Chap 3  南北朝の巻

3.5 湊川、四条畷の玉砕

(1)北条時行の中先代の乱
 建武二年(一三三五)七月、俗に「中先代の乱」と云われる北条時行(*1)の乱は、単に北条氏の再挙だけでなく、朝廷内部に深く根ざしている。
 すなわち大納言・西園寺公宗が後醍醐天皇の余りにも醜い独裁政治に怒り、日野中納言資名ら持明院系公卿らと密謀して後醍醐天皇を邸に招いて刺殺し、光厳上皇の新政を開かんとしたのである。処が計画が洩れ、彼らは捕えられる。北陸に逃れていた時行らはここで挙兵する。諏訪大社の宮司らに助けられ五万の大軍となって鎌倉に進撃した。足利直義は激戦の後に三河に敗走して都に救援を求める。足利尊氏は征夷大将軍となり鎮圧に向いたいと天皇に奏上した。
 然し天皇は彼が第二の頼朝となる事を恐れて許さなかったので、尊氏は勝手に征討将軍と称して出陣する。新政に愛想をつかした武士達は我も我もと従軍して、八月半ばには鎌倉を回復し高らかに凱歌を奏した。

(*1)ほうじょうときゆき。鎌倉幕府第十四代執権・北条高時の次男。後醍醐天皇により高時ら北条氏は滅亡。時行は信濃に逃れ、諏訪氏などに迎えられた。建武二年(一三三五)七月、十歳前後(七歳とも)の時行は、信濃の諏訪頼重に擁立され挙兵。尊氏の弟・直義を破り鎌倉を一時(二十日程度)占領。駆けつけた尊氏が時行の軍を敗るが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間の一時的支配者となったので、中先代の乱と呼ばれる。

(2)尊氏の反乱
 戦いが終っても尊氏は都に帰らない。鎌倉の幕府跡に邸を建て、自から征夷大将軍と号し、気前よく将兵に恩賞を乱発したが、新田義貞の所領まで奪った上に「君側の奸を払う」と称して義貞討伐の軍令を発した。
 これを知った義貞は激怒した。尊氏の野望と、大塔宮を弑逆した大罪を責めて後醍醐天皇に訴える。今までは尊氏の武力を恐れ、その人物を信頼して我子(大塔宮)を殺してまで妥協を計って来た後醍醐天皇も、遂に逆賊として義貞に追討を命じた。
 建武二年(一三三五)冬、義貞は各地で尊氏の大軍を撃破して進んだ。しかし勇敢ではあっても大局を見る戦略眼に乏しい彼は、勢いに乗じて一気に鎌倉を突くべき時に三島に逗留して勝機を逸した。箱根の決戦に大敗し、総崩れとなって都に敗走している。
 尊氏は機を逸せず、建武三年(一三三六)正月、数十万と号する大軍を擁して上洛し、男山八幡宮の山麓に布陣。官軍は瀬田に名和、山崎に千種、淀に義貞、宇治に正成を配して防戦に懸命となった。
 正成は紀伊、河内、和泉から兵五千を集めて尊氏の大軍と戦い、珍しく焼土作戦を断行して宇治を守り抜いた。しかし山崎を守った千草勢が裏切りによって敗走した為に、敵勢は京に乱入し、天皇は慌しく叡山の麓の阪本に蒙塵される。
 そこで官軍は敵を都に閉じ込めて糧道を断つ正成の作戦を採用した。折から馳せつけた北畠顕家の奥州勢と合流して園城寺に進出した尊氏軍を破る。戦局が一進一退を続ける中に、正成は「懸金柵」と呼ぶ千早で考案した新兵器で、敵の騎馬軍団を苦しめた。
 それは牛皮を張った軽い楯の両端の鉤を結んで長い柵を作り、これを三重に配備して敵の騎馬隊を落馬させると雨のように矢を注ぎ槍で刺すと云うものである。後年、信長が武田軍を長篠で全滅させるヒントとなった戦法で、さすが関東の荒武者共も菊水の旗印を見ると忽ち戦意を失って逃げ走ったと云う。

(3)尊氏、西海落ち
 建武三年(一三三六)の一月末、西海に落ちて再挙を計らんと打出ノ浜から敗走して行く尊氏を慕い多数の敵兵ばかりでなく、官軍の将士さえ脱走して行った。それを見た正成は如何に彼らが新政に失望しているかを痛感した。追撃を中止したのは、
「武士に理解のあった護良親王(大塔宮)亡き今、公武一体の政治体勢をまとめてゆける者は尊氏しかない」
 との構想がその心に浮んだに違いない。
 尊氏には源氏の名門と云う血筋と、寛容で気前が良く人好きのする性格を備えている。第二の頼朝たらんとする野望と目的の為には手段を選ばぬ狡さはあっても、自分を大きく用いてくれた後醍醐天皇に対する忠誠心を失ってはいない。
 公家の驕奢もひどいが、武士達もまた貪欲で、高ノ師直などの様に
「天皇とか院とか云う厄介者は離れ小島に流してしまえ。どうしても飾り物が必要なら神社や寺のように木か金で作って飾れば良いんだ」
と平気で放言する連中もいる。
 こんな大義名分も知らぬ下剋上の武士共を圧さえてゆけるのは尊氏しか無く、忠良の勇将ではあっても義貞は政治的、人間的な器量で大きな差がある。

(4)正成、後醍醐天皇に物申す
 正成は追撃を打切り、後醍醐天皇が叡山から還御されて祝勝の気分に沸き立つ都に帰ると、熟慮の末に、敢えて天皇に拝閲を願い出た。それは「人心の動向に大きく耳を傾ける」と云う意味で「延元」と改められた二月の下旬だった。清涼殿の廂の床に平伏した正成は、
「このままでは聖運も危うく、思い切って尊氏を召し、義貞に代えて武門の統御を命ぜられる以外に策はありませぬ。何とか勅諚を賜って九州に赴き、尊氏に会って聖旨を伝え、一日も早く動乱の世を静めたいと存じまする」
と言上した。それを聞かれた後醍醐天皇は驚き呆れられたが、正成はいささかも憶せず、
「尊氏は近々九州四国の大軍を率いて東上して来るに違いなく、さすればこれを防ぐ手段はありませぬ。例え如何に帝が聖明であられても、武略の道にかけては正成の判断に誤りはなく、天下に泰平をもたらし万民の幸福を計る道はこれ以外にありませぬ」
 と毅然として奏上した。
 けれど後醍醐天皇は黙して答えない。側近の公卿達も色を変え「分をわきまえぬ申し条」と、「河内に帰り気憂の病を癒やすべし」と騒ぎ立てた。

(5)尊氏、後伏見法皇から院宣を賜わり、正成、河内に帰郷す
 正成がこの意見具申をしたのは、尊氏が敗走の途中で北朝の後伏見法皇から院宣を賜わって大義名分を得んとしたからだ。
 病床にあった後伏見法皇や光厳上皇に奏上して望み通りの院宣を賜わると、醍醐寺三宝院・日野賢俊が勅使となって尊氏の後を追い、備後の鞆ノ津で彼にそれを渡した。
 首尾よく賊名を除かれた上に、持明院系の鎮西将軍と云う大義名分を得た尊氏は踊り上って喜んだ。石堂義慶を熊野に赴かせ、院宣と重賞を約した御教書を渡し、尽力を乞うよう命じていた。
 新宮楠氏と近畿各地の山伏情報網を利用していた正成は恐らくそれを知って、急ぎ後醍醐天皇に意見具申をしたのだ。だからもし後醍醐天皇が正成を勅使として尊氏に会わせれば、皇恩と正成の人柄を高く評価していた彼だけに、直ちに承諾したに違いない。
 さすれば日本史上の最も醜い「君と君との争い」で、万民を約百年も塗炭の苦しみに投じる南北朝の大乱は避けられただろう。
 然し残念ながら正成の奏上は許されなかった。公卿達の間には「正成の不遜は許されぬ、断呼処分せよ」とか「いや彼は乱心したらしい、田舎に帰して養生させるが良い」などの意見が乱れ飛んだ。
 そしてそれを裏付けるように都に梅や桃の花が咲き匂う延元々年(一三三六)三月の始め、僅かな供をつれた正成の一行が漂然と故郷河内をめざし、「三木一草」と称された寵臣の一人で河内、和泉両国の守護殿とは気付く者もない侘しい旅姿だった。

(6)義貞、敗退し、正成、再び都へ
 九州に入った尊氏が三月二日、世に云う「多々良浜の合戦」を展開したものの緒戦は足利方の完敗で尊氏は「もはやこれまで」と自刃せんとした程だった。しかし勝ち誇る菊地勢の背後にいた松浦党の裏切によって戦局は一変した。
 この奇跡的な勝利で尊氏の勢力は忽ち九州全土に及び、再び京都進撃の為に博多を出発したのは四月上旬だった。
 これに対する朝廷の対策は何とも手ぬるい。三月下旬、北畠顕家の奥羽軍は悠々と帰国の途に就く。同じく三月末、後宮きっての美女・匂当内侍(こうとうのないし)を賜った義貞は左近衛ノ中将に進み、山陽山陰十六カ国の管領を拝命して都を出た。
 総勢六万の兵を率いた義貞は、赤松則村の籠る白旗城一つ落せぬままに、五月始め、加古川の本陣を捨てて兵庫へ総退却した。兵力は二万に満たず、義貞は慌てて都に早馬を飛ばして、尊氏の東上を知らせ、救援を乞うた。
 後醍醐天皇は驚いて河内の正成に勅使を走らせ、即時参内を命じた。その時、正成は私財を投じ、観心寺(*1)境内にかねて神願の三重塔の建立に着手していた。命を受けるや工事は一時中止するが、後日再開する事を住職に確約して上洛した。
 これを見ても正成の事だから尊氏の東上や戦局の情勢は充分知って居り、前回同様に敵を都に入れて補給を断つ包囲作戦に大きな自信を持ち、湊川で迎撃する気などは毛頭なかったようだ。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。

(7)正成、死を覚悟す
 久方ぶりに正成に接した後醍醐天皇は僅か三カ月前「乱心したか」等と嘲笑した事も忘れたように「兵庫に出撃して義貞を救援せよ」と命じられた。しかし正成は自信満々に、
「時流に応じた新鋭の大軍に寡兵で正面から当るのは万に一つの勝算もありませぬ。帝は直ちに叡山に動座され、義貞を召還して阪本を守らせる。敵が都に入るや私は河内を本拠としてその糧道を断ちます。
 さすれば敵は次第に困苦し、味方は日毎に勢いを増しましょう。その機を待って義貞は叡山より、正成は熊野水軍らと淀川筋より攻め立てれば、敵を潰滅させる事も不可能ではありませぬ」
 と、奏上した。けれども後醍醐天皇が都を捨てて不自由な行宮に移るのを嫌っているのを察した宰相・坊門清忠は
「帝には天の加護がある。年に二度も都を捨てる事は帝威を軽んずるものだ。汝は命のまま直ちに出陣せよ」
 と声高に命じた。
 太平記は
「正成の大敵を破り、勝利をもたらさんとする智謀を容れず、只々大軍に当り心なき討死せよとの勅定を、“ござんなれ”と義を重んじ身を顧みぬこそ忠臣、勇士の所存なり」
 と記している。
 正成はもはや何も云わず、黙然と退出し、一族の禅僧・祖曇の師である元僧・明極を訪ねて
「生死交差の時や如何」
 と問い、
「一剣、天によって寒し」
 との言葉を聞くや莞爾として辞したと伝えられる。

(8)青葉茂れる桜井の駅
 正成は恐らく心の中で「非理法権天」は我が信条、例え必敗と思われても、事の成否は天に任せて全力を傾け「斃れて後やむ」の尽忠報国の精神に徹せんと覚悟したに違いない。
 袖小路の邸に帰ると主だった武将を集めて朝議の模様を語り
「事すでにここに至る。潔く朝命に従い、兵庫表に出陣して全力を挙げて戦う」
 と決意を示した。
 けれど諸将の中では
「勝敗の算は余りにも明らかであり、みすみす敗れると知りながら朝命のままに部下を死地に投ずるのは将の道に非ず」
 と反対する者も少なかったようだ。
 当時、河内、和泉の守護だった正成揮下の総兵力は先の宇治での戦いの際にも判るように水陸約五千と思われる。彼は断呼として
「河内、和泉の兵は五月十七日までに桜井ノ駅に参集、紀伊淡路の水軍は二十日までに兵庫沖に集結せよ」
 と布告した。
 かくて五月十六日、菊水の旗差物を薫風に翻しつつ都を出た正成一族はかの「青葉茂れる桜井」の駅に到着。ここに一泊し、参加将兵を待ったが、その数は少なく、総勢併せて千数百程度だった。


(9)正成、嫡男・正行(まさつら)を帰す
 そこで正成は、「父と共に死なん」と嘆願する嫡男・正行に老臣・湯浅孫六以下五百余の若者をつけて故郷に帰るよう命じた。頼山陽(*1)はその状況を、
「正行、時に十一歳これを河内に帰さんとして誡めて曰く、『汝幼しと云えども、よく我が言を記憶せよ。今度の合戦は天下の安危を決する処にて、恐らく再び汝を見る日も無からん。父の討死後は足利将軍の天下となるは必定なれど、汝は必ず慎みて、義を忘れ、禍福得失を比べて利に向い、父の志を空しくする事なかれ』と声涙共に下る教訓を述べた」
 と記している。正成は、泣く正行と最後の一夜を共にし、翌十七日、共に死なんと望む僅か七百余騎を率いて兵庫をめざした。
 その孤軍の中に正成の妹の夫である服部元成と云う武士が交っていた。彼は北伊賀の名門の出だが、河内玉櫛ノ庄で正成の妹と逢って恋に落ち、やがてめでたく結ばれる。金剛山でも大いに働いたが、湊川出陣に際しては、「義兄と共に死なん」と覚悟し、妻子を残して出陣していた。その時幼児だったのが、後の観阿弥(*2)で、彼もまた“悲恋つゝ井筒”の一人である。歴史の大渦の中には此様な哀話が数々秘められているのを忘れてはならない。

(*1)らい さんよう。江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人。芸術にも造詣が深い。陽明学者でもあり、大塩平八郎に影響を与えている。『日本外史』の著者。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。
(*2)かんあみ。南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師。息子の世阿弥とともに、能を大成した人物。時宗の法名は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥。観世家の祖。 観阿弥最後の舞台は静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社。26世宗家観世清和氏による顕彰碑がある。


(10)正成の計略
 やがて延元々年(一三三六)五月下旬、正成は、兵庫会下山に本陣を置いた。夢野に正季を、鷹取山に前哨陣地を配備し、長田神社の森に騎馬隊を潜める。堺港沖に淡路沼島の本田一族の見張船を出して熊野勢の案内を命じる。等々、一切の戦さ仕度を終ったのは五月二十四日である。
 敵の進撃状況から見て決戦は明朝あたりと考えた正成が、最後の打合せの為に和田岬小松原に本陣を構えた総大将・新田義貞を訪ねたのは、もう夕刻近かったと云われている。
 中国十六カ国の管領として六万の大軍を率い、威風堂々都を出陣しながら勝運に見放され敗戦続きで意気消沈した義貞を、正成は力強く励ました。正成の温かい友情に義貞も漸く心を開いて斗志を燃やし、戦さ上手で知られた正成の説く戦法にじっと耳を傾ける。
「敵は五十万と号しているが身共の調べた処では二十万程度と思われる。然し二万余の我が兵力でまともに戦ってはとても勝目はない。よって今度の戦いは足利兄弟を討取る事を目的とし拙者はそれに一命を賭す覚悟でござる。
 それには先づ直義を斃す為に新田殿は此地に堅陣を構える。そして尊氏に備えながら、会下山の我らが直義本陣を強襲した際、時を移さず一軍でその側面を突いて下されば、必ず我らは直義を討取って見せましょう。
 弟・直義の苦戦を見た尊氏が驚いて救援に向うに違いない。新田殿がこの本陣によって防戦している間に、沼島の水軍に先導された熊野水軍が尊氏の背後に逆上陸を敢行して挾討ちとする。
 かくのごとき計画なれば、尊氏の首は是非共貴殿の手によって挙げて戴きたい。この二人さえ討取れば、敵はいかに大軍なりとも忽ち敗走するか降伏するに違いない。何せ近頃は美味い餌のある方につくのが侍共の習いでござるからのう」
 正成が明るくカラカラと笑ったので、義貞も大いに勇気づけられ、両将は久方ぶりに杯を交し、明日の勝利を誓い合った。

(11)決戦の前
 しかし、夜ふけて会下山に帰った正成は谷水で身を浄め、襟を正して後醍醐天皇に対する最後の筆を取った。
「今度の戦は必ず敗れるものと思われます。先の元弘の乱で金剛山に籠った時は名のない私ひとりの戦いであったのに広く国中の人々に助けられて勝つ事が出来ました。
 然るに今回は河内、和泉両国の守護として勅命による出陣であるのに一族の中でさえ難色を示す程で一般の士民は一向に集まりませぬ。これは人心が帝から去った為と思われます。
 我ら一族はあくまで臣節を重んじて戦い抜き、真先に命を捧げる覚悟でありますが、正成亡き後、帝は天下の人心を第一に考え一日も早く泰平の世を招来せられん事を心からお願い致しまする……」
 一語一句、心肝をふり絞って筆を取る正成の頬には熱い涙が止めどなく流れ落ちていたに違いない。
 延元元年(一三三六)の盛夏、五月二十五日(現在の七月十二日)、会下山中腹の楠木本陣に掲げられた「非理法権天」の菊水の長旗には爽やかな朝風が流れていた。
 今日が一期の戦いと覚悟を極めていた正成も、名にし負う(有名な)熊野水軍が間に合って呉れぬかと、それだけが気にかかって、時々は紀淡海峡の彼方に瞳をこらしたろう。
 然しそれらしい船影はなく、白い霧が晴れると兵庫一帯の山河には赫々たる夏の陽ざしが輝き、遙か明石の海から無数の白旗を翻した尊氏の大船団と共に、須磨口の鉢伏山麓を巨竜がのたうつような直義の陸上軍が進撃して来た。

(12)尊氏の先陣壊滅
 鷹取山の前哨から
「敵は山手、西国街道、浜手の三道に分れて進み、大将・直義は中央にあり、各軍の兵力は約一万程度なるも、須磨口には尚予備軍あり」
 との急使が入る。
 正成は敵の山の手軍、斯波高経に対しては夢野と刈藻川の平地に得意の新兵器「懸金柵」を二重に備えて専ら防衛に当り、直義の中央軍に長田神社の森に潜ませた主力の騎馬集団を三方から突入させて本陣をつき、浜ノ手は義貞勢に任せる作戦だった。
 午前八時過ぎには大船団の中央に錦の御旗に金色の日の丸を輝かせ、天照大神と八幡大菩薩の大幟をなびかせた尊氏の旗艦が、会下山の本陣からもハッキリと見える程、汀に近づいて来た。
 その楼上には総大将・尊氏がどっかと腰をすえて、敵(正成方)には水軍の備えがなく、特に最も案じていた若一王子、熊野権現の旗印をかざした熊野水軍の快速船団が見えないのを知った。「上陸開始」の合図旗を高々と揚げ、それを見た先陣の細川勢が一斉に灯明台と経ガ島に上陸を始める。
「我こそ一番乗り」と勇み立った四国讃岐衆数百が浜辺一帯に下り立つと、林の中に潜んでいた新田軍の中でも勇将で知られた大館氏朝の三千余騎がドッとばかり迎え討って忽ち彼らを全滅させた。
 経ガ島の上陸軍(細川勢)も脇屋義助勢に襲われて壊滅状態となるのを見た尊氏は、いきり立って第二軍を上陸させんとする細川定禅を止め、「退却」の鐘を乱打させて船団を沖合に退かせる。

(13)義貞、正成との約束を破り、尊氏の上陸を許す
 敵船団が先陣の壊滅で俄かに船列を乱しながら沖合に退却するのを見た正成は「時こそ来れ」と会下山の三方から直義の本陣めざして総攻撃を命じ自から、騎馬奇襲隊の先頭に立って楠木軍得意の縦隊突撃を敢行した。
 火の玉のような楠木勢の地の利を得た攻撃にさしも大軍の直義軍もなだれを打って崩れ落ち、もし約束通り義貞軍がそれに呼応して敵の側面を突けば直義は討取られ大敗走となっただろう。
 然るに義貞はそれを果さなかった。と云うのは沖合に退いた敵の大船団が急に進路を東に転じて遙か後方の生田ノ森をめざし、その先頭に金の日の丸と錦の御旗を翻えした尊氏の旗艦がハッキリ見えたからだ。愕然と立ち上った彼は、
「さては尊氏め、我が軍の背後を断ち袋の鼠とせんとの作戦じゃ!」
 と正成との打合せも忘れ、全軍に敵船団を追い生田に急進せよと命じるや真先に馬を飛ばしてしまったのである。
 けれど義貞はどうして正成との約束を守り、せめて燈明台にいた大館勢の三千を西国街道に残して正成との連繋を取らせなかったのだろう。果せるかな、新田勢が西国街道の要地である小松原の陣地を捨て、続々と生田ノ森に急進し始めるや、大船団の後備の一群が針路を転じて長田ノ浜をめざしたが、そこにはもう一兵の新田軍もいなかった。

(14)正成、直義を追い詰める
 安々と無血上陸に成功した足利勢は忽ち街道一円に進出、中でも駒ガ林の宝満寺に陣を進めた将士の群に総帥の尊氏が交っていようとは味方でさえ気がつかぬ程であった。
 尊氏は船団が沖に退いた時、秘かに旗艦を下りて後備の船に移乗し、吉良、石堂らの諸将に囲まれて長田浜に上陸したのだ。その頃二万の新田勢は金の日の丸を掲げて悠々と航行する旗艦を睨み、必死に馬を疾駆させ、徒歩の兵達はもう息も絶え々々だったと云う。
 義貞はまんまと一杯食わされた訳だが、それをいち早く気付いたのは正成で、直義本陣をめざして猛攻撃を敢行しながら傍らの正季に、
「どうやら囲まれてしまったようじゃ」
 と苦笑し
「義貞殿は尊氏の旗艦めざして天狗のようにすっ飛んで行ったが、なあに彼はそんな処にいるものか、恐らく今しも西国街道に進出したあの軍の中に交っているに違いない」
 と駒ガ林辺を指して見せ、
「もし沼島の見張りが打合せ通り熊野衆を和田岬に上らせれば、尊氏を挾み討ち、戦局を一変させられるかも知れん。然し先づ直義じゃ」
 と一段と馬をあふった。
 元来、彼は阿修羅の如く敵陣に突入する等と云う出血の多い戦法は好まず、恐らくこれが始めてであろう。けれどいかに当代きっての軍略家であっても、最早とるべき戦法はこれしかなかった。
 すなわち、楠木流の「十死一生の戦法」である。正季軍を併せて約五百の兵を三つに分け三本の槍の如く敵陣を突破すると一度集結して体勢を整え、再び三隊に分れて次の陣に突進する。後世これを学んだ真田幸村が徳川家康を追いつめたのもこの戦法である。
 大軍の直義もその凄まじい戦法に歯が立たず、蓮池の台の畔りで愛馬を倒され、自分も足に重傷を受けて進退窮まった。「もはやこれまで」と切腹せんとした時、子飼の郎党・薬師寺十郎次郎が己の馬を譲り、自分は身代りとなって討死する間に辛うじて逃げ延びた。

(15)尊氏、直義の救援を命ず
 折しも宝満寺の本陣で直義勢が総崩れとなったのを見て驚いた尊氏は「新手の兵を差向け直義を救え」と命じた。吉良、石堂、上杉ら六千余騎が正成勢の背後から怒涛の如く襲いかかる。
 正成はやむなく直義を捨て、矛を転じて尊氏の本陣をめざし、刈藻川に沿い敵の目をそらしつつ一路突進した。この時、尊氏を守る兵は僅か二百しか残っていなかったと云うから、もし熊野衆が呼応すればその首を挙げられたかも知れない。
 其頃、熊野勢の鯨船は沼島衆の先導で必死に湊川をめざしていたが、残念ながら戦場に到着するにはまだ一刻の時間が必要であった。名もない一兵の果までも主と共に死なんと鬼神の如き奮戦を見せていた楠木勢も漸く力が尽きかけんとしていた。
 それも当然で早朝から六時間、数十倍の大軍を相手に十六度に及ぶ突破戦を重ねたのだ。後世「日本一の強兵」と云われる五千の真田幸村勢でさえ最後は彼孤りとなり、乱軍の中で討たれている。
 それに比べて正成勢は尚も一個小隊七十余騎の隊形を崩していなかった。然し七度目に正季と顔を合せた時、さすがの正成も十余カ所の傷口から流れ出る血によって遂に気力も萎えたか、
「今はこれまでじゃ、良き場所にて腹切らん」
 と湊川沿いに山路に進んだ。会下山から半里ばかり下った今も「楠谷」と呼ばれる地に建てられた野小屋(時宗道場とも云う)に入った。

(16)正成、死す
 最後まで生き残った五十余人のうち、軽傷で家を継ぐべき二十余人に
「最後の命令じゃ、布引の山から戦場を落ち河内に帰って正行を助け再挙を計れ」
 と厳命して否応なく脱出させて主将の任を果したのは立派である。
 正季以下橋本八郎、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら二十八人と念仏十称の後に切腹の仕度にかかった正成は
「人は死際の一念によって善くも悪くも生れ代ると云うが、正季そなたは何に生れたいか」
 と問いかけた。
 正季がカラカラと笑いつつ
「七度まで人間に生れて朝敵を滅したい」
 と答えるや、さも嬉し気に
「罪深い念願ながら、わしもそう思う。さらば共に生れ代って本懐を遂げようぞ」
 と固く誓って刺し違え、それを見て人々も我遅れじと自刃し、新田勢に加わりながら心腹する正成を案じて敵中を突破して来た勇将・菊地武吉までが
「名将の最後を見て何んでおめおめ帰れよう」
 と追い腹を切ったと云う。時刻は午後五時で正成時に男盛りの四十三歳、遺骸の傍には血にまみれた「非理法権天」の菊水の旗が残され、今も湊川神社の社宝となっている。

(17)遅かりし、熊野水軍
 正成が待ち望んでいた熊野水軍が田辺沖で北軍を撃破した為に遅れ「熊野大権現」の長旗を翻えし、艫に設けた鯨鐘を乱打しつつ湊川々口に突入して来たのは此頃だった。
 今一刻早ければ正成勢と呼応して尊氏本陣に突入し見事に尊氏を討取って、戦史を大きく書き改めたかも知れないのに誠に惜しみて余りがある。
 戦機を逸し、正成一族が全滅した事を知った彼らはその責任を痛感したのであろう。目に余る足利勢を相手に善戦敢斗の末に玉砕。悉く屍を戦場にさらして再び故郷に帰る日はなかった。
 只一つ彼らの玉砕を物語る証人とも云うべきは、後世、漁師の網によって附近の海底から引揚げられた沈船の陣鐘で、それは俗に「鯨鐘」と呼ばれる熊野水軍独特の小型陣鐘である。今も尚、那智大社に残っている「正中二年(一三二五)別当定有の命により大工河内ノ介鋳造」との文字が刻まれた品で、現在も網干英賀神社(*1)の神宝となっている。

(*1)英賀神社。兵庫県姫路市飾磨区。

(18)観心寺、大楠公首塚を建立す
 正成の最後は、その場にいた時宗(*1)の僧が細々と語ったのを、興福寺大乗院住職が聞書し
「楠判官一族二十八人が腹を切り小屋に火をかけたが、細川勢がその首を取り将軍に献じた処、尊氏は魚見堂五十町の田地を寄進して懇ろに供養した」
 と記録されたのが原本となっている。
 その首級は尊氏から丁重に観心寺(*2)に送り届けられ今も大楠公首塚として建掛塔の奥に鎮座され、戒名は彼を惜しんだ帝が「忠得院殿大円義龍大居士」と名づけ下賜されている。
 湊川に於ける正成の壮絶な最後は日本史でも高く評価され、『太平記』は
「仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に走り、勇なき者は死を逃れんとして反って罪に落ち、智なき者は時勢を見る力なく道を誤るに中に、良く三徳を兼ね、死を善道に守りたるは古今を通じ正成ほどの者、未だなし」
 と讃え、尊氏びいきの『梅松論』さえ
「誠に賢才武略の勇士とはかような武夫なりと敵も味方も惜しまぬ者は無かりける」
 と賞め、増鏡は
「心武くすこやかなる武夫」
 と評している。

(*1)浄土教の一宗派。開祖は一遍。浄土教では阿弥陀仏への信仰が中心である。時宗は、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。
(*2)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。

(19)正成、何を思う
 若くして玄恵禅師(*1)の宋学に心酔し、笠置では
「正成ひとり生きてある限り必ず聖運は開き給ふべし」
 と断呼揚言した楠木正成が、建武の失政をその目で見た上、同じ志に燃えた大塔宮の悲劇に接するや、後醍醐天皇の独裁政治が、如何に時流に適しないかを痛感せざるを得なかった。
 頼む大塔宮亡き後、日本民族の伝統である正しい天皇制を後世に残さんが為には貴族のエリート意識と武士の強欲と覇道主義を厳しく統御する「公武一体」政策以外になしと感じて「尊氏を召して武門の棟梁とする」意見を具申したのだろう。
 それが空しく却下されるや、父祖代々朝廷の重臣だった万里小路藤房でさえ
「君、諌めるも聞かざれば即ち去る」
 と宋学の説く通り、山野にかくれて風月を友とし余生を楽しんでいる。しかし正成は勅命に従い敢て死地に赴くと力の限り戦い抜いた末、臣節に殉じた。その事によって天皇を始め日本中の貴族、武士達に大きく反省をうながさんとした。
 浮世の勝敗や栄枯盛衰、功業名利には一切心をとらわれず、愛児に
「忠死のみありて他なかれ」
 と訓えたその心根の清廉さは当時の武士社会では皆無で、一族の断絶さえ覚悟した信念の壮烈さは後世、他に比を見ない。

(*1)Chap 3南北朝の巻 3.2 正成と大塔宮を参照。

(20)正成の死後
 正成が死んでから、数年後に書かれた北畠親房の『神皇正統記』は、正成について一語もふれていない。
 正成がその名を残し、世に知られたのは、その死に感動した熊野山伏、小島法師が『太平記』を書いた為である。それがなければ河内の一介の土豪で名もなく空しく埋れてしまったに違いない。
 戦前の皇国主義全盛の時代には、やたらと「七生報国」を讃え、「湊川」と云えば「勝敗は無視して死に赴く特攻精神」の代名詞とされた。その為に戦後は反動で軍国主義の権化の如く批判され、「悪党(*1)」の語意を取り違えた左翼人の槍玉に挙げられたが、正成こそ日本民族の華と云うべきであろう。
 彼が世を去った後の南朝は「南風競わず(*2)」の言葉通りで、「かくてはならじ」と遺臣らが渋る北畠親房に、正成の遺策による二大戦略を強く進言した。
一、伊勢、熊野、伊予の水軍を南朝基幹戦力とし奥羽、関東、四国、九州に活躍する味方の大動脈とする。
二、吉野、熊野周辺の大社寺を味方にし、正成が活用したように山伏、山民、野伏らを新戦力に登用する。
 このような作戦を決定したが、散所の民の利用等は貴族意識の極端に強い親房には余程の事だったろう。

(*1)悪党とは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士の集団。既得権益を守るために自主独立し、荘園領主など外部勢力に抵抗。「悪い」というよりも「強い」という意味。伊賀国名張郡黒田荘(東大寺の荘園)の武士、河内国の楠木氏(楠木正成ら)、播磨国の赤松氏(赤松則村ら)、瀬戸内海の海賊集団などが代表例。
(*2)勢いの振るわないこと。『左伝/襄公十八年の条』が出典。江戸時代末期に頼山陽が著作した日本の歴史書『日本外史』では、南朝の勢いの衰えたことに借用している。


(21)南朝大船団、遭難す
 延元三年(一三三八)秋十月、伊勢大湊から三つの大船団が出港した。奥羽をめざす義良親王と北畠顕信に結城宗広。常陸に向う親房や伊達行朝。遠江をめざす信濃宮宗良親王と新田義興の船団である。
 然しながら武運つたなく遠州洋で台風に襲われて船団は四散し、多くの将士が敢なく遭難した。九死に一生を得た老将・宗広(*1)は安濃津(三重県津市)で病み、
「このまま空しく果てるとは無念至極、我が後生を弔わんと思わば供養などは一切無用にして朝敵の首を墓前に並べよ」
 と遺言して没した。
 義良親王は尾張に漂着してやむなく吉野に帰られた。宗良親王と親房は満身傷痍で遠江や常陸に到着し、井伊道政や小田治久ら豪族に助けられて勢力拡大に懸命となった。
 天運の非を改めて痛感された後醍醐天皇は今更のように正成の事を偲ばれたか、勅使を河内の正行(まさつら。正成の嫡男)に走らせ楠木神社に参籠して神助を祈らせる等している。さすがの後醍醐天皇も今は神仏に頼るしかなかったようだ。

(*1)結城宗広。ゆうきむねひろ。もと北条氏の家臣。朝廷側につき鎌倉幕府を滅ぼす。功績により、北畠顕家と共に奥州方面の統治。足利尊氏が京都を一時支配下に置くと奪還。尊氏の再起時、顕家と共に戦うが、顕家敗死、宗広は吉野へ。南朝勢力再起のため、北畠親房と海路から奥州へ向うが、海上で遭難。伊勢国で病死。墓所は津市結城神社。または伊勢市光明寺。

(22)後醍醐天皇、死す
 かくして延元四年(一三三九)八月半ば、吉野に移って三年余、五十二歳の秋を迎えた後醍醐天皇は病を得て重態となった。高野山から僧を召して即身成仏経を聞き終ると皇位を義良親王に譲られ、やがて両手に剣と法華経を持ち、
「玉骨は南山の苔に埋むとも、魂魄は北天を望まん、もし命に背き義を軽んずれば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」
 との烈しい遺言を残して世を去られたので、その御陵は珍らしく北向に築かれている。(*1)
 折しも関東筑波山麓の小田城で『神皇正統記』の筆を進めていた北畠親房(*2)は涙に咽びつつ
「大日本は神国なり、天祖始めて基を開き、日神長く統を伝う。我国のみ此事あり異朝にはその例なし、故に神国と云う」
 との書き出しから始まる歴代天皇の年代記を完稿した。
 然し征旅は百戦功なく、親房が孤影消然と吉野の新天皇(後村上)に閲したのは興国四年(一三四三)の暮で、正成没して七年忌を迎えた頃であった。

(*1)後醍醐天皇は「北」に怨みを抱いて崩御したため、御陵も北向きに造られた。吉野の南朝に対して、京の都にある北朝をも暗示している。後醍醐天皇の怨みを抱いた遺詔は次の通り。「朕憾不滅國賊,平天下。雖埋骨於此,魂魄常望北闕。後人其體朕志,竭力討賊。不者非吾子孫、非吾臣屬。按劍而崩」『日本外史』
「…思之(これをおもふ)故ニ玉骨ハ縱(たとひ)南山ノ苔ニ埋ルトモ。魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望ント思フ。…。」「遺勅有(あり)シカハ。御終焉ノ御形ヲ改メス。棺槨ヲ厚(あつく)シ。御坐ヲ正(ただしふ)シテ。吉野山ノ艮(うしとら)ナル林ノ奥ニ圓丘ヲ築テ。北向ニ奉葬(ほふむりたてまつる)。」『太平記』
(*2)きたばたけ ちかふさ。公家。「神皇正統記」の作者。北畠顕家の父。南朝の中心人物。後醍醐天皇の皇子世良親王の養育を託されるが、親王急死。責任を感じ38歳の若さで出家。倒幕により後醍醐の新政が開始され、親房は再び政治の舞台に。尊氏に京都を占領されると、後醍醐が開いた南朝に従い、勢力の拡大を図る。伊勢・度会家行の神国思想に影響を受ける。伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい単独で常陸国へ上陸。陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかける。『神皇正統記』の執筆がされたと言われているのはこの時期。常陸での活動は5年に渡ったが、戦い破れ、吉野へ帰還。四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が敗れると、吉野から賀名生(奈良県五條市)に落ち延びる。観応の擾乱(足利氏の内紛)で、尊氏が南朝に降伏。正平一統(一時的な南北朝の統一)成立。一時は京都と鎌倉の奪回にも成功する。1354年に賀名生で死去。阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に北畠顕家と共に祀られている。


(23)正行
 そして正行は老巧・湯浅定仏を始め、父が残してくれた数百の忠実な一郎党に囲まれ、文武両道に精励した。その甲斐あって、今や芳齢二十一歳の颯爽たる青年武将に成長し、既に可愛いい男の子も生れている。
 性来が仁愛に富む上に、将たるの修養に務め、清廉にして己に厳しくとも将士に厚いのは父譲りであろう。功は部下に譲り、責は己が負う。衣食は兵と同じく艱苦を等しくしたので「死生を共にせん」と誓う将兵は既に二千に近かったと云う。
 その上、若くして禅に帰依し、夢窓国師(*1)の高弟だった黙庵が河内に行脚した際も礼を厚くして教を乞うている。興国五年(一三四四)には建仁寺の高山昭禅師(*2)を招いて河内宝山寺を創建している。これは恐らく父の遺志を果したものだろうが、正しく文武両道の麒麟児と云えよう。
 親房は正行に接するや特に河内守に昇進させると積極作戦の先駆を命じた。正平二年(一三四七)八月、久方ぶりに菊水の長旗を翻えした楠木勢は紀ノ川を下って隅田治道の岩倉城(和歌山県橋本市)を攻略、附近一帯を支配下に入れ、高野山への連絡路を確保して初陣を飾った。

(24)正行、快進撃
 それを聞いた尊氏は愕然とした面持で
「獅子の子はそのままにしては置けぬ」
 と歴戦の武将・細川顕氏に精兵三千を授けて京を出発させ、八月十四日、天王寺に進出して吉野をめざす様子を見せた。
 親房は再び正行に出撃を命じたので、正行は七百騎を率いて藤井寺に陣をしいた。正成流の奇襲戦法で六角氏泰を始め名ある勇将多数を討取る。顕氏自身も命からがら都に敗走すると云う快勝ぶりで、幕軍の肝を冷やした。
 尊氏も舌をまいて顕氏を励まし、勇猛で知られた山名時氏を援軍としてその年の十一月、七千余騎の大軍で天王寺に出撃させ「必ず敗北の恥をすすげ」と厳命した。
 僅か三月余に三度勅命を拝した正行は連戦の疲れも見せず二千の総力を挙げて瓜生野に進出して好機を狙い、住吉、天王寺の敵陣を強襲。楠木勢の手強さを知っている細川軍はひとたまりもなく敗走した。
 けれど新手の猛者を揃えた山名軍は必死に戦い大激戦となった。丈余の長槍を揃えた楠木勢の先陣阿間了願らが忽ち三十余人を突き倒して猛攻撃を展開したので、時氏は重傷、三人の弟も次々に討ち取られて総崩れとなった。
 正行は機を失せず追撃に転じた。淀川に架った渡辺橋(現天満橋)にさしかかると、狭い橋上を押合いながら潰走した多数の敵兵が厳寒の河中に転落して溺れていた。正行はそれを見るとすぐに追撃を中止し、溺れている敵兵の救出を命じた。
 そして多くの兵を救い上げると焚火で凍えた身体を暖め、雑炊を食べさせたり傷の手当をし、衣類や物具まで与えて都に帰らせている。
 これは楠木一族の家風で戦いが終れば敵味方の差別なく苦しむ者をいたわり救うと云う人間愛の発露だったが、この時代としては例のない事で救われた兵の多くがその温情に感動して彼の四條畷で正行と死生を共にしたと云う。

(25)南軍、出撃す
 正行軍の連勝ぶりを見た親房は
「これぞ新帝の御稜威、天運は我にあり」
 と感じて一段と攻撃作戦に転じ、正行を激励して念願の京都進攻作戦を決行せんとした。
 しかし尊氏も度重なる敗戦に此際思い切った大軍を集めて一気に楠木軍を潰滅させんと二十数カ國の軍勢を動員した。直義を総司令官に、高師直、師泰兄弟を大将とする八万の大軍を集めた。
 正平二年(一三四七)も押し詰った十二月の末、直義は男山に軍を進め、師直軍は枚方へ、師泰軍は天王寺に進出して総攻撃体勢をとる。これを見て河内東条に本営を進めた親房や四条隆資ら南軍首脳陣は、赤坂城で作戦会議を行った。
 彼我の戦力から見ても南軍は地の利を活かし、吉野を中心として河内、和泉、大和、伊賀一円に強力な防衛陣を固め、正成流のゲリラ戦で応ずべきだった。にも拘らず親房らが強引に決戦を挑ませたのは、湊川の二の舞と云える。
 正行には、正時、正儀の二人の弟があり、純情清廉な兄に比べて正儀は政戦両略に長じた政治家肌で、その無暴としか云えない特攻作戦に強く反対した。しかし親房らは「経験浅い若輩が何を云うか」と問題にしない。父と同じく一つの勝算もない決戦に潔ぎよく死を覚悟した正行は後事を正儀に託し、正時以下の一族郎党百四十余人を率いて吉野の行宮に参内したのは十二月二十七日だった。

(26)正行、鏃(やじり)の辞世


 出撃軍(南軍)の大将である四条隆資が
「敵が大軍を以て決戦を挑んで来た以上、官軍の面目にかけても、賊首を獲るか我首を渡すか思いきった決戦を展開せんと存じまする」
 と一同を代表して奏上した。
 すると二十歳の若き後村上天皇は、南殿の御簾を高く巻き上げて正行を親しく召され、
「今度の合戦こそ天下の安危を決するもの、進退をよく弁え、機に応じて戦うこそ勇者の心得であり、進むべきを知って進むは時を失わぬ為、また退くべきを見て退くは後を全うせんが為である。
 朕は汝を股肱と頼んで居るが故に慎んでその生命を全うすべし」
 と正行にとっては此上もない綸言を賜う。父が湊川に向う時に比べると格段の差で、後村上天皇は彼を失いたくなかったに違いない。
 純情な正行は万感胸に迫る想で声もなくひれ伏すと、かの
●返らじと かねて思えば 梓弓 亡き数に入る 名をぞとどむる
の句を、如意輪堂の壁に鏃(やじり)で刻み、雪白き吉野を降った。

(27)正行軍、特攻す
 かくして正平三年(一三四八)正月四日、師直はいち早く六万の軍を五陣に分けた。飯盛山には県勢、外山に川津勢、生駒山に佐々木勢を配して地の利を占め、四條畷に二万の本陣を置いて正行軍を待ち構え、師泰は二万の兵を堺に進めた。
 一月五日、南軍の親房は河内東条に護良親王の子・興良を擁して本営とした。四条隆資、小山実隆らに紀和一円の山伏、野伏達二万を率いさせ旗差物も賑やかに生駒山東麓を進撃して飯盛山を突かんとする偽勢を見せる。其間に西麓を急進した正行の三千が一挙に師直の本陣に突入してその首を挙げると云う作戦だった。
 が、偽軍である四条に二万の大軍を与え、正行には僅か三千に止め、然も総帥たる彼自身は決戦場に姿も見せない様では勝てる訳がない。
 せめて前線司令官である四条隆資は大軍を率いて正行の背後をガッチリと固め、特攻隊長である正行軍をして後顧の憂いなく突進させるべきである。なのに、自分も囮軍に加わったのは逃腰と云うしかない。
 果して生駒、飯盛山の地の利を占めていた歴戦の足利軍は四条隆資の偽勢には目もくれず、ひたすら師直陣に突進する楠木勢を見て、
「スワこそ本陣危うし」
 と先ず飯盛山から県下野守の五千余騎が山をかけ降って防いだ。しかし決死の正行勢に忽ち討ち破られて県は重傷を負う。続いた武田伊豆守の第二陣も潰走し、楠木勢はまっしぐらに師直本陣をめざした。
「これはいかん!全軍突撃して本陣を救え!」
 驚いた佐々木道誉は声をからして兵を叱咤しつつ楠木軍の背後に襲いかかる。小勢の楠木後陣は次第に乱れ始めた。

(28)正行、散る
 もし此時
「里人、百姓なんども甲斐がいしく召具して集り候え、正行様の一大事ぞ」
 と我先に馳せ集ったと云う数千の領民達が殿軍に加わって居れば、彼らは必死に防ぎ戦って正行本隊は後顧の憂いなく師直本陣を襲い得たろう。
 残念ながら彼らはすべて囮軍に配され、四條畷から遠く離れた生駒山中でいたずらに旗差物を翻しているだけで何の役にも立てなかった。
 三千と号した正行勢も後陣から崩れて残るは僅か三百余騎となった。しかし細川、仁木、千葉、宇都宮ら名だたる勇将の率いる堅陣を楠木流の「十死一生戦法」で次々に突破し、遂にめざす敵本陣に斬込む。
「我こそ源氏累代の執権として武功天下に高き高武蔵守師直なり」
 と名乗った高氏の紋入りの鎧武者を見事に討ち取ったから、正行は喜んだ。
「今日こそ他年の本望を達したり、見よや者共!」
 とその首を宙天高く投げ上げて凱歌を奏した。しかし、これが師直の鎧をつけ身代りとなった上山六郎左衛門で、その隙に師直は必死に逃げ走っていた。
 やがて師直を討ちもらした事を知った正行はその首を片袖で包んで丁重に葬った。そして田の畦にどっかと坐り、箙の中から笹の葉で包んだ弁当を取出して悠々と食べ始める。それを見た敵勢は、
「これ程の決死の勇者を討つのは惜しい、むしろ退路を開き逃してやろう」
 と包囲体勢を取らなかった。元気を回復した正行は、北の野に輪違いの旗の印の下で師直らしい屈強な老将を囲んだ百余騎の一団があるのを見た。正行は再び勇気を振い起し追撃に転じた。
 これを見て西の側面から高ノ師冬勢が喰止めんとするのを撃破。正行は師直を僅か一丁ばかりの距離まで追い詰めた。早朝から夕刻まで三十余度の合戦に残るは三十余人となり、馬は倒れ無傷の将士は独りもいない。それでも正行は最後の死力を振り絞って野面を突き進んでいく。
 その時、正行の左右の膝や顔面、弟・正時は眉間と咽喉の急所に夥しい数の矢が突き刺さった。九州一の強弓で知られた須々木四郎らの猛射を浴びたのである。
「もはやこれまで、敵の手にかかるな」
 と正行は覚悟を決め、深田の中の僅かに繁った楠の森影で弟・正時と刺し違えた。三十余人の郎党も次々に主に殉じ、最後まで師直を狙い続けた和田賢秀も望みを果せみまま怨を呑んで散った。

(29)正行、宝筐院に眠る
 正行たちの死を惜しんで、太平記は
「今日一日の決戦に楠木、和田兄弟一族郎党達、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。」
 と父に劣らぬ壮烈な最後を讃える。
 時に正行二十三歳、花の盛りである。「戦の勝敗は天皇の御稜威」などと馬鹿な事を広言する長袖族がなまじ軍事に口を出さず、すべてを正行らに任せれば、彼は父に劣らぬ名将として永く南朝の柱石となったに違いない。
 大局的に見れば親房の計画したこの積極作戦は彼我の戦力を無視した神がかり的作戦でしかない。『孫子(*1)』の云う「己を知り敵を知らば百戦危うからず」を全く無視している。唯々「天佑神助」を頼むのみで前途有為な若将を死地に投じて玉砕させ、南朝の首都・吉野行宮を焼土と化すと云う惨たんたる大敗戦を演じる結果となる。
 正行の戦死を知った北朝の公卿達は「強族討滅」とお祭り騒ぎを演じたが、尊氏は安心しながらも敢えて喜ばず、その子・義詮は内心悲しんだらしい。
 正行が梟首されるやそれを知った黙庵禅師は尊氏に願って、彼が再興した白河天皇の勅願寺である嵯峨の善入寺に葬り、懇ろに供養している。
 後でそれを聞いた義詮は大いに感動し、
「正行公は敵ではあっても誠に立派な武将で深く尊敬していた。私も死後は是非とも彼の側に眠らせて貰いたい」
 と要請し、二十年後、望み通り正行の首塚の隣に葬られた。
 今日、彼の院号に因んで宝筐院(*2)と改められたその寺内には菊水と丸に=引の紋章の刻まれた石扉の奥城には両将の碑石が苔むした枯山水の庭と紅葉と竹林のそよぐ中に静かに眠って居り、野望と非情の渦まく南北戦史の中でゆ一の爽やかなエピソードを残している。

(*1)そんし。余りに有名な兵法書。著者・孫武は紀元前500年頃の人で、呉に仕え、その勢力拡大に貢献した。なお孫武の子孫といわれ、斉に仕えた孫?(そんぴん)も兵法書を著しており、かつて『孫子』の著者は孫?であるとの説もあった。
(*2)ほうきょういん。京都府京都市右京区嵯峨迦堂門前南中院町9

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