Chap 3  南北朝の巻

3.6 楠氏と観世一族

(1)後村上天皇、勝手神社で詠ず

 正平三年(一三四八)正月、河内東条に籠り己の建てた作戦に天佑ありと自信満々で勝報を待っていた親房は案に相違して正行一族の玉砕を知る。大いに驚いたが、最早とるべき策はなかった。
 『太平記』によると、勝ち誇った師泰の二万余が石川河原に向い、付け城(*1)を構えて東条攻撃にかかったのが八日である。師直が別に三万を率いて吉野に向ったのを知るや、親房は慌てて四条隆資を御所に走らせ、
「正行は既に戦死し、明日にも敵は皇居に迫らんとして居ります。この地はさしたる要害でもなく守兵もありませぬ故、急ぎ今夜中に退去下さい」
 と奏上させたと云う。
 後村上天皇は訳も判らず夢うつつで馬に乗られ、皇后や皇族を始め公卿、殿上人やその奥方、女官、侍童に至るまで慌て騒いだ。取る物も取りあえず嶮しい山路を辿り、垂れこめる山の雲霧を分けて吉野の奥に迷い入った。
 勝手明神(*2)の社を過ぎる時、
●頼む甲斐 なきにつけても 誓いてし、勝手の神の 名こそ惜しけれ。
と詠じられて行く末を案じている。

(*1)すみやかに敵の城を攻略できそうにない場合、敵城および領内を押さえる要地に、味方の軍勢を置きその周辺地域を鎮圧するために築いた小型の城
(*2)勝手神社。祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、木花咲耶姫命(こなはなさくやひめのみこと)ほか三神。『古事記』によると、大山祇命の姫神が木花咲耶姫で、この姫神はまた桜の神とされる。


(2)後村上天皇、天川弁財天に到着す
地図作成予定
 その責任を負うべき親房は、いち早く東条から水越峠を越えて十津川街道の穴生の里に逃げ走っていたようだ。
 後村上天皇の一行は川戸から小南峠を越えて大峯山への登り口である洞川に入り滝泉寺の山伏達に守られて虻峠をあえぎつつ、川合寺から南下すると天川村坪ノ内にある天川弁財天に到着される。
 後に日本三大弁天(厳島、竹生島)のトップに置かれる同社の創建は役ノ行者(*1)である。役ノ行者が大峯修行中にまず出現されたのが弁天様だったが、女人禁制の山だけに天川に祭ったと云われる。後に天武天皇(*2)が社殿を築かれ吉野総社とされた。
 そして唐から帰られた弘法大師(*3)が高野開山前の三年間ここを根拠とした。また聖宝上人(*4)が大峯中興に励まれ、その奥ノ院として弥山頂上に弁天社を改修された。それにより一段と繁栄して当時の社家、山伏の数も吉野に次いだと云う。
 後村上天皇は、この地で足弱な皇后や幼い皇子、内親王、多数の女官達を、七堂伽藍を守る社人、僧兵達に託した。天皇の軍は更に紀伊の山間を踏破して遠く花園、清水、阿瀬川上城を転々とされる。

(*1)えんのぎょうじゃ。役小角。えんのおづの、とも。634年?〜706年?呪術者で修験道の開祖。はじめ葛城山に住み、呪術によって有名に。699年、弟子の讒言で伊豆島に遠流。鬼神を使役して水を汲み薪を採らせ、命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。『続日本紀』
(*2)てんむてんのう。631?〜686。第40代天皇。672年、壬申の乱で天智天皇(兄)の息子である大友皇子(甥・弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位。
(*3)こうぼうだいし。醍醐天皇に贈られた名前。774〜835。一般には空海(くうかい)の名で知られる。真言宗の開祖。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。最澄(伝教大師。天台宗開祖)とともに、旧来の奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教を転換させた。
(*4)しょうぼう。832〜909。諡号は理源大師。真言宗の僧。当山派修験道の祖。天智天皇の6世孫。空海の実弟・真雅の弟子。権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄で知られる。役行者に私淑して、吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行。以降途絶えていた修験道、即ち大峯山での修験道修行を復興。


(3)正儀、河内を守る
 正月半ば、勝ち誇った師直が「吉野退治」と豪語して三万の大軍を率いて吉野に迫った。しかし山上には最早一兵の影も残っていないのを知って腹を立て、行宮を始め蔵王堂(*1)や宿坊の悉くを灰燼に帰した。
 暴行掠奪の限りを極めた師直は当麻寺(*2)に本陣を置いて附近一帯の南軍掃射作戦を展開した。しかし正行亡き後の楠氏三代の棟梁となった三男・正儀の指揮する山民、野伏らの激しいゲリラ戦によって死傷者が続出した。
 ばさら(*3)大名の佐々木道誉の子・季宗を始め名だたる勇士が討死し、道誉自身も重傷を蒙ると云う大苦戦で、さすがの師直も閉口して後は弟の師泰に任せて早々に都に引き揚げている。
 代った師泰は楠木の本城千早城を攻略すべく河内東条に進攻したが、正儀の巧みな持久作戦に手を焼き、一年後には遂に音を挙げて見るべき戦果もなく都に引上げ、河内は再び楠木一族の支配下に入った。

(*1) 奈良県吉野郡の金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現三体のほか、多くの尊像を安置。「白鳳年間、役行者(えんのぎょうじゃ)の創建」、「奈良時代に、行基菩薩が改修された」と伝えられる。平安時代から焼失・再建を数回。現在の建物は天正20年(1592)頃に完成。
(*2) 奈良県葛城市の寺院。本尊は弥勒仏。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立。創建は聖徳太子の異母弟・麻呂古王。曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる。継母の暗殺から、当麻寺に入り尼となり、一夜で蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経の曼荼羅)を織った。
(*3) 南北朝時代の流行語。身分秩序を無視し華美な服装や振る舞いを好む美意識で、下剋上的行動の一種。足利尊氏は「ばさら」を禁止。『太平記』には近江国(滋賀県)の佐々木道誉(高氏)や土岐頼遠など世にいう「婆沙羅大名」の「ばさら」的行動が記される。


(4)師直・師泰兄弟、武庫川河原に死す
 其間に後村上天皇は五条から十津川天辻峠の中間にある穴生(*1)に行宮を置いて体勢を立直し、天川弁財天に居られる皇后以下は安らかな日々を過され、以来天川は吉野十八郷の秘められた南朝の中心拠点となったようだ。
 正平五年(一三五〇)に入ると直義(*2)と師直の争いが激化(*3)し、秋になると直義は権力の座から追い落された。思い余った末に出家姿で都を落ちると、かねて敵ながら信頼出来る人物と目をつけていた楠木正儀の門を秘そかに叩いて南朝に帰参したいと申し出た。
 湊川の父の仇を目の前に見て正儀も驚いたが「窮鳥ふところに入らば」の諺もあり政略家の正儀は親房に引き合わせて協議の末にそれを認める事になった。直義は南朝の綸旨をかざして畠山、桃井の諸大名を味方につけ忽ち京都を占領すると摂津で尊氏師直軍を大敗させた。
 尊氏はやむなく師直兄弟の出家を条件に和議を結び都に帰ったが、その後から俄坊主になった師直達がトボトボついているのを見た上杉憲能は「父の怨みを思い知れ」とばかり襲いかゝる。
 さしも強欲、狡猾な師直、師泰も積悪の報い逃れ艱く一人の郎党の助けもなく、まるで野良犬のように斬り殺されて武庫川河原に醜い末路をさらすのだが、こうなると僅か二年前に彼の首を求めて玉砕した正行一族が今更のように惜しまれ「長袖兵を論じて国傾く」の感が深い。

(*1)あなう。現在の奈良県西吉野村賀名生(あのう)。この地の郷士・堀孫太郎信増が後村上天皇を迎えた。一時南朝の御所が置かれ、正平六年(一三五一)十月、尊氏が南朝に帰順。北朝が否定され南北朝統一(正平一統)。翌年正月、後村上天皇は、京都に還幸。「願いが叶って目出度い」から「加名生(かなう)」の名に。後、「賀名生」に改名。
(*2)足利尊氏の弟。兄・尊氏と二頭政治を行う。執事の高師直と対立し、観応の擾乱に発展。直義は罷免、出家して和睦。後、師直討伐を掲げて南朝へ降り、高兄弟とその一族は死す。政務に復帰するが、正平一統(南北朝統一)後、鎌倉の浄妙寺に幽閉され急死。
(*3)観応の擾乱。足利直義と高師直の争い。


(5)尊氏、北朝を廃立して、直義討伐に向う
 直義は再び幕政を握り、正儀と協議して改めて南北合一の和議を進めたが、親房は王政復古、幕府否認を力説して聞かず遂に破談となり、政治的立場を失った直義は都を落ちて鎌倉に奔った。
 そして正平六年(一三五一)の秋になると、驚いた事に南朝は、尊氏と義詮の降伏を認めるとあべこべに直義追討の勅命を発した。さすがの正儀さえ呆れた程だが、これは親房と尊氏の極秘交渉の結果である。その約定は、
「北朝は廃止し神器は返還する。今後の朝政は一切南朝に任せるが、其間に兵を用いる事は共に決してしない。」
 と云う条件だったらしい。
 アレヨアレヨと云う間に正平六年(一三五一)秋には崇光天皇と皇太子直仁親王が廃され、北朝は忽ち解体された。(*1)北朝方の公卿達は途方に暮れただけでなく、興福寺(*2)の一乗院が南朝に参じて大乗院との間に合戦となり、結崎郷一円を支配していた井戸一族も吉野から熊野に進出して熊野八荘司(*3)と提携を計ると云う激動の世となる。
 正平七年(一三五二)正月、かつて北朝を担ぎ出して幕府を創立した尊氏は、事もあろうに南朝に降伏して北朝をあっさり廃立した。親房の云うままに光厳上皇以下を幽閉し、神器を南朝方に渡すと、京都を義詮(*4)に守らせて慌しく鎌倉の直義討伐に向った。

(*1)南北朝統一。正平一統と呼ばれる。
(*2)法相宗大本山。創建は藤原不比等。平安時代、上総国・信濃国・飛騨国・備後国に荘園を得た上、春日大社の神威を「神仏習合」により配下に。藤原摂関家と結び強力な政治力を持った。大和国の多くの寺社(法隆寺・薬師寺・西大寺等)を支配下に。しばしば東大寺と衝突。一乗院と大乗院の両門跡が、交代で別当を出すようになる。戦国時代、各地の荘園が武士に侵され、一乗院の坊人であった筒井氏が戦国大名化する等、寺勢は衰退。
(*3)荘司とは荘園の雑事を担当した職。もともと熊野神宮領の荘園で仕事をした。『武装集団』に発展。有力武士団は八つあり熊野八荘司と呼ばれた。その一つの鈴木氏が有名。この一族は熊野の出自で平安末期に和歌山県海南市に本拠を定めたと云われる。
(*4)室町幕府2代将軍。足利尊氏の第三子で嫡男。


(6)尊氏、直義を毒殺
 それを見た親房は「してやったり」とほくそ笑み、楠木正儀、北畠顕能らに京都進撃を命じた。常々「正直と慈悲」を振りかざす大学者とも思えぬ君子豹変ぶりで、親房を信じていた義詮は忽ち都を追出される。
 十七年振りに入京した親房は意気揚々と「京都回復の淮三后(*1)の宣旨」を発し、捕えた北朝の皇族を賀名生に送りつけると後村上天皇に出陣を乞い、天皇も勇んで楠木の根拠地河内東条に入られる。
 けれど口さがない京雀達は「偉い学者さんやと思うていたが、まるで火事泥じゃおへんか」と囁き、南朝の品位を傷つけ戦いを更に泥沼化する事になる。
 正平七年(一三五二)一月、尊氏は直義と和睦して鎌倉に入ったが、折しも親房が約定を破って都を占領。後村上天皇が賀名生を出て摂津住吉に行宮を進め、宗良親王を征夷大将軍に任じて尊氏追討を命ぜられた。その事を尊氏が知るや激怒したのは当然だった。
 三月、直義が南朝に利用されるのを恐れて毒殺し、火の玉の如く鎌倉を回復した。同じ頃、近江に逃れて体勢を整えた嫡男・義詮も三万の兵を擁して反撃に転じ、連戦連勝の勢いで都に迫った。

(*1)じゅんさんごう。皇后(*1-1)や皇太后(*1-2)と同格の地位。親房の地位が上がったということである。
(*1-1)こうごう。天皇の正妃。
(*1-2)こうたいごう。先代の天皇の正妃。太后とも略される。


(7)親房、賀名生で病死す
 親房は、「淮三后」と云う皇族に準ずる待遇で、「天下の耳目を驚かせ」つつ年号を正平に戻した。また、北朝の崇光天皇を廃して三種ノ神器や上皇方を賀名生に移して権勢を誇っていた。が、三月半ばには再び逃げ出さねばならなかった。
 お気の毒なのは後村上天皇で、男山八幡宮(*1)まで進み晴れて還幸の日を待ちわびていた。しかし遂に都の土をふむ日もなく、五月には義詮軍の夜襲をうけて四条隆資らは討たれ四分五裂となって潰走した。
 それも後村上天皇自身が三種の神器を葛籠に入れて馬の鞍にかけ、雑兵の群に交って命からがら逃げ走られると云う惨状で帝の鎧には流れ矢が十数本もささっていたと云う。
 尊氏が窮した挙句の降伏とは云え、一旦結んだ約定を信義を以て守れば、少なくとも南朝は正統の皇室と仰がれ、二十余年の戦乱を収めて万民に泰平をもたらす事が出来た筈である。
 その責任は明らかに総帥・北畠親房にあり、楠木正儀などもその言行不一致ぶりを見て「麒麟も老いれば駑馬」と痛嘆し、王政復古などの時代遅れに固執せず、武家政治を認めて一日も早く泰平の世を開かねばならんと決意したようだ。
 いっぽう尊氏は血肉を分けた弟を毒殺し南朝軍と大激戦の後に漸く都を回復したものの三上皇を連れ去られた為、飾り雛とは云え玉座に坐る内裏様がなくて困り果てた。
 仕方なく光厳上皇の第二皇子・弥仁親王を女院の命により神器なしで皇位につけ後光厳天皇としたが、それも京雀の物笑いの種となったらしい。
 そんな中で病を得た親房は、正平九年(一三五四)の四月になると敢なく賀名生の行宮で病死した。南朝の総帥であった彼は元弘以来、独裁者の後醍醐天皇の謀臣として粘り強く戦い、神皇正統記を書いて南朝の正統性を力説し王政復古をめざして懸命に尽した。
 けれど勝敗は天皇の威光などと信じて無謀な作戦を強行して正行らを空しく玉砕させ、大学者にあるまじき策略により南朝の品位を落し、両統を合一して万民に泰平をもたらす機会を失した責任は免がれない。
 それでも一族が斃れ尽し僅かに姓を改めて十津川に潜みかくれた楠木一族に比べて北畠家は幕府に降って歴代伊勢国司の座を保ち続けた為に後世も高く評価されてはいるがその功罪は半々としか思えない。

(*1)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)。京都府八幡市、男山の山頂にある。九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮。祭神は本殿中央に八幡大神(*1-1)、西に比淘蜷_(ひめおおかみ)(*1-2)、東に神功皇后(じんぐうこうごう)(*1-3)。この本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神という。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。
(*1-1)誉田別尊(ほんだわけのみこと)。すなわち第15代応神天皇(おうじんてんのう)
(*1-2)宗像三女神、一説に仲津姫命、あるいは本朝国母玉依姫命(ほんちょうこくぼたまよりひめのみこと)
(*1-3)息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)


(8)尊氏、急死す
 後村上天皇が行宮を金剛寺に移されたのはその十一月で以来六年間この地は南朝勢の大本営となり、南朝皇族は摩尼院を住居とし、食堂を天野殿として政務を取られる。
 北朝皇族はその裏手の観蔵院に囚われの身として四年の歳月を共にする事になるのも哀れである。
 正平九年(一三五四)の暮には足利直冬(*1)や桃井直常らが南軍に帰順した為にその勢力は強大となった。我子に攻められた尊氏は後光厳天皇を擁して近江に逃走したから、天野山の南朝皇居は大いに沸き立ち、それに比べて北朝貴族は侘しい春を迎えたろう。
 明けて正平十年(一三五五)三月になると尊氏は京の南軍を敗走させて再び勢力を盛返す。金剛寺に囚われていた光厳上皇らが京に帰られたのは正平十二年(一三五六)の春で此頃になると北軍の勢力が此地にまで拡大されたのだろう。
 そして正平十三年(一三五八)四月、突然北軍の総帥・尊氏が懐良親王を擁する南朝征西府を自から鎮圧せんと準備中に急死すると云う大事件が起った。
 尊氏は熊野三山の造営にも大きく貢献しているが、その願文を見れば「大願成就し我家が繁栄せば社殿を新築し田地を寄進す」と神仏まで物で釣るような言葉が見られる。正成が産土神に対し、「朝敵亡び天下泰平とならば毎日社前に法華経を誦読して厚く感謝の誠を捧げん」と記しているのと好対象である。両者の品性や思想、行動に格段の差があり「理想の武夫は正成一人のみ」との『太平記』の評価も当然と思われる。
 然し当時の武士社会は源平時代の「名を惜しみ、物の哀れを知るこそ武士」とする信条より物欲第一であった。敗れても死を急がず「降伏すれば所領の半分は残る」と利を先に、「今日は南朝、明日は北朝」と景気の良い方につくのが常となった。それらの時勢をもたらせた張本人が尊氏であったと云える。

(*1)あしかが ただふゆ。足利尊氏の妾腹の子。妻や、冬氏ほか数人の子が存在したと言われている。実父・足利尊氏に認知されず、幼少時は相模国鎌倉の東勝寺(神奈川県鎌倉市)で喝食(*1-1)となる。後、還俗して上洛、京都で玄恵法印に紹介され叔父・足利直義の養子に。直義に一字を与えられ直冬と名乗る。
(*1-1)禅宗のお寺で食事の時間などを知らせたり、食事のメニューを声を出して、知らせる役目をする僧で、少年、童子がその任にあたり喝食行者(かっしきあんじゃ)と呼ばれた。


(9)正儀、京を攻め、義詮、近江に逃走す
 さて尊氏亡き後、二代将軍となった義詮は楠木正行に武将として深い尊敬を抱いていた。それだけにその弟・正儀のあくまで時流に媚びず、臣節を貫かんとする態度に好感を持ちつつ、何とか一日も早く「両統を一体として天下泰平の世をもたらせ」と云う父の遺言を果さんと望んでいたようである。
 正平十四年(一三五九)も実りの秋になると、紀伊龍門山に於ける激戦や、九州筑後川での南朝勢の勝利を聞いて此際、新将軍の武威を大いに示さんと関東勢を召集して大挙河内に進撃した。
 後村上天皇は当時河内天野の金剛寺を行宮にしていたが正儀は畠山国清らの大軍が迫るのを知るや後村上天皇を観心寺(*1)に遷し、金剛寺の松に高々と非理法権天の菊水の旗を翻えして激しく迎え討った。
 善戦三カ月の後、正平十五年(一三六〇)の三月になると幕府勢は遂に大門を突破して寺内に乱入し、三十余坊を焼き立てたが正儀は頑として守り抜いた。
 幕府は遂に諦めて都に引揚げ、天皇は再び観心寺に還えられたが、土地の名産の餅米で作った「寒晒(*2)」が好物と聞いた里人は競って手作り品を献上してお慰さめしたと伝えられている。
 河内和泉一円を回復した正儀は勢いに乗じ正平十六年の暮には突如として長駆京に進攻し、驚いた義詮は慌てゝ北帝を擁し近江に逃走する。
 この時、ばさら大名・佐々木道誉は都落ちに際し自邸を清め山海の珍味と茶器の名品を揃え、まるで賓客をもてなす様な態度で立ち退き、それを見た正儀も「さすがは風流人よ」と感心した。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。
(*2)かんざらし。白玉のこと。白玉粉は寒晒し粉ともいい、厳寒の候に、餅米を清水で晒しながら作る。水にさらして作るので暖かいと痛みやすいから、変質を防ぐため寒い時期に作る。河内の観心寺の名物だったので、古くは観心寺粉とも呼ばれていた。

(10)正儀と道誉、肚を割って話す
 北朝勢が大挙京に迫るや、今度は正儀が同じように邸を清め、秘蔵の兜などを置き土産にして整然と引揚げた。道誉はその人柄に惚れ、義詮と話し合い何とか正儀を話相手にして戦いを止め南北合一して泰平の世にし民の苦しみを救おうと決意したようだ。
 いっぽう政略家の正儀も同じ考えだったが、幕府(北朝)の有力大名だった細川清氏が義詮と合わず南朝に降参し「先鋒として都を攻略したい」と申し出てきた。公卿達は喜んで許そうとしたが正儀は、
「現在、京を取るのは我一族だけでも出来る。然し維持するのは困難だし、敵も意地になって奪回せんとするに違いない。いたずらに戦いを繰返すより此際は連戦で疲れた兵や民を休め、徐ろに大局を眺め直して事を処すべきである。」
 と力説して中止させている。
 この様な正儀と道誉が後に肚を割って話し合い、
「武力で得たものは武力で失う。このままでは果てしない争乱の中で優れた人材を殺し、罪もない民を苦しめるだけだ。一日も早く南北合一を実現して泰平の世をもたらさん」
 との結論に達する。その影の力には両者が共に親しかった有名な猿楽師、観阿弥の存在を無視する事が出来ないのは確かで、そこら辺りを調べて見よう。

(11)観阿弥〜田楽や猿楽
 正平十八年(一三六三)楠木正儀が南朝方の大黒柱として奮戦し京都を奪還して広く戦略家としての器量を知られ、北朝の重鎮の一人であった佐々木道誉からも共に天下泰平を論ずべき人物と注目されていた頃。
 伊賀名張郡小波田の豪族である竹原大覚の領内に新しい猿楽の一座が創設され、座長観阿弥の芸達者が人々の間に大きな評判となっていた。
 こゝで当時流行した田楽や猿楽の歴史に就いてざっと眺めて見よう。
 我国古来の神楽や唐や高麗、百済の外来舞踊が加わって様々な神事芸能が生れるのだが、田楽と云うのは農民が豊作を願って田の神を喜ばす為の歌や踊りから発達した国粋的なものである。
 これに対し猿楽は始めは散楽と云われた外来のもので滑稽な物まねや曲芸、歌、舞踊などが交った庶民相手の芸能の中から特に歌と舞を基本として発達し平安中期以来、共に大社寺の祭礼や法会には欠かせぬ行事となった。
 平安末期には専業者の同業組合の座が京や奈良を始め各地で結成されているが、田楽では京都白河の本座や奈良の新座が有名で、猿楽では春日大社に奉仕する大和猿楽、伊勢神宮の伊勢猿楽、法勝寺の丹波猿楽、日吉大社の近江猿楽が名高い。

(12)観阿弥〜楠木との縁
 さて次には観阿弥と云う人物の生い立ちだが、諸説ある。
 大和では、伊賀の平宗清を祖とする服部保清の三男で結崎に移住して結崎清次と改め義満に仕えて観阿弥宗音と称する。
 伊賀では
「観阿弥の父は北伊賀浅宇田の豪族上嶋景盛の三男で杉ノ木の服部家を継いだ服部元成であり、母は河内玉櫛ノ庄の楠木正遠の娘だった」
 と云うから正成の義弟になり、観阿弥から云えば正成は伯父、正行や正儀は従兄になる。
 北伊賀の服部家と云えば平氏の流れを汲む名門で、壇ノ浦後も各地で生き残った人々は根強く繁栄し、伊勢伊賀各地の山々から出る丹砂、朱、水銀等をその経済源として勢力を伸ばしていた。
 南伊賀には大江定基(*1)の子孫が東大寺をバックに栄え、当時は、後醍醐天皇の台所を預かる「大膳司」に任じられて興福寺と対抗し、赤目寿福院の天台系山伏とも深い関係を持つ大豪族であった。
 正成の軍学の師大江時親もその一族であり、金剛山風呂ガ谷の水銀鉱山の開発にも大江領内の発掘関係者の技術指導があったと思われる。服部家と同様に正成とは因縁浅からず元弘の乱後は、南朝方の有力な同志の一人だったろう。

(*1)?〜1034。和泉式部の父親であると伝えられる。Chap 2源平の巻2.4 不死鳥!伊賀平氏を参照。

(13)観阿弥〜生い立ち
 観阿弥が生れたのは正成が金剛山で北条の大軍を一手に引受け大活躍をしていた元弘三年(一三三三)で、父の元成は当然その同志として働いていたと思われる。幕命を奉じた足利高氏が金剛山に向う途中に伊賀路を選んで進撃しているのも彼らの動きを圧さえる為であったようだ。
 幼名を観世丸と称したと云う観阿弥が四歳の時、湊川で正成一族が討死している。観阿弥が幼なくして長谷の猿楽法師に託されたのは、楠木一門と生死を共にせんと決意した父元成が、せめて三男の彼だけは自由にその天性を伸ばしてやりたいと願った為かも知れない。
 観世丸が長谷に移ってからも母の里である河内楠木家は南朝の牙城として戦火の絶える日がなかった。正平三年(一三四八)四條畷で正行一族の壮烈な最後を聞いた観世丸は(恐らく元服して服部清次と名乗っていたと思われる)、在りし日の凛々しかった従兄達の死に若い胸を震わせたに違いない。
 そして勝ち誇った足利勢は此際南朝勢力の一掃を計り、師直軍は吉野へ、仁木勢は伊賀に向い、大江一族の守護神と仰ぐ杉谷神社や大江寺等も大きな被害をうけ北伊賀の南朝勢も大打撃を蒙ったようだ。

(14)観阿弥、小波田福田神社に創座
 苦難に襲われた故郷の事を案じながらも観阿弥の厳しい芸道修行は続けられ、大和猿楽の四座である竹田(金春)山田(観世)外山(宝生)坂戸(金剛)に遊学して一段とその芸を磨き、当時田楽の名人と称された一忠にも師仕し、数々の本も読破した。
 正平四年には京都四条河原で架橋の勧進田楽が催され、尊氏も大いに喜んで臨席しているが、熱狂した見物の大騒動で桟敷が崩壊し多数の死傷を出した時、観阿弥もその場に居合わせていたようだ。
 此様に二十余年の修行を重ねた末、山田座の山田小美濃太夫家光の養子となり創座の認可を得た観阿弥は妻の父である竹原大覚の尽力で伊勢参宮街道の道筋にある小波田福田神社に創座し晴れの初演を迎えたのである。
 それは正平十八年(一三六三)の秋で、観阿弥は男盛りの三十歳、長男藤丸は八歳で伊賀の浅宇田ですくすく成長し、次男(後の世阿弥元清)は生れたばかりだったと伝えられている。
 観阿弥一座は伊賀一ノ宮敢国神社や名張宇流布志根神社の奉仕能の楽頭職に任じられ次第にその評判が高まった。

(15)観阿弥、大和結崎に移る
 観阿弥一座は、大和結崎井戸の里の糸井神社(観世音寺)の叔父・糸井行心の招きでそちらに移る事となった。この地の領主は藤原氏の血をうけた忠文がここに土着して井戸を創立し、代々興福寺一乗院衆徒の下司職として勢力を振ったが、領下の糸井神社は結崎宮とも呼ばれ春日大社傘下の名社で古くから奉仕猿楽の座があったようだ。
 然し糸井行心と共に名張小波田に創座した観阿弥の名演技を見た領主井戸某は昔ながらの芸を後生大事に続けている楽頭職を更迭して新風を起したいと思い、礼を厚くして招いたらしい。
 観阿弥も創座したばかりの小波田座を捨てる気はさらさら無かったが、何と云っても大和は猿楽の本場だけにここに第二の根拠を作り、次には都に進出せんと考え、伊賀各社の奉仕能を勤めつつ結崎に移る事を承知したようだ。
 糸井神社の古伝によれば貞治二年(一三六三)の嵐の夜、天から能面と葱の種が降ると云う奇跡が起ったので観世音寺の別当とも協議の上、境内の一角に面塚を築き、今評判の観阿弥を招いて結崎座を創立したと云う。
 大和結崎に移り結崎清次と改めた観阿弥の胸中に秘められていたのは能楽の大成と共にかつて都に遊学した際に見た哀れな民衆の生活に一日も早く泰平の世を招かねばならぬと云う悲願であったろう。


(16)観阿弥、泰平な世を願う
 当時の公卿日記によれば「四条大橋に立てば流屍無数、流れる水を堰止め、腐臭鼻をつく」とあるように花の都でさえ打続く戦乱と飢饉で家を焼かれ家族を失った民衆は望みを失い、男は乞食や群盗となり、女は色を売る遊女となってその日暮しを続けていた。
 平安の律令政治は無力化し、打続く南北両朝の争乱に昔の清廉だった北条幕府に比べ足利幕府は未だその権威を確立出来なかった。大名達の下剋上の嵐が吹きすさぶ中で貪欲な商人共は
「この世は夢。天下がどうなろうと、我身さえ富貴栄華を欲しいままに過ごせればいいんだ」
 と嘯いている。
 観阿弥はそれを見て此様な末世に生涯の理想とする能楽の大成を成就させる為に、何よりも大切なのは「戦いの無い泰平な世にする事」で、自分として出来る限りその実現に努力するのが、亡き伯父・正成を始め一門の人々の冥福を祈る最大の供養だと考えた。
 そして観阿弥は母の里を訪ねて、同じ年頃の従兄である正儀と会う度にそれを語る。彼は武士を捨て猿楽と云う卑しい芸能一筋に生きながらもその恩を忘れず、
「二十余年に及ぶ戦乱の中で塗炭の苦しみに喘ぐ民衆に一日も早く泰平の世を」
 と人間愛に満ちた切々たる願いを訴える。その願いに、正儀もまた真剣に応えたいと考えていた。

(17)道誉、正儀と会う
 更に「ばさら大名」として世に知られつつ、乱世の中で連歌、茶道、能楽など風流の道を極めた異色の存在である佐々木道誉が正儀を相手に合一を計る事になったのも観阿弥の秘められた尽力があったに違いない。
 正平二十年(一三六五)、北条の六波羅を倒した歴戦の武人で四條畷でも正行を討った道誉が新宮大社の式年遷宮の総奉行となった。道誉は、名ある武将三十九名に率いられた千人近い大工職人達を続々と新宮に送り込み、自から工事監督に姿を見せたのである。
 その頃の彼は宇治川の先陣で有名な佐々木高綱の血を受けた近江源氏の名門と元弘の乱以来数々の武功によって亡き尊氏の信望も絶大であった。その事から義詮からも重んじられ今や幕府の重鎮となっていた。
 それが征西将軍・懐良親王の活躍で、九州全土は元より、四国の河野一族さえ村上義弘の尽力で宮方となり、大挙東上の機運が見える重大な時勢に遠路はるばる新宮大社の造営にやって来ると云うのは、

●定めなき 世を憂き鳥の 水がくれ 下やすからぬ 思いなりける

 との彼の歌の通り天下泰平を恵まれる熊野大神の神助を求める切な気持からである。大社の幹部の一人で楠氏の本家である楠刑部を介して、秘そかに正儀と会い、「南北合一」の和議を進めたいと念じたのだろう。
 道誉の要請を受けた楠三ノ太夫は喜んで河内に飛鳥山伏を走らせ、それを聞いた正儀も渡りに舟と直ちに新宮に向いここでじっくりと協議を重ねた末に双方とも合意に達したらしく、道誉は造営工事の完了を待たず帰京している。

(18)正儀と道誉、和睦に尽力す
 それは正平二十年(一三六五)の秋で、大和結崎井戸の里に新座を開いた観阿弥も内々それを聞いて大いに喜び、その座名も観世座と改め「自然居士」や「翁」の新作に取組みながら一段と芸道に精励し続けた。
 その前年の北朝の貞治三年(一三六四)、観阿弥は醍醐の清滝の神事で京での大評判を得た。彼は「猿楽の芸は衆人愛敬をもて一座の寿福とす」という信念通り、あくまで民衆の芸能を基盤として、「通小町」「卒都婆小町」「吉野静」等を次々に創作する。そうして、一日も早く泰平の世が到来し民衆と共に能楽を楽しめる日を待ちわびていたに違いない。
 翌正平二十一年(一三六六)になると、将軍・義詮が大旦那となった新宮大社の造営が九月には完成。嫡男・義満も神興と数々の神宝を寄進し、大社では大いに喜んで別当嫡流の宮崎、矢倉らが御礼言上に上洛したと云う情報が金峯山寺から行宮に報ぜられた。
 頼みとする熊野の動向を見て、後村上天皇も何とか遺勅に背かぬ条件で泰平の世を迎えられればと決意された。正儀とも協議の上、正平二十二年(一三六七)四月、側近の葉室中納言が講和の使者として入京し義詮と面談した。
 けれど綸旨の中に「足利方の降参」と云う言葉があった為に交渉は難行した。道誉と正儀の尽力でどうやら妥協が出来て、次には幕府の使者が吉野を訪れて最後の仕上げに入った。

(19)義詮と後村上天皇、没す
 然しその十二月、肝心の義詮が没し、望み通り正行の首塚の隣りに葬られる。為に交渉は一時中止され、三代将軍に幼い義満が就任、執事には細川頼之が任じられた。交渉が再開されんとした翌年の春、今度は後村上天皇が崩御されると云う悲劇が発生した。
 それは正平二十三年(一三六八)の三月十一日で、
●仕うべき 人や残ると 山深み、松の戸閉も 尚ぞ訪ねん
 の句を辞世とした。四十一年の生涯に戦いの止む日もなく住吉の行宮で没し、御陵は桧尾山観心寺(*1)に葬られ、其為に交渉は再び中断された。
 もし天が両者に後半年の齢を恵まれれば、南朝に正儀あり、北朝には大政治家・細川頼之と道誉が健在だったから、後のように契約不履行などと云う事もなく、後南朝六十年の悲劇も生じなかったろう。誠に惜しい限りだった。
 年代記には何も記されてないが、南朝三代の皇位には長男の長慶天皇が就かれた。大覚寺系らしい豪気果断な性格で和平派の正儀より抗戦派の四条隆俊らを好まれ、折角合意に達した和議を破棄してしまう。
「勅諚なれば止むなし」
 と正儀は悄然と河内に帰った。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。

(20)正儀、北朝に降参す
 正儀は、今まで骨を折って呉れた人々にも面目なく悶々たる日を過したに違いない。無謀な勅命にも黙々と従い「七生報国」の遺戒を残して臣節に殉じた父や兄の志を継いで二十余年を粘り強く戦い抜いて来た彼である。
 けれども果てしない戦乱の中で疲れ切り、安らかな日々もなく飢え苦しんでいる民衆の生活を考えると、このまま戦い続ける事が果して正しいのか大きな疑問を感じた。
 父が曽つて「皇室の安泰と万民の泰平を守る為に、尊氏を召し義貞を除くべし」と帝に直言したのを聞いていた彼は幾夜かを考えあぐねた末、遂に思い切った決意を固めた。一族は勿論、和田、橋本ら一門にも打明けず、秘そかに上京した。
 そして道誉と細川頼之に会い状況を物語ると
「南北合体して泰平の世を招く為に正儀一族は北朝に降参する。幕府はそれを利用して大挙南朝を攻めると云う事は決してやらず、抗戦派の勢力を弱めて和平実現に努める」
 と決めて帰国し一門に伝えた。
 かくして正平二十四年(一三六九)正月、住吉行宮では長慶新帝を囲む強硬派の側臣達が色を失う大事件が勃発する。大黒柱の正儀が北朝に降参したと云う思いも寄らぬ悲報が入ったからである。

(21)正儀、河内と和泉を平和にする
 四条、北畠の公卿達はまるで飼犬に手を噛まれたような顔付で楠木一門の和田、橋本ら武将達を責め立てる。彼らも正儀との打合せ通り何喰わぬ顔で腹を立てたふりをして直ちに出陣し赤坂城の空攻めにかかる。
 四月になると上洛して来た正儀を迎えた頼之は義満に接見させ約束通り大軍を派遣して彼を助けた。強硬派の筆頭である四条隆俊らを斃してその力を示すと、さっさと兵を退いて和平の機運が興るのを悠々と待つ。このあたり、正に鶏群の一鶴(*1)で、強欲で先の見えぬ幕将の中では道義心に溢れた第一の政治家と云えよう。
 正儀の降伏によって幕府は彼を河内、和泉の守護に任じ領下の人々は久方ぶりに戦いのない平和な月日を迎えた。農民は農耕に漁民は海浜の稼業に精励し、久方ぶりに豊作の祭太鼓が村々に流れ、以後十幾年と云う長い平和な歳月が続いた。
 良き領主として正儀の名声が都にも知られる頃、従弟の観阿弥は大和四座のトップとして京に進出し、今熊野神社の奉仕能で名曲「翁」を舞って口うるさい京雀から絶賛され、猿楽の第一人者の地位を築いたのは応安元年(一三六八)だった。
 正儀と観阿弥親子は共に京に住み泰平の世の招来に尽力し合った事だろう。

(*1)ぐんけいのいっかく。鶏の群れの中の一羽の鶴という意味で平凡な人の群れの中の優秀な一人であること。

(22)道誉が没し、細川頼之が失脚して、和平遠のく
 ところが、文中二年(一三七三)になると幕府内で南朝撃滅論が高くなり、やむなく正儀が先陣となって、天野金剛寺を行宮としている長慶天皇を攻めざるを得なかった。
 金剛寺伝でも「正儀しばしば襲来す」と記されているが、天皇が巧みに吉野天川や宇智の栄山寺に遷られているのを見ても彼がいち早く密使を走らせ急を告げたに違いない。金堂や天野殿などの歴史的な殿堂を戦火によって失う事のないよう、深追いを中止して軍を引いている。
 文中三年(一三七四、北朝・応永七年)に入ると恐らく佐々木道誉らの推薦があったのだろう。十八歳の義満は、観阿弥父子の今熊野神社に於ける勧進能に始めて臨席して大いに感動した。十二歳の可憐な世阿弥を深く寵愛し、身近に仕えさせて祇園の山鉾見物にも伴い、口さがない公卿達から冷評されている程である。
 義満の観阿弥父子に対する寵愛が深まるにつれて正儀が彼の邸を訪れる機会も増し、和平実現の為の相談を重ねつつも、義満に対しては観阿弥が楠木の親族である事は絶対秘密にしていた。
 観阿弥父子は、様々の新作を自作自演して義満を尊氏以上の能楽好きとした。そうして「天下の万民が挙って能楽を楽しめる為にも一日も早く泰平の世を」と正論を説き続ける。しかし観阿弥父子の努力も、道誉が没し、細川頼之が失脚するとさっぱり進展しなかったようだ。

(23)正儀、南朝に帰参す
 天授五年(一三七九)三月には長慶天皇から新宮大社の大納言法印御房宛に「阿波国日置ノ庄を寄進するから勝利を祈願されたい」との綸旨が届いている程で、南朝方の戦意は一向に衰えていない。それにしても霊光庵主を大納言なみの法印待遇に任じたのは前例のない扱いで、孤城落日の感が深い。南朝としては何とか熊野と高野を味方につけて体勢の立直しを計りたかったのだろう。
 弘和元年(一三八一)に入ると、九州で菊地本城が落ち、関東の小山は降伏。これを見て幕府内には天川の南朝皇居を断呼壊滅せよとの意見が高まった。
 義満から河内、和泉の守護に任じられた正儀は懸命に南朝の温存を計っていた。しかし弘和二年(一三八二)に入ると最早このままでは到底止められないと、遂に南北合一の望みを捨てた。落日の南朝に殉ずべく、秘かに観阿弥父子に別れを告げると、正儀は河内に急いだ。
「正儀帰参」の報は全南朝軍の志気を鼓舞したらしい。北朝方の新宮大社に、熊野川上流・北山一帯の南朝勢が大攻勢に出て鵜殿城に迫り、相野谷の社家弥宜達も南朝に味方して大激戦が展開された。
 戦いは九、十月と続きその為に大古以来、幾千年も連綿として絶える事なく続けられた大社の秋祭りが開催出来なくなり、前代未聞の出来事なので大社の幹部達も途方にくれたらしい。
 幕府の要人達に親しい宮崎、堀内らは都に走り、庵主や楠三ノ太夫は十津川を北上して天川に行宮を移されている長慶天皇に拝閲を願い、「皇位無窮と天下泰平」を神願とされる熊野三所権現の大祭が烏止野船や相野神官不参の為に遂に開催出来なかった実情を訴えて何とか平和の世を招来し大神の怒りを鎮めて戴きたいと要請し、神威を盾に居直ったのは当然の事かも知れない。

(24)観阿弥、富士浅間大社にて死す
 正儀らの奮戦によって幕軍の進功を喰止めた翌弘和三年(一三八三)十月、硬派の長慶天皇が退位された。弟君の温和な人柄の後亀山天皇が即位されたのは、前述の事情からとしか考えられない。
 万民の泰平を求める正儀や観阿弥らの悲願は今や熊野権現の神威に助けられ、徹底抗戦の南朝方に漸く和平を望む風潮をもたらしたと云えよう。
 大覚寺系では珍しく人の好い後亀山新帝の皇后が

●庵さす 宿は弥山の 陰なれば、寒き日毎に 降る霰かな。

 と詠じられた程に寒気の厳しい天川弁天社にも、果てしない動乱の中に漸く和平の機運が漂い始めていた。
 そして翌年、至徳元年(一三八四)の五月十九日、観阿弥は駿河の浅間大社の勧進能興行に出演する。
 富士浅間大社の大宮司は、秦ノ徐福の子孫で、時の五十八代大宮司は長男・義利が継いでいた。義利は、南朝方として宗良親王や護良親王の若き皇子達を助け、秘かに活動を続けていた。その様な大社の奉仕能を演じると幕府に憎まれる事は良く判っていたが、観阿弥は敢て出演した。そして見事な演技で民衆を喜ばせたが、何故かその直後に急死している。
 幕府の記録は「五月十九日観阿弥清次、駿河にて客死す。歳五十二才」とのみ記され、万世の太平を求めて奔走した彼の苦斗は一切秘されている。

(25)正儀、忽然と消える
 続いて翌年、元中二年(一三八五)になると長慶上皇が高野山丹生明神に、「今度、天下の雌雄を決すべき決戦を行うに際し格別の神助を賜わり度」との願文を奉納している。これから見て、天ノ川行宮を中心に吉野、金剛山、紀伊一帯にわたり、山名氏清を大将とする幕府の大軍を相手に大激戦が展開されたと思われる。
 そして南朝戦力の中心である正儀が金剛山中にその消息を絶ってしまうと云う大事件が起るが、何故かその戦いの状況は父や兄のように詳らかではない。
 幕軍の将兵の中にも彼を討ち取ったと名乗り出た者がいない点から見て「忽として消えてしまった」としか云い様がない。親族の観阿弥急死の翌年だけに恐らく大きな謎がかくされているに違いないが、今となっては確かめようもない。
 父の正成は挙兵より五年、兄の正行は僅か一年で玉砕して歴史に不朽の名を止めた。それに比べて正儀は四十年近くも苦斗を続けているのに、皇国史学全盛時代には不肖の子として抹殺され、逆賊扱いされた。戦後は逆に正成の子と云う立場から尊氏の如く英雄視される事もなく空しく埋没している。
 今も天野山金剛寺(*1)には、鹿皮に金箔を縫いつけ「非理法権天」と墨書し、十二菊に波頭の紋章を記した旗差物を背にした血みどろな正儀は残されている。
 そんな正儀の姿を仰ぐ度に、誠に気の毒でならない。
 幸い日本外史の頼山陽が
「正儀の行動は南朝が崩壊する事なく何とか南北合一に到達させんが為の深慮遠謀であり、彼がいた為に南朝は何とか面目を保って合一に漕ぎつけ得たのだ。」
 と力説。さらに
「正儀は決して父に劣らぬ清廉な武将である。もし彼が私欲の為だけに動いたのなら、南朝が志気盛んな正平年間に北朝に降り、壊滅の危機の迫った弘和年間に帰参すると云う馬鹿げた行動をとる筈がない」
 と断じている。
 正に其通りで、四條畷以後は若くして楠氏三代の棟梁として父の遺志を胸に柔軟な政戦両略を巧みに駆使して四十幾年を戦い抜いた。真に南朝の大黒柱は親房ではなく正儀だったと信じている。
 そして結崎糸井神社や名張小波田座のゆかりの地に楠木と観世父子の碑を建立して秘話を詳しく社史に綴り、広く氏子一同の胸に刻み込んで郷土の歴史に止めるべきだと思う。

(*1)あまのさんこんごうじ。大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも。聖武天皇の勅願により行基が開いた。南北朝時代には南朝方の勅願寺であり、南朝の後村上天皇の行在所(あんざいしょ)ともなり、北朝の光厳・光明・崇光天皇の行在所とされた時期もあった。

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