Chap 1  上代の巻

1.4 開祖・右衛門忠文(うえもんただふみ)

(1)藤原忠文、誕生す
系図掲載予定
 五十六代清和天皇の貞観十四年(八七二)病に侵された藤原北家の攝政良房が子の基経にその地位を譲って世を去り、かねて風雲急を告げていた新羅との国交が一段と嶮しく九州北辺には多数の兵が動員されて戒厳令が発しられていた秋。
大和の九条辰市の倭文神社で生計を養っていた式家の緒嗣の孫、藤時(*1)の邸に元気な産声を響かせて男子が生まれ一族を喜ばせたが、この赤ん坊が後に右衛門忠文と名のって、新しい井戸氏の開祖となる。

(*1)藤原枝良、の誤記か。

(2)藤原藤時、倭文神社の祭主になる
 かつて左大臣として世にときめいた緒嗣が七十才で世を去ってから三十余年、何とか家運を挽回せんとした藤時が都を去って遠祖・時風の創建した倭文神社(*1)の祭主になるのだが、この社は何の神であろうかと調べて見ると伊勢物語の三十二段に「昔男ありて過ぎし昔、深くちぎりを結んだ女に数年後になって

●昔えの 倭文の苧環(しずのおだまき) くりかえし 昔を今に 為す由もかな

との歌を寄せて再会を求めた。
 倭文と云うのは舶来の織物に対して云う国産の織物の倭の文の意味であり、その苧環からくり出される糸のように、もう一度あの愛の糸を蘇えらす術はないだろうかと云い寄ったのだが、女には後髪はないとか云う通り、情なくも何の色よい返しもなかった。と嘆いたと云う業平の恋ざんげ談であろう。
 それとも、貧しい農民生活を救わんとの理想に燃えて「良二千石」(名知事)で知られて中央政界に入り、新撰姓字録や日本後記の編集に活躍した緒嗣の志をうけ、大和国府の役人となった孫の藤時であったが、承和ノ変によって一躍権勢の地位についた北家の良房に嫌われて日の目を見ず、任期が終わるや辰市に土着し興福寺一乗院の下司職を許されて倭文神社の神宮寺に入り織物の専売権を握って家内繁栄をめざしたものの、時流に恵まれず苦しんだ彼の嘆歌であったかも知れない。
 藤氏の名家の子がと怪しまれるかも知らぬが、何も珍しい事ではなく、後世大和きっての領主となった筒井家の太祖と云われる藤原順武が、現在の郡山に天兒屋根命を奉じて土着しているように、倭文神社は経津主大神ら三神を中臣連時風が奉じたのは史実らしい。

(*1)倭文神社(しずり、しどり、しとり)という名前の神社は日本全国に伯耆・因幡・但馬・丹後や東海地方など計十四社ある。いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチノミコト)を祀る神社。建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られた。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎ・しずりに・います・あまは・いかづちの・みこと・じんじゃ)とされている。しかし、絹織物の技術は仁徳天皇(16代)により導入振興されたとされるのに、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もある。

(3)藤原忠文、大和国府の檢非違使の長になる
 さてこのような中で幼き日を送り、やがて青雲の志に燃えた忠文は宇多天皇の寛平四年(八九二)初冠を終えるや父と同じく大和国府の役人となり、その器量を認められたのは攝政基経に代った時平の時代で、更にその厳正さを買われ大和国府に新設された檢非違使の長に登用された。
 それから忠文は、辰市から南に勢力を伸ばし結崎郷、糸井神社(*1)の呉羽綾羽を明神と祀る大神一族の娘を初恋の人とし、めでたく妻にめとり新婚生活を楽しんでいた。

(*1)奈良県磯城郡川西町結崎六十八。祭神は豊鍬入姫命あるいは漢織呉織の霊。応神天皇(*1-1)十四年百済国より博士王仁来朝、この時呉国より綾は・呉はと言う織女来りて(中略)織女、黒田いほ戸の宮の辺にて始めて綾織をおらしむ。是を機織殿と言う。また結崎の明神或いは絹引神とも申すなり。本殿は豊鍬入姫命(是は大倭明神なり)同二ノ宮猿田彦命(是はちまたの神と申し春日の若宮也)同三ノ宮綾羽明神同四ノ宮呉羽明神。『式内社糸井社縁起』
(*1-1)おうじんてんのう。201〜310年。第15代天皇。別名、誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)。

(4)藤原忠文、都の右衛門府に栄転する
やがて不遇だった式家の彼が都の右衛門府に栄転した。昌泰元年(八九八)と云われる。都では藤氏の血のつながりのない宇多天皇が菅原道真を参議に登用して藤原一族の専横を圧さえんと苦心していた頃で、或いは菅原道眞の口利きであったかも知れない。
 そう考えついたのは、切角出世の糸口をつかんだ忠文が、名門藤氏も妻の大神の姓も選ばず、例のない「井戸」を創姓(*1)した事で、何故そうしたのかゞ大きな謎であり、色々と手を尽くして見たが、寛政武家々譜も群書類集も単にその結論のみを記すだけで、何の手かかりにもならない。
 更に、姓のみでなく貴族としては大切な紋章を、藤氏の下り藤でも大神氏の龍鱗−△や一本杉でもなく、菅原氏の「梅鉢」を選んでいる。

(*1)『寛政重修諸家譜(*1-1)』に、井戸氏の出自は、藤原式部公卿宇合の六代の孫で、平将門の乱に追討大将軍となった右衛門督忠文の後裔とある。忠文の後裔・杢之助時勝が寛正年間(1460〜65)に、大和国添上郡井戸城に住して、家号を井戸にしたのが始まり。
(*1-1)かんせいちょうしゅうしょかふ。18世紀末から19世紀初頭にかけて江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集(系図)。徳川家光の代の『寛永諸家系図伝』、新井白石の『藩翰譜』の続集。1799年に編纂され、各大名家・旗本からの提出記録をもとに、校訂。

(5)佐藤春夫先生のこと
考えあぐねた末に、フト私が幼き日を過した新宮丹鶴城下の登坂の一角で、やはり明治末期にここで育った詩人佐藤春夫先生が、
「早春の青年の頃、秋祭に境内で会ったつぶら瞳の乙女に引かれて、まるで糸のついた凧のように千穂山麓のその娘の家までフラフラとついていった事がある。」
 このように少年が思春期を迎え始めて異性に対して清純な憧れ、欲望を抜いたプラトニックな恋、を知った時、その恰も陽炎のもゆる野にこんこんと沸きでる泉の如き気高い感情を『初恋』と呼び、例え果敢なく散ろうとも少しも怨まず、その面影を生涯胸に抱きしめてゆく、哀れなる性を持つ。これが男の習慣(ならわし)であり、伊勢物語に云う『つゝ井筒の恋』なのである。」
と教えられ、折しも「婦系図(泉鏡花)」の“湯島の白梅”の一節

●忘れられよか つゝ井筒、岸の柳の 縁むすび

をこよなく愛唱していただけに、痛く感動したのを思い出した。
 そして歴史のエピソードとしては何一つも伝えられてはいないけれど幼き日を辰市の倭文神社で育ち、やがて結崎の糸井神社の姫を見染めて妻に迎えた忠文公は“つゝ井筒”の章にあるような思い出を抱き、その清純な童心を忘れぬ為にも井戸の姓を選んだに違いないと気づいた。

(6)「井戸」と「梅鉢」の謎
 けれどもはや千年の昔の話だけに確かめようもないが「性来敬神の念が厚く生一本の清廉な武人肌であった」と伝えられる忠文公にそれを尋ねると案外カラカラと笑い
「業平公の“つゝ井筒”の章は余りにも多情多恨にすぎる。切角憧れの君に、恵まれながら、彼女が始めは奥床しく振舞っていたが、やがては馴れてしまい、人もいぬ部屋で手盛りの大飯を食べているのを見て心変りをする等は薄情に近い。
 後年になって『倭文の苧環き』などと、繰り返しても最早及びもつかず、色よき返事などあろう筈はない。
 わしが“井戸”を選んだのはそんな外見だけのものではなく例えれば、緑の大地からさんさんと限りなく沸きでる玉の如き清烈な水、人が生きてゆく以上に欠かせぬ生命の泉、そのものを愛した故じゃ」
と答えられるだろう。
 そう考えると彼がその紋章を道真と同じ梅鉢を選んだのも諾け、
「忠文公は権謀術策を常とする北家の時平らに苛められた誠実な詩人肌の道真が好きだったのだ」
と納得した。

(7)藤原忠文、右府権ノ監になる
 右大臣に選ばれた道真が時平らによって太宰府権ノ師に左遷されたのは延喜元年(九〇一)の正月で右衛門府に選ばれた忠文は三十になったばかりの男盛りであり、正義感の強い彼だけにひどく腹を立てたに違いない。
 けれども宇多法皇を始めとする道真派の尽力も空しく、道真が太宰府で没したのが延喜三年(九〇八)であったが、道真の没後、俄かに落雷や天災が続き「道真が雷神と化して怨をはらされる」との噂が朝野を囁かれる中に、延喜九年になると、仇役の左大臣時平が三十九の若さで没したから、さしも権謀術策の巧みな北家の高官達も震え上がったらしい。
 亡き菅原道真が右大臣に復し、正二位を追贈された醍醐天皇の延長二十三年(九二三)に右大臣忠平は左大臣となり、延喜式の編集に着手すると兄の時平とは違って清廉で正義感が強く文武両道に秀でた忠文を愛して、朱雀天皇が即位された延長八年(九三〇)忠平が攝政関白に就任すると忠文は右府権ノ監に任じられた。
 折しも天災地変が続いて、山陽、南海道に出没する海賊共の横暴が激しくなる。
 関東では平氏一族の内争が絶えず世相は乱世の様相を呈し始め忠文自身にも思いもかけぬ晴の舞台に立つ日がやってくるのである

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