Chap 2  源平の巻

2.6 源平群霊を弔して

新宮市 全龍寺         
二十七世住職 荒木 哲宗 


(1)維盛伝説1/那智色川の里
「盛者必衰」の理に従い、一門悉く壇の浦で亡び去ったと伝えられる平家一門だが、熊野一円には、その落人伝説が数多く残されている。中でも多いのが維盛(これもり)、資盛(すけもり)の兄弟である。
 維盛は重盛の嫡子で、本来から云えば平家の総帥の資格を持ちながら、叔父・宗盛(むねもり。平清盛の三男)にその地位を奪われた。その上に富士川、くりから谷の戦いで武運拙なく連敗。彼は不遇の中に悶々としていたと云えよう。
 維盛に就いて、平家物語は
「一ノ谷合戦後の寿永三年(一一八四)三月、屋島ノ浦から逃れ出た維盛は高野の参詣をすませ、那智勝浦の浜から万里の蒼海に浮かび、山成島の沖で入水し果てた」
 と説くが、実は「熊野年代記」の第二巻で詳記されている通り、太地浦に上って那智色川の里に潜んだ。ここで数年を送った彼は土地の豪族の娘に、二人の男の子を生ませている。彼らは元服後、兄は清水権太郎盛広、弟は水口小次郎盛安と名乗って繁栄するのだが、維盛はやがて漂然と旅に出る。それは源氏の追手をさけるのと、熊野聖としての修行の為であった。

(2)維盛伝説2/五百瀬の里
 熊野川を北上して十津川に入った維盛は折立、風屋の地を過ぎ、河津から川沿いに左折して五百瀬の里に足を止める。ここでは
「屋島を脱出して高野をめざしたが、途中で霊山・護摩ノ壇山に登って占った。その結果、都の妻子と逢うのを断念して出家すると、高野街道の宿場である五百瀬の豪族に匿われて新生活に挑んだ」
 と伝えられる。
 その名も小松弥助と改めて、里の娘を妻に迎えて永住し、多くの子孫を残した、と云われる。今も尚、馬屋を改造した豪壮な正門が残され、丘の一角には維盛の墓所と云う小社もある。六十五代目と云われる御子孫の話では、平家重代の小鳥丸(*1)や鎧兜も明治の大洪水までは大切に保存されていたらしい。
 その命日を寿永三年(一一八四)三月八日としているのは、源氏の追求をさける為だったと思われる。後には色川一族同様に、芋瀬の庄司として政所を置き、あたり一円に勢力を振るった。けれど維盛は再び旅に出たのは前と同じ理由であろう。

(*1)桓武天皇のところに一羽の烏が飛んできて、「伊勢神宮から剣の使いとしてやって来ました」と言って一振りの太刀を落とした。天皇はこれを小烏丸と命名したという。

(3)維盛伝説3/神山の里〜下市〜古座湊〜竜神の里
 瀞八丁で有名な北山川上流の神山の里に姿を見せた維盛は、土地の豪族の蔵屋家にかくまわれ、四間四方の阿弥陀堂・光福寺を建立したと云われる。堂の天井裏には平家重代の二俣竹(*1)の竹団扇、古鏡、弥陀三尊の画像、青磁の香炉、愛用の横笛を納めた箱が残され、近くの観音滝のお堂には守り本尊の観音像が祭られていたらしい。
 やがて神山を去った維盛は伯母峰峠を越えて吉野に出ると、下市で鮨屋を営む旧臣・宅田弥左衛門宅に足を止める。有名な歌舞伎の「義経千本桜」(*2)の釣瓶鮨屋の場のように、名も弥助で通し、やくざ息子の「いがみの権太」の見せ場となる。
 再び熊野に向った維盛は、新宮、那智から大辺路を辿ると古座湊の豪族・高河原一族に迎えられる。
 旅の疲れを慰やし、維盛は更に山路を分けて竜神の里に足を止める。竜神の湯で知られる桃源郷で、彼を慕って追って来た高河原一族の美姫と甘いエピソードを残している。さすがの維盛も長い放浪の旅にピリオドを打つ気になったらしい。

(*1)竹の二股(たけのふたまた)。二股に分かれた竹は滅多にないところから、滅多にないこと、殆どないことの喩。
(*2)歌舞伎「義経千本桜」第四幕 鮓屋。鮓屋の娘・お里が弥助(実は維盛)と祝言できると有頂天になっている処へ、勘当を受けた兄「いがみの権太」がやってきて…。


(4)維盛伝説4/有田郡、清水上湯川
 竜神より有田郡に北上した維盛は、平家相伝の郎党である湯浅一族を頼った。名僧・明恵上人の尽力で湯浅宗近の領内、清水上湯川に安住する。この地は護摩ノ壇山をへだてて五百瀬にも近い。やはり小松弥助と称して、城とも云える館を構えているのは、湯浅一族の尽力だろう。
 ここにも維盛の子孫が残っているのは、平家の嫡流と云う貴種と「桜梅の少将」と讃えられた絶世の美男子ぶりが里の豪族や娘達の憧れの的となった為で、あながち好色家とは云えないようだ。
 けれど同じく美女群に囲まれつつも、義経のように天才武将らしい凛然と心を打つ話がない。やはり坊っちゃん育ちで、詩人肌の心優しい斜陽貴族であったからだろう。
 建仁三年(一二〇三)文覚(*1)が世を去って、保護者を失った六代(*2)が、妙覚と号してひたすら仏道修業に励んでいたにも拘わらず、三十を一期として斬罪に処せられた。それを知った伊勢伊賀の平氏一族が各地で叛乱を捲き起こした。
 けれど維盛がこれに応じた気配もなく翌元久元年(一二〇四)嫡子六代に先立たれその気力も衰えたか四十七の男盛りで上湯川の館で世を去ったと云われて居り、如何にも佗しい生涯ではあったが源氏が三代で断絶したのに比べて各地に残したその子達がそれぞれ一門仲良く助け合って家門再興に励んでいる事がせめてもの慰めである。

(*1)もんがく。真言宗の僧。弟子には上覚、明恵ら。元は武士。従兄弟の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したので出家。神護寺の再興を後白河天皇に強訴し伊豆に流され、源頼朝に平家打倒の挙兵を促す。頼朝死後、後鳥羽上皇により佐渡へ流され客死。
(*2)平維盛の嫡男。平清盛の曾孫。幼名は平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因んで「六代(ろくだい)」と名づけられた。平氏滅亡後に捕らえられ、斬首になるところを文覚上人の嘆願で助けられ、身柄を文覚に預けられる。


(5)資盛伝説1/折立
 次に維盛の弟、資盛である。彼は壇ノ浦で戦死したと見せて秘かに戦場を落ち延び、湯浅城に入って大いに奮戦したが、補給路を断たれて再挙を計る事になり、十津川郷に潜入して時節を待った。
 そして玉置山の神官・玉置氏の客分となったが、同家は饒速日(*1)の子孫と云われる初代熊野国造・大阿刀ノ宿弥(*2)の血をうけた名家である。熊野別当(*3)の配下の重臣の一人だから、内々は別当・湛増も知りながら黙認したのだろう。
 資盛は折立の地に潜んだ。「素庵」と呼ばれる一庵を設けて出家生活を送るうちに、その嫡子が玉置家の嗣子に迎えられ、下野守直広と号した。その子息達だが、長男は地元一帯、次男・直行は和佐(和歌山県日高郡)の手取城主、四男・直弘は寒川山地(和歌山県日高郡美山村大字山地?)の鶴カ城主となって繁栄している。
 資盛の没年は不明だが、彼の晩年を送った「素庵」はやがて「順公庵」と呼ばれ、次いで「松雲寺」と改められた。初代院主として等身の立派な木像も残されていたと云う。その墓所には十二基の源平末期に作られた五輪ノ塔が現存しているから、折立一円を支配下に収めたらしい。
 そして南北朝の世には、熊野八庄司の中に玉置、芋瀬、湯浅ら平氏系豪族と新宮、安田ら源氏系豪族が共に参加している。仲良く家門の繁栄を計り、源平氏の名ではなくとも再び世にときめいている。

(*1)にぎはやひ。饒速日命。『古事記』では、神武天皇の東征で、大和地方の豪族・ナガスネヒコが奉じる神。『日本書紀』では、東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったと云う。
(*2)おおあとたじのすくね。大阿斗足尼とも。第十三代成務天皇の御代に、饒速日命の子である高倉子命の四世、大阿斗足尼が初代の熊野国造に任ぜられた『旧事本紀(巻十 国造本紀)』
(*3)寛治四年(一〇九〇)白河院は熊野御幸の後、熊野別当の長快を「法橋(*4)」に叙階。熊野三山は中央制度に属す。長快の後、「新宮に本拠を置く新宮別当家」「本宮と紀伊田辺を拠点とする田辺別当家」に分裂。承久の乱(承久三年、一二二一)で別当家は武家方と上皇方に争う。十四世紀中頃(南北朝時代)、熊野別当の呼称は消える。
(*4)「法橋上人位」の略。僧位の第三位。法眼に次ぐ。僧綱(*5)の律師に相当。官位の五位に準ぜられる。
(*5)そうごう。僧尼を管理する僧官の役職。僧正、僧都、律師からなる。六二四年に設置。僧綱所は、奈良時代は薬師寺、平安遷都後は西寺に。八六四年、僧位(序列)が定められ、僧正は「法印大和尚位」、僧都は「法眼和上位」、律師は「法橋上人位」。


(6)数々の悲話
 けれど一方では数々の悲話も多い。
 本宮周辺の平治川では安徳幼帝ではないかと云われる貴公子を擁した二十余名の落人がいた。中辺路の道湯川から右に折れた要害ノ森に砦を築いて見張所とし、平治川の堂地(童子)と呼ぶ大岩壁の下にささやかな居を置いた。度々の追手によって多くの死傷者を出しながらも懸命に生き延びている。
 彼らの中には忠度の一子・忠行ではないかと思われる若武者もある。炭焼の娘に愛されて鶴松と呼ぶ子を為しているが、敗残の身の悲しさに弥右衛門と云う名しか残っていない。「七人塚」、「矢調べの丘」、「絹巻岩」等の地名の他は、一切が謎のままである。
 僅かに篠尾の山中に、兵庫左衛門尉・氏永が一族三十余名と共に隠れ住み、僅かな農作物で必死に生き抜き、やがては三百余人の人口を数える豊かな村に繁栄した。後世、大和から落ちてきた「井戸」を姓とする人々が、本宮の高山、下湯川、皆地、静川一円に拡がっている。
 いずれもさすが由緒正しい人々だけに、平治川では若くして世を去った主君の菩提を弔って若宮を建て、年々歳々、「薙刀踊り」や「太刀踊り」で盆供養を続けている。山一つへだてた武住村では、大物浦で遭難後に落ちて来た義経党が八幡社を建て、同じく「牛若踊り」を伝えている。
 篠尾の三十五人塚、大里赤井・蔵光山の七十五人塚、或いは皆地、静川、皆瀬川、田代の落人部落には必ずと云って良い程、苦しい生活の中で先祖を祭る立派な供養碑が残されていた。

(7)大道とは
 明治の排仏の嵐(*1)が、先祖を祭る立派な供養碑を、容赦なく埋没させてしまった。
 この暴挙が如何に純朴な里人の心を荒廃させ、今日の数々の怨念と因果の業因をもたらしたかは只々驚くばかりだ。ここ十年ひたすら浄霊奉仕に努めつつ霊地熊野が再び「長寿と幸運」に恵まれた此世の浄土となるには、何よりも里人の心の持ち方にある事を痛感する。
 昔から多くの先哲、高僧は
「此世は『写し世』にして真の本体は霊の世界にこそあり、肉体は滅しても魂は不滅である」
 と説かれ、不肖私も数多くの霊体験によってそれを確信している。
 三十幾カ村を巡錫して感じるのは、一枚の紙にも裏表のあるように、家には家、村には村の目に見えぬ柱があり、我々が元気で暮らせるのは先祖の賜物である。なのに開拓者の祖霊の多くが忘れられ埋もれ果ててしまった様に感じられる。
 家、村、国を興すには先ず私達が第一にこの見えない柱の存在に気がつき、何時も感謝の気持ちで補修と磨きを忘れない事だ。
 遠廻りの様でも、これが一番近い確実な物心両面の安らぎと繁栄をもたらす大道と云える。


(*1)明治元年(一八六八)三月に明治政府が発した太政官布告神仏分離令など、神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。

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