夏目漱石 / 夢十夜〜第一夜〜(前) 2007/6/25

または

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐(すわ)っていると、仰向(あおむき)に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭(りんかく)の柔(やわ)らかな瓜実(うりざね)顔(がお)をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇(くちびる)の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然(はっきり)云った。自分も確(たしか)にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗(のぞ)き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開(あ)けた。大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に浮かんでいる。
 自分は透(す)き徹(とお)るほど深く見えるこの黒眼の色沢(つや)を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍(そば)へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに(みはっ)たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、私(わたし)の顔が見えるかいと一心(いっしん)に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋(う)めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片(かけ)を墓標(はかじるし)に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢(あ)いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯(うなず)いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍(そば)に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

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