Chap 3  南北朝の巻

3.7 万世に泰平を求めて

(1)老僧と下級公卿、嘆く/1
 楠木正儀が金剛山中に姿を消してより五年後の元中七年(一三九〇)になると天川の南朝勢は曽つて関東、九州への動脈だった大湊、堺、新宮、田辺港を失う。吉野熊野の郷士や山伏達、河内から十津川に退いた楠木一族、伊勢大河内の北畠らによって僅かに支えられていた。
 然し地元民から戦火で焼失した天川河合寺の再建を要請されても「天業成就の後に」と逃げ口上を云わねばならぬ程に財力は窮乏していた。高野も熊野も北朝になびいて遷宮費の寄進を仰ぐ時勢となってしまった。
 『太平記』の作者はその当時の世相について二人の文化人を登場させてこの動乱の世情を批評させている。
 一人は、元は北条幕府の評定衆だったと云う高位の武士でありながら、足利幕府に失望し、出家僧となって諸国を放浪して歩き、衆生済度を念願としている老僧。
 今一人は、父祖代々朝廷に仕え最近まで南朝方として吉野、賀名生、天川の行宮を転々とした末に、やはり望みを失い都に帰って侘住居をしている下級公卿である。二人は秋の月の澄み渡る夜、乏しい懐をはたいて濁り酒を求め、古寺の縁先でそれを汲みながらしみじみと浮世話を交した。
 老僧が
「北条幕府は明恵上人の教えを受けた泰時様や時頼様以来、私欲を捨てた清廉な政治の伝統があって善政が続き、部下の奉行達も常に正しい政治を心がけていた。
 けれど今の足利幕府の高官共は貪欲で功を誇る連中ばかりで、何だかんだと重い税金を取上げては喜んでいる。これでは世の中が安らかに治まる筈がありませぬなあ。
 それに比べると貴方の仕えていた南朝の人々は君も臣も片田舎の貧しい山の中で共に苦斗を重ねて居られるから、民の辛苦も良く判って居られましょう。こんな方々が政治を取られたらと大きな期待を持って居ります。」
 と云うと公卿は淋しく首をふって、
「南朝の帝が本当に万民に泰平をもたらそうと努められ、その廷臣達も私心をなくし、清貧を旨として君を補佐して居られれば、腐り切った幕府の世などはとっくに奪回出来ている筈です。
 それが何十年かかっても出来ないと云うのはその政治が人心を得ていないからで、とてもとても期待なんぞ出来ませぬよ」
と答えている。

(2)老僧と下級公卿、嘆く/2
 老公卿に率直に云わせれば
「古代から天皇たるべき者の使命は天照大神の如き愛と慈悲を以て万民に接し、一切の私心を捨てて公平無私な政治を司り泰平の世をもたらす事にある。」
 然るに後醍醐天皇は己とその一族の権勢を保たんが為に宋学の説く大義名分論とやらを盾として天皇を絶対至高とした。その命に背く者を賊とし覇道と決めつけ、正嫡の北朝の君との約定さえ無視している。
 それに対し尊氏ら幕府の武士達は逆賊の名を免れん為に北朝の帝を奉じてはいても誠に尊王の心を持たず「力こそ正義なり」と信じ、所領や名利を得る為には臣節も信義もなく北条幕府とは比較にもならめ武家独裁社会を作り上げた。
 かつて武夫の理想は「命を惜しまず、名を惜しみ物の哀れを知る者」であったのに今ではその様な精神を旨とする武人は数える程もないと云った心境であったろう。
 そして両者がせめても希望の星と仰いだのが「人生五十年、功なきを恥ず」と詠じた宰相・細川頼之が再び政府首脳として返り咲いた明徳二年(一三九一)の春に入ってからだったと思われる。

(3)細川頼之、南北合一の交渉を続けて、死す
 細川頼之の政治信条とする処は他の大名達とは大きく異なり、
「政治の根本は万民の為に泰平をもたらしてその生活を安定させ、豊かな物資を生産させてその心を豊かにし“衣食満ち足りて礼節を知る”公武一体の世の中を築き上げ、王朝文化の伝統を後世に残しつつ、清廉な武家政治を樹立する」
 ことにあった。
 彼は十一国を領した権臣・山名氏清の反乱を鎮圧して守護大名の強欲を戒めつつ、かねて念願の南北合一を実現して天下の泰平をめざした。南朝びいきの『太平記』の作者もその大志を讃え、
「外相内徳、実に人の云うに違わざれば人々これを重んじ、外様大名もその命に背かず、中夏泰平無事の世となりめでたかりし事なり。」
と述べて全四十巻を結んでいる。
 その期待された頼之は、元中九年(一三九二、北朝の明徳三年)大和の栄山寺を舞台に紀伊の守護に任じた大内義弘に命じて南朝との和平交渉を進めた。基本約定の合意を得て安心したか、その春、頼之は後事を養子・頼元に託して六十四歳で世を去った。
「立って禅塔を尋ね清風に臥せん」
 と死の床で詠じた彼の瞼の底には、合一をめざして苦斗を続けた佐々木道誉や楠木正儀、或いは観阿弥の面影が次々に浮かんでは消えた事だろう。

(4)南朝・後亀山天皇、天川を去る
 その遺志をついで彼の死後も義満は新宮大社の要求に答え、数々の神宝を献じて天下の泰平を祈願した。大内義弘や北朝の日野中納言を督励して南北合一の実現を早めるべく交渉を続けさせた。
 けれど文中二年(一三七三)以来、天川行宮を最後の居城として二十余年、

●浅からぬ 契もしるし 天ノ川、橋は紅葉の 枝を交わして。

 と詠じつつ、尚も斗志を燃やされる長慶上皇を始め、四条、中園の公卿や一部の武将達は強硬で、交渉は難行し続けた。
 そして遂に紅葉も早い天川行宮の秋たけなわの頃、南朝側の最終案に対して淮三后・義満は素直に同意し、
「幕府としては南朝の正統を認め、神器は譲位の儀式によって北朝に伝えられる。以後の皇位は両統交替とし、大覚寺系皇族は国衙領、持明院系は長講堂領を以て生計費とする」
 と云う約定を結んだ。
 長慶上皇始め硬派の連中は尚も「幕府の約定は信じられぬ」と反対したが、後亀山天皇が「運命は天に任せて民の憂いを休めん」と決意された。後村上天皇の皇子の一人である惟成親王が、

●散り果てて 残る紅葉も 無きものを 何を染むべき 時雨なるらん

 と詠じられている事は力尽きた南朝の実情を如実に物語っている。
 久しく行宮として尽力してくれた弁財天社に、後亀山天皇は残り少ない南朝の所領の一つである宇智郡の庄を寄進した。

(5)南朝・後亀山天皇、嵯峨野へ
 後亀山天皇が天川を発したのは、元中九年(一三九二、北朝の明徳三年)十月末で『続紀伊風土記』はその陣容を、
「先陣は中辺路の山本判官の五百騎、二陣は熊野八荘司で那智の色川左兵衛ノ尉、芳養の杉若越後守、栗栖川の真砂兵庫、近露の野長瀬六郎、古座の高川原摂津守、周参見の周参見主馬、三箇の小山式部、安宅の安宅左近」
と詳記している。
 本陣には吉野川上の更矢通重や楠木、越智、北畠の諸将が続いたと思われる。秋雨の中を吉野から栄山寺、橘寺、興福寺と泊りを重ねて、いよいよ入京の際の廷臣は僅か十七名、武士は二十余名と云うから、護衛の将士は途中で天川や故郷に帰ったらしい。
 明徳三年(一三九二)の十一月三日、後亀山天皇の鳳輩がいよいよ入京した。その僅かな一群は京の北西にある嵯峨野の旧嵯峨御所大覚寺門跡に入った。ここは平安の昔、嵯峨天皇の別荘であり、その皇女が仏寺と改め、孫に当る恒寂法親王が初代の住職に就かれた名寺である。
 後嵯峨、亀山以来の御所で日本最古の庭苑池と云われる大沢の池に臨む広大な境内を有し、真言宗大覚寺派の本山である。華道発祥の地とされ、弘法大師の上奏によって一字三礼の誠を尽し般若心経の浄書を行う修行道場でも有名だった。
 後醍醐の父の後宇多法皇が院政を執られるに際し冠を傍に置かれたので「御冠の間」と称される正寝殿も残されて居り、承久ノ乱(*1)で没収した広大な八条院領を幕府は後に亀山天皇に返した為にこれが大覚寺系の荘園となり討幕の主要な財源となった。

(*1)武家政権(鎌倉幕府)と京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れた。後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に流される。乱の後、幕府が優勢になり皇位継承などに影響力を持つ。

(6)三種ノ神器入洛す
 けれど当時の嵯峨野・大覚寺は後醍醐天皇が二度も叡山に移られた際に尊氏の軍勢に侵され、長い吉野朝時代にも南朝発祥の地と云うので広大だった寺領も荘園も失って財力も乏しく、霊明殿や、正寝殿等の建物も朽ち果て満足なものではなかったろう。
 僅かな供奉の人々に護られて大覚寺の門内に入られる天皇の一行を拝した元南朝の公卿などは「定めし後悔なさる事に違いない。今回の御進退は粗忽であった」と呟いているが、果せるかなその予想は正しかったようだ。
 その翌日、合一の約定は早くも破られる。
 北朝の後小松天皇も義満も姿を見せず「禅譲の儀式」は挙げられない。三種ノ神器のみが引取られると、北朝御所の内侍所で三日三晩の崇かな神楽の調べと共に後小松天皇は始めて正統の天子に就かれた。
 かつて皇国学華やかなりし明治末期、歴史学界は大論争の結果「地に二王なし」として「一天両帝」の南北朝時代を否定し、後醍醐天皇の南朝を正統とし「吉野朝時代」と定め、南北合一後に始めて後小松天皇を第百代の正統の天皇としている。
 けれど『熊野年代記』は明徳三年の南北合一に就いて単に「三種ノ神器入洛す」と記すだけである。北朝の貴族達が「南朝降参」と豪語するのも無理からぬ処であり、当時の時勢が如何に南朝に不利で、「南北朝が平和のうちに合体された」等とはとても云えない実情だった事が判る。


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