Chap 1 上代の巻

1.1 天皇は神にしませば

(1)壬申の乱おこる〜叔父と甥の争い〜
 今から千三百年余り前。壬申の乱(*1)という戦争が日本で起こった。大海人皇子(*2)と大友皇子(*3)の争いである。これは朝鮮半島に対する外交方針の違いが原因という説もある。
 『日本書紀』によれば、大友皇子の父である天智天皇の弟が大海人皇子、つまり大友皇子の叔父が大海人皇子である。つまり、壬申の乱は叔父と甥の戦争ということになるが、二人の関係については異説もある。また天智天皇は大海人皇子に暗殺されたとも言われる。
 大海人皇子は、伊賀名張の郡家(*4)を焚いて首途の火祭りとし、風の如く鈴鹿の関を突破すると、近江の大友皇子勢を瀬田に撃破して三井寺の山中で自決させた。
 瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で、これ以降何度も戦いの場となっている。
 織田信長は瀬田橋に欄干をつけ、中島に休憩所を設けたりした。が、それは遙か先の話。
 戦いに勝利した大海人皇子は第四〇代の皇位に就いて天武天皇となり、再び飛鳥淨御原宮(*5)に都を移して独裁君主となられた。

(*1)じんしんのらん。672年に起きた日本古代最大の内乱。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした。反乱者の大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱。天武天皇即位の元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるため、壬申の乱と呼ばれる。
(*2)おおあまのおうじ。後の天武天皇。
(*3)おおとものおうじ。明治3年(1870)弘文天皇の称号を追号。
(*4)ぐんが。ぐんけ。こおりのみやけ。ぐうけ。律令制で、郡の役所。
(*5)あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや。天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地がある。近年の発掘成果により同村の岡にある「伝飛鳥板蓋宮跡」にあったと考えられようになっている。


(2)天武天皇、律令制国家をめざす
 我国に於ける軍法、天文、忍法の太祖と仰がれた帝だけに
「政治の根本は軍事にあり」
 と喝破し、先づ当時の我国を取まく東アジヤの情勢の解明に優れた能力を集中してその対策を練り上げる。
 新羅王は、強大な中国大陸に君臨する唐帝国の手先となり、姓まで金や季と改め、朝鮮半島の統一を果そうとした。その戦略に敗れて、二百余年間、南鮮を支配し続けた任那日本府は奪われた。
 日本の総力を傾けた百済救出作戦も、天智二年(六六三)の白村江の戦いに完敗して、大国を誇った百済は滅亡した。続いて剽悍な高句麗も亡んだ。
「憎むべき新羅は、今も朝鮮半島の独占を狙って、策謀を巡らし続けている。断呼としてその罠に落ちてはならぬ。皇統を護り、万民の幸福を保つ上で、大唐の高宋(*1)や新羅の文武王(*2)の如き覇王を相手に、国家の自主独立を守り抜けるのは、朕以外になし」
 との烈々たる斗志と自信にあふれた天皇は信頼する重臣閣僚を一堂に会して
「過ぎし白村江の敗戦で痛感させられたのは大唐帝国に比べて我国はあらゆる面で国家として弱体で、これらを充實するのが何よりも急務。先づ第一に神を尊び仏を敬まい、歴史をひもといて国政を組織化し、王化の鴻基を固めて、彼に劣らぬ律令制国家を樹立するのが根本である。」
 と激励したと云う。
 そして、天武天皇は、次のことを実施した。
1.伊勢と熊野に式年遷宮(*3)の制を定めた。
2.皇女を伊勢の斉宮(*4)に任じた。
3.『古事記』、『日本書紀』の編集に着手した。
4.浄御原宮を建設した。
 完成した浄御原宮を見て、壬申の乱の功臣であった大伴吹真の甥の御行がこう詠じている。

●大君は 神にしませば 赤駒の はらばう田井を 京となしつ

(*1)こうそう(628〜683)。唐の第3代皇帝(在位 : 649年−683年)。第2代皇帝・太宗の第9子。
(*2)ぶんぶおう(?〜681)。新羅の第30代の王。先代の武烈王の長子。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島を統一。
(*3)一定の期年において新殿を営み、これに神体を移す祭。伊勢神宮では二○年ごとに行われる。
(*4)伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。斎王。いつきのみや。

(3)天武天皇、歴史書をつくる〜記紀編纂〜
 ここで日本の国の歴史書に就いて考えて見ると、二六代継体天皇の頃から皇室や有力豪族の家に伝わる系図や物語を編集し始め、二九代欽明天皇の十一年(五五〇)始めて『帝紀旧事が完成したといわれるが、これは誠にお素末なものでとても一国の史書とは云えなかったらしい。
 やがて惟古女帝の九年(六〇一)、百済から新しい暦が渡来して辛酉革命(*1)説が教えられるや日本でも国書の改正が始められた。聖徳太子と蘇我馬子によって『天皇紀国記が完成したのは、惟古女帝の二八年(六二〇)であった。
 ところが『天皇紀』と『国記』は、大化元年(六四五)の蘇我氏の滅亡と共に火中に消えた。これを知った豪族達は、好機とばかり、その家系を皇室に結びつけて高官を狙う者が続出したようだ。
「このままでは眞の歴史が失われてしまう。何とか一日も早く権位ある国書を確立せねばならん」
 と、頭を痛めた天武天皇は、折しも宮中きっての語り部、稗田ノ阿礼の諳誦する古事記を聞かれて編集されんとした。が、余りにもセックスやエロ話の多いのに驚かれ、
「このままでは例え国書にしても唐や新羅の軽蔑と失笑を買うだけだ」
 と困却されて、川島皇子(*2)らに編集を命じ、天皇自身が次々に難問に裁定を下していった。この時の天武天皇の頭には数々の“古事記”神話の他に三国史の魏史倭人伝のヒミコの資料等も入っていただろう。黄帝以来の夏、殷、周ら中国五千年の長大な国書は勿論、新羅の太白山の聖峯に降臨したという檀君神話等もきら星の如く輝いていたに違いない。神武大帝から数えて満四十代の帝位にある天武天皇の結論は
「易姓革命、力を正義とする覇道主義国家に対抗する最高の国書と云えば、彼らが卑弥呼とさげすむ“日の御子”即ち天照大神以来の王道を旨とする万世一系の天皇制しかない。」
 という事だったであろう。
 聡明な天武天皇だけに宮中の極秘資料によって、十代崇神のイリ王朝と十五代応神の河内王朝には血のつながらぬ実情を知りながらも、『記紀(*3)』を編集して、天壤無窮の神勅と皇統連綿の国体を神聖侵すべからざるものとして各国に宣言し、万民に自主独立の精神を振起せんとしたに違いない。“天皇は神にしませば天雲の雷(*4)”よりも高い皇位にあればこそ、できる裁断だった。

(*1)かのととり、しんゆう。干支(*1-1)の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌。西暦年を60で割って1が余る年が辛酉の年となる。辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。
(*1-1)干支(かんし、えと)は、十干と十二支を組み合わせたもの。▽十干は、甲(こう、きのえ)、乙(おつ、きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(てい、ひのと)、戊(ぼ、つちのえ)、己(き、つちのと)、庚(こう、かのえ)、辛(しん、かのと)、壬(じん、みずのえ)、癸 (き、みずのと)。十二支は、子(ね、し)、丑(うし、ちゅう)、寅(とら、いん)、卯(う、ぼう)、辰(たつ、しん)、巳(み、し)、午(うま、ご)、未(ひつじ、び)、申(さる、しん)、酉(とり、ゆう)、戌 (いぬ、じゅつ)亥(い、がい)。10と12の最小公倍数は60なので、干支は60期で一周することになる。 起源は商(殷)代の中国。ベトナム、北朝鮮、韓国、日本などに伝わった。
(*2)かわしまのみこ(657〜691)。河島 ─ とも。天智天皇の第2子。妃は、『万葉集』の題詞から、天武天皇の皇女・泊瀬部皇女であったと考えられる。
(*3)きき。古事記と日本書紀との総称。
(*4)大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 盧(いほ)らせるかも (柿本人麻呂) 『万葉集』

(4)天武天皇、国名を「日本」とする
 そして倭国の「倭」が“うねって遠い”、“みにくい”という意味であることを知ったからだろうか、国名を「日本」と改め、自からも「日子根子天皇」と号した。先賢・聖徳太子の「日出ずる国の天子」に習ったのであろう。
 まずは国外に対して誇るに足る八色の姓制(*1)の中央集権制度を作り上げた。天武天皇八年には六人の皇子らと共に吉野の旧宮に行幸して次の歌を詠んでいる。

●よき人のよしとよく見てよしという。吉野よく見よ、良き人よく見つ。

 長男の草壁皇子(*2)が性来病弱凡庸なのに比べ、次男・大津皇子(*3)は『懐風藻(*4)』で
「容貌魁悟にして気宇峻遠。詩集の興隆はこの皇子によって決まる」
 と評した程の大物だった。
 天武天皇も我身とよく似た気性の彼を内心では最も愛していただろうが、それを知る鵜野皇后(*5)は心中穏やかではなかったようだ。
 かくして治政十四年、『記紀の史書も、アジア最大の新都・藤原宮も見ることなく、
「諸国は家毎に仏舎を建て、朝夕礼拝供養せよ」
 との詔を最後に、彼は五十六歳で世を去った。

(*1)やくさのかばね。天武天皇が天武13年(684)に新たに制定した真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のこと。『日本書紀』▽旧来の臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。
(*2)くさかべのおうじ(662〜689)。天武天皇と持統天皇の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母姉妹である阿陪(あへ)皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王(後の長屋王妃)・文武天皇の父。
(*3)おおつのみこ(663〜686)。天武天皇皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。
(*4)かいふうそう。現存する最古の日本漢詩集。奈良時代、天平勝宝三年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力だが、確証はない。
(*5)じとうてんのう(645〜703)。第四十一代天皇。女帝。名は鵜野讚良(うののさらら、うののささら)。草壁皇子の母。



(5)大津皇子、叔母に殺される〜夏見廃寺の悲劇〜
 天武天皇程に慎重な人柄でも、千慮の一失というか、世を辞す前に草壁皇子を即位させる時を得なかったのが悲劇となった。
 父の屍の冷えぬ間に、身近に迫る鵜野皇后のスパイ網にいたたまれず、大津皇子は伊勢斎宮の姉・大来皇女を秘かに訪ねて別れを惜しんだ罪を問われて処刑場に曵かれる。

●金鳥(太陽)西山に臨み 鼓声短命をうながす…

 と詠じ、哀れや、大津皇子は、二十四才で露と消えた。
 続いてその罪に連座し、斉宮の職を解かれた大来皇女も

●現身の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟とわが見ん。

 と歌って嘆き伏した、という「夏見廃寺(*1)」のエピソードを伊賀人なら知らぬ者もあるまい。
 泉下に眠る天武天皇の魂はそれを見て、大津皇子よりも若い身で道義を守って堂々と戦い、武運つたなく長等山(*2)中で決然と自決した大友皇子の事を考え、正に因果は巡るの一語につきる思いであったろう。
 そして僅か三年の後、草壁皇子は皇位にも就けずに若死し、残された幼い孫の軽皇子を見てさしもの勝気な鵜野皇后も断腸の想いであったろう。然し彼女は大唐の則天武后(*3)の如くやがて四十一代持統女帝となって亡き夫の遺志を次々と実現し始める。

(*1)写真参照。
●夏見廃寺跡2008/1/25現在。携帯で撮影。


@夏見廃寺展示館


A史跡夏見廃寺跡案内図


B夏見廃寺跡にある石碑


C石碑の右側の地図

(*2)ながらやま。滋賀県大津市。
(*3)そくてんぶこう。武則天(ぶそくてん)。623?〜705。中国武周朝の創始者。唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり武周を立てた。日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多い。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」。

(6)持統女帝は、藤原不比等に律令の選定を命じる
 持統四年(六九〇)秋、耳梨、畝傍、香具山の三山に囲まれた広大な藤原京の造営が着手された。
 平成八年発掘の結果、その規模は八木を中心に東西五十三粁、南北四十八粁に達し 二十五万平方粁の巨大さである。当時世界最大ともいわれた大唐帝国の首都長安城を凌ぎ、我国で後に完成する平城京二十四万平方粁、平安京二十三万平方粁よりも巨大豪壮な首都であった事が判明した。
 これを以てしても天武天皇、持統の両帝が如何に唐、新羅に対する自主独立の意思を燃やしていたかが察せられる。が、此様な立場を確保する為に、どれだけ艱難辛苦に耐え続けざるを得なかったか。君も臣も誠に気の毒であった、とさえ思われる。
 専制君主・持統女帝が十五才の愛孫・軽皇子に譲位したのは持統十一年(六九七)八月である。新帝四二代文武天皇の治政の第一歩が、藤原不比等(*1)に律令の選定を命じると共に、三十年ぶりに山上憶良らの遣唐使の派遣を決した事である。
 彼らが長安宮を訪れるや喜んだ唐吏が
「これはようこそ大倭国の客使方!」
 と歓迎の言葉をかけるや、山上らは毅然として
「否!我らは倭に非ず。日本国の大使なり」
 と答えたので唐吏らは公文書の中で
「倭の字句が卑しさを含めた意味であるのに気づいたらしい」
 と記している。
「礼(儒教)の上から中国が一等国、朝鮮が二等国、日本は未開の三等国」
 とする新羅らの外交政策に乗せられ、唐吏が何時しか中国は長男、朝鮮は次男、日本は不礼な三男という印象を持つのに鋭く反応したのである。独立自存の誇りに溢れていた為で“天皇は神にしませば”の賛辞は何も宮廷詩人のみではなかった。
 慶雲四年(七〇七年)、若くして英明で聞こえた文武天皇が惜しまれつつ世を去った。同年、その母・阿倍皇女(天智天皇の娘)が四三代元明天皇として即位し、折しも武蔵国で銅が出たというので、和銅と改元される。

(*1)ふひと。659〜720。天智天皇の寵臣・藤原鎌足の次男。『大鏡』等では天智天皇の子と云われる。藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くこと許された。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。不比等の4人の息子が藤原氏四家を興した。
参考)藤原四家
南家 - 武智麻呂(むちまろ)680〜737年
北家 - 房前(ふささき)681〜737年
式家 - 宇合(うまかい)694〜737年
京家 - 麻呂(まろ)695〜737年

(7)平城京がつくられる
 当時アジア第一の大都を誇った藤原京が僅か16年で廃され大和北辺の山河襟帯の春日野に方四里の平城京が着手されたのは「天皇の執務室である宮殿が京の中央に在るのは周ノ礼に説く通り理想ではあるが、防衛上は問題があり、隋も唐もそれ故、北辺に置いた」という遣唐使の報告でもあったのだろうか。それとも左大臣の要職に就いた藤原不比等らの強い要望に答えたものか。いずれにせよ遷都というのは当時としては最大の事業であり、庶民にとってはさぞかし難儀なことであったに違いない。
 然し計画当事者として不比等は新都が藤原京に比べて小さい事を気にしたのだろう。我家の氏寺を外京の東方に移して興福寺と号し、更にその隣りに聳える三笠山に氏神の社地を設けると、神武大帝が長髄彦を追って橿原から生駒を越える途中、伴をしていた神々を祀る役目の我家の祖・天ノ種子を呼び
「そなたの大祖である天ノ兒屋根ノ命と姫神をあの神津岳に祀って勝利を祈れ」と命じられた歴史のある枚岡神社から分霊を勧進して平城宮の守護神と仰ぐことにしたのは只に新都の威容を高めるのみではない遠謀が秘められていたようだ。

(8)藤原不比等は四家を残すが、四兄弟は天然痘で死ぬ
 藤原不比等は『古事記』に続いて『日本書紀』がようやく完成し、更には美濃の孝子が酒泉を発見した事から養老と改元され、有名な『養老律令』の撰修に当っていた四年(七二〇)に世を去るが、遺された四人の息子は後に南家、北家、式家、京家の四家を創設し、姉娘は聖武天皇を生み、妹娘はその皇后として名高い光明子となって繁栄するのだから以て冥すべきといえよう。
 仏教に心酔し「我は三宝の奴」の勅で知られた45代聖武天皇が皇位に就いたのは神亀元年(七二四)で折しも東国の蝦夷が大叛乱を起こしたので朝廷では公卿評議の末に不比等の息子の中で最も武略に秀でた宇合(*1)を初代征夷大将軍に任じて直ちに鎮圧を命じた。遣唐使として万里の波涛を越えてきた忠良な宇合は恰も天皇家の日本武尊にも似た奮戦ぶりで、多賀域(宮城県下)を拠点として次々に北進して支配地を拡大していったが、武の家柄ではない藤原氏としては何とか日本武神の祖と仰がれる常陸の鹿島、香取大神を三笠山の本宮に勧進して神助を賜わろうと考えたらしい。
 けれど困苦に満ちた征討が終えるや、休む暇なく新羅に備えて西海節度使に任ぜられ、さすがの勇将も「往歳は東山の役、今年は西海の行、行人一生の裡、幾度かの辺兵に倦む」と嘆じつゝ太宰府に向う。
折から九州では新羅から大流行してきた天然痘によって死者が続出して苦しんだが、切角大任を負えて帰京した宇合も後を追って襲ってきた病に侵され、天平九年(七三七)兄弟四人共が悉く死するという悲劇を迎える。

(*1)うまかい。694〜737。藤原不比等の三男。初めは「馬養」と名乗るが、遣唐使の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。

(9)聖武天皇、大仏建立を思い立つ
 実家を襲った大難に信心深い光明皇后もひどく悩まれ、聖武天皇は五年も都を離れて東国をさまよった末に大仏建立を思い立ったのは当時渡来した華厳経の説く教議に打たれたからである。
 それでも「我国は神国であるから天照大神の怒りを買うのではなかろうか」と伊勢に参籠して神意を乞うと
 「日本は神国であり神を第一とするのは当然であるけれど、そもそも大宇宙を太陽の如く照し恵んでいるのが大仏−昆廬舎那仏−で人間が仏になったのではなく、法身仏という最高位の大日如来である。
 そして私自身もその化身なのだから大仏を祭り讃える事は決して誤ってはいない」との霊告を得て大いに安心した。
 かくして天平十五年(七四三)大仏発願の詔が発せられ、全国中の銅や木をかき集めて世界に例のない巨大な仏像と仏殿を作る事になり、十余年の辛苦の末に総重量十万貫(三八〇七・)塗金60k水銀二百k高さ16mという大仏が完成したが、その鋳造には百済からの帰化技術者群が八段重ねの新鋳造法に成功してアジア各国の人々を驚嘆させている。
 大仏開眼は天平勝宝四年(七五二)春、新帝孝謙女帝によって催され僧一万余人の盛況は国書続日本紀に「仏法東に帰してより未だかつてかくの如き盛んなる事なし」と記しているが、政略的に見れば唐と新羅に対する示威であった事は、後に遣唐使になった大伴古麻呂が唐宮で新羅より低い席を与えられ憤然と
「昔から我国に朝貢している新羅を上席に据えるとは道義を失する扱いなり」
と抗議して変更させた事でも判り、今日大仏殿正倉院に残る国宝珍財を見てその大事業に舌をまき只呆然となるのみである。

(10)鹿島、香取大神、春日山へ勧進される〜藤原氏興隆〜
そんな中に、かねて宇合が強く望んでいた東国の鹿島、香取大神の春日山への勧進が実現したのは神護景雲二年(七六八)であった。
 元来両神は物部氏の祖神で鹿島は武御雷大神、香取は熊野神倉で武御雷が高倉下ノ命に与えた霊剣師ノ霊が神と化し経津主大神と呼ばれた。
 両神は白鹿に乗り、竹柏の木を杖にして遙々と旅をされると途上の名張や大和阿倍の里に駐まられて民衆の信仰を高めつゝ三笠山の本宮に到着されたのは、その年の十一月であった。
 その一行が三輪大社や石ノ上神宮の山麓を列をなして平城宮めざして行った時、物部、大神一族にとっては内心大いに不満であったに違いないが、蘇我氏が物部を倒し、その蘇我を鎌足らが倒したのだから、こうなるのも時節というものと諦めていたのだろう。
 然し藤原氏にとっては、それによって春日四社と興福寺が「神国大和」の最高社寺として仰がれることになったのだから、それを決めた不比等、宇合父子は春日四神に次ぐ存在といえよう。
 そして大和のみならず途上に駐まられた伊賀夏見の積田神社や名張梁瀬の宇流布志根神社、或いは安倍田の鹿高、薦生の中山神社等がいずれも元春日とか春日さんと愛稱されて千三百年後の現在でも盛大に祭り続けられてるのだから、信仰というものは底知れぬ力の偉大な流れであると痛感する。

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