義教から興福寺領河上五ヶ関務代官職に任ぜられる。永享六年(一四三四)八月、戦死。(*4)の大和永享の乱による。
(*3)箸尾氏は摂関家領大和国長川(長河)荘の荘官として勢力拡大。大和国は大乗院と一乗院に分裂した興福寺が守護で、荘園有力者たちは、衆徒・国民と呼ばれた。箸尾・筒井・越智・十市の四氏は大和四家と称された。
(*4)南北朝の抗争は、明徳三年(一三九二)、両朝の合一で一応収束。だが幕府は約束を守らず、大和は筒井党(幕府)と越智党(後南朝)とに二分。以後、両党の間で抗争。箸尾氏は越智党で筒井党と対立。応永十一年(一四〇四)、箸尾為妙は十市氏と結んで筒井順覚と戦い、筒井郷を焼き討ち。永享元年(一四二九)七月以降、豊田中坊・井戸両氏の争いに端を発して他の国人衆も巻き込んだ戦いに。抗争十年に及び、大和永享の乱と呼ばれる。幕府は応永二十一年(一四一四)、大和の衆徒・国民を京に呼び、私合戦の禁止などを誓わせた。上洛した大和武士は、衆徒では古市・筒井氏ら、国民では越智・十市そして箸尾氏ら五十名にのぼった。


(6)亀山上皇、都を出て、また都に帰る
 応永十七年(一四一〇)になると亀山上皇が皇太子の恒敦親王や僅かな近臣達と共に秘かに京を抜け出られた。そして天川行宮に入り、約定を守らぬ幕府の非を天下に明らかにし、都での困窮ぶりを訴えられる。
 合一の約束を信じて都に還えられてから十八年間の上皇の辛苦を知った南朝の遺臣達は続々と行宮に参集して討幕の院宣を待った。しかし亀山上皇の
「再び動乱の世をもたらして民を苦しめるのは本意ではなく、唯々幕府の反省をうながして約定の実現を待つ。」
 との意向を拝し情勢を見守る事となった。
 処が応永十九年(一四一二)、亦も約定を破って北朝の称光天皇(*1)が即位されるや、関東の伊達持宗、伊勢の北畠満雅らはその違約を責めて挙兵する。
 満雅が義旗を翻えしたのは上皇の嫡孫である若き小倉宮実仁親王らが天川から伊勢に潜行して満雅を頼まれたからである。応永二十一年(一四一四)八月には松坂の阿坂城に籠城して近畿一円に義兵を募った。
 幕府は一色、土岐、仁木氏らに命じて阿坂城を攻撃し、北畠軍は城内の水不足を欺く為に白米で馬を洗って「白米城」の勇名を残しながらも、翌年五月には落城した。
 情勢不利と見られた天川の亀山上皇は秘かに在京の弟・説成親王に指令されたのだろう。説成親王と赤松則佑の仲介で和睦が結ばれ、将軍・義持(*2)も「次の皇位は必ず南朝方に」と約束して上皇の還幸を願った。

(*1)しょうこうてんのう。1401〜1428。在位は1412〜1428。第101代天皇。
(*2)よしもち。1386〜1428。室町幕府4代将軍。父は足利義満。兄弟に義教、義嗣ほか。


(7)亀山上皇と将軍・義持は逝き、後南朝は敗れる
 応永二十二年(一四一五)夏、六年ぶりに亀山上皇は都に帰った。伊勢にいた小倉宮も同行して、時節を待つうちに、まず恒親親王が世を去った。次に子に先立たれて力を落された亀山上皇が孫の小倉宮実仁親王の即位も待てず七十五才で崩御される。病を得た将軍・義持が退位し、正長元年(一四二八)の正月になると、くじ引きと云う手段で僧籍にあった弟の義教(*1)が六代将軍となる。
 続いて七月、北朝の後花園天皇の即位が決定するや、小倉宮実仁親王は泰仁、尊義の二皇子と共に京を脱出した。かねて伊勢の義仁親王や北畠満雅と内々打合せた通り、伊賀をめざし名張郡に入った。
 一行は北畠家の侍達に護衛され長瀬太郎生川を遡り、三多気から伊勢奥津に入ると八幡神社の神宮寺である禅寺・金華山崇福寺(現・念仏寺)を御座所とした。これは峠一つを越えると北畠顕能以来の本拠である多気館や霧山城と云う便利な要害の里で、義仁親王が御所とされていた為だろう。
 「時こそ来れ!」と北畠配下の大和の秋山、沢や楠木、越智一族もこれに呼応し吉野、熊野の南朝方の志気も頗る高かった。しかし、十二月に入って津の中津川での三日に及ぶ決戦で主将・満雅が武運拙なく討死した為に戦局は急転直下、悪化した。
 大河内城での顕雅や教具の懸命な力戦も兵糧尽きて落城寸前となるや、小倉宮父子の助命帰京を条件に降伏和睦も止むなし、と云う事になった。赤松満祐の尽力で辛うじて伊勢国司の名だけは許されたが、支配地は僅かに飯高郡一郡のみと云う哀れさであった。

(*1)よしのり。1394〜1441。室町幕府第6代将軍。3代将軍義満の3男で4代将軍義持の同母弟。当初出家。義持の子・5代将軍足利義量が急逝。義持も後継者を決めず没。管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮で行われたくじ引きで将軍に。就任の際には斯波氏、畠山氏、細川氏から「将軍を抜きに勝手なことをしない」と証文をとった。

(8)観世元雅、天川で舞う
 二年後、永享二年(一四三〇)の春になると天川行宮だった弁財天の社殿の舞台に突然南朝方の志気を鼓舞するかの如く能楽の大成者・世阿弥の嫡男・元雅が姿を見せた。
 そして「唐船」等数々の能楽を奉仕し、その入神の芸の見事さで人々を沸き立たせると「所願成就」としたためた能面を寄進している。彼の所願とは能楽の大成に事よせてはいても、実は幕府が約定を守って真に天下が泰平の世となる事を望む、観阿弥以来の変らぬ悲願であったに違いない。
 観世元雅が天川を訪ねたのは宇智の高取城に籠って幕軍を相手に孤軍奮斗している南朝方の越智伊予守の切なる要請があったとは云え、元雅自身が南朝方に心を寄せる同志でもあったからだろう。
 然し観阿弥家が楠木一門と縁戚であり、元雅が戦火の中を天川に潜行して弁財天に奉仕能を演じた事を知った将軍・義教は、激怒して側近の斯波三郎に暗殺を命じたらしい。その独裁者ぶりから「悪御所」と仇名された人物のやりそうなことである。

(9)観世元雅は逝き、世阿弥は佐渡に流される
 前年、永享元年(一四二九)七月には大和一円に永享の大乱が勃発する。石ノ上に城を構えた興福寺衆徒の井戸杢之助時勝と豊田中ノ坊との争いで、官符衆徒筆頭の筒井順覚らは井戸を助けた。南朝方の主将となった越智維道は中ノ坊に加勢して十年にも及ぶ戦乱の世となってしまう。応仁の乱の前兆とも云える。
 永享三年(一四三一)には刺客により観世元雅が伊勢の津で興行中に祖父と同じように急死して四十年の生涯を閉じた。父と子を黒い手で失った世阿弥の嘆きは痛ましい。
 然し世阿弥は断固として屈しなかった。次男・元能に『申楽談義』を口述させると仏門に入らせて越智家の領内に匿って貰い、自分はひたすら能道に打ち込み『高砂』『羽衣』を始め、伊勢物語の『井筒』などの数々の名曲を完成している。
 『井筒』については前述のとおりであるが、後世の井戸良弘(*1)も我家を代表するような名曲にゾッコン惚れこんで十八番とし、その巧みさは「大名芸に非ず」と感嘆されている。そしてそれを見た関白秀吉も文禄慶長年間しきりと自から上演して居り、現在も石上の在原寺に業平の「烏帽子塚」、郡山には「姿見の井戸」と云う史跡が残っている。
 世阿弥の最後の苦難は執拗な義教の命で七十過ぎた身で佐渡に流罪となった事で、それは元雅の三回忌も済まぬ永享六年(一四三四)の夏だった。
 その理由は義教の寵愛する甥の音阿弥に観世の四代当主を譲らなかった為とされている。世阿弥としては我子を殺させた悪御所の命によって生涯の事業とした芸道を曲げる事は死を賭しても断じて出来なかったに違いない。
 佐渡に流された後もそのファイトは少しも衰えず数々の研鑽を重ねた。幽玄能の世界の大成に努めているあたり、さすがは楠木一族と伊賀の名族服部家の血をうけた武夫の出らしい斗魂であった。

(*1)いどよしひろ。1532〜1612。戦国時代の武将。井戸覚弘の子。室は筒井順慶の娘。若狭守。井戸城城主。大和国の国人領主の一人として筒井氏に仕える。永禄年間、松永久秀のため居城井戸城を攻め落とされるなど苦戦。後、井戸城を息子の井戸覚弘に譲り、自らは織田信長に仕える。数々の戦功により山城国填島二万石を任された。しかし1582年、本能寺の変の後の山崎の戦いで羽柴軍に与さなかった為に改易。関ヶ原の戦いでは、東軍の細川幽斎につき、丹波国田辺城で西軍の小野木重勝軍を相手に篭城。戦後は大和国に戻り、余生を過ごした。なお、井戸氏にはこの良弘の子孫で同じく良弘と名乗った人物が数名存在する。

(10)南朝の天川行宮、陥落する
 そんな中にも大和に於ける筒井、井戸と越智、豊田の戦いは互に一進一退を繰返す。将軍・義教の側近となった順覚の子・光宣の尽力で幕府が出撃して豊田城を陥落させる。
 それに憤激した越智方が、「元雅の弔い合戦」と死斗の末に筒井順覚を討取り、勢いに乗じてその本城を落して凱歌をあげる。
 続いて石ノ上の井戸城を包囲して遂にここをも攻略したのは、永享六年(一四三四)の秋と云われ、井戸一族は涙を呑んで結崎に敗走したようだ。
 その情勢を見て「時こそ来れ」と小倉宮実仁親王が再び京を出奔して吉野川上郷で遺臣を集められ、再び兵を挙げたのは永享八年(一四三六)だった。後南朝派の越智一族は高取城に籠り、多武峰で仏門に入っていた四条、日野、三輪らも還俗して義旗を掲げ、延暦寺の僧兵もこれに同調した。
 七月には義教と将軍職を争った弟の大覚寺義昭が、三井寺円満院の説成親王の子・円胤を擁して挙兵せんとした。しかし事が露見したので、義昭は大和の越智を頼って天川行宮で南朝再建の峰火を挙げる。
 それを怒った義教は畠山持国、土岐頼持に厳命して大軍を催おし多武峰と高取城の攻撃にかかる。南軍は良く健斗して永享十年(一四三八)まで持ちこたえたが衆寡敵せず春に多武峰が落ち、夏には天川が陥落した。

(*1)室町幕府の第十五代将軍。Chap 4室町の巻4.3 石上姫丸城を参照。

(11)南朝派の越智維道、長谷寺で死す
 円胤王は吉野北山に潜み、義昭は伊勢から海路九州に逃れる。小倉宮実仁親王も川上郷を転々とされるうちに秋には遂に高取城が落ち、越智維道は宮と合流して再挙を計るべく吉野をめざした。
 然し永享十一年(一四三九)春には越智維道が長谷寺の門前で壮烈な最後をとげる。残された一族は十津川に落ちて再挙を計り、兵火は遠く新宮大社にまで及んで大騒動となっていた。不屈の越智勢の中に、父の『申楽談義』を聞書した後に出家した世阿弥の次男・元能の姿も交っていたと云う。南北朝の合戦に多数の時宗僧や天台、真言の山伏が加わって奮戦しながら、戦死者の供養や負傷者の手当に活躍したのは事実である。
 楠木正成の最後を後世に伝えたのも時宗僧や山伏たちであった。元能も単なる世捨人ではなく、楠木一族の血をひく人情厚い従軍僧として、南軍の戦士達に深く信頼されつつ充実した人生を送ったと思われる。

(12)赤松満祐、将軍・義教を暗殺
 嘉吉元年(一四四一)六月、将軍・義教は九州に逃げた弟・義昭の首を実験し「まずこれで一段落。」と嘯いて天下人の威勢も高く側臣赤松満祐の館で催された猿楽鑑賞の盛宴に臨席した。
 管領細川持之を始め、畠山、山名、京極ら大名も列席して大盃が巡らされ、観世音阿弥の猿楽が開演された。その時、突如として庭先に荒馬が乱入して大騒動となったと見るや、後の襖を破って白刃を閃めかせた武士達が将軍に襲いかかった。
 盃を落す暇もなく義教は一刀の下に首を刎ねられ、豪華な狩衣を朱に染めて惨めな屍をさらした。その独裁ぶりから虎狼の如く恐れられた彼にも似ぬあっけない最後で犯人が邸の主の赤松満祐と気づく者もない鮮かさだった。
 かねて義教が意にそわぬ守護大名を次々に誅し将軍の権力を確立せんと考え赤松氏の領国播磨美作を没収せんとしているのを知った満祐が機先を制した訳だが、義教を守って討死した者は僅か三名しかなく人々は先を争って逃げ落ちた。

(13)赤松満祐、死す
 事件を知った貴族達は
「将軍のこんな無様な犬死は昔から聞いた事もないが、自業自得じゃ」
 と冷評し、南朝の遺臣達ばかりでなく大名達さえ内心快裁を叫んだ。将軍の権勢は忽ち地に落ち、それを見て一時下火となった土一揆が再び勢いを盛返した。
 数万の群集が土倉や酒屋を軒並に荒し廻って手がつけられぬ情勢下に、重なる怨を晴した満祐は幕府の討手を待ち受けたが一向に姿を見せない。さらば故郷で最後をかざらんと義教の首を淀川の崇福寺に投げ捨てると播磨の白旗城に引き揚げる。
 やがて満祐は、幕府の大軍を相手に力戦二カ月、遂に力つきて潔よく自刃した。一子・教康は同じ村上源氏の出で、かつて阿坂城で北畠氏との和睦に仲介の労を取った縁を頼り伊勢に逃れた。しかし教具に裏切られて哀れな最後をとげ、名家赤松家は断絶する。
 世に云う「嘉吉ノ変」で、喜んだのは吉野熊野の遺臣達である。彼らは、先年吉野天川郷で挙兵したものの武運拙なく敗れ熊野北山に潜んでいた円胤王や、川上郷で日々の糧さえままならぬ生活に耐えて居られた小倉宮実仁親王に、変らぬ臣節を尽しながら時節を待っていた。
「もはや幕府の約定は嘘八百じゃ、この上は詐し取られた神器を力づくで奪い返し新しい後南朝を建設せん。」
 と協議し秘そかに同志を募って着々と準備を進めた。

(14)楠木正秀、立つ
 嘉吉三年(一四四三)五月七日、中心と仰ぐ小倉宮実仁親王が俄かに崩じられた為に計画は頓座したが、不屈の遺臣達は宮の皇子を擁して計画を進めた。佐渡流罪からやっと許され帰京した世阿弥が八十一歳と云う長寿で没した秋の半ば、都近くまでも凄しい土一揆が荒狂っていた九月末の月の美しい夜、一斉に皇居を襲った。
 彼らが奉じたのは小倉宮の三男・円満院宮泰仁、四男・万寿寺宮尊義王である。後鳥羽上皇の子孫と云う源尊秀や楠木正儀の子・正元、正秀、越智一族に更矢喬重ら川上郷士を幹部とする三百余人だった。
 さらに従一位日野大納言有光、資親父子が足利氏に対する怨みから彼らに味方して手引をしてくれる事になって居り、洞院、冷泉、高倉卿らも参加して自から先導された。
 作戦は軍師・楠木正秀が立て、先ず神泉苑に集結して管領や将軍御所を襲撃するとのデマを流す。幕府の警備兵がそちらに集結する際に二手に分れて御所に乱入。神器を取戻して比叡山に登り、僧兵の協力を得て南朝の再興を天下に号令せんとの大計画だった。

(15)楠木正秀、神器奪取
 不意を打たれた警備兵達を八方になで斬りつつ、正秀は南殿の昼ノ間、夜ノ御座所から内侍所に突入すると、案内知った高倉卿の指示を受け大納言典侍から難なく三種の神器を奪い取る。
 折しも夜ノ間で寝ていた後花園天皇が驚いて女御の被衣をかぶり逃げられるのを兵が一太刀浴びせかけた。既に危うかったが侍従藤原親長が必死に庇い、其隙に四辻季長が手を引いて裸足のまま庭を駆け抜け辛うじて近衛殿に逃げ込んだ。
 其頃になると燃え上った炎は清涼、紫宸殿や内侍所を包み、泉殿や常御所にも飛火して目も開けられぬ情況となった。折しも東門に佐々木判官の率いる幕軍が続々と押寄せるのを見た正秀は
「神器は取戻した、取り囲まれむうちに糺ノ森から川沿いに叡山へ急げ!」
 と令し、自から神璽を抱いて先頭に立つと疾風の如く月明の中を突走る。
 神器奪取に成功したと聞かれて、両親王はいち早く叡山に向われた。同志である信海、円實らの案内で西塔と釈迦堂に本陣を置き、全山に令旨を飛ばせて尽力を乞われる。
 宝劍は正秀の郎党波多野五郎が肩にかけ、内侍所の宝鏡は湯浅九郎が背負って敵中を突破し懸命に叡山をめざした。

(16)正秀ら、二宝を奪い返され、十津川に落ち延びる
 然しながら神皇正統記に云う「誠の神器を持つ帝こそ正当の天子なり」を確信する南朝党の死斗も空しく、波多野は清水寺、湯浅らは四条西洞院で力尽きて討たれ、二宝は奪い返されてしまう。
 最も貴重な「伝国の玉爾」を抱いた楠木正秀だけが辛うじて叡山の西塔に辿りつき高らかに凱歌を奏したのも束の間。賞金に目がくらんだ叡山の裏切りによって激戦二日で南朝方の惨敗となる。
 日野、高倉郷や源尊秀、楠木正元以下多数の将士は討死、泰仁王以下六十余名が捕えられ日野資親らは翌日容赦なく首をはねられて無念の死をとげた。
 幸いにも尊義王は源尊秀が身代りとなった隙に更矢達に護られて東阪本から湖上を突破した。かねて潜伏していた甲賀の山邸蔵人館に入られ、玉璽を身につけた正秀達も比良山越えに十津川に落ち延びた。
 正秀らは円満院宮を始め多くの同志の悲惨な最後を知った。亡き人の志を貫く為にも最も重宝とされる神璽を尊義王に献じて後南朝の創建を計らんとし、嘉吉四年(一四四四)正月十津川に全遺臣の参集を求め大会議を行った。

(17)後南朝の創建
 後南朝の創建に同志達も喜んで賛同し、直ちに川上の更矢喬重が近江甲賀の山邸方に参じて尊義王に決議を言上して奮起を乞うた。三十半ばの豪毅活達な尊義王が金剛寺に入られたのは嘉吉四年(一四四四)正月中旬で二月五日を期して擧式と決した。尊義王は、その日の早朝には吉野川の清流で洞院、葉室侍従と共にみそぎされ、颯爽と金剛寺に入った。伝国の神璽を本堂に奉じ厳粛な式典が古式通り進行し、里の美しい乙女達の舞う「千秋万歳」の雅楽の調べも華やかに歌い納められた。
 去る元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)、後亀山天皇が還京されて以来五十余年ぶりに「天靖」と云う南朝年号が復活した。征夷大将軍には北山に潜んでいた円胤ノ宮が還俗され、義有王と改めて就任される。
 楠木正行の孫である正隆、正理父子や正儀の子正秀一族、湯浅定仏の血を受けた湯浅掃部助、熊野那智党の音無喜大夫、越智駿河守ら名だる武将に昇任の沙汰が下された。
 川上十八郷の更矢一族を始め北山郷の豪族達にも広く論功行賞が発表された。二千を越える将士は柏木金剛寺川原を埋めて、後南朝の前途に大きな夢と希望に燃え、祝宴の賜酒に頬を染めながら時の移るのも忘れた事だろう。
 吉野熊野十津川一円の南朝の遺臣達を挙っての盛大な即位ノ大典が終ると人々は喜び勇んで新しい任務に就いたが、御所の近衛隊長を命じられた更矢正道の苦心は大変だった。
 この日の後南朝の盛典に就いては八月の中原康富の日記にも
「本宮より吉野の山奥にて南朝の宮方が御旗を挙げられたる旨の注進あり、聖護院検校ノ宮上奏さる。」
 と記されている。

(18)後南朝初代・尊義王、立つ
 朝廷(北朝)は驚愕し、
「一日も早く吉野の後南朝方を潰滅させると共に神璽奪還を計らねば」
 と懸命になったが、将軍空席の中だけに直ちに出撃とはいかない。
 それに対して柏木の南方党でも吉野に通じる街道上の要処である仏カ峯、北方の鷲家口に通う鷲ノ尾峠、それに東熊野街道を南下して熊野北山、伊勢口に通じる難所の伯母峯峠の三カ所に堅固な砦と関所を築いた。警備隊士には川上十八郷の由緒正しい筋目の士を選んで日夜警戒を怠らなかった。
 幕府の密偵や刺客を防ぐ為に月毎に合言葉が定められて、うさん臭い旅人は決して通さず、正通は常に金剛寺御所に詰めて日々の情報を集めそれに対し万全の配備をした。
 そして諸事が一段落すると北畠家の大河内城に匿われていた尊義王の三人の皇子を迎えた。武内氏の娘が生んだ一ノ宮、二ノ宮は、柏木の更矢家の邸内に新居を建てて、ここに住んだ。幼い三ノ宮とその母の大納言ノ局は、柏木の入波からさらに山深く分け入った三ノ公谷の八幡平に新しい行宮を建て、安住願ったと云う。
 北畠満雅の亡き後、当主となった顕雅や教具は苦戦の末に万策つきて幕府に降伏したものの、南朝に対する忠節は失わず、数々の軍需品に幾十人かの忠實な近臣をつけて送り届けて来た。
 南帝・尊義王は大いに喜び、征夷大将軍・義有王と協議して
「本年は戦力の充實に努めつつ広く義兵を募り、訓練を重ねて精兵を育てる事に専念し、来春は紀伊から中原に旗を進めん」
 と斗志を燃やし、かくして後南朝四代五十余年に及ぶ苦斗の歴史が展開される。
 その詳細は、拙著『熊野年代記(南北朝の巻)』に述べた通り、北山滝川寺の雪の夜の惨劇、熊野光福寺行宮での敗北、入鹿村大河内、那智色川行宮での激斗等々、余りにも血涙にまみれた悲話は再び語るに忍びない。せめて南帝の御名と行宮の所在地のみを記して筆を置こう。
(訪問記、追加予定)




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