Chap 3  南北朝の巻

3.2 正成と大塔宮

(1)後醍醐天皇の霊夢
 元弘元年(一三三一)八月、笠置寺に入られた後醍醐天皇は標高三百米近い岩山の頂上の修行道場を行宮とした。兵を募られたが、大寺や名ある豪族の参ずる者もなく行宮を護る兵も少ない。
 天皇は三河の足助党や伊賀、柳生の地侍達に囲まれながら先を案じられていた。或夜、南に枝を拡げた巨樹の下に玉座が設けられて居り二人の童子が現われると
「天下に身を寄せられる場もなき今、しばしはあれにお休みあれ」
 と涙を流しつつ、かき消えた夢を見られた。
 後醍醐天皇はこれを霊夢と感じられ、南の木は熊野権現の神木の椰であるから童子は権現のお使いであろう、それに木偏に南を書けば楠木となる。
「近くに楠木と名乗る武士はなきや」
 と寺の長老に尋ねられた末に楠木正成(*1)を召された、と太平記は述べている。
 けれどそれはフィクションであろう。当時の楠木正成は決して一介の郷士等ではなく、幕府の信頼も厚い豪族だ。その所領も和泉、河内、紀伊で併せて七千貫(貫七石と見て約五万石)の大名である。
 従って天皇は、かねて俊基からも、宋学にも詳しく文武両道に秀でた尊皇思想の持主である事を聞かされていたに違いない。

(*1)くすのきまさしげ。(?〜一三三六)。武将。幼名、多聞丸(たもんまる)。明治十三年(一八八〇年)に、贈正一位。父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしない。

(2)楠木正遠(まさとお)
 凡そ太平記に登場する何千何万と云う武士の中で最も輝かしい存在は正成である。しかし、その活躍は元弘から延元までの僅か五年に過ぎず、出自に就いても明らかではない。
 楠木系図によれば、橘氏で左大臣・橘諸兄(*1)を祖とするが、「正遠─俊親─正成」とするものと、「正俊─正康─正成」の両説がある。正俊の時代に河内金剛山下の七郷を支配し館の周囲に楠が繁っていたので楠木と称されたと云われているが、要するに歴史上では良く判らないのが定説である。
 「熊野年代記」によれば、古代熊野の文化的巨人「秦ノ徐福(*2)」を祖とし、その墓碑の眠る「楠薮」と呼ばれる地に住み、代々新宮大社の要職を占める神官であった。
 平安の弘仁年間、唐から亡命して来た将兵による南蛮の乱(*3)に熊野三党の軍師として活躍した楠富彦は代々新宮大社の三ノ太夫を勤めていた。この功により一族の中で都に召されて検非遣使に仕えた者がいた。その子孫に楠正定と云う人物がいて、その娘が橘盛仲に嫁いで正遠を生んだと云う。
 正遠は本家熊野楠氏の縁により三山神領の下司職などに任ぜられ、河内金剛山麓を本拠とした。姓も楠から楠木と改め、播磨の荘園(*4)まで勢力を伸ばしていったようだ。
 その頃、熊野の楠氏は別当嫡流の宮崎家の補佐役として衆徒(僧兵)と飛鳥長床(客僧)を支配し権勢を振っていた。正遠と熊野楠氏は、金剛山頂の修験道場に出入りする山伏達を通じて、昵懇の仲だったらしい。

(*1)奈良時代の政治家。元皇族、葛城王(かつらぎのおおきみ)。敏達天皇の五世子孫。母の姓を継ぎ、橘諸兄に。国政を担当し、聖武天皇を補佐。左大臣、正一位。生前に正一位は日本史上、稀。孝謙天皇の時、藤原仲麻呂(恵美押勝)の力が増し、辞職。以後隠居。
(*2)じょふく。秦(中国。紀元前三世紀頃)の方士。秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。(司馬遷『史記』)日本各地に徐福伝説があり、和歌山県の那智勝浦町や新宮市が、特に有名。
(*3)熊野伝説。嵯峨天皇の御宇(ぎょう。帝王が天下を治めている期間)弘仁元年(八一〇)十二月二十八日、南蛮の乱あり『外交志稿(外務省)』。新興部族の旧海人系部族に対する制圧戦だったことを想定させる『熊野の伝承と謎(下村巳六)』。諸説あり。
(*4)次節参照。


(3)楠木正成1
 河内は清和源氏発祥の地だけに、その守護には源義家以来の名門・石川氏が就任している。楠木氏はその地頭を勤めながら次第に勢力を拡げ、建久元年(一一九〇)頼朝が上洛した際に随行した武士の中に、始めて楠木四郎の名が記されている。
 下って永仁二年(一二九四)の東大寺文書によると、播磨の荘園の農民から
「近年、悪党の楠河内入道が年貢を横取りしてしまうのでひどく困っている」
 と訴えられているのは正遠らしい。(*1)
 大覚寺系に属した河内観心寺(*2)の寺伝によれば、正遠には四男一女があり長男が俊親、次男が正成で、彼は永仁元年(一二九三)の生れと云われる。八歳から十五歳まで同寺で修行した。
 生来好学心に富み、学問は天皇の侍僧だった文観(*3)の弟子・滝覚坊(りゅうかくぼう)が観心寺にいたので彼から学んだ。この滝覚坊は和田義盛(*4)の子孫と云われ、特に弘法大師の「心地観経」により四恩(*5)に対する感謝を深く心に刻み込んだと云う。
 そして軍学は観心寺から一里ばかり離れた加賀郷二百貫(千五百石)の豪族・大江時親(*6)を師と仰ぐ。かつて大江定基(*7)が中国から翻訳して送って来た「孫子」や六韜三略等の軍書を伝授された。
 十五歳の時、兄の俊親が早死した為に楠木家の嫡子となった。此ころになると守護の石川家は衰えて、楠木家は河内きっての豪族となる。徳治元年(一三〇六)の初陣では、大敵・八尾氏を少年とは思えぬ軍略家ぶりを発揮して破り、人々を驚嘆させている。

(*1)東大寺領播磨国大部荘。最近の研究で、永仁年間の悪党事件が、実は正応五年(一二九二)に始まったこと、大部荘の悪党「河内楠入道」が楠木正成の一族である可能性が大きくなったようだ。
(*2)大阪府河内長野市寺元475。大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。▽「楠公学問所中院」と彫られた石柱がある。「中院」は楠木正成が8歳の時から15歳までの間の学問所とされる。また、湊川で討ち死にした楠木正成の首が届けられた時、正行(まさつら。正成の長男)が切腹しようとした所ともいわれる。▽「建掛塔(たてかけのとう)」が建っている。この建物は三重塔の建立予定だったが、楠木正成が湊川で討ち死にしたので、初重の段階で未完成のまま現在に至ったものといわれる。▽「楠木正成の首塚」がある。楠木正成が湊川で討ち死にした後、足利尊氏の命令で正成の首が当寺に届けられ、ここに葬られたとされる。
(http://www.y-morimoto.com/hananotera/25kanshin.htmlより)
(*3)もんかん。後醍醐天皇に重用され、鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、硫黄島へ流罪。鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行。楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。
(*4)わだ よしもり。武将。鎌倉幕府の初代侍所別当。頼朝死去後、梶原景時の弾劾追放では中心的な役割を果たすが、二代執権北条義時により挙兵に追い込まれ、敗れて戦死。和田一族も滅亡した。
(*5)父母の恩・社会の恩・国家の恩・三宝の恩。三宝とは、仏・法・僧。
(*6)平城天皇を祖とする。大江家は、文筆家・兵法家の家系として著名。時親の曽祖父・広元は源頼朝の家臣。広元の曽祖父が源義家に兵法を伝授した大江匡房。時親は、滝覚坊の依頼により正成に兵法を伝授。正成の兵法家としての基礎はこの時培われた。
(*7)Chap 2源平の巻 2.4不死鳥!伊賀平氏を参照。


(4)楠木正成2
 正成が妻を迎えたのは何歳か判らない。恐らく周辺の豪族の娘を貰って勢力の拡大を計ったに違いないが、その妻は三人の娘を産むと早死したらしい。
 父が亡くなったのは正和四年(一三一五)彼が二十二歳の時で、その所領は四千貫(二万八千石)。文武両道に優れた一門の若きホープと仰がれていた。
 そして当時、宋学の第一人者と称された玄恵法印(*1)の妻は楠木一族の出で、その子が禅で有名な祖曇(そどん)だから、天皇側近の万里小路藤房とも交友を深めたものと思われる。
 そんな関係からだろう。藤房の妹・久子を後妻に迎えたと云われる。嫡子・正行(まさつら)が生れたのは嘉暦元年(一三二六)である。正成はもう三十二歳になって居り、恐らく事実だったろう。続いて正時、正儀(まさのり)と優れた武将を生んでいる処を見ても、彼女は貞節な良妻賢母だったに違いない。
 少し前の元享二年(一三二二)、正成は、摂津の渡辺・紀州の湯浅・大和の越智勢の掃討を幕府に命じられた。正成は、六波羅軍が散々に手こずった彼らを、農民・散民・山伏等を活用した独特の新戦法で次々に破った。幕府は喜んで兵衛(*2)の官職と三千貫の所領を加増している。
 従って当時の正成は河内東条に居城を持つ五万石の大名である。抜群の戦さ上手であり、また領内の様々な領民を適材適所に活用して金剛山中から産出する水銀等の鉱産物で財力を高めている。散所(*3)出身の異色の武将として広く知られていただろう。

(*1)げんえほういん。天台宗の僧・儒学者。玄慧とも。虎関師錬(*1-1)の弟とも。天台教学を学び、法印大僧都に就任したが、一方で儒学や漢詩文にも通じていた。倒幕の密議の場で書を講じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じた。「太平記」建武の新政が崩壊後、足利氏に用いられ「建武式目」の起草に関与。寺子屋で習字や読本として使用された「庭訓往来」の作者。1350年、死去。
(*1-1)虎関師錬。こかんしれん。臨済宗の僧。1322年(元亨2年)「元亨釈書」を著す。仁和寺・醍醐寺で密教を学ぶ。1339年(暦応2年・延元4年)南禅寺の住持。1341年(暦応4年・興国2年)東福寺海蔵院に退き、翌1342年(暦応5年・興国3年)後村上天皇から国師号を賜った。1346年、69歳で死去。
(*2)ひょうえ。兵衛府(ひょうえのふ)の四等官(しとうかん)以外の武官。
兵衛府とは、律令制の官司(かんし。官吏、役人の意)の一つ。宮門の守備、行幸・行啓の供奉、左右両京内の巡視などを担当。左右二府があり、四等官のほか兵衛四百人などが所属。
四等官とは、諸官司の四等級の官。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)のことで、官司によって用字が異なる。
・長官(かみ)は最上の官位。庁務を総括する責任者。「上(かみ)」の意。人の上に立つから。
・次官(すけ)は第二位。職掌は長官(かみ)と同じで、長官を補佐し、時にその代理をする。
・判官(じょう)は第三位。庁内の取り締まり、主典(さかん)の作る文案の審査、宿直の割り当てなど。
・主典(さかん)は最下位の官。記録・文書を起草したり、公文の読み役を務める。佐(たすけ)る官の意の「佐官」の字音から。しゅてん。
(*3)さんじょ。古代末期〜中世、貴族や社寺に隷属し、労務を提供する代わりに年貢を免除された人々の居住地。また、その住民。鎌倉中期以降、浮浪生活者などを散所と呼び、多く賤民視された。中世末〜近世、卜占(ぼくせん)や遊芸を業とする者も現れた。


(5)正成、笠置に参上
 正成の妹(卯木。うつぎ)が、伊賀の有力豪族である服部元成に嫁いで(駆け落ち)いたので、彼らとの繋りも深い。京都御所の台所役人となっていた名張の大江本家(*1)とも決して無縁ではなかったろう。
 正成の妹の生んだ子が、かの有名な能楽の大家・観阿弥(*2)で、彼が素性をかくして足利将軍に近づき、南北合一をすすめ天下泰平の世の到来に活躍した秘話については時を追うて語る事にしよう。
 従って元弘元年(一三三一)八月末、勅命を受けた万里小路藤房が河内を訪れた時、正成には他の武将達のように幕府に対する個人的な怨や、領土欲や出世欲などの名利私欲は一切なかった。
 正成はかねて宋学から学んだ王道思想と「大義名分論」に対する彼の信条から、また尊皇討幕の情熱に燃えて先駆しながらもその日を見る事もなく散った日野俊基との男の誓と天皇親政後の散民に対する平等政治への期待、そんな数々が正成を立たせたに違いない。
 藤房に対して爽やかに
「弓矢とる武夫としては此上もなき名誉であります」
 と答え直ちに笠置に参上し、それを聞いて後醍醐天皇は多いに喜び、
 「直ちにこれに呼べ」
 と破格の待遇で側近く召され、今後のとるべき作戦を尋ねられたのは、かねて俊基から文武両道の優れた軍略家と聞かされていたからだろう。
 静かな口調で、
「凡そ天下を平定するには武力と智謀の二つが肝要であります。関東勢の武力は絶大ながら智略に乏しき点あり恐れるには及びませぬ。
 ただ勝敗は兵家の常なれば、一時の勝敗は気にかけられず正成一人生きてあらば、必ず聖運は開けると思し召せ」
 と、日頃は謙虚な正成が珍しく大言を吐いたのは、後醍醐天皇の不安を休める為と、彼自身の不動の信念でもあったろう。


(*1)現在の名張市梅が丘に、大江一族の居城やその氏寺の大江寺があったと云われている。名張市大屋戸字大江寺の番地名が現在も残る。「梅が丘」の名は、近くの杉谷神社に祀られている菅原道真公の梅の紋所に因んでいる。
 梅が丘の西隣「短野」には大きな五輪塔があり、杉谷神社を氏神とする東大寺荘園の荘官で名張最大の豪族、大江定基の墓と云われている。大江定基は東大寺から派遣されこの地を治めた。(大江定基関係地図参照)
 天平勝宝七年(七五五)、伊賀国・名張郡(*1.1)に板蝿杣(いたばえのそま)を四至(*1.2)に限り、東大寺領に施入(せにゅう)『東大寺文書』。(板蝿杣略地図参照)
(*1.1)当時は国境が確定されておらず、豊原や波多野(共に山添村)などの大部分が伊賀領と見なされていた。
(*1.2)しし。東限・名張河、西限・小倉立蘇小野(こうの)、南限・斉王上路、北限・八多前高峯並鏡滝。

(*2)Chap3南北朝の巻3.5湊川、四条畷の玉砕を参照。


(6)正成、赤坂山に築城
 勅に応じた将兵は五千騎を越えた。正成は笠置を守る諸将と協議の末、河内に後醍醐天皇を迎えるべき城を築く事となった。直ちに帰途に就いたが、正成の人柄を見て大いに惚れ込んだのが大塔宮である。大塔宮は、後醍醐天皇に願って、正成と共に河内に向われた。
 河内東条の館に帰った正成は急いで領民を総動員して築城工事を急いだ。その傍、食糧の確保に努めたらしく、当時の臨川寺の記録によれば「悪党楠木兵衛尉が乱暴な略奪を行った」と残されている。(*1)
 然しこれは私事ではなく大塔宮の令旨による軍事行動である。後醍醐天皇を迎えて天下の大軍を支え抜く為には必要欠くべからざる処置であった。

(*1)和泉の若松荘を楠正成が押妨したと臨川寺が訴えた『臨川寺文書』。若松荘は後醍醐の子・世良親王の死後、後醍醐が臨川寺から取り上げ、醍醐寺の道祐に与えた荘園。臨川寺の訴え後、後醍醐は若松荘を臨川寺に戻している。

(7)笠置山、落城
 河内で昼夜兼行の籠城準備が続いていた九月始め、笠置山では七万と号する幕府勢の包囲攻撃が開始された。六波羅奉行・糟谷宗秋、隅田次郎に率いられた大軍がつづら折りの急坂を三の木戸、二の木戸と次々に攻め破って仁王堂の前まで攻め上った。
 けれど一ノ木戸を固めた足助次郎の強弓と奈良般若寺の本城房や伊賀郷士らに悩まされ死傷続出。谷は死骸で埋まって後には地獄谷と呼ばれ、木津川は血で染め紅葉を散らしたようで、攻めあぐんだ寄せ手は遠巻きにして日を過ごした。
 九月半ば、河内の楠木が挙兵して館の後に聳える赤坂山に築城して立て籠った。備後の桜山も吉備津ノ宮で叛旗を翻したとの急使が鎌倉に飛ぶ。驚いた北条高時は更に二十万の大軍を召集して一路怒涛の如く馳せ下らせた。
 笠置城を囲んだ寄せ手の中に備中の陶山義高と云う勇将がいて、九月末の嵐の夜、城北の大岩壁を一族郎党五十余人と共に必死によじ登り、風雨にまぎれて城内に潜入した。
 城方では大手の木戸には伊賀の大江、服部、富岡、増地ら千余騎が固め、搦手の東口は大和勢、南の坂口には和泉、紀伊勢が固めていた。しかし北口は絶壁を頼りにし、警備も手薄だった。
 その隙をついて、陶山勢が行宮の裏手に放火して暴れ廻った。これに呼応した寄せ手の大軍が勢い立って攻め立てたので伊賀勢の力斗空しく落城する。後醍醐天皇や公卿達は裸足のまま赤坂城めざして風雨の中を逃げ落ちた。


(8)後醍醐天皇、捕縛
 始めのうちは後醍醐天皇を護って供をしていた人々も何時か散り失せて、藤房、季房の二人だけとなった。後醍醐天皇はみすぼらしい農夫姿に身をやつし歩き慣れぬ足をふみしめ山路を辿られた。
 後醍醐天皇たちは、三日間は食べる物もなかった。昼はかくれ、夜は宛なくトボトボと辿るうち方向を間違えた。山城の有王山の麓に出てしまい、岩を枕に仮寝されつつ

●さして行く 笠置の山を 出でしより 天が下には 隠れ家もなし

 と後醍醐天皇が詠じられたのは有名な話である。こんな中にも歌心を忘れぬあたり、豪毅にして優雅な帝王らしい人柄が判る。
 艱苦の末に、山城の地侍に捕えられてしまう。惨めな莚輿に載せられて奈良に向ったが、同じように尊良、宗良親王ら主だった者だけでも六十余人が捕えられた。
 花園上皇はその惨めさを聞かれて、
「天下静安となり悦ぶべしと云うも、王家の恥、これにしかず」
 と歎かれている程である。
 さてこれより先、天皇が御所を脱出して挙兵されるや、幕府はかねて持明院系の要望通り皇太子量仁王を即位させ光厳天皇とした。けれども次は大覚寺系の後二条天皇の皇子を皇太子と定めた。両統交替の約定を守っているのは、後の足利幕府に比べて遙かに誠実な政府だった事が判る。

(9)赤坂城の攻防
 笠置が落ちた頃、正成は赤坂城の突貫工事に懸命になっていた。太平記にも
「城の三方は岸高く屏風を立てたる如し」
 とある通り、東と北は東条川が自然の堀となる。西は佐備川をへだてて岳山が聳え、南に拡がる平野の彼方に金剛山が霞んで見える要害の地だった。
 十月に入ると幕軍は四道から進撃を開始した。第一軍、大仏貞直勢は宇治から、第二軍、金沢貞将勢は生駒山麓より、第三軍、江馬四郎勢は淀川を下って天王寺より進む。第四軍、足利高氏勢が伊賀を廻ったのは大江、服部ら正成と縁の深い豪族達の協力を絶つ為だった。
 総勢合せて二十万の大軍は石川河原を遡って城に迫ったが、僅か二町四方の地に塀を巡らし、櫓を建てたちっぽけな城を見て
「あな、哀れの様よ、我が片手にて投げ捨つべし」
 と笑い、鎧袖一触の勢いで先を争って突進した。
 正成はかねて五百の兵のうち弓の名手二百を城内に止め、三百は正季が率いて近くの山に伏せておいた。
「ただ一揉み」
 と城に押寄せた敵は猛射を浴びて忽ち千余の死傷を出した。

(10)正成、赤坂城を焼く
「これは手強い、まず腰をすえて攻め直そう」
 と軍を退いて幕舎を設け、鎧兜を脱いで休息を取り始めた。
 これを見た正季(まさすえ。楠木正成の弟)は「時は今ぞ」と急襲した。城中かられそれに呼応して出撃したから、さすがの関東武士も大敗を喫した。
 続いて釣塀作戦や熱湯作戦など思いも寄らぬ巧みな戦法で手ひどく奔弄され、やむなく兵糧攻めの持久戦となった。
 二十日余りの籠城の後、笠置が落ちて後醍醐天皇が捕えられ、神器は新帝・光厳天皇に引渡され、やがて流罪になる、と云う情報が都に忍ばせた密偵から届いた。正成は大塔宮と協議の上、ひとまず城を焼いて自刃したと見せかけ、再挙を計る事となった。
 腹心の山伏に案内させて、大塔宮を一足先に金剛山の山伏寺に落した。十月下旬の風雨の夜、城に火をつけ自刃したと見せかけ、正成以下は無事に脱出に成功した。
 寄せ手は焼け落ちた城内の多くの死骸を見て、これが正成の策とも知らず
「敵ながら天晴な武将であった」
 と口々に誉め讃えつゝ凱歌も高らかに都に帰った。まさか当の正成一族が河内観心寺の宿坊に潜んでいようとは夢にも思わなかったようだ。

(11)正成、金剛山で戦略を討議
 元弘元年(一三三一)十月の末、大塔宮と正成一族は無事に金剛山頂にある真言宗転法輪寺の山伏道場に集まった。今後の戦略を討議の末、正成らは金剛山、赤坂一帯に一大陣地を構築して再挙を計る。大塔宮は南部の情勢を探りながら熊野に落ちる。新宮大社の楠一族らの協力を得て熊野、吉野、十津川一円に同志を募ると、正成と呼応して再び討幕の錦旗を翻す。このような大作戦を決定した。
 そして柿の衣に頭巾も眉深く熊野山伏姿に身をやつした大塔宮の一行は、ひとまず奈良の般若寺に隠れる。都に捕われている父君の動勢を探るべく腹心の者達を八方に走らせ情報入手に努めた。
 それを知った興福寺の僧兵達に襲われ大般若経の唐櫃にかくれ危うく難を逃れた話は有名で、家臣達と協議して、このまま奈良にいては危険であり都の様子もひとまず判った上は急ぎ熊野に落ちるべしと云う事になった。

(12)大塔宮、東野の里へ

 その山路の艱難は大変なもので太平記は、
「高峯の雲に枕をそば立て、苔の莚の袖をしく、岩もる水に渇を忍び朽ちたる橋に肝を消しぬ。山路もとより雨なくして、空翠つねに衣をうるおす。見上げれば万仭の青壁、刀を削り見下せば千丈の碧潭は藍に染みたり。
 数日の間かかる嶮難をへられて宮の御身もくたびれ果て、流れる汗は水の如く草鞋は血に染みたり。供の人々もその身鉄石に非ざれば皆々飢え疲れて、はかばかしくは歩み得ざれど、お腰を押し、御手を引いて道の程三十里余りを十三日目に漸く十津川へぞ着かせける」
 と述べている。
 太平記では大塔宮の一行は十津川の大塔村の戸野兵衛の宅を訪ねているが、地形的に云って十津川北辺のここに入ったとは考えにくい。(*1)恐らく切目川から日高川の上流を遡って竜神の里に出たと思われる。
 ここから牛廻山を越えて十津川の平谷に出る。別当定遍の目を潜びつつ、玉置山から山伏の奥駈け道を抜け、北山川の畔の東野の里に入ったのは元弘元年の師走に入った頃だったろう。
(*1)不明

(13)滋子と大塔宮
 豪族戸野兵衛の邸で一夜の宿を乞い、折から急病に苦しんでいたその妻を大塔宮が秘蔵の薬と真心をこめた祈祷で治療すると、新宮楠木からの依頼書を見せて尽力を乞うた。
 感激した戸野は竹原村花知の叔父・竹原八郎宗規に事の始第を語った。尊皇の志の厚い彼は即座に快諾して、中根と呼ぶ地に宮の邸を建て、一行を歓待して時節を待つ事にした。
 そして愛娘の滋子を側近く仕えさせたが純情で然も山家には珍しい美人だったので宮は彼女を「雛鶴」と名づけて可愛がり、それがやがて愛となり滋子は後に宮の子を生む縁となる。(*1)

(*1)骨置(こうず)神社。和歌山県北山村。小塔ノ宮・綴連(つづれ)皇子を祭る。父は大塔ノ宮護良親王。母は滋子(地元豪族、竹原八郎の娘)。滋子は「雛鶴姫」(ひなづるひめ)と呼ばれ愛された人ではないかと云われている。甲斐信州地域に雛鶴姫の伝説が残されている。
「雛鶴姫が、鎌倉で殺害された護良親王の御首を持って逃げる途中、甲府(秋山村)の無生野で皇子を産むが、衰弱して二人とも死ぬ。二十年後、護良親王の王子、綴連(つづれ)王がこの地に来られる。村民の話に因縁を感じ、村に住んで七十三歳の天寿を全うした。村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建した」という伝説。雛鶴姫は北畠親房の娘とも。親王の首を御神体とした石船神社や雛鶴神社が残されている。(雛鶴神社略地図参照)



(14)大塔宮、奮戦す

 其間にも大塔宮は、北山郷は勿論、吉野川上十八郷を奔走して朝敵追討の荒行を続けつつ同志を募られた。河野ノ庄司加藤政通を始め多数の郷士が参加し、一段と奮起した大塔宮は八方に奔走して、四月になると吉野、熊野、十津川一円に広く挙兵の令旨を発した。
 大塔宮は、竹原から七色不動峠を越えて東熊野街道の要地・浦向に進み、豪族・楠木多良左衛門の協力で恵日院を本陣として出撃された。これに応じて北山郷は勿論、吉野川上郷の河野、西河、高原(*1)らの郷士達も次々に旗下へ馳せ参じ、伊勢領に突出して幕府方の地頭達を三人まで討取り凱歌を奏した。
 然しその留守に郷士の中に怪しい動きが見えた。大塔宮は恵日院に相州貞宗の名刀を下賜して謝礼とし、大峰禅定の秘所池ノ峯明神池から行者道をへて奥駈け路の転法輪岳に登る。さらに行仙岳から玉置山を越えて十津川、高野をめざして急いだ。
 けれどいち早くそれを知った折立の玉置ノ庄司は定遍の命を奉じて宮を追跡し、遂に花折塚では片岡八郎が奮戦の末に討死する。

(*1)いずれも現在の奈良県吉野郡川上村

(15)大塔宮、還俗
地図作成予定
 大塔宮の一行はその隙に十津川沿いに北上したが、芋瀬(温泉地)の庄司も宮を見逃す代りに近臣数名を渡すか、錦の御旗を渡せと要求する。赤松則祐が身代りとなろうとしたが、平賀三郎は、旗より人が大切であると、金銀の日月の紋のついた錦の御旗を渡して何とか関所を通り抜けた。
 一足遅れて急ぎ大塔宮の跡を追いかけていた村上義光がこれを知り「何たる無礼ぞ」と怪力を振って数名を投げ飛ばし、美事に御旗を取戻して一行に追いついた。しかし中津川の峠で数百の玉置勢に道を阻まれる。「もはやこれまで力の限り戦って潔く腹切らん」と大塔宮は覚悟された。
 その時、大塔宮の危機を救わんと馳せつけた中辺路の野長瀬六郎兄弟の軍勢によって危うく虎口を脱する。芦ノ瀬川を渡って、十津川河津の里に入り、暫しこの地で滞在されるうち、伊勢路の戦いから引帰して来た竹原八郎や戸野兵衛らの尽力で、十津川郷士達も次々に味方に参じた。
 そこで谷瀬の対岸の要害の地に黒木御所を築くとここを根城として八方に呼びかけつつ再挙の準備に懸命となられた。元弘二年(一三三二)十一月、大塔宮は、還俗して護良親王と改めると十二月には高野山丹生明神に所願成就の祈願をこめられている。

(16)大塔宮、吉野金峰山へ
 十津川渓谷の川風が一段と厳しさを増し、峯々に白雪が輝き始めた頃、河内の楠木正成から
「漸く再挙の準備も整いましたので近々赤坂、千早を出撃し紀伊、和泉、大和にも兵を進める所存であります。
 就いてはかねての打合せ通り、大塔宮には吉野に出陣賜り、金峰山を本城として天下に義旗を翻され、相呼応して朝敵討滅に邁進したい」
 との嬉しい使者が到着した。
 それを見た大塔宮は
「よし!兵衛ノ尉(正成)よくやった。麿も負けずに頑張るぞ!」
 と大いに勇み立った。十津川に新しく居を移した竹原、戸野らを中心に千余の郷士や天川弁財天の社人や洞川滝泉寺の僧兵達を味方につけ吉野に向った。
 元弘三年(一三三三)の正月、大塔宮が吉野金峰山の執行である吉水院の尽力で蔵王堂に本陣を置き討幕の令旨を広く各地に発した。召しに応じ、大量の弓矢を用意した川上郷の加藤政通らが真先に馳せつけ「更矢良道」の名を賜わっている。
 宮や正成の再挙を知り事態容易ならずと見た六波羅からの注進で北条高時は関八州から三十余万の大軍を召集して怒濤の如く上洛させた。吉野には大仏高直、正成には阿曽治時を大将軍に任じ六波羅と協力して一気に壊滅せよと厳命した。

(17)大塔宮、吉野金峰山の戦い
 元弘三年(一三三三)の二月半ば、二階堂出羽守の率いる六万が吉野に押し寄せた。吉野川原から眺めれば峯々には雲か花かとまがう宮方の旗差物が風になびき翻っていたが、その総勢は僅か三千余騎と云われている。
 幕軍は
「敵は小勢ぞ、一気に攻め落して手柄せよ」
 と急坂路を息も切らずに攻め立て、七日七晩、大激戦を交え双方とも死傷続出した。流れる血は吉野の山河を紅いに染めたが城は頑として落ちない。
 処が寄せ手の中に岩菊丸と呼ぶ新熊野社の執行が加わっていた。元来、金峰山は新熊野と吉水院が交互に支配役となるのが常であったのに、大塔宮は吉水院ばかりを重んじるのに腹を立てていた。その執行は、幕軍の案内役となっていたが、寄せ手の苦戦を見て、
「正面攻撃だけでは駄目だ。夜にまぎれ裏山の愛染宝塔に潜入し火をかけるからこれを合図に総攻撃をかけよう。」
 と提案し、二階堂も喜んでこの作戦を敢行した。
 思わぬ奇襲に城方は大苦戦となった。大塔宮は自から薙刀を振って大いに奮戦されたが多勢に無勢で次々に砦は落ちていく。大塔宮も数カ所に手傷を負われ
「最早これまで」
 と覚悟をきめると、蔵王堂の庭で最後の酒宴を開かれた。
 大塔宮の鎧には七本の矢が刺さり、頬は血にまみれていた。流れる血を拭いもせず、木寺相模守が賊首を大刀に貫いて舞う「延年の舞」に興じる。朱塗の大杯を三度傾けられ「いざ最後の一戦」と雄々しく立上られた。


(18)大塔宮、逃げ延びる
地図作成予定
 それを見た村上義光は
「御大将は最後まで望みを捨ててはなりませぬ。ここは我らが身代りに」
 と必死に懇願した。村上義光は宮の華麗な鎧兜を身につけて仁王門に駈け登った。群がる寄せ手に向い、
「我こそは大塔宮一品親王護良なり。汝ら逆臣共が武運つきたる時の手本にせよ」
 と大音声で叫び、腹一文字にかき切って壮烈な自決を演じた。続いて更矢良道も彼に劣らぬ勇者らしい最後をとげる。
 寄せ手はこれを見て「それ御首を賜わって手柄にせよ」と我先に囲みを崩して、仁王堂に駈け集る。
 その隙を突いて大塔宮は裏手の山道を天川めざして落ちられた。
 途中で岩菊丸の一隊に追われたが、義光の子・義隆が独り踏み止まって奮戦の上で討死し、父子いずれも劣らぬ忠臣の身代りによって宮は辛うじて敵手を逃れ、吉水院執行の案内で天川から高野に落ちられる。
 それとは知らず二階堂らの寄せ手は
「先帝の皇子の中でも最も勇猛で聞えた大塔ノ宮を討ち奉ったぞ」
 と高らかに都に凱旋したが、六波羅で首実験した結果、全くの別人と判った。
 二階堂は残念至極と八方に追手を向け慌ただしく、高野山を襲ったが、全山の僧徒が頑として立入りを拒んで大塔宮をかばう。
 其間に大塔宮は何とか金剛山に入らんとした。然し周辺の山野には蟻のはいる隙もない程に幕府勢が充満している。やむなく再び天川に下り、諸役免除の令旨を発して協力を要請すると再び十津川をめざした。その地には純情可憐な「雛鶴」の滋子が玉のような皇子を生んで宮の帰りを待っていた。竹原八郎などは初孫を「小大塔宮」と呼んで目の中に入れても痛くない程慈しんでいる。
「捲土重来じゃ。千早城の正成の奮戦を期待しつつ、暫しはいとしい妻子と共に山のいで湯で傷を慰やし、再挙の機会を狙おう」
 と、宮は聳え立つ山々に咲き匂う山桜を仰ぎ、内心そう呟きつつ、二百に満たぬ将士に囲まれ、清烈な十津川の流れを下って、谷瀬の黒木御所をめざされたらしい。

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