特集「手紙」 再 生 風来坊IN東京 '93/ 9/ 1 とある夏の日。午後だった。暑中見舞いを書こうと思い立った。 年賀状をもらったのに返事を出していない人が幾人もいる。 便りがないのは良い便り。これは親子かよほど親しい間柄の場合のことだ。 便りがないとその人は忘却の彼方へとはかなく消え去る。 所詮この世は泡沫(ウタカタ)よ。水に降る雪、水に降る雪。 などという心境になりきれるのは余程の粋人であろう。 手紙の類は全て箱に入れてあり、大方はもらった順に無造作に重ねている。 無造作は、感慨がないということではない。手紙をもらった時の嬉しさを何に例えようか。 遠方の親兄弟・親戚からもらう。これも嬉しい。 何割かは私と同じ螺旋(ラセン)の遺伝子を持つ人々との交感。 あるいは普段なかなか会えない友人からの手紙。友よ、元気でいたか。 では、思いがけない時の手紙は。年賀状でもなく、暑中見舞いでもない。 それも、思いがけない人からの。親でもなく、兄弟でもなく、友人でもない。 その手紙の差出人を見て驚き、その人の言の葉を読むために葉書を裏返す瞬間、 あるいは封筒の糊付けを剥がす瞬間。何が胸をよぎるか。 その人とのつながり。縁(エニシ)の不思議。 ああ、私はこの世でまだあの人と結ばれていた。 その現在の細い細い糸に寄せる想い。 このままぷつりと途切れるのか、それとも…。 久しく整理をしていなかった手紙の束。 その中の1通を、私は長い間じっと見ていた。昭和の消印のある古びた封書を。 |