Chap 3  南北朝の巻

3.3 決戦!金剛山千早城

(1)千早城
 元弘元年(一三三一)十月、下赤坂が落ちたが、それから翌年十二月までの一年余に及ぶ楠木一族の忍苦に満ちた活動は、正しく人間業とは思えぬものがある。正成が如何に領下の住民達から厚い信望を得ていたかを示すものであろう。
 赤坂城には幕府の命で紀伊の湯浅孫六勢が入って、楠木一族の動きを監視していた。従って、正成の本拠は観心寺(*1)や金剛山の転法輪寺に置かれていたと思われるが、厳しい敵の目をかすめて、よくあの大防衛陣地を完成したものである。
 日本戦史に難攻不落の金字塔を打ち建てた千早城は「詰ノ城」と云われる。標高一一二五米の金剛山頂より西に走る山脈の中の六〇〇米の独立峯を中心として、全長三四〇m、幅二〇〜三〇m、馬の背のような尾根を本丸・二ノ丸・三ノ丸・四ノ丸の四つの曲輪に区切って陣屋や倉庫を建てている。斜面は袖曲輪を築いて防備を固めている。面積五四〇〇平方米の山城である。
 城の周囲はそそり立つ妙見、風呂ガ谷、北谷が自然の堀となり、城の斜面は二百米の急峻な石垣の役を果している。そして何よりの強味は山伏達が「五所の秘水」と名づけた豊かな湧泉がある事だった。
 それでも敵の火矢攻撃などを防ぐ為にすべての建物の軒には樋をかけて雨水を集め、落口には巨木をくり抜いた水舟三百余を配し、水の腐らぬ様に底には赤土を敷くと云う用心深さである。
 築城の費用は風呂ガ谷から産出する水銀を主な財源とし全住民の協力で日夜突貫作業が続けられ、倉庫群には続々と籠城に必要な食料、塩、海藻、油や武器製造に必要な鉄類までが満たされた。

(*1)Chap3南北朝の巻3.2正成と大塔宮を参照。

(2)下赤坂城の奪還
 元弘元年(一三三一)の暮、正成は紀伊隅田ノ庄に出撃して紀ノ川一帯を圧さえた。翌年二月「磯長合戦」で竹内峠から大和方面、古市から堺へ進出したのも、先に述べた物資と労働力を充実する為だった。
 湯浅孫六の守る下赤坂城を奪い返したのは、元弘二年(一三三二)四月と云われる。
 正成は彼らが食糧を故郷の阿瀬川から運んでいるのを知るや、途中で待伏せて難なく奪い取った。米の代りに武器を入れた俵を輸送隊に化けた味方に運ばせ、城の近くでわざと襲いかかるまねをしたのだ。
 城兵達はまんまと騙され、直ちに援軍を差向けて無事に偽の輸送隊を城に迎え入れてしまう。夜になると俵の中の武器を取り出した彼らが勝手知ったる城内で暴れ出し、これに呼応して正成勢が城に突入したから忽ち落城してしまった。
 その鮮やかな戦法と降者への人間味あふれる人柄に接した湯浅孫六らはすっかり心服し、正成の説く大義名分論に感動して家臣となり、以後は生涯を忠実な部将として彼の為に尽している。
 幕府は湯浅が正成方となった事を、暫くは何も気がつかなかったらしい。前回の赤坂攻めに正成の一族でありながら、戦略上わざと幕軍についていた神宮寺や恩地一族の尽力だろう。

(3)上赤坂に本城
 さて、城は取返したが敵も良く知った地形だからと新しく上赤坂に本城を築いた。標高三五〇米の三方は深い谷、南の尾根道だけが千早城に続く要害の地で眺望にも優れている。幅二〇米、長さ三〇米の頂上部に本丸と袖曲輪を築き、茶椀原には陣屋を配しその東に二ノ丸が作られた。大手口は北の城坂に置いて四カ所の木戸で固めたが、弱点は水のない事だった。
 二粁ばかり離れた谷川から地中深く樋を埋めて敵の目に判らぬ様に城に引き、城主には平野将監を任じてその守備を任せた。正季を副将にしたのは、平野は元は北条方で不安があったからだろう。
 赤坂本城と千早詰ノ城の周囲の要地には次々に砦が築かれた。金剛山の正面には国見城を設け、幼い正行(まさつら)と守役の湯浅孫六を配して、山頂の山伏道場の味方との連絡や背面の警戒にも万全を期する。
 大防備陣が完成すると次は前哨砦にかかり、紀見峠に通じる天見には腹心の和田左近を配した。幕軍が楠木の再挙を知って「金剛寺を拠点に進撃する」との情報を聞くと、住職に戦勝祈願料と共に「決して敵軍を寺に入れぬよう」手紙を書いている。

(4)攻防
 元弘三年(一三三三)に入り、大塔宮が吉野に進まれるのと呼応した楠木勢は紀伊、河内、和泉一円の幕府方を一掃する。摂津天王寺に出撃して来た六波羅勢七千を渡辺橋で潰走させ、大量の武器を手に入れて、その兵力は五千を越えた。
 六波羅では折しも関東から到着した豪勇・宇都宮公綱勢を差向ける。正成は彼らが決死の勇者揃いであるのを見て、敢えて戦いを挑まず兵を退き、毎夜その周囲で松明を焚かせ次第にその数を増した。
 さすが決死の宇都宮勢も三日三晩の徹夜警戒に神経衰弱となり京へ引揚げた。正成は再び天王寺に進出して武器食料を集め、関東の大軍が迫ると知るや、赤坂千早に退いて敵に備えた。
 真先に上赤坂城に迫ったのは勇将で知られた阿曽治時の八方余騎で、元弘三年(一三三三)二月上旬には石川沿いの野山を埋め尽さんばかりの勢いで襲いかかる。
 敵は軍を五陣に分けて火の如く攻め立てたが、城将・平野将監と正季は僅か三百の兵でよく防いだ。周囲の味方砦も盛んに側面攻撃に出て、敵は七日間の激斗に二千近い死傷を出し、戦さ上手で知られた参謀格の長崎高資も攻めあぐんだ。


(5)上赤坂城、水を断たれ、陥落
 その状況を見た寄手の中で播磨の吉川八郎と云う歴戦の武士が
「城の三方は谷が深く僅かに南だけが山に続いている。城中の用水はここから引いているに違いないから水の手を断つ作戦を取れば良い」
 と大将の阿曽に進言する。
 そこで城の裏手になる東坂から猫背砦を夜襲してこれを落した。多数の人夫を使って掘らせると、果せるかな、地下六米の処に埋められていた樋を発見した。これを断ち、再び強襲作戦に転じる。
 城方では水の手を断たれても十日余りは耐えていたが
「このまま飢死するよりも降参しよう」
 と、平野将監は山を降りた。正季らは尚もで城に踏み止まって頑張ったが、何としても水がなくては戦えぬ、やむなく城を焼いて千早城に落ち延びた。
 降伏した平野達は本領安堵の約束であったのに六条河原で斬首される。悉く哀れな最後を遂げたのでそれを知った楠木方の将兵は憤激し、以後は二度と降伏しよう等と思う者はなくなった。

(6)千早城の大攻防戦1
 上赤坂城が落ちたのは吉野の落城と同じ二月下旬だったらしい。正成の予定よりも意外と早かったと思われるが、彼は少しも怯まない。千早城の大手口である鈴ガ滝をせき止めて水城とし、その両側にある肩衝、北山砦の守兵を励まして敵を待ち受けた。
 かくして元弘三年(一三三三)の桜も綻ぶ春三月始めから後世にその名を轟かす千早城の大攻防戦の幕が切って落された。
 寄手の先陣は上赤坂城を落して意気揚った阿曽治時と長崎高資の軍勢。そして大和方面から進攻した大仏貞直や金沢右馬助の新手勢。さらに吉野を落した二階堂軍に近畿西国から召集された軍勢。合せて総勢八十万と号され、城の四周数里の山野には連立する旗差物が秋の尾花にゆれる様に翻えり、幾千万の剣の煌きは星の群のようだった。
 これに対する楠木軍の実数は千五百程度と思われ、太平記は
「この大軍にいささかも恐れず、誰を頼み、何を待つともなく、周囲一里に足りぬ小城に籠り防ぎ戦いたる楠木の心の程こそ不敵なれ」
 と記している。

(7)千早城の大攻防戦2
 最後の詰ノ城・千早をめぐる緒戦は楠木勢の奮戦にも拘らず忽ち水城が破壊された。北山ら両砦を残したまま、寄手はひしひひと千早城の直下に兵馬を進めた。城の様子を一見するなり、
「これしきの小城を踏みつぶすに何事かあらん」
 と嘲笑した。ろくに準備もせず我先に城門に押寄せ強引な攻撃にかかるや、一打の太鼓と共に静まり返っていた全櫓から豪雨のような矢が降り注いだ。続いて大石が投げ落され、夥しい死傷者が続出した。
 その数の余りの多さに驚いた戦奉行の長崎高資は
「直ちに合戦を中止して陣地の構築にかかれ。勝手な抜け駈けを計る者は重罰に処す」
 と厳命して死傷者の収容にかかったが、僅か一日で五、六千人にも及んだと云う。
 寄手は猪突猛進の失敗にあわてて陣地を築いた。再び攻撃を再開したが、一向に成果がない。先に上赤坂で味を占めた阿曽治時の発案で水ノ手を断つ作戦に出て、名越勢三千が千早川辺の水汲場に陣をしき毎夜寝ずの警戒を続けた。

(8)千早城の大攻防戦3
 処が城兵は一向に姿を見せず、見張兵の警戒心がゆるみ始めた頃、正成は精兵三百で名越の本陣を夜襲し散々に潰走させた。翌朝分捕った旗差物を陣門にかざし
「望しければ取りに来い」
 と笑いはやし立てる。
 大将・名越高家は激怒して「我手の者共は全員討死せよ」と火の様に攻め立てたが大損害を受け壊滅した。
「この上は兵糧攻めしかない」
 と城を遠巻きにして気長に待っていると、或日の夜明に突然「わーっ」と凄しい喊声と共に城兵が出撃して来た。
「それ!敵は籠城に耐えかねて討って出たぞ」
 と勇み立った寄手は山麓に陣を構えた敵勢めがけて怒濤のように攻め寄せると、これが藁人形で、亦もや巨石と矢の集中攻撃を受け、惨敗を喫した。
 まるで孔明の再来かとも思われる程の戦法の糞尿やら熱湯攻め、或いは新兵器を使った奇想天外な作戦。散々に痛めつけられ包囲したまま食糧の尽きるのを待つしか手はない。長陣に飽いて遊女を呼んで遊ぶうち仲間喧嘩で一族が殺し合うと云う事件まで起きた。

(9)千早城の大攻防戦4
 十津川で再挙を計りつつ情勢を見ていた護良親王(大塔宮)は千早城の奮戦を聞くや再び斗志を燃やした。
「正成を殺すな」
 と野長瀬七郎らに食糧や武器の補給作戦を命じた。けもの道から千人の兵が百日食べられる米五百石が次々に到着して、城兵の志気を大いに高める。
 折しも隠岐に流罪中の後醍醐先帝が名和長年の助けで船上山に脱出された、との朗報が入った。大塔宮の作戦は一段と活気を増し、宮自身も十津川から高野、吉野に出馬され、山伏、僧兵、各地の豪族ら七千余人を率いて盛んなゲリラ戦を展開された。
 容易ならぬ情勢に高時は「一刻も早く千早を落せ」と六波羅に厳命し、四月半ばになると兵糧攻めを中止し、全力を傾けて総攻撃に転じた。
 新田義貞のような転向組や日和見主義の連中は次々に脱落。残るは命より名を惜しむ阪東武士の猛攻に第二線の赤滝、富山、丸山の堅陣も落ちる。千早城正面の肩衝、北谷山の砦は死山血河の白兵戦の後に敵の坑道作戦によって遂に玉砕。四月下旬になると遂に千早本城のみとなった。

(10)千早城の大攻防戦5
 勢い立った寄手は「残るは裸城一つ」と火の玉の如くに攻め立てたが、どうしても落ちない。風呂谷の一角に、幅五m、長さ三〇mの巨大な橋を制作し、城の石垣に架橋して突入せんとしたが、正成は用意した竜吐水ポンプで橋上に油を注ぎ、燃え立つ松明を次々に投げ落とす。忽ち橋は焼け落ち、数百人が谷に墜落惨死した。今も尚「懸橋」の地名が残されて当時の歴史を偲ばせている。
 焦った寄手の幹部達は「残るは坑道作戦しかない」と人夫を総動員して三日三晩掘り進んだ。遂に正門の一部を破壊して突入したが、新しい皮盾、懸金柵を活用した正成の必死の反撃で追い落され、空しく屍を重ねるばかりであった。
 精強を誇る関東武士の騎馬軍団よりも、正成の新しい徒歩足軽集団戦法の優秀性を示した戦史上の注目すべき戦いである。
「どうにも処置なし」と困り果てた寄手は、金剛山の背後から城の搦手を突く狭撃作戦を思いつき、一軍を五条方面に転進させて最後の猛攻を展開する。
 然し宇智、葛城の地侍や、金剛山の山伏達のゲリラ戦に苦しんだ末、物資の補給路を断たれ、大塔宮の軍令で攻撃軍の本部さえ襲われる程の苦戦となった。

(11)千早城の大攻防戦6
 元弘三年(一三三三)の五月に入ると天下の情勢は激変する。船上山を行宮とした後醍醐先帝の下に参集する将兵は引きも切らず、千種忠顕を大将とする大軍が続々と京をめざした。大塔宮の令旨に応じた赤松則村もこれに呼応して進撃する。
 折しも幕府の最後の増援軍の大将を命じられながら抜け目なく持明院、大覚寺の両帝から綸旨を手に入れて日和を見つつ上洛したのが足利高氏である。代々の北条氏の厚遇に叛き、突如として六波羅攻撃に転じたのが致命傷となった。
「おのれ高氏!」
 無念の涙に咽びながら探題の北条仲時は千早城を囲む味方を呼び返す暇もなく、四面楚歌の中を持明院系の後伏見上皇、光厳天皇以下の公卿、殿上人を守って鎌倉に引揚げ再挙を計らんと都を落ちる。
 思いも寄らぬ急変に千早城を囲んでいた大仏高直ら、精強で知られた関東勢も總崩れとなった。八十万の大軍を相手に僅か千五百の寡兵で百日に及ぶ籠城戦に耐え抜き、天下の情勢を一変させた正成の戦史に例のない偉業を、後に頼山陽(*1)は、
「天下の武夫らのすべてが承久の乱を戒めとして息を潜め、勤皇を唱える者一人も無き中に、楠公ひとり眇たる身を以て大義を説き、幕府の爪牙を砕きて義士の志気を鼓舞す。正に天下第一の功なり」
 と絶賛している。
 正しくその言の通り、楠木正成こそ文武両道に秀で軍法戦術に並ぶ者なき武将だった事は、金剛山千早城図を一見するだけで明らかである。

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