Chap 1  上代の巻

1.2 結崎糸井神社史話

(1)三輪大社
 「神話は国家の理想、伝説は民族の夢」と云う信条から大陸の先進帝国主義国家に対し、敢然と自主独立をめざした天武・持統両帝によって待望の古事記、日本書記が完成された八世紀以降になると大和に散在する大小神社の由緒書や社史縁起も大いに整ってきたようである。
 そこで大和の中でも出雲神話と深いつながりを持つ磯城郡(しきぐん)の筆頭である三輪大社に就いて調べて見ると、その主神は大国主と天照大神で配神は少彦名命でその由緒は次のように記されている。
 第十代の崇神天皇の御代になると天災地変と流行する疫病により人民が塗炭の苦しみにあえいでいた頃、天皇の夢枕に大国主ノ命が出現されて「古くから私を祀ってきた美酒の三輪の神奈備山の社にわが子孫である大田種子を祭主に選んで祀らせれば国中を忽ち平和な世の中にして見せるぞ」と告げられた。
 そこで帝は各地に家臣を走らせ調査した処、河内国に住む大田種子と呼ぶ人物の母には、不思議な話が伝わっている事が判った。
 彼女は活玉依姫と云い若い頃に毎夜忍んでくる立派な若者と会っているうち肌も許さないのに身ごもった、それを聞いて心配した娘の母は、そっと耳もとで「赤土を床にまいて置き、白い麻糸に針を通して若者の気づかぬよう袖に刺して置き、朝になったらこっそりその糸を辿って見るがいい」と教えた。
 娘が云われた通りにすると白糸は三輪山の社の洞穴の入口に止まっていたから
「さては大神様であられたか」と喜んで婿に迎えると云う事件があったと云い。それを聞かれた帝は驚いて「大国主ノ命は我ら天つ族に祀られるより出雲系の彼に祭らせたいのであろう。これはうかつであったわい」と直ちに種子を召して祭主とし、斉王には妹娘の淳名城入姫を選び、物部の祖神の一人である伊カ賀色男に山のように大盃を焼かせると美酒をなみなみと盛りつけ賑やかに祭りを行った。
 更に今まで天皇と同床同殿に祀っていた天照大神を別殿を建立して、姉娘の豊鍬入姫を斉王とし笠縫邑に祭らせた処が、果して天災も疫病も退散して平和な世に返ったと云う。

(2)石上神社
 また治世七年には伊カ賀色男に命じて神武の昔、高倉下命が北陸王となって赴任する時に、師ノ霊の名剣を石ノ上の社に残していったのを布留の里の高庭に鎭め、傍に巨大な武器庫を建てゝ国中の武器を納めさせたので人々の争いも絶えた事から初代神武天皇に劣らぬ肇国天皇と贈名して、その功を永く賛えたのだと云う。

(3)伊勢神宮
 そして次の11代垂仁天皇の世になると笠縫邑に天照大神を祭った豊鍬入姫が世を去られた為であろうか、天皇は皇女倭姫を斉王として祭り続けるうち、倭姫は天照大神の命のままに伊賀、近江、紀伊と各地を転々と移り住まれた後に現在の伊勢神宮に永く駐まられる事になるのだが、其間五十年近い歳月をへたと云われている。今年平成八年は倭姫が伊勢に遷宮されてから満二千年になると云うので盛大な記念式典が挙行されるそうだが倭姫も三代ほどは、代が変わっているだろう。
 西暦でも同じ頃だから紀元〇年前後となり、それから逆算すると神武天皇の建国は紀前三百年になる。
 過ぎし昭和十五年は紀元は二千六百年で全国津々浦々で賑わったが、当時でも辛酉革命説によって想定したから約六百年の差があると囁かれていた。その上に当時の暦は一年を六カ月とか十カ月に算定したらしいから案外日本建国は縄文末期の紀前三百年と云うのが正しいかも知れない。
 敗戦後は左翼学者の全盛期で弥生時代以前は絶対考えられない神武も崇神も架空で十五代応神帝が精々であると云われていたが、熊野に残る数々の史跡や熊野大神御霊験記から研究を進めて三十余年の現在、紀前三−四世紀と云うのが私の確信する処であり、次々と考古学の発掘によっても縄文時代こそ正しいと裏付けられているのは嬉しい事である。

(4)糸井神社1
 さて、それでは本題の式内小社の糸井神社史に入る事にしよう。由緒書のトップには「垂仁天皇の三年、新羅の王子天ノ日槍が但馬からやって来て羽太玉、足高玉、鵜鹿赤石玉やら宝剣、神鏡ら多数を献上す。」とあり天皇は三輪ノ君の祖先である大友主らを派遣して調査した状況をるゝと記している。
 そして日槍の子孫が糸井神社を繊物神(絹引神)として祀り始めた事を書いて居り、この日槍の娘がかの有名な神功皇后で、仲哀天皇の妃として三韓征伐に従軍し夫に代わって武内宿弥らに助けられ大勝利を博し、帰国すると九州の宇美で皇子−応神帝を生む傳説の女丈夫である。
 社記は続いて十五代応神天皇の御代に百済から王仁博士と共に泰族の織姫女・呉羽・綾羽が渡来して機織殿を建て美麗な綾錦を作り人々を驚かせたが、其際に日槍の孫の、糸井姫や三宅連らが活躍したと説いている。
 魏史倭人伝には西紀二三九年ヒミコが魏王に「班布二匹二丈他」を朝貢している史料が残されているので問題化したが、応神は四世紀末の王で時代が早過ぎるとして残念にも認められなかった。

(5)糸井神社周辺1/下池山古墳…平成八年夏
 然るに平成八年夏、天理市の下池山古墳(三世紀末−四世紀初)から国産の銅鏡を包んだ袋としてブルーの絹織物や柔らかな兎の毛で織られた物が出土し、これは"倭文"と呼ばれる青い縦じまの貴重な絹織物(班布)で七世紀に伝わった高級品と考えられていたのが四世紀も繰り上げられる事となった。
 これらによっても縄文文化は優れた織物技術や巨大土木建築技術を持っていた事が裏付けられると共に、或いは女王ヒミコは大和−天理一円か、等と云う資料が発見され、糸井神社の主神豊鍬入姫や呉羽、綾羽神にも新しい視線が投げられる事になったのは誠に氏子の皆さんも誇って良いと思う。
 かねて奏の徐福伝に詳記した通り、奏の始皇帝の命により不老不死の仙薬を求めて徐福が熊野に渡来したのは紀前二二〇年の七代孝霊天皇の御代であり都にも参内して神薬探検を許されているが、遂に発見できずこの地に帰化した。
 其際に当時の大陸文明の先端をゆく土木、織物、製紙、農耕、漁猟技術を身につけた善男善女五百余人が彼と共に土着し、伊賀へは織女綾羽呉羽らが海路伊賀霊山に定住し、その技術を拡めていった事が記されて居り、現在伊賀−宇治の呉服神社はその系路を語る貴重な史跡とも云えよう。


(6)糸井神社周辺2/島ノ山古墳…平成八年夏
 次に同じ八年夏。全国の新聞が一斉に一面に大きく報じたのが糸井神社に縁の深い「島ノ山古墳」の発掘現況で次のように記している。
「奈良県川西町の島ノ山古墳は四世紀末に作られた全長一九〇mの前方後円墳であるが、今回未盗堀の個所から当時の権力者のシンボルである北陸産グリーンタフ製の車輪石、鍬型石、石製腕輪などが百四十点も多量に発見された。
 このような例を見ぬ出土によって今迄は空白で謎の世紀と呼ばれていた四−五世紀の大和王朝の勢力が遠く北陸までも及んでいた事を証明する画期的な資料が発見された事によって今後の大きな成果が期待され、古代日本歴史に曙光が輝いたと云える。
 今回の埋葬されていた主人公は呪術に優れた女性シャーマン(ミコ)と考えられ、近くの糸井神社には主神豊鍬入姫や呉羽・綾羽明神と呼ばれる織女ら奏氏系渡来帰化一族を祭っている点からも大きな期待が寄せられる」

(7)糸井神社周辺3/北陸王・高倉下ノ命
このように報じられ「正しく神助!」と喜んだ、と云うのも、かねて熊野年代記(全八巻)に詳記したように、神武天皇の熊野迴航に際し、那智荒坂津で土豪錦戸畔によって大苦戦中を救出したのが新宮神蔵にいた高倉下ノ命であり、天照大神の霊剣師ノ霊を賜わって皇子狭野命を助け、八咫鳥(やたがらす)らと十津川を北上して吉野に出撃し、生駒の長髄彦(ながすねひこ)を倒して人皇一代神大和磐余彦と号して建国の大業を果される。
高倉下は物部族饒速日の長子で天ノ香語山命と云い、やがて天皇の要請で北陸王となり師ノ霊の剣は石上神社に献上して出陣した。
 北陸では網による新漁猟法を教えた事から手繰彦王と呼ばれたが没後、越後一ノ宮弥彦神社の主神と祀られて現在も厚く信仰されている。
 今回の島の山古墳の出土品は正にその史實を証明したもので今回糸井神社史研究中にその出土を見た事は神助としか思えなかったからである。

(8)糸井神社周辺4/東殿塚古墳…平成九年七月
さらに驚いたことに平成九年七月、新聞はトップニュースとして、初期大和王朝の王墓群と見られる天理市の東殿塚古墳(三世紀末−四世紀初頭に築造)から"最古の葬送船"と云われる「天の鳥船」の円筒ハニワの出土を発表した。
記紀神話や熊野神話によれば、遥々と広大な海洋を乗り越えて渡来されたイザナミ大神の浮宝である。"眞熊野の船"とも総称される船首と尾がそり上がったゴンドラ状の巨大船が新たなロマンと共に英姿を現したのだ。
建国の英雄神武大帝が熊野に回航され、同じく肇国天皇と讃えられる第十代崇神帝の治世に「大船建造と四道将軍の派遣」された記録は決して神話ではなく史実であることの証明とも云えよう。
平成十年の新春を祝うかのように奈良の柳本黒塚(三世紀末築造)から女王ヒミコが魏王から授かった鏡百枚の中の三角縁神獣鏡ら三十三面他が多数出土した。まさに「世紀の大発見」で宣長以来の「ヤマトは畿内か、九州か」の論争に決定打が放たれた事になり、葬られた人物は初期大和政権の中枢的存在の女性武人とも考えられる点から「神功皇后の先駆者か」と感じて今後の研究に大きな期待をかけている。
そして今後のたゆみなき考古学の探求によって日本古代史の始まりは前六世紀(縄文後期)とする熊野年代記の伝説が確実な史実として認められる日が来るに違いない。私はその時こそ戦い敗れて建国さえ明らかでない日本の歴史の真の黎明であると信じている。


(9)上代年表
 以上の資料を加えて上代年表を作ると次のようになる。但し初期大和王朝の暦年は一年は半年程に算定したらしいから十五代応神天皇までは今後の考古学の発見進歩によって変わるだろうが、敗戦後のように神武・崇神・応神王朝は架空で紀三〇〇年以前は考えられないとの説は覆えされた。

年代

西暦

記事

縄文後期

前六〇〇

中国天台山(紹興市)より熊野大神渡来され神蔵に鎮座。イザナミ大神没後に有馬の花の岩屋に葬る。(日本書紀)

弥生前期

初代神武

前三〇〇

神武天皇、熊野入り天磐盾に登る。高倉下と十津川より大和入国し建国。高倉下、北陸平定。

七 孝霊

前二二〇

秦ノ徐福ら五百人が熊野渡来。

十 崇神

前一〇〇

大彦命ら四道将軍派遣、大船建造。皇女豊鍬入姫に天照大神を笠縫に祭らせる。

十一 垂任

皇女倭姫ら天照大神を奉じ伊勢鎮座さる。

十二 景行

 

新羅王子日槍ら渡来し、永住。

 

二三九

ヒミコ、魏に朝貢(班布、生口)。

鏡百枚賜う−黒塚より三角縁神獣鏡三十三面出土。

 

三〇〇

天理市東殿塚より天ノ鳥船のハニワ出土。

十四 仲哀

(神功)

三六九

神功皇后朝鮮出兵し、任那日本府誕生する。

 

三七二

百済より七支刀献上、石神神宮神宝となる。

十五 応神

三九〇

川西町島ノ山古墳より北陸産の車輪石、腕輪ら出土

十六 仁徳

四一五

百済より王仁、織女呉羽ら渡来。

中国皇帝より倭王賛に安東将軍倭国王を任命。


(10)糸井神社2
 糸井神社の社記が天ノ日槍一族を強調しているのは、記紀に神功皇后と武内宿弥をいわゆる三韓征伐の立役者とした天武天皇の裁断とも考えられる。神社草創の主神は豊鍬入姫を祀った三輪一族であった事は、後に井戸氏の家老であった中村一族が、代々別姓を大神(おおみわ)と称している点でも明らかである。
 社記にある五十六代清和天皇は「貞観ノ治」をもたらした明君であり「歴史の編集は国家の経営と皇化の根源であり、政治と祭儀上からも貴重な礎なり」と勅令される程だから、続日本記や、日本後記、新選姓字録等を次々と発刊され、神社の由緒書なども厳しくチェックされて一語一句ゆるがせにされなかった。
 そして下々の神職や氏子総代なども純真素朴な神仏への信仰心に支えられていたから、そう簡単に書き直したり、デッチ上げや鯖を読む等と云う事は考えるだけで神への不敬として重罪に問われた程であった。
 従って「清和天皇の貞観三年(八六一)糸井神社の諸神は本宮豊鍬入姫大明神(従四位)二宮猿田彦命、三宮綾羽明神、四宮呉羽明神」と確定された事から、豊鍬入姫が結崎郷の総産土神と仰がれ、後世には結崎大和宮とさえ讃えられる確呼たる基盤となったと云えよう。
 さらに前記古墳群からの発掘出土品の研究結果によっては、初期大和三輪王朝(ヒミコ−日ノ御子王朝)に大きな役割を演じた大切な神々であり、それらを産土神と仰ぐ氏子各位は大きな期待と誇りを抱いて待つべきであろう。
 さて、社記には記されていなくても続いて井戸の里にまつわる"つゝ井筒"の由来について述べる事にしよう。

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