Chap 3  南北朝の巻

3.4 悲運の護良親王

(1)正成、後醍醐天皇と京の都へ
 元弘三年(一三三三)六月二日、意気高く千早城を出た正成が七千余騎を率いて兵庫に後醍醐天皇を迎えに出た。笠置以来一年半ぶりに正成を近く召された帝は、
「今日の功はひとえに汝が忠戦にあり」
 と竜顔うるわしく先駆を命じられ、正成は感激にあふれて威風堂々都に向ったが、彼にとっては生涯に最も晴れがましい日であったろう。
 然し正成と共に最大の功労者である大塔宮が何故か姿を見せず、信貴山城に北山・吉野以来の腹心や赤松、四条以下三千余の精鋭を擁して動かれなかった。土壇場で北条を裏切った足利高氏が京や鎌倉に勝手に軍政をしき、盛んに武士達の人気を集めているのを見て、彼が第二の頼朝たらんとの野望に燃えているのを知りそれに備えていたのだ。
 久しく将士達と戦塵にまみれて苦楽を共にした大塔宮は、新政は天皇の独裁ではなく「公武一体」の政府とし、武士階級の信望を失わない為に、自から兵部卿となった。忠誠な武将を腹心に強力な官軍を作らねば再び武家の世となると痛感され、後醍醐天皇に強く望まれた。
 六月半ば宿坊の任命を受けた大塔宮は大いに喜ばれて山を下り、北山以来の腹心である竹原、戸野、野長瀬らに護られ、歩武堂々都に入られた。赤松則村、四条隆資、法院良忠ら総勢三千の精鋭を見て、京雀達は早くも「宮が足利高氏を討たれる」と噂したと云う。

(2)天皇親政
 八月に入ると天皇親政の手始めに諸将に論功行賞が行われた。雑訴決断所や武者所等が開設されたが、期待された天皇政治は勝利を我が天運と思い上った後醍醐天皇の独裁でひどいものだった。
 北条高時の旧領二百万石はすべて天皇領や、さして功もない公卿や愛妃、僧等が分け取ってしまい。武将は僅かに高氏、義貞、正成、名和、結城らが守護に任じられた程度で武士達の不満は大きかった。
 然しそれを聞いた北畠親房でさえ
「王政復古が成功したのは帝の天運によるもので何も武士共の力ではない。率直に言えば彼らは代々朝敵である。家を亡ぼさずに済んだ事に感謝して忠功を励まねばならんのに不平を云うとは怪しからぬ」
 と嘯いたと云うから後は押して知るべしで
「公家一統の世に下賤の武士共が何をほざく」
 と云った処だったろう。
 然し後醍醐天皇が理想とした醍醐帝の頃でも公領は全国の三割程度で、今では僅か1%に過ぎず、とても天皇親政の律令政治などやれる筈はない。まして「建武」と云う中国皇帝をまねて、天皇が文武両官を一手に握る独裁君主制などは時代錯誤でしかなかった。
 大塔宮が考えられたのは、武士を対照とした征夷大将軍府を置いて、父祖伝来の所領の増大に命さえかける武士社会の気風を尊重しながらも、楠木正成のような大義名分を重んじる忠誠な武士を重用して公武一体の政権を確立する事である。
 その為にも最も大切な事は後醍醐天皇自身が「聖ノ帝」と讃えられた醍醐天皇のように私欲を抑え、公正無私、民の生活を思い「寒夜に衣を脱ぎ、食膳を減じる」清廉な生活を実践すべきだった。
 然るに後醍醐天皇は即位当時の初心を忘れて豪華な宴遊にふけった。武士や庶民の苦しみを考えず御所の新築の為に重税を課し、寵妃・阿野廉子らの云うままに朝令暮改の失政で忽ち人心を失った。

(3)尊氏の策謀
 元弘三年(一三三三)八月、武士達の不満が尊氏への期待に変るのを見た兵部卿・護良親王(大塔宮)は親族である北畠親房と計って奥羽鎮守府を設立し、義良親王と顕家を赴任させて尊氏の野望を背後から押さえんとした。
 それを知った尊氏、直義兄弟は執事である辣腕の高ノ師直らと計り、阿野廉子が我子を何とか皇太子に就けたいと切望しているのに目をつけ莫大な賄賂を贈った。
「大塔宮を除かないとその望みは果せられませぬ」
 と色々宮の悪口を告げ、彼女の口から後醍醐天皇に焚付けさせた。
 寵妃にかき口説かれた後醍醐天皇は専制君主ぶりを発揮して大塔宮を解任する。成良親王と直義(尊氏の弟)を鎌倉鎮守府に赴任させ、鎌倉を京と奥羽から狭撃せんとした宮と北畠父子の戦略を無力にしてしまう。
 職を除かれた大塔宮は激怒された。信頼する正成を呼び、「最早猶予はならぬ」と尊氏(足利高氏は後醍醐天皇から「尊氏」の名を贈られ改名)を討つ計画を進めたが、それを知った尊氏は武力を固め、一段と廉子の歓心を買い、「宮は帝を退位させて自分が皇位に就こうとしている」等と讒言し、策謀を巡らした。
 建武元年(一三三四)の春になると宮と同じく尊氏の野望を知った万里小路藤房も
「このままでは武家の棟梁をめざす器用な男が朝廷の失政を責め立て、帝を怨む武士達は招かずともその門に参集して第二の幕府を作らんとし、乱世となるのは必定である。」
 と思い切った諌書を提出して後醍醐天皇の反省を懇請した。しかし、一向に聞かれず、遂には藤房の顔を見るのも嫌がられる。かつて笠置落ちの際、最後まで後醍醐天皇を守り続けた忠誠な彼も果は絶望し、高位を捨てて出家し行方不明となる。(観心寺(*1)に潜んだとも云う)

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。

(4)大塔宮、捕らわれる
 大塔宮は遂に尊氏暗殺さえ考えられたが、そのうち建武元年(一三三四)の十月になると紀伊粉河寺の南にある那賀郡飯盛山で、北条一族の佐々目憲法が湯浅党の六十谷定尚らと叛乱を起した。それを聞いた尊氏は好機とばかり、正成に鎮圧の勅命の下るように運動して正成を出陣させた。
 そしてその留守中に、前々から手に入れていた大塔宮が書かれた尊氏討伐の令旨を天皇に見せ、
「かくの如くまず私を討ち、次には帝を廃して皇位につかんと云うのが宮の本心と思われます。この大罪をば、どのように処分なさいますか」
 と強く迫ったので後醍醐天皇も大いに驚かれ、尊氏の云うままに大塔宮の逮捕を許された。と『太平記』は述べている。
 けれど『梅松論』では
「宮の計画は、実は天皇の意向に基づいたものだが、尊氏から責められて困った帝は罪を宮になすりつけたのである」
 と説いている。
 恐らくそれが真相だろう。と云うのは十一月の或夜、後醍醐天皇の歌会に召された大塔宮が気軽に清涼殿に向った事でも判る。大塔宮は、若く優れた戦略家で、かつ天性の鋭い感と度胸に恵まれ、今まで幾十度も修羅場を潜って来られた。
 然るにこの時ばかりは
「まさか父君が我子である麿を犠牲にされる筈はない」
 と云う気持から宮中に漂う妖気を見過されたのは当然かも知れない。
 北山、十津川以来の腹心十名余りを供にして参内し、鈴の間に入られるなり、勅命を受けた名和、結城らの手で捕えられて馬場殿に幽閉される。大塔宮が冷たい床に孤独の日々を送るうち、宮の側近で日野資朝の弟になる浄俊以下三十余人が次々に捕えられて容赦なく首をはねられた。

(5)大塔宮、鎌倉に流罪
 紀伊へ出陣中にそれを知った正成は秘かに忍びの者を派遣して、大塔宮の嫡男・万寿王(興良親王)や罪もない同志を助けんと苦心した。竹原兵庫と平賀三郎らを見事に救出し脱走させている。
 正成が叛乱を鎮圧して都に帰ったのは建武二年(一三三五)の早春だった。何とか大塔宮の助命に尽力したに違いないが、朝廷での公卿評議によって遠流の刑が決定され、身分の低い彼にはどうにもならなかった。
 大塔宮は幽閉中に元弘以来の生死を共にした近臣達が容赦なく斬られたのを知り、
「君見ずや、申生死して晋の国乱れ」(*1)
 と晋王が後妻の云うままに嫡男の申生を処刑せんとし、主の無実を知っている家臣達が救出せんとした時、申生は「他国に逃れても父を殺そうとした子だと憎まれるだろう。万事は天命、濡衣のまゝ死のう」と自刃した例を挙げてその無実を上奏されている。
 しかし帝はそれを許さず、鎌倉に流罪にされた。事もあろうに仇敵である直義の手に渡したと云う点からも後醍醐天皇が大塔宮を見殺しにしたのが判る。それを知った大塔宮は思わず独り言で「怨めしいのは尊氏より父君……」と呟いたと云う。

(*1)紀元前六百六十年頃、古代中国の春秋時代。晋の国の献公は、絶世の美女・驪姫(りき)に惑わされて、太子・申生を殺してしまう。

(6)大塔宮、死す
 大塔宮の悲運を知った正成は、それでも真の父である帝が我子にそんな非道い処置をなさる筈はない、鎌倉には成良親王も居られる、時がたてば必ず許されて再びお目にかかれようと信じていた。
 然しながら建武二年(一三三五)七月、思いがけぬ高時の遺子・北条時行の乱が勃発し、戦い敗れた直義(尊氏の弟)がどさくさに乗じて大塔宮を殺そうとは、さすがの正成も考えなかった。
 直義は鎌倉を敗走する際、腹心の淵辺高博を呼び
「時行を滅すくらいは易いが、足利一族にとって最も強敵は護良親王(大塔宮)だ。死刑にせよとの勅命はないが此際殺してしまうのが得策と云うもの、急ぎ刺し殺してしまえ」
 と命じた。
 淵辺が兵七騎をつれて大塔宮の幽閉されている薬師堂の谷にやって来ると、灯火の下で経文を読んでいた宮は「麿を殺しに来たな」と素手で立ち向われ淵辺の大刀を奪い取ろうとされた。
 然し長い牢暮しで足が利かず、遂に無念の最後をとげられた。斬り落された御首は両眼をカッと見開き、唇には噛み砕かれた白刃が光っていたと云うから、大塔宮の凄しい気迫が判る。享年二十七歳。余りにも気の毒な宮の人生であったと云えよう。
 その悲報を知った時、正成の心は断腸の思いで、若い頃から宋学に親しみ、理想としていた王道政治の夢が砂上の楼閣のように崩れ落ちた。
「我子を見殺しにする様な天皇が天下や万民を安らかに出来ようか」
 と感じつつ「大義親を滅す」(*1)と涙をのんだ。
 そしてその想は、熊野中辺路の鮎川の里に潜んで大塔宮の再起を待ちわびていた竹原兵庫、平賀三郎らも同じか或いはそれ以上で、悲憤の涙に咽びながら宮の菩提を弔ったに違いない。
 かつて挙兵の際に大塔宮から賜わった名剣を御神体とする「剣神社」(*2)を建立して宮と、罪なくして斬られた野長瀬、更矢ら同志の供養を欠かさず、生涯を御墓守りとして終えたのは如何にも「智の平賀」らしい生き方だった。
 そして宮の御鎧を千早での奮戦の賞として賜わった湯浅家でも家宝と仰いで年々七月の命日には絶やさず供養を続けたのを始め、吉野熊野の各地には宮にまつわる伝説が数々残されている。

(*1)たいぎしんをめっす。国家、君主の大義のためには、人として最も深いつながりの親・兄弟などの肉親さえも顧みない。『春秋左氏伝−陰公四年』
(*2)現在、住吉神社。和歌山県西牟婁郡大塔村大字鮎川


(7)大塔宮伝説/雛鶴1
 悲劇の英雄・義経にも劣らぬ数多い大塔宮伝説の中に「雛鶴」がある。
 北山から十津川の黒木御所に移り宮から「雛鶴」と呼ばれて愛された竹原八郎の娘滋子は、宮と共に上京していたが、やがて身重となり十津川に帰っていたようだ。
 そして宮が鎌倉に幽閉されたと聞くや、驚いて宮の近臣の松木中将宗光や菊地次郎武光達にいたわられつつ鎌倉に急いだ。けれど僅かの差でその最後には間に合わず、遺骸にすがって泣き崩れたと云う。
 折しも北条軍が鎌倉に迫ったので、大塔宮の御首は松木達が「富士浅間大社」に納めた。姫には馬場正国が供をし、甲斐信濃を廻って十津川に帰る事に決め、秋山村の無情野(都留市)まで来た時、姫が産気づいた。
 けれど何処にも宿る家がない。やむなく松葉を敷きつめた仮の産屋で、姫は皇子を生まれた。松葉のつづれの中で生まれたので「綴連皇子(つづれおうじ)」と名づけたが、こんな中での出産にすっかり衰弱された姫は、
●果てぬとて 松の緑は 勝りけり 我が黒髪も 風のさなかに
との句を辞世に哀れや此地で果てられたと云われ、今も尚、雛鶴神社(*1)が残されている。
 浅間大社に納められた護良親王の御首は漆ですっかり塗り固められ神宝と尊ばれていたが、後に幕軍の戦火をさけて雛鶴神社から峠一つを越えた石船神社の御神体となって今も祭られて居り、『富士古文書』もそれらを史実として明記している。

(*1)Chap 3南北朝の巻 3.2 正成と大塔宮を参照

(8)大塔宮伝説/雛鶴2
 大塔ノ宮の嫡男は興良親王で大塔若宮と称され、父の志をつぎ南朝方として関東、奥羽に奮戦されている。他に赤松氏に擁された赤松宮。また太平記では宮に最後まで仕えた南ノ方が生んだ皇子は鎌倉本国寺で僧となり、日叡と称されている。
 竹原滋子の生んだ皇子の事は史書には残されてはいない。しかし大塔宮が赤坂落城後から王政復古を迎えた元弘三年(一三三三)六月までの二年近く吉野熊野を東奔西走された事は間違いない史実である。
 従って此様なエピソードが生れても不思議はない。現に北山竹原の里には、「古宇土骨置宮」と呼ばれる古社が残されて居り、綴連、塔宮の早逝を悲しんだ人々が社を建てたと伝えられ信仰されている。
 また十津川河津ノ里には大塔宮の七人の愛妾の塚と称される伝説もあり興良親王の令旨等も残されているが何故か雛鶴の話のないのは姫が遠い甲斐で世を去られた為であろう。
 それでは都留市の史跡を訪れた地元の佐古氏の一文を記そう。

***

北山村 竹原 佐古守 

 数年前に突然来訪された郷土史家の井戸先生から贈られた『熊野年代記(南北朝の巻)』を読んだ。竹原一族の史跡を守る立場からも、雛鶴姫の産んだ小大塔宮・綴連皇子(つづれおうじ)を「古宇土骨置宮(こうとうこうずのみや)」と呼んで産土神と仰ぐ氏子の一人としても、是非とも姫の終焉地を訪れてみたい。香華を献じたいと思い立った。
 そして平成七年の夏、妻と共に甲斐の国をめざし出発。中央高速道を富士山を右に眺めつつ、甲府−大月−都留−秋山村と、延々六百粁を走破した。漸く雛鶴峠を貫いたトンネルを出ると新装の立派な姫を祭る社殿に到着する。
 境内に立つ姫の美しい石像を拝して神前に妻の心尽くしの熊野名物「目張りずし」を供えた。声高く心経を唱えてその冥福を祈ると、杉の木立ちの中に静まる姫の円墳にぬかずき、八百年の風霜をへた幽翆の気に心うたれて香華を手向ける。
 次には護良親王を祭る石船神社(*1)に向かった。緑の森に包まれた社前に立てば

●鎌倉宮に詣でては つきせぬ親王(みこ)のみ怨みに 悲憤の涙わきぬべし

との古歌を思い出す。先年、鎌倉の土牢の前に立ち、妻と共に熱い涙を流したのが昨日のようだ。
「熊野で二年を過ごされた宮だからきっと懐かしく食べて頂けるだろう」
 と「高菜ずし」を献上して合掌すればジーンと胸が迫り涙がこみ上げてくる。それでもホッと肩の荷を下したような気分になり、暫くは静寂な境内で一時を過ごした。
 朱塗りの神殿の奥に、浅間大社の宮司が心をこめて漆で塗り固めた宮の御首(みしるし)のことを偲び、何とも云えぬ森厳の気に打たれる。
 やがて梢から爽やかな鶯の声がこだまして我に返り
「さあ、これで良い。また雲山万里をへだてた熊野の里に帰ろう」
 と再びハンドルを握った。

(*1)Chap 3南北朝の巻 3.2 正成と大塔宮を参照


(9)正成、大塔宮を供養す
 建武二年(一三三五)の涼秋八月の始め、元弘ノ乱で赤坂城に立籠り死生は共にと誓い合った大塔宮の悲憤の最後が河内の楠正成の耳に届いた。深く悲しんだ彼はその年の彼岸になると館に近い森屋の地に「寄手塚」と「身方塚」と称する二基の五輪塔を建立した。
 そして、広く領民を集め千早赤坂の戦いに殉じた敵味方の大供養会を営んだのは、此地で奮戦された宮への慰霊をも兼ねていたに違いない。
 金剛寺や観心寺(*1)を始め領内から多くの僧侶が集まり、三日三晩、懇ろな読経の声が戦場一帯の野山に流れた。やがて法要が終ると正成は参列の将士や住民達に向って、
「この供養塚により今度の戦いによって命を落した敵味方の多くの人々の事は未来永劫、忘れられる事はなかろうし、亦忘れてはならない。この塚にあやかって我が良き名を後世に止めたいと願う者は誰でもこの地に墓を建てる事を許す」
 と布告した。このあたり、正成の人柄が良く判る。さらに味方塚より寄手塚が巨大で立派なのは犠牲者の数の大小からと云われる。敵味方の区別なく戦没将兵の霊を弔っている点からも、正成が単に武略に秀でただけの武将ではなかった事は明らかである。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。


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