Chap 1  上代の巻

1.5 将門・純友の乱

(1)阪東八平氏の繁栄
 平安京を創建した桓武天皇の曽孫・高望王が中央政権での出世を諦めて平姓を賜り、上総ノ介として一族と共に阪東に赴任したのは宇多天皇の寛平二年(八九〇)である。
 そして任期が終っても帰京せず、そのまゝ土着して各地の豪族の娘を妾とし多くの子女を生ませて平氏勢力を関東一円に拡大していった。彼らは日常武芸を練りつゝ公領荘園の農耕地の支配と新田開発、そして年貢徴収が仕事で常に武力でその支配地を守る為にいわゆる「一所懸命」となったが、その館は四方を濠に囲まれていて濠の内側に苗床を作り農民に苗を貸して収穫期に年貢を取り立てゝ生活を維持した。
 苗地が苗字で名田と呼ばれてその姓となり、大きな名田を支配する武士は大名、小さな名田の主を小名と呼ばれた、そしてその階級は「武士−郎党−一般農民−下人奴婢」の四段階に分かれていたようだ。
 高望王の一族は各地武士団の棟梁となり武士達の所領を安堵してその生活を保証する代りに合戦ともなれば著到状を出させ、その武功を審査して承了判を押して返し彼らの地位と名誉をたゝえた。
 けれど中央政府に対しては極めて低姿勢で莫大な賄路を献じてその気嫌をとり、窮々として酷使に耐えながら鎮守府や国司役人の高位に任じられ、やがては阪東八平氏として繁栄していった。

(2)将門ノ乱1/藤原忠平の家臣、平将門
 まるで貴族の飼犬でしかない卑屈な武士達の中で敢然と中央政府に叛旗を掲げ「武力を以て正義を貫徹せん」と立上った将門ノ乱は当時としては驚動天地の大事件と云えよう。
 然しそれに到るまで十余年、彼は藤原忠平の家臣として下積みの労のみ多い雑務を真面目に勤め続けたが性来要領よく立ち廻って官位にありつくと云う事が出来なかった。
 同じ頃故郷を出た嫡流の貞盛のように望む官途にもつけず、遂に失望して故郷に帰ろうとする将門に対し、さすがに忠平は気の毒になったのだろう、伊勢御厨の下司職に推薦している。
 当時の反当りの国税は三斗が相場だったが、神宮領は半分ですむから喜んで父から譲られた相馬荘を伊勢神宮に寄進し、毎年の収穫から田からは反当り一斗五升、畑からは五升と云う低い税と山鳥、鮭各百匹を収める約束で国司の横領から守り、これを基盤に新田開拓にも大いに精を出したようである。

(3)将門ノ乱2/将門、常陸国府を焼討ちする
 将門は性来勇猛ではあるが誠実で情深い親分肌の武人で、国中の地主や農民達から深く慕われたが、強欲な伯父・国香や国府役人共を相手に力づくでも正論を貫ぬかんとした結果が度々の合戦となって、国香を殺し貞盛から父の仇と狙われる事になった。
 けれど常に雷神の様な勇猛さで勝ち抜いてその武名を阪東一円に輝かし、天慶二年には源経基を懲らしめんとして逆に叛逆人として訴えられたのを怒り常陸国府を焼討ちして役人共を追放してしまった。
 そして彼を取巻く興世王ら陰謀家共から「一国を奪って逆賊扱いをされるならば阪東一円を制圧して新王国を築くにしかず」とそゝのかされ、折から神がゝりした巫女の告げる八幡大菩薩と雷神菅原道真公よりの神示を信じて「此際正しい世の中を招き広く万民の幸福をもたらさん」と決意した。
 然し弟の将平を始め一族達は逆賊となる事を恐れ「古来より天皇の皇位は天より授けられたもので決して武力や人智で争い取るべきものではない。此際は充分自重し、世上の動きを見て行動せぬと後世に逆賊の汚名を招く事になる」と戒めた。

(4)将門ノ乱3/将門、新皇と号す
 然し将門は「弓矢によって王位を戦い取る例は大陸諸国の常であり、勝者が主となるのが当今の時流だ、ましてわしは国司共が無道に民を酷使するのを見るに忍びず正理を以て百姓の幸福を守らんとして立ったのである。尊い天皇の血をひく身であるのに不当な賊名を蒙ったからにはもはや武力を以て正しい世を招くより外に道はない」と断じた。
 そして天慶二年師走、数千の兵を率いて下野、上野の国府を領し翌年正月には武蔵、相模を征圧し石井に皇城を築くと新皇と号し、民衆は喜んで彼に従った。折しも南海では藤原純友が水軍を率いて摂津に迫り、このまゝ将門軍が一気に西下すれば常備軍を持たない朝廷は崩壊したろう。
 然るに武勇は絶大でも優れた軍師を持たなかった将門は貞盛の追求のみで日を送り、やがて田植時期が近づくや、軍を解放して兵を故郷に帰した。

(5)将門ノ乱4/貞盛の逆襲
辛うじて命びろいをした貞盛は、征討軍が編成されて将門を誅すれば五位の高位に任ぜられるのを知り八方に奔走した。
 豪雄で知られた田原ノ藤太を始め四千の大軍を集めた貞盛は突如として石井に迫る。急を知った将門は兵をかき集めて迎え討ったが、俄かな事でその兵力は千にも満たず苦戦が続いて遂に皇城も焼かれた。
 けれども彼はいさゝかも屈せず、さすが万夫不当の勇者だけに僅か四百の兵を以て四千の大軍に決戦を挑んだのは天祐神助を信じたからに違いない。

(6)将門ノ乱5/忠文、将門追討の大将軍になる
 右衛門府の長官であった忠文が参議に昇進して将門追討の大将軍に任ぜられたのは、帝の意向と彼が昔、将門と親しかったからと云われ、老躬に鞭うって征途に就いたのは天慶三年二月八日であった。
 折しも阪東では二月半ばに入ると、将門は雷神の荒れ狂う如き勢いで敵の大軍を敗走させ、折からの逆風をついて貞盛本陣に突入せんとしたが、天運つきたか愛馬の目に砂塵が入り一瞬、棹立ちとなった処に強矢を額に受け、さすがの彼も急所の痛手に再び立てず討死する。
 将門ひとりの武勇が頼りで組織が確立していなかった新皇軍は彼の死と共に壊滅し、以後の関東には貞盛を棟梁にした関東八平氏と呼ばれる大豪族軍団が繁栄した。
 それでも逆賊として獄門にさらされた将門に対する人々の追慕は深く、神田山王を始め広く各地に「明神」として祭られ、乱後まもなく「将門記」が書かれその武勇を永く讃えたのは、搾取と非道を常とする貴族政権に対し敢然と戦った将門に対する民衆の大きな尊敬と親愛からであろう。

(7)純友ノ乱/忠文、再び征西大将軍になる
 それに比べて不運だったのは総師忠文で、出陣間もなく将門の首を取ったとの報を聞き呆然としていたと云われる。後々まで何の恩賞も出なかったのは北家の嫡男の大納言実頼が猛反対した為で、それを知った忠文は直ちに辞職を乞うたが帝は許されなかった。
 そして翌年五月、純友勢が太宰府を焼討ちした事件が勃発するや再び征西大将軍に任じられたのは帝の信頼の厚さからだろうが、それを知った忠文は、遠祖・宇合が征夷大将軍を果たすや忽ち西海節度使を命じられ「行人一生の裡…」と嘆じたのを回顧しつつ、黙々と九州への軍旅を進めるのであった。
 然るに不運はついて廻り、今度もかつて天馬空を馳せる勢いだった純友が博多湾の決戦に敗れて斬られ、功は副将・小野好古の独り占めとなる。さしたる賞もないまゝに天慶元年(九四七)六月、忠文は七十五歳で病没し、新帝・村上天皇は中納言を贈ってその冥福を祈られた。

(8)忠文の没後
 処がその秋、左大臣となった実頼の嫡男と娘が続いて病死した事から朝廷内に「きっと忠文公の怨みからじや」と云う噂が流れた。死に臨んだ忠文が遺族達に「国にさしたる功もなき身に功賞を賜わるも心苦し、汝らは官を辞して大和に帰り先帝の菩提を弔いつゝ清廉を旨として生きよ」と遺言した事がこんな噂の原因ともなったらしい。
 真相はともかく、藤氏の日本武尊と評される式家を興した宇合の孫として東奔西走の軍旅に苦斗しながらも武運拙なく忠文は世を去り、その一族は以後の源平、南北、室町の世を、歴史にその名を止める事もなく、埋没雄伏の数百年を迎える事となる時節がくる。

(9)源氏一門1/経基(嵯峨天皇の子孫)
 さてそれではこゝで視野を源氏一門に転じよう。彼らは嵯峨天皇を始めとする九代の帝の血をうけつゝも、専ら朝臣となって権勢の地位を得るのに懸命で、時には藤原氏とも競う程にもなっている。
 武家で有名となったのは名張大屋戸を開いた清和天皇の皇子・貞純親王の子孫・経基王(陽成天皇の子・元平親王の血をひくとも云う)の一族である。他にも東国に下り土着した皇孫もあるが平氏系に圧されて強い地盤が作れず、将門の乱のきっかけを作ったその六孫王・経基さえも「介ノ経基いまだ兵道に練れず」と貴族達から冷評され、結局は阪東に地盤を築けなかった。

(10)源氏一門2/満仲(経基の嫡男)
 嫡男の満仲は摂関家の藤原師尹の家人となって仕え、摂津国多田ノ庄に本拠を置き摂津源氏の開祖となった。武将として優れていたゞけでなく仲々の策謀家だったらしい。師尹の腹心となり「光源氏」のモデルと云われる左大臣・源ノ高明を巧みに失脚させている。
 その功によって左馬頭に進むと、多田の新発知と呼ばれて所領の拡大に努めながら摂関家の番犬的役割を果たす。花山天皇の出家退位の際も大いに活躍して兼家を喜ばせ、その子・道長にも気に入られて「武士としては天下の一流」と評されるに至った。

(11)源氏一門3/頼光(満仲の嫡男)
 満仲には三人の男子があり、嫡男は頼光で多田を本拠とし、有名な大江山の酒天童児を坂田ノ金時や渡辺ノ綱ら四天王の活躍で見事に退治して勇名を馳せた。そしてその子孫には源平合戦に活躍する源三位頼政や多田行綱を始め大和源氏の祖・俊基や熊野中辺路を根拠とした脇田俊継らが出る。

(12)源氏一門4/頼信(満仲の三男)→頼義→八幡太郎・義家
 けれども政治的に大きく興隆したのは三男の頼信だった。彼は岩清水八幡宮を信仰し河内古市郷を本拠とする河内源氏の祖と仰がれている。
 その子・頼義は相模守に任ぜられるや将門ノ乱に追討使となって活躍した平直方の娘婿となって関東に勢力を伸ばした。忠常の乱(一〇三〇)の平定後は鎌倉に在った直方の別荘を譲り受けて、こゝに八幡宮を創建し、鎌倉党と呼ばれる平氏の一団を己の郎党に育て上げた。
 直方の娘の生んだ子がかの有名な八幡太郎・義家である。

(13)源氏一門5/前九年ノ役
 永承六年(一〇五一)前九年ノ役で奥州の豪族安部頼良が叛乱を起こした時、陸奥守だった頼義は「地盤拡大」を狙って勇躍出陣し関東八平氏も配下となって奮戦したが、豪勇気で知られた敵の貞任、宗任らの抗戦に初陣の八幡太郎・義家の力戦を以てしても苦戦が続き、出羽の清原氏に助けられ辛うじて鎮圧する事が出来た。
 その為に奥羽の支配は安部氏に変る清原氏に占められ、頼義の計画であった奥羽を源氏の傘下に入れる事が出来なかった。それで清原氏の内争から後三年の役が起るや、折しも陸奥守に任じられた八幡太郎・義家は、「時到れり」と勇躍出陣する。

(14)源氏一門6/後三年の役
 けれども敵は大軍で、さすが彼の優れた武勇と大江匡房直伝の孫子の兵法を駆使しての戦法でも仲々鎮圧する事が出来ない。それを知った弟・義光は朝廷に願って救援軍を率い出陣せんとしたが形式主義の政府主脳はこれを私斗であるとして許さない。
 義光はやむなく官を辞して一族を総動員し奥州に馳せつけたが、途中足柄山で名箏「交丸」の秘曲を弟子の豊原時秋に伝授して戦場に赴いた話は、義家の
●吹く風を 勿来の関と 思えども、
の句や、先の戦いで安部の宗任に
●衣の館は ほころびにけり、
と呼びかけ、見事に答えたので助命したと云うエピソードと並ぶ有名な話である。

(15)源氏一門7/八幡太郎・義家
 戦いが終ったのは白河上皇の院政が始まろうとしていた永保二年(一〇八三)で相変わらず朝廷からは何の恩賞も出ず、義家のおかげで奥州の支配者たる地位を占めた藤原清衝は源氏に臣従するより摂関家に直属するほうが有利と巧みに立廻ったので積年の部下将兵の功労に報ゆる財源がない。
 やむなく義家は私財を投じて彼らに報い、それに感激した阪東八平氏の豪族達は「今後は例え朝廷に叛くとも八幡殿には決して叛くまいぞ」と誓い合い、奥州を源氏の勢力下に置く事は出来なかったが関八州を確実にその傘下に加え、上野の新田に義重を、下野の足利に義国を婿入りさせて源氏の将来に大きく貢献する結果となった。
 このようにして義家は「驍勇絶倫にして騎射神の如く天下第一の武夫」との勇名を朝野に知られ、当時流行した今様の中にも

●鷲の住む御山には なべての鳥は 住むものか、
     同じ源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや


 と讃えられ、各地の豪族達は競って田畑を寄進しその勢力は一段とつよく、義家が元服した八幡神社は全源氏の氏神と仰がれ、河内源氏は一門の棟梁となった。

(16)源氏一門8/八幡太郎・義家の子孫たち
 余りの評判に白河上皇は寛治五年には「田畑を義家に寄進してはならぬ」と云う院宣まで出している。
 そして更に源氏の勢力を分散させる為に弟の義綱を対抗馬に仕立てゝ競わせるなど策を巡らしたので、さすが古今の名将と云われた義家もその晩年には栄光の座を保持し得なくなった。
 嫡男は若死、次男・義親は粗暴で流罪、三男は他家を継いだので四男・義忠を棟梁にし、その後継者には義親の子の為義を置き六十八歳で世を去る。
 然し三年後には義忠が暗殺され、その容疑が叔父・義綱とその子達にかゝって、僅か十四歳の為義が追討を命ぜられ、さしも勇名を馳せた義綱も佐渡に流され、その子達は甲賀山中で全滅と云う悲劇が演じられた。
 不運はそれに止まらず、翌年には流罪になっていた為義の実父・義親が亦もや役人を殺して官物を奪うと云う事件をひき起し、まさか子の為義に討たせる訳にはゆかず、上皇の意向で気に入りの平正盛が命じられ、こゝに平氏が桧舞台に登場する。


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