Chap 2  源平の巻

2.2 新宮川の開戦

(1)源平合戦(治承・寿永の乱)1/源氏、新宮川の戦いで勝つ
 以仁王(もちひとしんのう。高倉上皇の兄)の令旨(「各地の源氏を蹶起させよ」との上意)を拝して嬉し涙にむせんだ新宮十郎義盛、改め、行家は、
「平治以来、新宮に隠れ籠りて日夜安き心もなく、如何にして源氏再建の念願を果し家門の恥をすゝがんと辛苦し居りましたる処、計らずも唯今その命を蒙る。身の幸せこれに過ぐるなく、源氏一門の誰かこれに叛く者ありましょうや。これより直ちに馳せ、一日も早く挙兵上洛、天下の安危を救い申すべし」
 と勇躍高倉邸を出発した。
 その行動を平家物語は次の如く述べている。
“熊野に候う十郎義盛を召して蔵人となし行家と改名させ令旨の御使に東国へ下されける。四月廿八日に都を立ち近江より始めて美濃、尾張の源氏共にふれ催ほし、五月十日伊豆北条に下りつき流人前ノ右兵衛佐・頼朝に令旨を奉る。次いで信太三郎先生義広(*1)は兄なればと常陸に下り、木曽ノ冠者・義仲は甥なればと中仙道へぞ赴きぬ。
 その頃、熊野別当・湛増は平家重恩の身になれば何とかして洩れ聞いたりけん
「新宮の十郎こそ高倉宮の令旨を賜わり既に謀叛を起すなれ、新宮那智の者共は定めて源氏の味方ぞせん。我は平家の御恩を天や山と蒙れば如何で背き奉るべき。新宮に矢の一つも射かけて後に都へ報告すべし」
 とて鎧兜に身を固めた一千余人、新宮湊に発向す。
 新宮方には鳥井ノ法眼(行快)、高坊ノ法眼を始め、侍には宇井、鈴木、水屋、亀甲ら、那智方は米良ノ執行法眼ら総勢二千余人勝閧を作り
「源氏の方にはとこそ射よ平家の方にはこうこそ射れ」
 の矢叫びの声も退転なく、鏑矢の鳴りやむ隙もなく、三日が程こそ戦うたれ、湛増勢の大江ノ法眼は家ノ子郎党を多く討たせ、我身も傷負い、辛き命を生き延び、本宮へぞ逃げ上りける”

(*1)しだせんじょうさぶろうよしひろ。源為義の三男。

(2)源平合戦(治承・寿永の乱)2/源頼政(*1)、平清盛に叛く
 この戦いを諸戦に源平の争乱は五カ年、二十度に及ぶ大戦となるが、拙著の『年代記』に詳記したから、今回は幾内の伊賀大和に連なる戦いを追いながら、その経過を辿る事にしよう。
 治承四年五月の始め、新宮川原での散々な負け戦さを知って大いに口悔しがった湛増は、直ちに早馬で「以仁王ご謀叛!」の第一報を都に飛ばした。福原の新邸でそれを知った清盛は、急いで源頼政の嫡男、伊豆守・仲綱らに宮の逮捕を命じている。まさか彼らが元凶とは夢にも気づかなかった当り、清盛の人の好さが察せられる。
 清盛に云わせれば、源氏が亡んだのは義朝が逆賊となった自業自得である。あの正直で忠節な頼政が

●四位を拾うて 世を渡るかな

と嘆くのを聞き、源氏としては八幡太郎も及ばぬ最高の三位に叙任させたのだ。清盛としては頼政に厚く報いたつもりである。それだけに、その頼政が叛こうとは思いも寄らぬ事であったろう。
 けれど当の頼政が以仁王に挙兵をすすめた時、
「かつて朝敵を平らげる任務は源平いずれも優劣はなかったのに、保元・平治以来、両者の差は雲泥となり、主従の礼をとるよりも甚しく、国では平氏の代官に従い、庄ではその目代(*2)にこき使われ、年貢課税に休む暇もない有様となってしまった。
 特に東国では、平家の侍奉行の虎の威を借る厳命で、三年もの長い間、「大番役」と云う御所の警備に駆り出され、帝に対する一期の大事と一族郎党が晴をかざって上洛したものの、役目を終って帰る時は、馬も武器も売り払い、破れ蓑笠に裸足と云う、乞食同様の姿で帰国する有様でありました」
 と言上している。
 当時の東国に於ける武士社会は、国守の代官である目代の支配下に、所領を持つ武士と、その配下の郎党、そして一般の農民、一番下が下人や奴婢達、と云う四階級があり、関東八平氏も武士であると共に地主であり農民でもあった。
 従って武門の頭梁である清盛は、地主農民である同族の喜びも苦しみも良く知り、曽っての将門の如き配慮がなくては、その心をつかむ事は出来ぬ。
 自からは太政大臣として中央政府に君臨していても、せめて嫡男・重盛は征夷大将軍と云う武門の棟梁に止め、関東に将軍府を定めて阪東八平氏の信頼を失わず、その生活の向上を計るべきであった。
 それが出来なかった為に破局が訪れるのだが…。

(*1)弓の名手として知られ、鵺(ぬえ)という怪物を退治したエピソードで知られる。
(*2)もくだい。任国へ赴任しなかった国司が現地へ派遣する私的な代理人。


(3)源平合戦(治承・寿永の乱)3/源頼政父子、宇治川の戦いで死す
 一方清盛から突如!「以仁王を逮捕せよ」と命ぜられた源沖綱も驚いた。父とも協議し旗上げは東国の源氏が挙兵後と考えていたから、未だ準備が出来ていなかった。
「スワ!事は露見したるか!」
 と、以仁王に急報する。長閑に十五夜の月を賞でゝいた以仁王は、取る物も取り敢えず頼政の云う通り三井寺に奔った。
 源頼政が手兵を率いて三井寺に入り、打倒平家の第一声を発したのは五月十九日だったが、頼みとする叡山は動かず奈良法師も中々参じない。三百足らずの兵で平家の大兵を相手にしては勝利の見込みもない。急いで奈良をめざす途中、平知盛、平忠度らを大将とする追討軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
 五月二十六日に展開した宇治平等院での源平の第二戦は、衆寡敵せず源氏の敗戦となった。以仁王を奈良へ逃がした頼政父子はこゝで潔ぎよく討死。仲盛の嫡子が辛くも伊賀の島ガ原に落ち延びている。以仁王自身も奈良からの救援軍を目前にしながら、光明山寺の鳥居前で追手の矢にかゝって敢なく落命し、三十の若い生涯を終えられる。

(4)源平合戦(治承・寿永の乱)4/頼朝、挙兵する
 六月の上旬、令旨を伊豆の頼朝、常陸の義教、木曽の興禅寺で義仲に伝達したばかりの新宮十郎行家の耳に、頼政父子討死の悲報が届いた。
 彼も事が熊野別当・湛増の急報により発覚したと聞かされて自責の念に耐えず、
「この上は亡き宮や頼政父子の弔い合戦に一日も早く源氏の総蹶起に持込まねば」
 と、一段と各地を奔走した事だろう。
 宇治での敗戦を知りながら、源頼朝は「以仁王が尚存命で関東一円の支配を任された」と称して兵を挙げたのは八月半ばだった。伊豆の国守だった源頼政が敗死後、伊豆は平時忠の領国となり、その目代には伊勢平氏の一門である関信兼の嫡男である山木兼隆(*1)が任ぜられていた。彼は猛者で知られていたが、何故か父の訴えで伊豆に流されて居た。北条時政(*2)は娘の政子を彼の嫁にやろうとしたが、政子は頼朝の元に逃げたという話がある。
 そんな宿縁もあってか頼朝は挙兵の血祭に先ず山木兼隆の邸を襲った。折しも三島大社の祭礼の夜で郎党達が祭見物に出払った隙を突かれた兼隆は、勇戦空しく討死。
「幸先よし!」
 と喜んだ頼朝は意気高く相模に進撃した。

(*1) 伊豆国司・平時忠の目代に任ぜられ、現地に流されていた源頼朝の監視役。
(*2)源頼朝の妻・北条政子の父。伊豆の豪族。鎌倉幕府の初代執権。


(5)源平合戦(治承・寿永の乱)5/源氏、進撃する
 けれども頼朝は石橋山で大庭景親らの大軍に完敗して既にこれまでと自決を覚悟した。しかしその時、敵方であった梶原景時に救われ後に彼を腹心にする。頼朝が戦場に臨んだのはこの一戦のみで天下の覇者となったのだから余程の幸運児であった。
 頼朝が安房に渡って再起するや、関東各地の豪族達は次々に争ってその軍門に馳せつけ、忽ち三方余騎の大軍となって関東一円を支配下に収めた。これは八幡太郎以来の父祖の余慶であったろう。
 九月に入るや、木曽義仲が信濃で挙兵。甲斐源氏の武田信義が甲斐で、同じ新羅三郎義光の流れを汲み紀州保田を本領とし、やがて近江に移った安田義定はいち早く頼朝の家人となり、近江山本から甲賀伊賀に地盤を持つ嫡男・義経と呼応して駿河に進撃した。
 正に瞭原の炎の如き状勢を見た公卿達は驚いて「あたかも将門の乱の如し」とうろたえ、清盛は内心女心の情にほだされた己の愚かさに激怒しつゝ
「恩知らずの源氏共を皆殺しにせい」
 と命じ、洛中は俄に戦風が吹き荒れた。

(6)源平合戦(治承・寿永の乱)6/平氏、富士川の戦いで負けるが、反撃に転ずる
 治承四年、十月大凶作の中に展開された富士川の戦いは「水鳥の羽音に驚いての敗走」として日本中の笑い草となった。しかし兵力から云って源氏数万に対し平氏は僅か三千、然も天の時、地の利、人の和のすべてに欠けていた。勇将・平忠度らの奮斗も及ばなかったのは当然だったろう。
 入道相国・清盛は今更ながら重盛に先立たれた痛手を嘆きつつ、体勢の立直しに懸命となる。後白河法皇の幽閉を解いて院政を再開させ、叡山の要請に応じて僅か半年で福原の新都を捨てた。京に戻ると民心をなだめ、南都の僧兵達の鎮静をめざした。
 そして忠度らの戦力立直し進言を容れて、近畿西国の武士達への配慮を厚くすると、知盛、忠度に再度出撃を命じる。平田家継ら子飼の伊賀の平氏軍団を動員して、近江の甲賀入道義兼や山本義経ら源氏勢を敗走させ、逃げるを追って近江、伊賀、伊勢の三手に分れた。二万と号する追討軍は前回とはうって変り、連戦連勝の勢いを示した。

(7)源平合戦(治承・寿永の乱)7/清盛、東大寺を焼く
 さらに年の瀬も迫った頃、氏の長者である関白・基房らを奈良に派遣して、近江源氏と呼応して蜂起した南都の僧兵達を説得させた。しかし中々鎮まらないので腹心の郎党・瀬尾太郎兼康を呼び、
「鎧もつけず弓矢も持たず堪忍を第一とし何とか狼籍を静めよ」
 と命じた。
 処が思い上った僧兵達は、無法にも無抵抗の彼らを捕え六十余人の首をはねて猿沢の池にさらした。激怒した清盛は頭中将・重衝を大将として四万の大軍を出撃させる。父や兄を無惨にも殺されて復仇の怨みに燃えた将兵は、大激戦の末に般若寺の僧兵七千を打ち破ると、夜にまぎれ逃げるを追って興福、東大両寺に攻め入った。
 折からの烈風に民家からの飛火が大仏殿を始め七堂伽藍を次々に焼き、多数の罪もない女子供までが煙にまかれ焼け死ぬと云う大惨事となってしまった。それを聞いた都の貴賤は口々に
「見よ仏罰を蒙って平家の世も長くあるまい」
 と噂した。
 これは決して清盛や重衝の計画した事ではなかったが、それを知った高倉上皇は苦悩の末にやがて崩御されると云う悲劇まで発展した。さすがの清盛も頭を抱えて時流の非を痛哭したに違いないが、それでも一門の総師として弱気は禁物と自らを叱咤して断呼強圧政策を進めた。
 次男・宗盛を近畿一円の総管領に配して軍政を一手に握らせ、広大な東大寺、興福寺領を没収して財力を増強する。木曽義仲追討には越後の城ノ太郎、四国の河野追討には備後の額入道西寂、九州へは伊賀平氏の頭梁筑後守家貞らを派遣して、その鎮圧に全力を傾ける事に決した。
 「大仏炎上!」の報は幾内全土を驚愕させた。大和結崎郷の興福寺下司職の井戸一族も、宮司の縁に連なる伊賀出身の重源が各地に走らせた再建の山伏の勧進に応じて、浄財を奮発している。

(8)源平合戦(治承・寿永の乱)8/清盛、熱病で死す
 年明けて養和元年(一一八一)に入ると賊徒鎮圧に懸命な平家にとっては痛恨の大災難がふりかかった。
 日頃頑健な清盛が突如高熱に襲われて苦しみ喘いだ末、三月四日の夜六十四才を一期として世を去ったのである。
 彼の遺言を平家物語は
「今生の望みは一事も残る処なきも、頼朝の首を見ざりしこそ安からぬ。我亡き後は堂塔も建てず供養もすべからず。たゞ頼朝が頭をはねて墓前に供うべし」
 と云い凄いものであったと伝える。
 清盛亡き後、平氏の総師は重盛の嫡男・維盛ではなく、人の好いだけが取柄の三男・宗盛となった。彼は後白河法皇に平身低頭して
「万事につけ唯々院宣通りに行いまするによって、畿内、伊勢伊賀九カ国の総官、下司職に任ぜられ、徴兵と食糧確保の権限を許し賜わり度し」
 と哀願して許されると、根こそぎ動員を断行し大勢挽回に必死となった。

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