Chap 2  源平の巻

2.3 平家都落ち

(1)源平合戦(治承・寿永の乱)9/墨俣川の戦い、くりから谷の戦い
 養和元年三月、墨俣川の戦いで平氏は何とか清盛の霊を慰めんと奮戦して、新宮十郎行家軍を敗走させたが、不屈の行家は木曽に奔って義仲に救いを求めた。
 寿永二年になると十万の将兵を根こそぎ動員した平家は、北陸五カ国を征圧した義仲軍を壊滅すべく勇躍北上したものの、有名なくりから谷で大敗して総崩れとなった。
 後世この地を訪れた芭蕉は、老将・斉藤実盛が白髪を染め、錦の直垂をきらめかして一歩も退かずに、骸を越路にさらした話を聞き、

●無惨やな 兜の下の きりぎりす

 と嘆いている。

(2)源平合戦(治承・寿永の乱)10/平家都落ち
 そして五月半ば、平忠度らの力戦も空しく、四面楚歌の情勢の中で遂に万策尽きた形となり、平氏は開祖・桓武天皇の創建された叡山に、一門の公卿が連署で救援を乞う。
 然し叡山には早くも行家や義仲の手が伸びて、大衆会議の結果「宿運つきた平家をすてゝ源氏に味方する」事に決していた。かねて南都は焼打以来、平氏に対する復仇の念に燃えて居り、北嶺(叡山)かくの如きでは万事窮すである
 折しも「木曽勢五万騎早くも東阪本に満ち、新宮行家数千騎を率いて大和路より宇治に進む」との早馬が入り、知盛、重衝ら若手の諸将は
「高祖・桓武大帝の築かれた平安の都を空しく明け渡す事は出来ぬ。最後の一兵まで戦いせめても一期の花を咲かさん」
 と主張したが、宗盛は、
「法皇、帝を擁して西海に落ち再挙を計らん」
 とする道を選んだ。
 それは七月二十四日の一門協議の結論であったが、いち早く知った後白河法皇はその夜のうちに旅僧に変装して法住寺殿を忍び出ると行方を晦まされた。大騒ぎとなるが、玉砕派の知盛らは、
「法皇様は天下一の大天狗よ。平家の負と見れば、八つ手の大団扇に風をくらって源氏に飛ばれる。今頃はきっと鞍馬か叡山の空あたりじゃろ」
 と笑い飛ばしたと云う。
 知盛らの判断通り、ひとまず鞍馬へ落ち、次いで叡山に逃げ込んだ後白河法皇は、昨日まで朝敵であった義仲に、平気で平家追討の院宣を書くと云う薄情さであった。

(3)源平合戦(治承・寿永の乱)11/木曽義仲の死、義経は京へ
 かくして時鳥の忍び音もわびしき七月二十五日の早暁五時、まだ六才の安徳幼帝と国母建礼門院を載せた輿に続き、三種の神器を始めとして数々の国宝を満載した牛車数十台を囲んだ平家一門は、西八条から六波羅の五千余軒の豪装華麗な邸宅群を火の海と化して羅生門から西に向った。油照りの街道を重荷にあえぎつゝ落ちて行く人々の彼方には、最早や見納めとなる叡山や伏見醍醐の山々が美しく聳え立っていた。
 それでも内大臣・宗盛以下の公卿殿上人七十余人は轡を並べて西海をめざした。同行しなかったのは頼朝を助けた頼盛一家だけだった。さすが兄弟仲の良い事で知られた平家一門であり、生死は共にと、続く郎党は七千余騎と云われている。
 そして勝敗は兵家の常とか。それから僅か半歳、入替わって朝日将軍ともてはやされた木曽義仲の一族も、行家の説くまゝに頼朝のように己の地盤を固める暇もなく、院命に応じて一路都に突進した為に、海千山千の院とその側近達の手玉に取られ、腹立ちまぎれに
「腹黒い院の命なんぞ糞くらえ!」
 と大暴れし、晴の都入りから僅か半歳後の寿永三年春に、獄門首を巷にさらす結果となる。
 後世、伊賀には彼と今井(*1)の生存説が残っている。これは今井の爽やかな心情を愛した俳聖芭蕉が“木曽殿と背中合せの寒さかな”の名吟と共に、義仲の墓に並んで眠っている名将へのせめてもの慰めであろう。
 寿永三年、梅匂う春、山猿と恐れられた木曽勢に替って入京した鎌倉勢は、義経の指揮宣しく忽ち京の治安を回復して、民衆の人気を高めた。

(*1)今井兼平(いまいかねひら)。義仲四天王の一人。木曽義仲とは乳兄弟でもあり、最後まで義仲と共に戦う。

(4)源平合戦(治承・寿永の乱)12/平家の逆襲
 西海に在り、勢力挽回に努めた平家は二月に入るや室ノ津、屋島から旧都福原に進出した。西国一円から集まった兵力は数万と称され、二月四日、清盛の四回忌の法要を済ませると一門の諸将は意気高く新しい配置に就いた。常勝将軍・知盛や重衝は三千の兵を生田川一帯に配して東方の関門を固める。
 搦手の須磨は、忠度を大将に悪七兵衛・景清、越中ノ次郎・守嗣らの勇将の率いる一千騎が守る。北方山手の丹波口には、遠く三草山に資盛ら数百が先駆。鵯越(ひよどりごえ)の山麓には、通盛、教経、鬼と呼ばれた越中の前司・盛俊ら一千が配された。
 そしてこゝから須磨口まで「鹿も通わぬ」と云われる安全堅固な一ノ谷には、帝の内裏が建てられた。大輪田の浜に軍船を連ねた主将・宗盛が二千の兵を連れて、こゝに動座される帝を守護する計画だった。

(5)源平合戦(治承・寿永の乱)13/和議…後白河の罠
 処が二月五日になると、突然院の密使が訪ねて来て
「何とか戦いをさけて帝と三種の神器を奉じて都に還るように源氏方との和議を考えてはどうか。源氏には八日までは休戦するように命じているから、其間に充分話し合うように」
 との院の意向である。
 宗盛はかつて法皇から
「頼朝は東国は源氏、西国は平氏の支配とし昔ながらに源氏両氏が力を合せて平和な世の中を築き万民の幸福を計るようにしたい」
 と望んでいる事を聞かされている。
 その時は拒絶したが、都を落ちてより八カ月。佗しい流浪の旅を重ねるうちに人々の間には都恋しさの念が一入つのり、一日も早く平和な生活をと望んでいるのを宗盛知っていた。今度は即座に拒絶する事は出来なかった。
 二位ノ尼や女院、叔父の時忠ら一門の長老達とも終日、和議の条件について話し合いが続けられた。しかし、何ぞ計らん、これは後白河法皇の陰謀だった。源氏方(*1)の実数が五千余で、平家よりはるかに劣る事を知るや、何とか神器奪回の奇襲作戦を成功させるべく、自ら策を弄されたのである
「都から和議の院使が訪れた」と云う情報は忽ち平家全軍の将兵に知れ渡って、その戦意に大きな影響を与えた。或者は喜び、或者は怒り、その結果を見守るうちに、二月六日も暮れた。

(*1)範頼(のりより。頼朝の異母弟)、義経ら

(6)源平合戦(治承・寿永の乱)14/忠度と敦盛
 源氏の作戦は、二月七日の早朝六時を期して、大手には範頼、搦手には義経勢が一斉攻撃を展開して敵の不意をつく。混乱に乗じ、内裏を奇襲して、神器を奪回するという計画だった。
 二月五日の夜には、義経の率いる二千の騎馬軍団が疾風の如く三草山の盗盛軍を夜襲して師盛以下を討取ると、六日朝には軍を二分して土肥実平を須磨の西に廻らせ、義経自らは鵜越の山中に分け入っていた。
 須磨口を守る平忠度は妙に戦気が動くの感じたのであろう。その日も終日、一の谷陣の望楼に登って油断なく警戒の目を光らせていたが、二月六日の夕日が瀬戸の海に沈むのを見るとさすがにホッと一息をついて、
「『朝焼門を出でず 暮焼千里を走る』と云うが、明日も良い日和らしい。本陣では和議の話で目の色を変えている様だが、どうも敵の動きがおかしい。或は罠であるかも知らぬ。ともあれ油断は禁物ぞ」
 と見張の将に厳命して陣に戻ると、今度の陣で共に戦う事になった客将・敦盛を呼んで夕餉を共にした。
 銘酒の産地だけあって、陣中でもそれは豊かで微薫に頬を染めた敦盛に初陣の心得などを語りながら一時を過した。これが最後の宴になろうとは神ならぬ身の知る由もなく、笛の名手で知られた敦盛に、忠度は一曲を所望する。
 敦盛も快く秘蔵の名笛「小枝」を取出して吹口をしめらせた。この笛は弘法大使が唐の青竜寺で作り、嵯峨天皇に献上して青葉と名づけられた名品で、曽祖父・忠盛が鳥羽上皇より賜わったものであった。
 やがて更けゆく須磨の浦辺に少年貴公子の奏でる粛々たる調べが将士の仮寝の夢を誘う。今宵限りの命とは知らぬ忠度は故郷に待つ妻子の上に想いを馳せたが、笛の音は折から陣前に迫っていた熊谷直実親子の耳にも達したと云う。

(7)源平合戦(治承・寿永の乱)15/一の谷の戦い〜鵯越の逆落とし〜忠度の最期
 然し其頃、平家にとって最も恐るべき天才武将・義経に率いられた熊野生れの弁慶、鈴木兄弟を始めとする七十余人の強兵は、背後に聳え立つ鉄拐山、鉢状山の嶮路をよじ登っていた。帝と神器の居わすと思われた一の谷内裏の絶壁を駈け下りる、という大奇襲作戦である。
 けれども「綸言汗の如し」と称された院の令旨が、まさか偽りであろう等とは夢にも思わなかった忠度らの愚かさを誰が笑い得よう。この奇襲の成功でいち早く内裏が炎上した。「勝つ為には手段を選ばぬ」関東勢だけに、子飼の郎党を討たれて孤立した武将を取囲み乱刃で斃す、と云う卑怯な戦法で、平家の名ある勇将達は次々に討死した。
 一ノ谷を死守し続けた忠度も生田、山手口が崩壊して「もはやこれまで」と乱軍の中を大輪田泊の味方の軍船をめざした。そして忠度の乗る駒が林まで突破した時、武蔵七党の古豪・岡部六弥太の一群に囲まれて、潔く首を与えることになる。
 名も云わず従容と散った忠度の箙(えびら:矢を入れる箱)に

●行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし

の句を見て、源氏方は薩摩守忠度であると知った。
 後世の『千載集』に「読人知らず」として

●さゞ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

と並ぶこの名句によって「零汀宿を借るゝ平ノ忠度」と賛えられ、八幡太郎にも劣らぬ平家代表的風流武人として、後世に花と薫る事になる。

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