Chap 3  南北朝の巻

3.1 元弘の乱

(1)北条氏の執権政治
 古典軍記物で「平家物語」と並び称されるのが「太平記」であり、その作者は小島法師である。では小島法師は誰か。当時、熊野本宮の荘園だった備中の児島ノ庄(*1)にいた山伏であると云う説がある。
 三山の動静や修験者と縁の深い楠木正成に対する深い同情ぶりから見て恐らく飛鳥長床(*2)と呼ばれる修験行者だったと思われる。その書き出しを「太平記」は「後醍醐天皇と武家政治」の章から始めているから、それに習い話を進めよう。
「三上皇の流罪」と云う、臣下にあるまじき大事件を起しながらも、北条義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時の執権政治は
「名利を望まず、謙虚にして民に仁恩をほどこす」
 と云う明恵上人(*3)の教えを旨とする貞永式目(*4)を遵守し、極めて安定した政治ぶりで元寇の国難も見事に突破した。
 然し勝利は得たが領土がふえた訳でなく、元に備える軍事費や将士に対する恩賞等の財源に苦しみ、全国の半ば近い三十余国を北条一族で占め、専制政治で乗切った。
 然し、若い八代執権・高時になると田楽と斗犬にうつつを抜かした。執事の長崎高資は欲深で賄賂を専らにしたから、天下の人心は漸く北条氏から去り、革新政治を望む声が大きくなった。

(*1)児島高徳は、和田備後守・範長の子。備前国児島郡の生まれ。熊野修験の太い分流である児島修験の中で育った。伝承によると、修験道の開祖・役行者の高弟・義学が、熊野権現のご神体を吉備の児島に安置。これによって児島修験が開かれた。
(*2)熊野本宮では本殿前の長床(礼殿)を本拠とする長床衆という山伏の集団があった。
(*3)華厳宗の僧。紀伊国の生れ。四歳にして両親を失い、高雄神護寺に文覚の弟子・上覚を師として出家。仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが、紀伊国有田郡白上や同国筏立に遁世。後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山。戒律を重んじたので、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力。
(*4)御成敗式目(ごせいばいしきもく)。武士と庶民の法律。それまでの律令(りつりょう)は貴族の法律。権力は武士、天皇(貴族)は権威。この政治体制は、明治まで続く。その源泉は明恵上人の哲学、「あるべきようは」と、それを実践した北条泰時の政治による。


(2)後醍醐天皇の即位
 やがて文保二年(一三一八)八月になると、かねての両統交替案(*1)に基づき持明院系の温和で向学心に富んだ九十五代・花園天皇が退位して大覚寺系で新進気鋭の皇太子が九十六代・後醍醐天皇として帝位に就いた。
 亀山上皇に愛されて育ち皇太子時代から豪気闊達な性格の上に和漢の学にも優れていた。しかし「英雄色を好む」の諺通り女性関係は放埒と称して良く、西園寺太政大臣の娘を強奪して皇后にした。かと思えば、御所第一の美女と云われた阿野廉子を始めその生涯に十八人の后妃から、男女合せて三十六人の子女を産ませた程の豪の者でもある。
 それだけに持明院系では大いに警戒し、幕府に
「亀山上皇に朝権回復を遺言されているから、皇位に就けば必ず大乱になる」
 と力説した結果、
「在位は十年限りとしその皇子は皇位に就けない。皇太子は持明院系の皇子とする。」
 と云う条件付でやっと玉座に就かれた。豪気な性格だけに心中穏やかではなかったろう。
 けれど就任当時の新帝は精励格勤、日夜政務に没頭され、先帝花園上皇が帝徳論で述べられた如く、
「日本は神国であるから天皇もそれにふさわしい徳を備えねばならぬ。
 天皇に徳があれば皇位も天下も安泰となり、道義にそむき徳を失する行いがあれば、天の怒りによって皇位も危うく万民を苦しめる乱世となる」
 との教をよく守られた。
 その日常を見て花園上皇さえ
「聖の君が出現されたり」
 と、讃えた程である。各地にやたらと多い関所を廃して民を喜ばせ、飢饉に乗じ暴利をむさぼる奸商に米一斗百文の定価で売らせる。自から裁判を行い正邪を正す等、善政をしている。

(3)朱子学
 新帝は「民の憂いは朕の罪なり」とされた醍醐天皇を理想として自から後醍醐と号された。父の後宇多上皇に要請して長く続いた院政を廃止し、親政体勢を樹立する。側近の「三房」と呼ばれた北畠親房、吉田忠房、万里小路藤房の参謀役や日野資朝、俊基ら新鋭の青年貴族を抜適して次々に親政の実を挙げていった。
 好学の帝は当時流行した宋学の研鑽にも熱心だった。宋学とは朱子学の事である。北方の蛮族・金の侵攻によって江南に遷都し、漢民族は崩壊の危機に立たされていた。その精神昂揚の為に、朱子(*1)は司馬光の「資治通鑑(*2)」を解説して、
「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、古聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開くべし」
 と説く。王道を旨とする正統の天子と、覇道による支配者に区別し、宋帝に忠誠な士を善、覇者に従う者を悪、と断じる大義名分を説いた。
 それが後に日本に渡り、南禅寺の僧・虎関は「元享釈書」を書いた。
「日本の神聖な国体の特質を明らかにすると、正統の支配者は天皇であり幕府は覇者でしかない。天皇が幕府を倒して奪われた政権を回復する事は絶対の善であり、それは宋学によっても明らかである」
 と論じた。

(*1)しゅし。宋(中国)の儒学者。(一一三〇〜一二〇〇)儒教の体系化を図った儒教の中興者。所謂、新儒教と呼ばれる「朱子学」の創始者。
(*2)しじつがん。北宋(中国)の司馬光が編纂した編年体の歴史書。一〇八四年の成立。収録範囲は一三六二年間。紀元前四〇三年の戦国時代の始まりから、九五九年の北宋建国の前年まで。当時の史料で散逸したものが少なくないため、近代以後も有力な史料。


(4)討幕運動1
 これが後醍醐天皇や若き公卿達に大きな影響を与えた。机上の議論に止まらず、討幕運動に駆り立てられたのはなぜか。漸く天皇親政の世を実現したのに、十年で否応なく皇位を譲らねばならない。数多い優れた皇子に恵まれながら我子を皇位に就かせる事は出来ない。この約定に縛られていたからである。
 かくて兵力を持たぬ後醍醐天皇が討幕戦力として期待したのはまず南都北嶺の大社寺や吉野、熊野三山の僧兵達。そして、大覚寺系の皇室領や、各地の反北条系豪族だった。
 策謀好きな後醍醐天皇は皇子を叡山の座主とし、名ある大社寺院には行幸したり寄進を重ねて人気を集めて味方に誘う。有力な豪族達には日野兄弟がこれに当った。近畿一円は弟の俊基、東国地方は兄資朝が担当して、得意の宋学による大義名分論を説いて廻り、天皇に対する忠節を求めた。
 俊基は、熊野湯ノ峯で病を治すと称して山伏姿で都を出ると近畿各地を廻ったが、当時の宮方(後醍醐派)と思われる豪族は次のようだった。

大和─興福寺の支配から独立せんとする南大和の越智、戒重西阿、宇野、二見や吉野山伏團
伊賀─御所に仕える大江氏、天台宗赤目山伏、増地、服部氏。
伊勢─神宮領の度会、潮田、愛須、古和氏。
熊野─三山豪族、八庄司、南郡の木ノ本、榎本氏。
紀伊─阿瀬川、湯浅、高野山、根来寺の僧兵團。
河内─楠木、和田、恩地、橋本氏。
其他─承久ノ乱(*1)で宮方となり所領を失い雄伏して時を待っている武将。

(*1)武家政権(鎌倉幕府)と京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れた。後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に流される。乱の後、幕府が優勢になり皇位継承などに影響力を持つ。

(5)討幕運動2
 そして俊基は新宮五人衆と呼ばれる、宮崎、新宮、楠木、矢倉、蓑島氏や水軍で知られた鵜殿一族を訪ね「尊皇討幕」を説いた。しかし鵜殿一族は、承久ノ乱で上皇から裏切られ非道い目に会っているだけに、
「宋学をまるで神のお告げのように云うが、世の中は『大義名分論』のみで通るものかい。その証拠に宋はとっくに亡んでしもうたわ。うっかり青公卿の口車に乗ったら承久の二の舞じゃ」
 と説く年寄共が多かった。新宮楠木、鵜殿、色川等の若手が俊基の熱意に感動しても到底挙兵に尽力する気力は無かったようだ。
 田辺別当の定遍以下は大の幕府方だった。高野、根来の僧兵達も応じる気は無く、吉田定房らの幹部は
「天下の大勢から見て、討幕挙兵は時期尚早」
 と諫め続ける。
 それでも後醍醐天皇は退位の期限が近づくと断呼計画を進めた。始めは新帝を讃えていた花園上皇も
「君臣共に狂人の如く云うべき事もなし」
 と嘆かれた。持明院派(反後醍醐派)の貴族達は一日も早く皇太子・量仁(光厳天皇)の即位をと幕府に働きかけた。

(6)討幕運動の露見
 やがて正中元年(一三二四)秋、遂に討幕の密謀が露見して土岐頼兼、多治見国長は討死、日野兄弟は捕らえられた。後醍醐天皇は
「朕は何も知らぬ、側近共が勝手にやった事」
 と白を切られる。
 坊ちゃん育ちで人の好い処のある高時はそれを信じて、資朝は流罪にしたが俊基は無罪放免した。持明院派(反後醍醐派)は
「好機来れり!」
 と譲位運動を一段と活発に進めた。
 約束の退位期限の嘉暦三年(一三二八)が来たが、幕府は奥州の叛乱鎮圧に追われていていた。後醍醐天皇は再び俊基を登用して計画を促進させ、文観ら気に入りの僧に関東調伏の祈祷を命じ、高野山や園城寺には荘園を寄進して協力を求めた。
 いっぽう持明院系の大御所である後伏見上皇は譲位の早期実現を洛中の名社に祈願して待ち兼ねていた。そして元弘元年(一三三一)春、討幕の密謀を知るや直ちに早馬を鎌倉に飛ばせた。
 それを知った後醍醐天皇は苦肉の策として側近の吉田定房に
「首謀者は文観や俊基である」
 と鎌倉に密告させて幕府の追求を免がれんとした。

(7)後醍醐天皇、東大寺へ
 文観らは忽ち捕えられ鎌倉に送られた。厳しい取調べで文観らはすべて後醍醐天皇の意向である事を自白して流罪となった。しかしそれを聞いた持明院系に
「何と手ぬるい、もっと厳罰にせねば今に天下は大乱となるぞ」
 と執権・高時を脅した。高時も漸く肚を決め、佐渡の資朝を処刑し、俊基を鎌倉に召して糾明の上、処断する事にした。
 そして俊基を取調べの結果、幕府は
「この帝が在位する限り天下は治まらぬ。承久の例にならい天皇は退位させて遠島。最も過激な大塔ノ宮は処刑して泰平の世に帰さん」
 と結議し、二階堂真藤に二千の兵をさずけて上洛させる事になった。
 これより数年前、討幕挙兵を計画した後醍醐天皇は数多い皇子の中で年長で覇気に満ちた護良親王を比叡山に送り込んでいる。護良親王は、尊雲法親王として天台座主に任ぜられ、三千の僧兵を味方につける事を命じられていた。
 秘命を受けた親王は、僧兵達と共に専ら武芸の鍛練に努められた。大塔を住いにしていたので、「大塔ノ宮」と呼ばれていたが、密偵の急報により幕府の行動を知った宮は、直ちに行幸を願う急使を走らせた。
 後醍醐天皇も
「今度はもうごまかせぬ」
 と北畠具行らに六波羅を襲わせた。叡山に移って天下に討幕の兵を募る計画を進めていただけに「スワこそ」と直ちに三種ノ神器を抱き御所を脱出された。途中で花山院・師賢に、
「朕を装ほい、叡山に登って戦え」
 と命じると自分はこっそり奈良の東大寺をめざした。

(8)後醍醐天皇、笠置寺へ
 敵をあざむく策謀とは云え、叡山で僧兵達と苦労を共にし、帝を待ちわびている大塔ノ宮の立場などは少しも思いやらぬ下策である。坂本まで迎えに出た宮がそれを知るとガックリきたに違いない。
 帝の行幸と知ってこそ僧兵達は勇み立ち、幕府の大兵を相手に決然と立って呉れたのである。それが偽物と知れた時、剛直一途の彼らがどんなに腹を立てるか長年彼らと寝食を共にして来た宮にはそれが痛い程よく判っていた。
 仕方なく師賢を帝に接するような物腰で迎えると奥ノ院を行宮として幕兵に備えた。僧兵達も誠の帝と信じて大いに奮戦し、緒戦は見事に敵を敗走させ、全山の意気は大いに揚った。
 然し何時までも騙し続けられる筈はなかった。或日、行宮の御座所にかけられた簾が山風にゆれた隙間から花山院と知った僧兵は
「何じゃ我らまでを偽られて」
 と怒り出した。
「あれ程信じていたのに大塔ノ宮までがぬけぬけと怪しからぬ」
 と大騒動となった。
「こうなったら、いっそ宮と共に六波羅に突き出して合戦の詫にしようではないか」
 と云う声まで聞え出したから、剛気な宮もやむなく僅かな腹心達と共に秘かに山を抜け出される。
 其頃、天皇は東大寺を頼ったものの塔頭に北条の一族がある事が判った。急ぎ鷲峰山金胎寺に移り、ここも気に入らず笠置寺に入ると八方に兵を募られた。これを知って真先に馳せつけたのが伊賀の島ケ原の郷士達である。
 彼らは源京綱(源三位頼政の嫡男・仲綱の三男)を祖とする。以仁王を奉じて平等院で奮戦したものの祖父も父も討死した。忠実な郎党に守られて島カ原の正月堂に住みついたのが始まりで、この当時は滝口重春以下十八家に栄えていた。
 彼らは治田郷の上島入道らと共に勇将で知られた足助次郎の部下となり、一ノ木戸の守備を命ぜられ、大いに武功を輝かした。後の論功行賞で、菊紋の陣幕と宝刀を賜り、三ツ星の馬印を許されて、後世に伊賀郷士の名を残す事になる。

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